終章

 きよの正式な婚約は、ほぼ書面に名を書くだけの、ごく簡単な手続きで終わってしまった。結局のところ、結婚という段階にならなければ、大きくは何も変わらないのだそうだ。結婚の準備期間に入った、それだけのこと。

 美世の実家であるさいもり家があの有様なので、結納はしない。

 では清霞の両親はといえば、彼いわく、「あの人たちは隠居生活をしているから放っておいていい」とのこと。さすがに結婚前にはあいさつも必要だが、当主が清霞なので特に許可もいらない。清霞は一度、もう縁談を持ってくるなと連絡したようで、それだけである。

 そう、ここではじめて、美世はこの縁談が清霞の父である先代当主から持ち込まれたものだと知った。

「先代はいつもどこかで縁談を仕入れてくる。どうやら年頃で条件が合いそうな令嬢の噂を聞きつけると、を駆使して話を持ってくるらしいのだが」

 げんなりと暗い目をして話す清霞の様子から、彼がこれまでにだいぶ苦労をしたのだとわかる。ただ、手あたり次第というわけでもなく、先代には先代なりの基準が何かしらあるのではないか、という話だ。

 美世には詳しくはわからないが。

 ひとつ言えるのは、おそらく先代が聞いた「年頃の令嬢」の噂は、斎森家においては美世のことではなく、のことであっただろうということ。

 斎森家など上流階級の中では今や過去の栄光にすがるだけの家。そんな家の、使用人以下の娘の情報など、誰かの耳に入ることさえない。美世が清霞のもとへ送られたのは、香耶を手放したくなかった斎森しんいちの考えによるもので間違いない。

 香耶の噂を聞いていて、あとで実際にやってきた自分と会ったら、先代ががっかりして怒り出しやしないか。

 美世が心配すると、清霞は鼻で笑い飛ばし、「そうなったら先代を問答無用で消し炭にしてやる」などと物騒なことを言っていたので、それはそれで心配である。

「……今ごろはもう列車の中か」

 もろもろの手続きを済ませ、二人で街をぶらぶらと歩いているときに、ふと清霞がつぶやいた。

「はい」

 今日は、斎森夫妻が地方の別邸へ移り、香耶が奉公先へ向かう日だ。

 見送りもできたが、行かなかった。彼らとはもう、何も話すことはない。もちろん引っ越しを見送る間柄でも、もうない。

「私は、余計なことをしたな」

「旦那さま」

「あのような大事になったのは私の責任もある」

 清霞が結納の名目での斎森家への資金援助と引き換えに、一家に美世への謝罪を要求した話はすでに耳に入っている。

 しかし、別に彼の言ったことが余計だったとは思わなかった。

 美世にとって、やはり何らかの気持ちの決着は必要だった。斎森家を出た時点で家族の縁は半ば切れたものと考えていたが、あちらはそうではなかったからだ。

 あのままずるずると関係を引きずっていたら、いつかのように街で会えばつらい言葉をかけられるし、するとまた劣等感がよみがえるだろう。そのたびにおびえ、泣いていたのでは、ちっとも前進しない。

 過去を断ち切るための行動が、絶対に不可欠だったのだ。

「旦那さまがわたしのためにしてくださったことは、余計では、ありません」

「美世……」

「うれしいです、とても」

 ほんのさいな心遣いでも、ただ自分のことを心配してくれる人がいるのは、何より幸せなことである。つい最近まで忘れていた。

 思い出させてくれたのは、清霞であり、ゆりであり、あの家での出来事だった。

「美世」

「はい」

 立ち止まり、正面から向かい合う。やや緊張した表情の清霞は、とても真剣だった。

 彼の両手が、美世の両手を包み込むように握る。

「これから先──おそらく、お前に苦労をかけることもあるだろう。いや、極力そうはならないように心がけるが、私も軍人の端くれだ。厳しい戦場に赴かねばならないこともある。その上、性格も……自分で言うのもどうかと思うが、つまらんだろう。だが、私はお前と一緒になりたい」

「……っ」

「こんな面倒な男と、結婚、してもらえるだろうか」

 互いに、望まぬ縁談を強いられて出会った。それを仕切り直すように、しんな態度で問う清霞に、美世も笑顔で答える。

「面倒、なんて、思いません。むしろ、わたしのほうがずっと、面倒です。だんさまこそ、後悔はしませんか?」

「もちろん、しない。私は自分でお前を選んだのだから」

「それなら、よかったです。──ふつつかものですが、よろしくお願いします」

 街を流れる雑踏の中、二人の間だけで交わされる将来の約束に、証人はいない。けれど、十分だ。彼らに仰々しいものは似合わないのだから。

「こちらこそ、よろしく」

 わずかに微笑みあってから、二人は、小さくてあたたかな自分たちの家に帰るため、また歩きだした。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る