五章 旅立つ人

 また、あの桜の木だ。は夢の中にいた。

「お母さま」

 さいもり家の屋敷の中庭に立っている桜。その下に、桜色の着物をまとった母がいて、笑顔で手招きしている。

 ふらり、と誘われるように美世は一歩前へ出た。一歩、また一歩と歩を進める。けれど、やはり前と同じように、母に近づくことはできない。

「お母さま、わたし」

 そちらへ行きたい。そう口にしようとして、やめた。

『美世』

 誰かが、美世の名を呼ぶ。この声に、答えなくてはいけない。

「お母さま、また、会いましょう」

 なおも手招きを続ける母に、美世は背を向けた。


 美世がすっかり慣れたどう家の自室で意識を取り戻したときには、すべてが終わったあとだった。

 医者の診察によると、負った怪我のほとんどが打ち身らしいが、程度のひどいものもあり、数日間の安静を命じられた。

 その間、仕事もそこそこにきよが自ら世話を焼いてくれるので、なんだか恐れ多いような、うれしいような落ち着かない気分を味わうことになった。

 ゆりは美世が無事でよかったと、水分がなくなって死んでしまうのではないかというくらい、ずっと泣いていた。しかし涙ぐみながらも、美世の世話を焼く清霞の世話を焼いていたので、さすがである。

 また、その後、実家がどうなったかという話も、ぽつぽつと聞いた。

「全焼、ですか……」

「ああ」

 清霞の表情は硬い。

「木造で、庭が多かったのが災いした。あっという間だった」

 たついしみのるの異能の炎を、止めることはできなかった、と。死人が出なかったのは、不幸中の幸いだろう。

「それで、お前の両親の処遇だが……使用人の大半を解雇し、地方の別邸に移るようだ。そこでは、まあ、これまでとは比べ物にならない貧しい暮らしになるだろうな。これを機に斎森は業界から退くことになるかもしれない。実質、没落ということだ」

「没落……」

 あまり、ぴんとこない。今まで名家であることの恩恵がなかったからだろうか。

「それは、も?」

「いや、あれはひとり、特別厳格で有名な家に奉公に出される。まだ若いから、少しはまれて世間を知ったほうがいいだろう」

 彼女にはけんの才があるが、つたない術を使える以外に異能はないので、外部に預けても危険はないそうだ。

 とりあえず皆、行き先があるようで、美世はあんする。

「では、辰石家は……」

「辰石実のしでかした内容は公になっていない。法的に裁かれることはないが、責任をとって、当主の座は長男の辰石かずに譲った。新当主は──うちの監督のもとでの行動制限を受け入れた。これで事実上、辰石家はうちの、久堂家のになる」

「そう、ですか」

 無論、美世に怪我を負わせ、不必要に苦しめた彼らに対し、清霞が何もしなかったわけがない。それぞれの処分が、清霞による、まるで重罪人相手のごとく厳しい、脅迫まがいの交渉で決まったことは、美世には意図的に伏せられた。

 地位も、家も、ぜいたくな暮らしも完全に失い、もはや抜け殻のようになった彼らにまともな生活ができるのか疑問だが、それはこちらが心配することではない、と清霞はしんらつだ。

 そうして、数日は瞬く間に過ぎ。

「身体は大丈夫か」

「はい。平気です。さほどひどい怪我ではありませんし……」

 美世は清霞の手を借り、自動車から降りた。少し雲の多い空は日光が弱く、初夏にしては涼しい。

 今、二人は燃えてしまった斎森家へやってきている。

 明日にでも後片付けが始まるということで、その前にどうしてもと美世が頼んだからだ。当初、清霞は二度と美世をここへ来させるつもりはなかったらしく、少しだけ不機嫌そうに、けれど最後には渋々うなずいた。

 美世にはここで、どうしても確かめたいことがある。

「足元、気をつけろ」

「はい」

 生まれ育った実家は、見る影もなく焼けていた。

 かろうじてところどころ、柱や土台が残っているけれど、元の間取りもわからないくらいに、すっかり真っ黒な炭の塊と化している。

 そんな、ずっと住んでいた者でさえ、どこが何の部屋だったか迷うほど跡形もなくなった屋敷だから、美世は大して感傷的にならずに先へ進むことができた。少しだけ寂しいと感じるけれど、それ以上には何もない。

 あまりあてにならない記憶を頼りに、目的の場所を目指した。

 清霞は美世が転ばないように注意を払い、ときおり手を貸しながら、隣で黙ってついていく。

 美世が向かっていたのは、斎森家にいくつかあった中庭のうち、最も広いひとつだ。

 ここには昔、桜の木が一本植えられていた。──例の、母の木である。

 弱って枯れてしまったその木だが、切り株はそのまま残されている。というのも、この中庭が見えるのはもともと母が過ごしていた部屋や、美世が幼い頃使っていた部屋のある一画だけで、もう何年も掃除以外で誰も近づかなかったために、中庭も整えられることなくそのままになっていたからだ。

 当然、切り株自体にすでに生命力はなく、乾いて灰色になっていた。

 眠っている間に見た、あの夢。

 以前と同じように、桜色の着物をまとった母が、木の下で手招きしていた。それがどうしても気になって、最後にこうして様子をうかがいに来たわけである。

 灰色だった桜の切り株は、焼けて真っ黒に炭化してもなお、まだそこに形を保って存在している。

 美世がそばでしゃがみこむと、清霞も隣で腰を落とす。

「これが?」

「はい。……母の嫁入りのときに植えられた桜です」

 美世もしばらくこの庭には近づいていなかった。物心つく頃にはすでに切られていた木でも、その無残な姿は、失ってしまった多くの母のこんせきと重なる。

 そうしていっそう、彼女を孤独にした。

 ゆっくり手を伸ばして、指先で触れる。

 長くこの庭に残っていたしぶとい切り株は、けれどもまるで砂の城のように、はらり、とはかなく崩れてしまった。

 そのとき。

「……っ」

 一瞬、ぴり、と何か──鋭い痛みのような衝撃が、美世の頭の中をよぎって、消える。

 声を出す暇さえなかった。ほんの、またたきにも満たないせつの出来事で、美世自身も気のせいであったと思ってしまうほどの。

「どうかしたか?」

「あ、いえ……」

 驚き慌てて引っ込めた指先を、少しだけさまよわせて握り込む。

 きっと、まだ身体が本調子ではないのだろう。美世はひとりで納得し、立ち上がった。

「もういいのか」

「はい」

 これでもう、母のいたあかしは美世の身ひとつしかなくなった。

(でも、いいの)

 きっと母は、最後だからと美世をこの場所へ呼んだのだ。美世を、前へ進ませるために。

 これから前へ進んでいく。過去を捨てるつもりはないけれど、ここで区切って進む。

 過去の幸福にすがらずとも、新しく幸せを得るすべを、美世はとっくに持っているのだから。


 門だった場所を通り過ぎ、道へ出ると、そこには見知った人物が待っていた。

「……こうさん」

 名を呼ばれた幸次は、まゆをハの字にしていささか後ろめたそうに笑う。

「美世。その、久しぶり……」

「そう、ですね」

 先日の斎森家での混乱のときを除くと、彼に最後に会ったのは、美世が街で偶然香耶と出くわしたときだから、一か月は経っている。

 しかもあのときは互いに言葉を交わさなかったので、余計にしばらくぶりのような気がしてしまう。

「身体は、平気?」

「はい。おかげさまで」

「よかった。……少し、話せないかな。僕もこの街にいられるのはあとわずかだし、これが最後の機会だと思うから」

 美世が比較的早く助け出されたのは、幸次のおかげだと聞いていた。礼も言いたかったので、美世としてはちょうどよい誘いだったが、清霞の反対があれば無理にとは言えない。

 そう考えて隣の婚約者をちらりと見上げると、彼は大きく息を吐いてうなずいた。

 どうやら、許可が下りたらしい。

「わかりました」

「ありがとう。じゃあちょっと、移動しようか」

 二人は近くの木陰になっている低い石段に並んで腰かける。

 幼いころは、こうしてよく遊ぶ合間に休んだものだ。母を亡くし、家に居場所をくしても美世がなんとかやってこられたのは、幸次とのこういう時間があったから。

 ずっと味方でいてくれたことを、彼には感謝してもしきれない。

「……幸次さん、先日は助けに来てくださって、ありがとうございました」

「どういたしまして、と言いたいところだけど、僕は何もしてないよ。──何も、できなかったんだ。情けないことに、久堂さんを呼びに行くことしかできなくて」

 幸次は落ち込んだ様子で肩を落とす。

「いえ、それでも、幸次さんのおかげで早くわたしを助けに行けたと、だんさまがおつしやっていました」

「……そうなのかな。なら、よかったのかな」

 美世はさらに何か励ますような言葉をかけようとして、やめた。

 きっと彼は、実感のこもっていない美世の励ましなど求めていない。

「僕、すごく悔しかったんだ。何もできなくて。僕は異能を持っているけれど、実用に足るものではないし、とりあえず血をつなげばそれでいいって、今まではあきらめていた。君を助けると息巻いても、結局はあきらめていたんだよ」

 たとえそうだったとしても、代わりに怒ってくれる幸次の存在は、確かに心の支えだった。美世は胸の内に強く思う。

 幸次がいなかったら、誰も味方がいなかったら。今ごろはもう、この場にいなかったはずだ。

「だから、久堂さんからもう聞いているかもしれないけど、僕、自分を鍛えなおすことにした」

 心底悔しそうだった幸次の表情が、次の瞬間、生き生きと輝く。

 幸次はこれから旧都に行って、異能者として修業をするらしい。旧都にはまだまだ有力な異能者の一族や、異能にまつわる事物が多く残されている。帝都よりも修業には向いているのだとか。

 しかし修業をするといっても、香耶との婚約は白紙にならず、斎森家の次期当主の立場はそのまま。彼の今後の成長次第では、斎森家の再興もありうる──と、清霞は言っていた。

 もちろん、不祥事によって地方へと移ることになった挙句、異能を扱う任務からも遠ざかる斎森家を再び守り立てるのは、容易なことではないだろう。どうするかは幸次自身が決めることである。

 美世は具体的に何か手助けできるわけではないけれど、遠くからでも応援はするつもりだ。

「精一杯、努力するよ。君のことは……久堂さんが守ってくれると思うけど。強くなって、僕も守りたいものを守りたいときに守れるように」

「はい」

 美世が進むことを決めたように、幸次もまた、希望を持って進み始める。

 負けて、いられない。将来、久堂家の嫁としてふさわしくなれるよう、美世がすべきことはいくらでもある。

 ひそかに決意を固めていると、

「あと、さ」

「?」

 幸次は何やら口が重い様子で頰をかく。

「あの日、僕が言いかけたこと……覚えてる?」

 あの日──とはおそらく、美世が清霞との結婚を命じられた日。あのときのことは、よく覚えている。

『僕は、君を──』

 幸次が何を言おうとしたのか、あのときの美世には気遣う余裕も、聞き返す余裕もなかった。自分の将来がどうなってしまうのかと、不安と絶望でいっぱいいっぱいだったから。

 今ならどんな内容であろうと、きっと落ち着いて聞ける。しかし、たぶん幸次が望んでいるのはあの日の続きを口にすることではない。

 だから、美世は今度こそ、彼の望む答えを返すことにした。

「いえ、どうだったか……申し訳ありません、忘れてしまいました」

「忘れた?」

「はい。あの、大切なことでしたか?」

「そっか……いや、いいんだ。ちっとも大切なんかじゃないから。そっか、そっか」

 しきりにうなずく幸次はどこか気が晴れたような、すっきりした表情をしている。

 彼の中でひとつ、何かしらの決着がついたなら、それは美世にとっても喜ばしい。

「そろそろ戻ろうか。あまり長く君と話していると、久堂さんに怒られそうだしね」

「はい」

 斎森家の前に戻るころには、お互いにたいそう晴れやかな面持ちだったらしい。

 ただいま戻りました、と言って小走りで駆け寄った美世の頭の上に、清霞は穏やかに笑いながら手を乗せる。

「有意義な時間を過ごせたようだな」

「はい。お待たせして、申し訳ありません」

「別にいい。用が済んだなら、帰るぞ」

 美世は、最後にもう一度だけ幸次のほうを振り返った。

「幸次さん、いつかまた」

「うん。また会おう」

 小さく微笑んで手を振る幸次に頭を下げ、美世も自動車に乗り込む。もう、思い残すことは何もない。

 走り去っていく自動車を、幸次はいつまでも見送っていた。




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