一章 悪夢と不穏な影と

 夏は、朝を過ぎると途端に暑くなる。

 さわやかだった空気が熱されて、ぐっと気温が上がり、あっという間に汗ばむ陽気になってきた。

 さいもりは洗濯を終え、ふ、と日陰で息を吐いた。

(今日も暑くなりそう)

 美世が、婚約者のどうきよとともにひっそりと暮らす、郊外の小さな家。

 ひどく静かで──庶民的なその家は長閑のどかな自然に囲まれ、市街よりも照りつける日差しは強くないが、やはり夏本番となるとぐったりしてしまう。

 けれどもこの暑さの中、表の庭のほうからは、しゅ、しゅ、と勢いよく何かが空を切る音が聞こえてくる。

 家の陰から回り込んで様子を見ると、清霞が木刀で素振りをしていた。

 さらさらと流れる、薄茶の髪。青みがかったひとみは真剣に細められ、その動きは非常にしなやかで素人目にも美しい。男性的なしさに加え、女性的な優美ささえも含んだ、まるで欠点のないぼうのこの家のあるじ

 彼は今日のような非番の日には、こうしてけいを欠かさない。

(いけない。ほうけてる場合ではないわ。そろそろ終わる頃よね)

 美世は熱気からかしゆうからか、赤く火照った頰を両手で覆って隠し、いったん屋内に戻る。

 れいに畳まれた手ぬぐいと冷たい水を用意して再び庭に顔を出せば、清霞がちょうど素振りを中断したところだった。

だんさま、どうぞ」

「ああ。ありがとう」

 ふわりとした微笑みに、また頰が熱くなる。

 清霞は綺麗すぎるのだ。だから、微笑まれるたびにどきどきしてしまう。こんなにも心臓に悪いことはない。

「美世、顔が赤い。大丈夫か?」

「っ!」

 顔をのぞき込まれ、美世はつい半歩ほど後ずさった。

 しかしそんなことはお構いなしに、清霞は美世の額に手を当てる。

「熱は、なさそうか」

「はい。ぜ、全然、全然平気です」

「そうか?」

 清霞の手が離れていって、ほ、と力が抜けた。まだ鼓動がうるさい。

「水を浴びてくる。体調が悪くなったら、ちゃんと休め」

「は、はい」

 家の奥へ消えていく清霞の後ろ姿を見送って、ため息を吐いた。

 最近は、こんなことばかりだ。ほんの数日前だって──。

(か、考えごとはあと!)

 思い出しかけたらまた赤面してしまいそうで、美世も慌てて洗濯道具を取りに戻った。

 来客があったのは、それから数分のちのことだった。

「ごめんください」

 玄関に立っていたのは、この質素な家にやや不釣り合いな装いの女性。

「初めまして、あなたが美世ちゃん? 私は久堂づき。清霞の姉です」

 美世の顔を見た途端、目を輝かせて駆け寄ってきた女性──葉月に、美世はあつにとられた。

「は、初めまして……」

 されながらも、なんとかあいさつを返す。

 清霞の姉と名乗った葉月は、明るい印象の美女だった。

 顔立ちはところどころ清霞と似ているが、雰囲気は女性らしく柔らかい。緩く波打つ茶色の髪は肩までの長さ、女性にしては背が高いほうで、涼しげなワンピースからは日焼け知らずの真っ白な手足が伸びている。いわゆる、モダンガールというものかもしれない。

 軽装に見えるが、身につけた洋服や装飾品の質の高さは、彼女の立場をよく表していた。

「お久しぶりでございます、葉月さま」

 玄関口で出迎えた使用人のゆりが、にこやかに会釈する。すると葉月は彼女の手を取り、ぶんぶん振った。

「まあ、ゆり江! 本当にお久しぶりね。最後に会ったのは何年前だったかしら? まだまだ元気そうで何よりだわ」

「ありがとうございます」

 ぽかんと立ち尽くした美世は、そんなに激しくしたらゆり江の腕がもげてしまわないかと少し心配になった。

 ただ、当のゆり江がにこにこと笑っているので、まあいいのだろうか。

「まったく……相変わらずだな、姉さん」

 そこへ、早くも水浴びを終えたらしい清霞が顔を出し、仏頂面で声をかけた。

「あら、清霞。あなた、お仕事は?」

「非番だ」

「もう、やあねえ。あなたこそ、いつまでも無愛想なんだから。せっかくこんな可愛らしい婚約者ができたっていうのに」

「大きなお世話だ」

 唇をとがらせる葉月は、清霞より年上のはずなのにとても若々しく、少女のような仕草も不思議と違和感がない。

「まあいいわ。それよりも美世ちゃん。あ、美世ちゃんって呼んでもよかったかしら」

「は、はい」

「私、清霞に頼まれてあなたの先生を引き受けたのだけど、話は聞いている?」

「ええと……」

 来客があることはもちろん聞いている。それ自体は美世が清霞に頼んだので当たり前なのだが、その客が清霞の姉とは聞いていなかった。

 美世は混乱しながら、先ほども脳裏をよぎった、数日前のことを思い出していた。



 斎森家、たついし家、久堂家の三家の間で起こった騒動は一応終結し、なんとか平穏が戻ってきた。美世も元のように家事をこなしながら、日々を過ごしていた。

 何もない、穏やかな日常はずっと望んでいたもので、不満などない。幸せすぎておそろしくなるほどだ。

 けれど、漠然と「このままではいけない」という焦りのようなものが頭の片隅にあった。

 清霞の妻という立場、その一番の役割はこうしてこの家を守り、清霞を支えること。ただ、それだけでは足りないのも理解していて。

 お茶やお花、お琴に、隙のない礼儀作法。社交のためのダンスに、話術、知識。

 一般的なご令嬢が当然のように身につけているそれらは、家同士の交流にやはり欠かせないものだ。──名家たる久堂家の、当主夫人となる美世にも。

 ゆえに夕食の席で、なかなか進まないはしを置き、美世は意を決して相談をした。

『淑女としての教育を、受けなおしたいだと?』

『はい。だめ、でしょうか』

 思い返せば、斎森家でちゃんと名家の令嬢として教育を受けていた時期もある。ただ、継母にいつの間にか打ち切られ、基本を学んだきり。それすら使う機会が訪れないまま、記憶の彼方かなたに消えてしまっている。

 清霞は何も言わない。けれど彼の妻になる者として、それでいいわけがない。いつまでも甘やかしてもらっているわけにはいかないのだ。

『だめということはないが……どうしても、か?』

 清霞は難しい顔で考え込む。

 おそらく、美世の負担を考えてくれているのだろう。美世はお世辞にも人付き合いが得意とはいえず、要領もよくない。もちろん、軽い気持ちで学びなおしたいと言ったわけではないが、想像以上の負荷となって日常生活に支障をきたすかもしれない。

 でも、ここで引くことはできない。

『はい、どうしても。先生は自分で探しますし、旦那さまには迷惑はかけませんから……お願いします』

『…………』

 深々と頭を下げると、ため息が降ってきた。

『相変わらず、頭を下げてばかりだな、お前は。それに』

 ふと、言葉を切った清霞を不審に思い顔を上げれば、彼はじっとこちらを見ていた。

 少しだけ硬い、色白の指先が美世の頰に伸ばされる。

『顔色があまりよくない。今でも十分、無理をしているのではないか?』

『……っ』

 気恥ずかしくて、かっと顔が熱くなった。そして慌てて首を横に振る。

『む、無理はしていません! わたしは元気です』

『まあ確かに、今は熱でもあるのかというくらいの顔色だが』

『え、こ、これは、その、あの』

 うろたえ、口をぱくぱく動かす美世に、清霞はくっと笑った。

 からかわれるのには慣れていない。彼に対して嫌な気持ちを抱くことはまったくないけれど、ほんの少しだけむっとしてしまう。

『だ、旦那さま……』

『すまない、そんな恨みがましい目で見るな。……まあ、いいだろう。教師ができる人間に心当たりがある。連絡してここへ来させよう』

『えっ』

 さらりと、当然のごとく「来させる」と口にした清霞に、美世はぎょっとした。

『遠慮ならば不要だ。暇人を有効利用するだけだからな』

『暇人……?』

 そのときはそのまま、清霞が有無を言わせなかったために話は打ち切りになり、どうなることかと思ったのだが──。



(まさか、旦那さまの)

 姉が来るとは。

 目の前でにこにこと微笑む女性に、美世は緊張と不安でどうにかなりそうだった。

「どうせ、清霞はろくに話もしないのでしょう?」

「い、いえ……」

「大丈夫。私が、責任を持ってあなたを立派な貴婦人にしてあげるから」

 にこやかに宣言し、葉月はぐっとこぶしを握った。

 話が落ち着いたところで、さっそく居間へ上がってもらい、お茶を出す。

 葉月が連れてきた使用人は持ってきた荷物を置くと出て行ってしまい、ゆり江も知らぬ間に席を外していたため、美世と清霞、そして葉月の三人だけだ。

「さて、さっそく本題に入りたいのだけれど。美世ちゃんは、お勉強をしたいのよね?」

「はい」

 葉月の問いに、美世は大きくうなずいた。

「一応、私は女学校を卒業しているし、幼い頃からそれこそたくさん習い事をして、基本くらいなら教えてあげられるわ。……でも、嫌じゃないかしら?」

 葉月は少し不安げに、まゆを下げる。

(嫌……?)

 教えてもらえるならば、文句などあるはずがない。

 ちらりと清霞に視線を向けると、やや離れたところから無言でこちらを見ていた。口を出すつもりはないらしい。

 美世は葉月を真っ直ぐに見つめた。

「嫌、とは思いません。……あの、どうして」

「私は一度、結婚に失敗している身よ。それに、じゆうとなんて煩わしいでしょう?」

 今さらながら、そのことに思い至った。

 彼女は「久堂」と名乗った。清霞の姉、つまり久堂家の娘がこの歳まで独身のはずがない。一度、嫁にいって戻ってきた、ということなのだろう。小姑云々も、自身の経験から出た言葉だとわかる。

 無神経な問いをしてしまったかと、美世は落ち込んだ。

「そのようなことは……気にしません」

「そう? 嫌じゃない?」

「はい」

「よかった!」

 ぱあ、と破顔した葉月は、そのまま勢いよく抱きついてきた。わずかに甘い香りが鼻をかすめる。

 突然の出来事に、美世は目を回しそうになった。

「え、あ、あの」

「もう、なんていい子なのかしら! 清霞、この子、持ち帰ってもいい?」

「だめだ」

 清霞はぜんとした表情で、腕を組んでいる。

「けちねえ。お持ち帰りしてみっちりお勉強したほうが、美世ちゃんの力になるかもしれないのに」

「……だめだ」

「そうよね。私が美世ちゃんを連れて行ってしまったら、あなたが寂しくなってしまうものね」

 姉の容赦ないからかいに、ぐ、と詰まる弟。

 悔しげにけんにしわを寄せながらも、きっとまんざらでもないのだろうと感じられる彼の姿は珍しく、微笑ましい。

(でも、なぜかしら)

 美世は無意識に胸元に手をやった。

 胸の奥で、寒い風が吹いた気がした。清霞はいつもと変わらず、そして今日初めて会った葉月も優しい。それなのに、寂しいと感じるなんて。どうして。

「美世、どうかしたか?」

 気づくと、清霞がじっとこちらを見ていた。葉月も不思議そうに首を傾げていて、慌ててしまう。

「な、なんでもありません」

「そうか? 体調が悪いなら──」

「いえ、本当に平気です」

「美世ちゃん、無理はだめよ?」

 近頃、清霞はよく美世の体調を心配する。心当たりは大いにあるけれども、もしかして、彼は知っているのだろうか。

 けれど、だとしても立ち止まっている暇はない。多少の不都合なら流してしまって、先に進みたい。

 大丈夫だと言い張ると、清霞はそれ以上何も言わず、葉月も安心したように笑って、話は本題である勉強のほうへ戻った。

「それでね、やっぱりちょっとした目標は必要だと思うの」

「目標、ですか?」

 持ってきた荷物の中から、葉月はいくつかの教本を取り出して並べていく。

「そう。とりあえずの目標があったら、それに向けて頑張れるでしょう? ただはるか遠い理想を目指しても、なかなか上手うまくいかないものよ」

 なるほど、確かにそうかもしれない。頑張れば達成できそうな目標に向かって努力するほうが、上達する実感も得られる。

「二か月後に、ちょうどいいパーティーがあるの。私も清霞も招待されているから、手始めに一緒に参加してみましょう」

「えっ」

 急な話に、美世はぎょっとした。

 パーティーになど、参加したことはない。ただでさえ礼儀作法があやふやなのに、たった二か月でパーティーに出席できるほどになれるとは、考えられない。

 しかしそんな美世の内心を見透かしているかのように、葉月は微笑む。

「大丈夫、主催者とは長い付き合いで遠慮もいらない仲だし、パーティー自体も気安いしんぼく会みたいなものだから」

「ですが……」

 なかなか事態をみ込めない美世に、清霞も口を挟んだ。

「やってみればいいんじゃないか」

「だ、だんさま……でも」

「いくら勉強しても、実際にできなければ意味がないだろう」

 厳しい言い方だが、まったくその通りだった。ここで勇気を出せなければ、何もかも無意味だ。

 変わりたい。ならば、やるしかない。

「わかりました。……パーティーに出させてください」

 表情がかなりこわっている自覚はある。パーティーに出る、と口にするだけでひどく緊張して、どくどくと心臓が暴れ回っているような心地がした。

「心配しないで。いきなりドレスを着てダンスしろ、なんて言わないから。頑張りましょうね」

「はい」

 葉月は優しい。よくしゃべるところは清霞と正反対だが、その優しさはとてもよく似ている。

 先生として彼女を呼んでくれた婚約者に、美世は心の底から感謝した。



   ◇◇◇



 葉月は今後のことを大まかに打ち合わせてから、持参した山ほどの教本を置いて、今は彼女だけが住む久堂の本邸へ帰っていった。

 おそらく女学校に通っていた若い頃に使っていたのだろう、少し日に焼けて変色した教本だが、本当に使っていたのか疑問なほど傷みがない。美世はうれしそうにそれらを眺めている。

 清霞は珍しく目を輝かせている彼女の姿を、複雑な思いで見つめた。

(……このままではいけないと、わかってはいるのだが)

 すぐにでも勉強などやめさせるべきではないのか。

 悩んで、それでも、美世のうれしそうな表情を見てしまうと、何も言えなくなった。

 その夜も、ある気配を感じて目を覚ます。

 暗闇の中で清霞のよく知る、まっさらな水に墨を流したような気配がじわり、とにじみ、漂う。

 まただ、と思うが、それを無視することは難しい。

 清霞はそろりと布団を抜け出し、足音を立てないよう気をつけながら、自身の婚約者に割り当てた部屋の前に立った。

 考えてみれば、初めからその兆候はあったのだ。彼女がこの家に来たときから。ただ、最初の頃は清霞でも感知できないほど淡すぎて、気づけなかった。

 ──異能の気配。

 けんじゆうを撃ったあとに残る火薬のにおいのように、異能を使ったあとに漂うその気配が今ここにある。

 そしてかすかに、もう聞きなれてしまった彼女のもんする声が、ふすまの向こうから漏れていた。

(……美世)

 ゆっくりと襖を開けて、部屋の中に入る。

 異能の気配が一段と濃くなった。肌にぴりぴりと刺激が走り、息が詰まってむせ返りそうになる。

 そろそろと部屋の中央に敷かれた布団に近づき、傍らに腰を下ろした。

「ぃや、……やめ、て……」

 額に汗を滲ませ、弱々しくうわごとを口にする美世の姿は、何度目にしてもひどく胸が痛む。

「大丈夫だ。……もう、大丈夫だ」

 夏の夜だというのに冷え切った手を、片手で包み込むように握り、もう一方の手で彼女の額にかかる前髪を払う。

 清霞はやがて、安らかな寝息が聞こえてくるまでずっとそのままでいた。



   ◇◇◇



 明け方、美世はぼんやりと布団の中で目を開けた。

 汗と涙の乾いたあとで、顔が引きつれて気持ちが悪い。

 ……また、悪夢を見たせいだ。

 実家の斎森家からこの家にきて、数か月。季節は春から夏に変わった。その間、悪夢が美世を毎晩のようにさいなんでいた。

 夢の内容は鮮明に覚えているときもあれば、すぐに忘れてしまうこともある。

 初めの頃は、実家での、つらくて苦しい記憶が多かった気がするが、最近はそれだけではない。見ず知らずの人々に延々と怒鳴られ、けなされる夢や、暗くて狭い場所に閉じ込められる夢、おそろしい化け物に追いかけられる夢、人が死ぬ夢、それから──。

「ただの、夢よ……」

 清霞やゆり江が悪夢に出てくることもある。そんな日は、いっそう、胸が痛んだ。

 泣きながら目覚めるのはもう慣れたけれど、悪夢を見るのが怖くて眠るのをためらう。するとどんどん寝不足になり、体調もあまり良いとは言えなくなってきた。

 清霞の気遣いのおかげで一時は健康的だった身体が、最近は再び下り坂だ。

(……旦那さまに心配はかけられない)

 それにやるべきことも、たくさんある。倒れたり、休んだりしているひまはない。

 美世は、手で少しだけ顔をこすってから、いつも通りに着替えて台所へ急いだ。


「いってくる」

「はい。いってらっしゃいませ」

 出勤する清霞を見送り、ほう、と息を吐いた。

 今朝もまた、だんだん暑くなってきた。おまけに湿気もあって、蒸している。体力がみるみる奪われている気がしてならない。

 何気ない行動だったが、ゆり江がややまゆを寄せてこちらを見上げてくる。

「美世さま、夏は体力も落ちますから、くれぐれもご無理は……」

「だ、大丈夫です」

 美世は慌てて否定して、家の中に入った。

 清霞もゆり江も、美世のことをよく見ているし、勘がいい。心配してもらえることがどれだけ幸せか、誰よりもよく承知しているけれども、甘えてばかりいられない。

 寝不足でも、まったく眠れないわけではないので、そこまで影響はないはずなのだ。ほんの少し、だるさがあるくらいで。

(我慢していれば、そのうちきっと平気になるもの)

 内心で言い聞かせてから、台所へ戻り、さっと洗い物を済ませる。

 長年こなしてきた家事は、多少注意力が落ちていても問題ない。染みついた習慣が、勝手に身体を動かしてくれる。

 台所の片付けを終えると、次は洗濯。

 夏の朝にする洗濯は、冷たい水が心地よい。じゃぶじゃぶとたらいの中で洗濯物を擦っていると、ぼんやりしていた頭の中も洗われているように思える。

 ひと通り洗い終わった洗濯物は、よく水気を切ってから物干し竿ざおにかけていく。すべて干してしまうと、毎日のことだが、ちょっとした達成感があった。

「……ふう」

 まだ、大丈夫。頑張れる。

 実家にいたときと比べたら、こんなもの、まったくつらいうちに入らない。

 美世は両手で頰をたたき、気合いを入れなおした。

 今日はこれからまた葉月が来るので、教えを請う予定だ。その前に少しだけ、昨日貸してもらった本で予習をしておきたい。

「あの、ゆり江さん。わたし、少し部屋で予習を……」

「ええ、ええ、かまいませんよ。お掃除はゆり江にお任せくださいな」

 おけを抱えて戻り、声をかければ、ゆり江は快くうなずく。

 彼女に負担をかけることを申し訳なく思いながら、美世は自室で教本の一冊を手にとった。

『家庭のすゝめ』

 ずいぶん直接的な題の教本だ。

 内容は、どうやら家事の基本について説かれたものらしい。はじめに何頁にもわたって「良妻賢母とは」と長々と語られている。妻として、母としての務めとは何か、どのように夫と家を支えていくか。

 当たり前のように思えることも、まるで頭の中へ刷り込んでいくように懇切丁寧につづられている。

(嫌だわ……)

 読めば読むほど、ますます不安が押し寄せてくる。

 清霞の妻に相応ふさわしくありたい。それが良妻賢母ということなのだろうか。もしくは、夫のために衣食住を整える、それがあるべき優れた女子の在り方なのか。

 ──だとしたら、今と何が変わるというのだろう。

 美世にとって最も身近な名家の妻は、継母のだった。だから、香乃子がやっていたことを自分もできなければいけないように感じて、教えを請おうと決めたのだ。

(間違っていない、と思うのに)

 理想の妻、清霞に相応しい妻。漠然としていたそれらは、美世の心に形のぼやけた影となってみつく。……これが自分の選んだ、正しい道なのかと、不安だけがある。

 頁をめくる手が止まり、ぼんやりしたまま時間は過ぎ。

 しばらくすると、予定通りに葉月が訪ねてきて、さっそく勉強の時間になった。

「さて、美世ちゃん。まずは何から始めましょうか」

 にっこりと笑う葉月は、今日も美しい。

 明るい印象で、よくしゃべる葉月だが、よく見ていればやはりその所作もとてもれいだ。パーティーまでに彼女に近づけた自身の姿を、じんも想像できない。

 どんどん気持ちが沈んでいく美世に、葉月はまゆじりを下げる。

「そんなに不安そうな顔をしないで。私が見たところ、今の美世ちゃんの身のこなしも十分に綺麗よ」

「そう、でしょうか」

「ええ。美世ちゃんは、小さい頃はおけいごとをしていたのよね? たぶん、基本的な立ち居振る舞いは身についているのではないかしら」

 確かに、斎森家ではたとえ使用人扱いだったとしても、家の名に泥を塗るようなことにならないよう、振る舞いには気を遣っていた。習い事で教えられたことも役には立っていたが──。

 苦しかったあの日々の中にも、今こうして役立つことがあるのだと思うと、涙が出そうになった。

「とりあえずパーティーに向けて、お茶やお花は後回しかしら。家事は教えなくていいって清霞が言っていたし……最優先はマナーと話術のほうね」

 ちょっとあさらせてもらうわね、と昨日自分が持ってきた教本の山に手をつける葉月。

 ゆったりとした動きだった先ほどまでとは打って変わって、どこか子どもっぽい彼女の動きに美世の涙も引っ込んだ。

「あ、あの……は、葉月さま……」

 とつに美世が呼びかけると、葉月はぴたりと手を止め、目を丸くして振り返る。

「今、なんて?」

「え?」

 何かおかしなことを言っただろうか。

 首を傾げる美世に、軽く手を口元に当てて葉月は指摘する。

「その、呼び方よ」

「あ……ええと、葉月さま、と……」

「だめよ!」

 やや食い気味なだめ出しに、びくりと肩が震えた。

「あ、ごめんなさい……突然大きな声を出したりして」

「い、いえ」

 もう、私ったらこれだから、と葉月はため息を吐いた。

 急に強い口調で否定されるのは、少しだけ昔を思い出してしまって怖くなる。

 これまでの言動から察するに、彼女は清霞から、美世がこの家に来るまでどんな扱いを受けていたか聞いていたのだろう。

 しかしむしろ、美世のほうが余計な気を遣わせて申し訳ない気持ちになる。

 葉月はもう一度ごめんね、と小さく謝罪を口にしてから、気を取り直したように美世の手をとって微笑んだ。

「あのね、美世ちゃん。私のことは、できればお義姉ねえさんって呼んでほしいの」

「……え、えっと?」

 唐突な提案にあつにとられる。

「私、ずっと美世ちゃんみたいに可愛い妹がほしかったのよ。それなのに弟しか生まれないし、その弟の清霞はあんなで全然可愛くないのだもの。嫌になっちゃうわ」

「あの……」

「美世ちゃん。あなたは可愛いし、いい子だし、もう最高よ。清霞のことはずっと可愛くない上に頭の固い愚弟だと思っていたけれど、あなたを選んだことだけは評価してもいいわね」

「……はあ」

 徐々にひとみを輝かせながら熱弁をふるう葉月に、口を挟む隙もない。

「私、もっとあなたと仲良くなりたいの。これからは私たち、家族だもの。どんどん甘えて、頼ってくれていいのよ。清霞も無愛想で無口で何を考えているのかわかりにくいけれど、きっと同じように思っているはずだわ」

「……家族」

「そう。だからね、そんなにかしこまらないで、気軽にお義姉さんって呼んでくれたらうれしいわ。もちろん、無理にとは言わないけれど」

「お、おね……?」

 お義姉さん。

 きっとそう呼んだら、葉月はまた子どものように無邪気に笑って、喜んでくれるのだろう。……でも。


『おねえさま』


 ずっと、呼ばれるたびに身を硬くしていた。呼ばれるのが怖かった。

 あの子はもういない。けれどどうしてか思い出してしまうのだ。自分の家族、たったひとりの妹のことを。

 まぶたの裏にちらつく彼女の影が、美世にその呼び名を口にすることをためらわせる。

「……わたし、あの、葉月さんとお呼びしても、いいでしょうか」

 美世が言うと、葉月は「いいわよ」と笑った。

 がっかりした様子をまったく見せない彼女の心遣いが、うれしかった。



   ◇◇◇



 帝都の片隅に建つ、たいとくしようたいの屯所。

 小隊を率いる立場にある清霞は、執務室でこの日も書類をひたすらさばいていた。

「隊長~」

「なんだ」

 ひょっこりと扉から顔をのぞかせた腹心の部下、どうの呼ぶ声に、机上へ視線を固定したまま答える。

「少将がおみえになりましたよ」

「……早いな」

 予定よりも早くやってきた客人に、まゆをひそめる。だが、相手は直接の上司にあたる人物であり、多忙を極めるお人だ。あまり文句を言うわけにもいかない。

 清霞は応接室へ急いだ。

「遅くなりました、おおかい少将閣下」

「いや、私が早く来すぎた。仕事を中断させて悪かったな、清霞」

「いえ」

 応接室のソファに腰かけた、少々武骨な印象の軍服の大男が苦笑する。

 大海渡まさし。帝国陸軍参謀本部に籍を置く軍人で、階級は少将。年齢はまだ四十と重鎮の中に混じるには若い部類だが、軍人を多く輩出している大海渡家の後継ぎであり、将来を期待されている人物でもある。

 さらに軍内部において、何かと異端扱いされるこの対異特務小隊は、形式上、彼の指揮下ということになっていた。

きゆうじようへ行く前に、話しておきたいことがあってな」

「なんです?」

 清霞が対面に腰かけ問い返すと、大海渡は微妙な表情で端的に答えた。

「墓荒らしが出た」

「……墓荒らし」

「ああ」

 さすがに、眉をひそめる以外の反応ができない。

「それは、警察の仕事だと思いますが」

 一応、俗に幽霊と呼ばれるものの対処も対異特務小隊の仕事だ。

 けれども、墓場というのは案外、退治しなければならないような害ある霊はいないものだ。なぜなら墓があるのはつまり、きちんと供養されているということ。多少掘り返されたとて、問題になることは少ない。

 まあ当然、例外もあるので、詳しく事情を聞く必要があるが。

「先刻承知だ。まだ何か起こったわけでもない。しかし……」

 妙に歯切れが悪い大海渡は、やはり戸惑っているようだった。

「どうやら、郊外の『禁域』に侵入されたらしくてな」

「……は?」

 告げられた内容がにわかに信じられず、清霞はしばし絶句する。

 禁域とは、郊外の人里離れた場所にある、文字通り立ち入りを厳しく禁じられた領域のこと。一見、ただの森のようなところだが、宮内省の管轄であり──つまりは歴代のみかどやその一族に関する、一般に公開できない機密がごろごろしている。

 そして、その中にある墓地といえば。

「まさか」

「ああ、そのまさかだ。『オクツキ』が暴かれたようだ」

「っ!」

 ひゅ、と息をみ込む。

 禁域内にある墓地はたったひとつ。オクツキと呼ばれる場所だ。

 ここは、ひと言で説明するならば、「異能者たちの墓」ということになる。

 異能者やけんの才がある者は、総じて霊力が高い。ゆえに死してなお、普通の霊魂よりも強い力を持ち、一般的な供養では成仏できないことがしばしばある。

 オクツキは、そんな異能者たちの魂を封じておく場所。

 それが暴かれたとなれば──。

(憎しみや苦しみを抱きながら、戦いの中で無念のうちに死んでいく異能者は多い。彼らの霊が眠りから目覚め、自由になったとき、一般人にきばく可能性は十分ある)

 清霞はあごに手をやって、思考を巡らせる。

 霊に理性などない。解き放たれた霊たちが禁域の外に出たら、どんな被害が出るか。

(宮内省でも、手は打ってあるだろうが……)

 禁域の外で動き回る霊をオクツキに戻し、もう一度封印を施すのは容易ではないはずだ。解決まで、どうしても時間がかかる。

 とんでもない大事に違いなかった。

「状況は? どれだけの封が解かれたのです?」

「宮内省の術者がだいたいは抑えたらしい。だが、こちらにあまり情報が回ってこない。宮内省に問い合わせても口が重いというか、煮え切らないというか。正直、困っている」

 険しい顔でため息を吐く大海渡。清霞も一緒にため息を吐きたくなった。

「とにかく、宮内省がはっきり言わないということは、オクツキのすべての封は抑えきれなかったということでしょう。一般人に何かあってはことですから、こちらでも警戒しておきます」

「ああ、頼む」

 宮内省の対応は気に入らないが、仕方ない。今のところ、一般人への被害が出る前に協力要請が来ることを祈るしか、清霞たちにできることはなかった。

 何やら頭の痛くなる話を終え、ソファから立ち上がる。

「さて、すぐに出られるか? このまま宮城に行こうと思うのだが」

「はい。問題ありません」

 当初の予定通り屯所を後にし、清霞は大海渡とともに彼の部下が運転する自動車に乗り込んだ。これから二人は帝が住まう宮城へ向かうことになっていた。

 移動中の車内でも、話題に事欠かない。

 普段から仕事の話ばかりだが、二人は公私ともにかかわりがあり、どちらかというと気心の知れた間柄。おまけに、互いに多忙でゆっくり顔を合わせる機会もないので、いくらでも話すことはある。

「清霞、婚約したそうだが、その後どうだ?」

 想定内の問いに、清霞は「どう、ということもありません」とあいまいに返す。淡々と表情を変えない清霞に対し、大海渡は気にしたふうもなく続けた。

「あれだけ結婚を拒否してきた君が決断したんだ、よほど気が合ったのだろう?」

「……私は別に、結婚自体を忌避していたわけではありませんよ」

 久堂家の当主として、結婚しないという選択肢はなかったし、それを嫌だと思ったことはなかった。ただ、適切な相手が見つからなかっただけで。

 そういう意味では、美世とは気が合った、と言えるかもしれない。

「しかし、いろいろとあって大変だっただろうに。それでもその女性を選ぶというなら、これは相当だと思ったのだがな」

「あれは、彼女の落ち度ではないので」

「……君が女嫌いというのは、つくづく間違った情報だったようだ」

「なんとでも」

 ぶっきらぼうに答えれば、くっ、と大海渡は控えめにのどを鳴らして笑う。

 斎森家が全焼するなどの騒ぎになったあの一件は、もちろん大海渡の耳にも詳細が入っていた。

 清霞はわずかに息苦しさを感じ、軽く息を吐いた。ついでに、雑に話題をらす。

「辰石は、もう先に着いているのでしたか?」

「ああ。案外、真面目に仕事をしているようだな」

「あの家はこれ以上、信用を失うわけにはいきませんから、当たり前でしょう」

 そうでなくては困る、というのが本音だけれども。

 辰石家は、前当主の辰石みのるが罪を犯したために、彼の長男であるかずが新たに当主の座についた。

 ただ、この一志という男が若干くせもので、信用が地に堕ちてしまった辰石家を支えられるのか、清霞も大海渡もあまり期待していなかったのだが、意外にも滞りなく後継ぎとしての役目を果たしているらしい。煩雑な手続きを難なくこなし、警察、軍での事情聴取などにも快く応じるという。

 今日の宮城での用事の半分は彼にあるため、これから現地で合流する予定だ。


 清霞と大海渡を乗せた自動車は、あまり長く走らないうちに、この国で最も貴き一族の居城の門をくぐった。

 広い敷地内は堀が張り巡らされ、石畳の小道の脇に、青々とした桜や松などの木々が立ち並ぶ。いくつかの宮が点在し、それぞれに一族の方々が住んでいるが、清霞たちが訪ねるのは敷地内のちょうど中心に建つ、一番大きな宮だ。

 玄関前に横づけされた自動車から降りた二人は、慣れた足取りで屋内へ足を踏み入れた。

「こちらで、お連れさまがお待ちです」

 案内の使用人がふすまを開けると、その向こうには先に着いていた辰石一志の姿がある。

「こんにちは、久堂さん、大海渡さん」

 派手な着物に身を包んだ遊び人の青年は、清霞たちを見とめ、にっこりとさんくさい笑みを浮かべた。

「……辰石、その格好で御前に出る気か?」

 清霞は頭痛がして、こめかみを押さえた。

 残念ながら、辰石家は久堂家のに入ったため、監督責任は清霞にある。さすがに小言のひとつも言わずにはいられない。

「ぼくは軍属ではないし、もともと、異能者というのはこういうものだと聞いたから」

 一志はしれっと、悪びれもしない。

 確かに、彼の言うことも事実ではある。異能者には、帝に従う以外に重んずるべき規則はない。ゆえに現在、軍属でない異能者は、特には服装やらの細かい指定をされていないし、それがどうこうということもない。

 これは維新より前、大昔からの慣習であって、いかに異能者の存在が国にとって特別だったかの証左でもある。

 ただ、最低限の礼儀は保ってほしいものだ。赤や黄の原色が目に痛い。

「いうなれば、これがぼくの正装なんだよ、久堂さん。あまり堅苦しいことを言わないでほしいな」

「……今回だけだ。次にやったら、たたき斬る」

 お前も大変だな、と言いたげな大海渡の視線に、帰りたくなってきた。

 ひともんちやくはあったものの、一志と合流を果たし、清霞たちはいよいよ約束の人物と対面のときを迎える。

 と、仰々しい雰囲気ではあるが、清霞と大海渡にとっては慣れたものだ。

 宮の最奥。ごうしやな意匠の襖で隔たれた先は、ここに住む貴人との謁見のための部屋となっている。

「失礼いたします。大海渡、久堂、辰石、参りました」

「──入るがよい」

 三人を代表して大海渡が声をかけると、間髪れずに中から返事があった。

「ごしております、たかいひとさま」

 部屋に入り、正面、床の間の前にその貴人の姿がある。

 真っ白な肌に、真っ赤な唇。切れ長の目からはおおよそ感情というものが読み取れない。清霞と変わらぬ年頃の男性だというのに、見る人によって、少年のようだとか少女のようだと評される浮世離れした容姿は、自然と他者を身構えさせる威圧感があった。

 彼に姓はない。堯人、という名だけがある。

 そう彼は──みかどの子のひとり。つまりこの国の皇子であり、もっといえば、彼は次代の帝位を継ぐ最有力候補でもあった。

「よく来たの、征、清霞。──そして、辰石の新たな当主よ」

 清霞たちは揃って深々と頭を下げる。さすがの一志も、ここでは大人しい。

 堯人はひじけに寄りかかるような格好で、口元に笑みらしきものを浮かべた。

「三人とも、面を上げよ。まあ、楽にせい」

「はっ。失礼いたします」

 答える大海渡に続いて、清霞と一志も頭を上げ、姿勢を正す。楽にしろ、と言われて馬鹿正直にくつろぐ者はいないが、わずかに張りつめていた空気が緩んだ。

 清霞はちらりと大海渡と視線を交わし、彼と座る位置を入れ替わる。

 本題は異能にかかわることなので、清霞の管轄だ。大海渡は清霞の上司であるが異能者ではないため、ここには形式上、付き添ってきたにすぎない。

 清霞は軽く顔を伏せつつ、口を開く。

「……堯人さま、まずは彼にあいさつをさせていただきたく」

「よい。聞こう」

 うながされた一志が、少しばかり前に出て、こうべを垂れた。

「新たに辰石家当主を務めさせていただくことになりました、辰石一志と申します。このたびは、当家の者が天より異能を賜った身でありながら罪を犯し、にもかかわらず、このように御身に拝謁する許しをいただけたこと、心より感謝申し上げます」

「気にするな。おぬしも大変だったであろう」

「はっ。もったいなきお言葉。以後、辰石家は久堂家の手足となり、名誉と信頼を回復できるよう、精一杯務めさせていただく所存でございます」

「帝に代わり、われが辰石家を許す。自らの言葉にたがわぬよう、励めよ」

 一志は「かしこまりました」と再び深くぬかずいた。

 異能者はただひとり、帝に服従する。ゆえにたとえ、社会の法にのつとって裁かれ罪を償ったとしても、帝の許しがなければその存在意義を示せない。

 辰石家は今、再び帝に仕えることを許されたのだ。

「清霞も、ご苦労であったな。斎森家のことは残念であった」

 いくら落ち目だったとはいえ、斎森家という異能を受け継ぐ家をひとつ、失ってしまった。これは帝にとって、帝国にとって大きな損失。本来ならば、厳しく責任の所在を追及されるほどの。

 今回は人死にが出たわけでもなく、当の斎森家の人々がすでに罰を受けているために、になった。それだけのこと。

 清霞はゆううつに目を伏せた。

「私の力が及ばず、申し訳ありません」

「構わぬ。決められていた運命さだめよ」

 おうようにうなずきながら、堯人が笑う。清霞も肩の力を抜き、大きくため息を吐いた。

 幼い頃から皇子と異能者の筆頭として付き合いがあった二人の関係は、形式や慣習を飛び越えて、本来はもっと近しい。

「寛大な処置に感謝いたします。──して、堯人さま。天啓がおありだったとうかがいましたが」

「うむ。オクツキの封が破られたことは知っておろう?」

 その話か、とまゆをひそめる。

 天啓とは、代々の帝の直系の子孫のみに受け継がれてきた、異能のひとつだ。

 その異能を持つものは、神より、国に降りかかる厄災をあらかじめ教えられるのだという。

 ──つまり、未来予知。

 これによって、歴代の帝は国の危機を知り、それを回避、あるいは最小限の被害で済むように心を砕いてきた。

 実際のところ、本当に神のお告げというものが存在するのかはわからない。しかし、異能者の任務のひとつとして、この天啓に従って現在まで異形と戦ってきた歴史は確かにある。

 堯人は今上帝の次男だが、長男がこの天啓を受け継いでいないため、次の帝になることがほぼ決まっている。そのくらい天啓の有無は重要視された。

 ちなみに現在、帝はあまり体調が思わしくなく、堯人が代理で天啓を使い清霞たちに指示している状態だ。

「気をつけよ。……戦いになる。下手をすれば命を落とす者も出よう」

 はっとして、清霞は堯人の言葉を重く受け止めた。

 戦いに命の危険はつきものだが、こうして呼び出され、直々に忠告されるというのはよほどのこと。滅多にないことだ。

「命を落とすとは、いったい誰が」

「さて。我もまだ、帝位を受け継いでおらぬゆえ、力が不安定でな。そこまではえなんだ」

「……承知しました。とにかく危険であることは確かなのですね?」

「うむ」

 これは、心してかからねばなるまい。

 清霞たちが危険であるならば、罪もなく、何も知らない民たちはそれ以上に危険なのだから。

 話を聞いていた大海渡と一志も、ごくりと息をみ、気を引き締めた様子である。

「あとで何か視えたら、また連絡しよう」

「はい。よろしくお願いいたします」

「──ああ、それと、清霞」

 お開きかと思いきや、清霞は堯人に呼び止められた。

「なんでしょう?」

「おぬし、婚約したらしいな。やっと」

 またその話か、とややげんなりする。大海渡しかり、最近は知人に会うと必ずこの話題が出る。

 いい加減、同じ話をするのにも飽きてきた。

 けれども、どうやら堯人は清霞を冷やかしたいわけではなかったらしい。

「おぬしの婚約者……まあ、これからいろいろと大変だろうが」

「大変?」

「おぬしならば、おそらく大丈夫であろう」

 ふふ、と楽しげな声色で堯人は言う。

「それも、天啓ですか?」

 清霞の問いに、未来を視る皇子が答えることはない。

 彼がすべてについて一から十まで教えてくれるわけではないことを、清霞は長年の付き合いで知っている。

「……心に留めておきます」

 こうして、清霞たち三人は堯人との対面を終え、それぞれ近い将来に考えを巡らせながら、宮をあとにした。




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https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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