四章 決意の反抗

 たついしみのるがそれを目にしたのは、思いがけない偶然によるものだった。

 今や日課のようになった、どうきよの監視。このときも、屋敷の書斎に閉じこもり、放った式と視覚を共有して、を手に入れるのに有効な情報はないかと街の様子をくまなく観察していた。

 はじめは、何かの間違いではないかと目を疑った。なぜなら自分の記憶やの話とは、まるで異なる光景だったから。

 表情も、身に着けているものも、雰囲気も……驚くほど変わった美世の姿。

 想像していた展開に、なっていない。その可能性にようやく気づいたとき、実はあわや叫びだしそうになった。どうしてこんなことになってしまったのかと。

 思い出しただけで沸騰しそうな怒りに襲われて、頭をきむしる。

 相手は格上で、どうあっても太刀打ちできない。冷静さを失い、そんな簡単なことすらすでに頭の隅に追いやられていた。

 そして迷わず、香耶を呼びだした。この娘であれば、実の思い描いたとおりに踊ってくれる。なりふりなど構っていられない。

 先にあの宝を見つけたのは久堂ではなく、自分なのだ。

 うすの血が、異能が欲しい。再び辰石家の威信を取り戻すために。

「おじさま、どうしましたの? 急に用事なんて」

 慣れたように革張りの長椅子に腰かけ、首を傾げる香耶に実は笑いかける。

「……実は、先ほど信じがたいものを見た」

「え?」

「香耶、君はもしかしたら知りたいのではないかと思う。──君の姉の今を」



 ずっと、心に残っている。

『香耶。あなたは決して、あれと同じになってはいけないのよ』

 昔、母から何度も何度も、繰り返し言い聞かされたこと。

 屋敷で、異母姉を見かけるたびに指をさして、あれのようになってはいけない、あれはさいもりの娘などではないのだ、無能なのだから、と。

 言葉通り、母は香耶に常に「上」であることを求めた。

 習い事などでの少しの失敗にも敏感で、たまに失敗すると、このままでは異母姉のようになる、と異母姉がどんな陰口をたたかれていたかわざわざ説明して、香耶を戒めた。

 その影響で、香耶はいつでも、自分が「上」で、異母姉は「下」でないといけない、と思い込むようなった。異母姉が持っているものは、香耶も持っていなければならない。それ以上でなければならない。

 だから、義父となる辰石実に呼び出され、聞かされた話は到底、受け入れられなかった。

(噓、噓、噓よ……!)

 あの姉が上等な着物を着て、しかも使用人を侍らせ、街を歩いていた?

 話を聞いただけでは、にわかには信じがたい。

 香耶は斎森の屋敷へ戻り、自室で、けんの才を発現させてから父に仕込まれていた術を使う。そして、急ぎつたない技術で式を作り出した。

 見鬼の才があるということは、最低限、術者として術を行使できるということ。ただ香耶は女で、任務にかかわることもないので、あまり熱心には学んでこなかった。

 それでも式を飛ばし、視覚を共有させるくらいはできる。

 部屋の障子を開け、小さな紙で作ったそれを放つ。

(ありえないわ)

 香耶は白い指先で、手の上に残った紙を握りつぶす。

 つい何週間か前は、相変わらずぼろぼろの古着姿だったから安心していた。

 もし、もし異母姉の縁談が上手うまくいっているのだとしたら?

 屋敷で会った美しい男性は、久堂清霞だったという。

 上等な着物も、大勢の使用人を従わせる権力も、ぼうの夫も。すべてがあの、出来損ないの姉のものになるなんて。

(嫌、嫌よ。そんなこと)

 香耶は斎森の跡を継ぐことがさほど良いことでもないと、薄々は気づいていた。

 女学校へ行き、少し社交をしてみればすぐにわかる。異能者の家でいつも名前があがるのは、久堂家を筆頭に、いくつかの家だけ。斎森家や辰石家なんて、誰も頼りにしていなければ、期待もされていない。

 過去に築いた財産や地位があるから、かろうじて相手をしてもらっている。その程度。

 世間の認識では、もう落ち目なのだ。この家を継いで、悠々自適に暮らす未来は、まずありえない。姉の嫁ぐ久堂家とは、比べるのもおこがましい。

 斎森家もこうも、香耶は本当に欲しかったわけではない。

 それよりも、久堂家の嫁にふさわしいのは何もできない異母姉ではなく、自分であるはずだ。

(おかしいわよ。あのお姉さまが、私の持つべきものを奪うなんて──あ)

 式はにぎやかな市街地を抜けようとしているところだった。

 香耶は、雑踏の中に美世らしき人物を見つけ、心臓が止まるかと思った。

「噓でしょう。違うわよね、あれがお姉さまなわけが……」

 真っ白な愛らしい日傘をさし、空色のいかにも上等な着物を着て、先日の使用人と話しながら歩く、貴婦人の姿。

 人相が、まるで違う。見苦しくせこけた身体は健康さを取り戻し、けれどもきやしやはかない。傷んでごわつき、広がっていた髪も今や光を反射するほどつややかだ。

 地味で、貧相で、陰気だった異母姉はどこにもいない。

「あのお姉さまが、あんなふうになるわけない……」

 ぼうぜんとしつつ、香耶はそのれんな貴婦人を式に追いかけさせる。しかし、途中で行き先が対異特務小隊の屯所であることに思い至り、離れたところで式をとどめた。

 異母姉の面影がある貴婦人は屯所の前で守衛と何やら言葉を交わすと、しばらくそのまま門の近くで誰かを待つ。

 しばらくして中からやってきたのは、間違いない。香耶が以前、斎森の屋敷ですれ違った美しい男。だが、どうしたことだろう。あのときとはずいぶん彼の表情が異なる。

 人間を視線のみで射殺せそうな、冷たい雰囲気だった先日とは打って変わって、優しくほころんでいる。貴婦人に対する好意が式の目を通してもよくわかった。

 彼女のほうも薄く頰を染めて、緩んだ表情をしている。

 和やかに二人が話す様子は──どこからどう見てもなかむつまじい恋人。

「……どうして。どうして!?」

 動揺した拍子に不安定な式は力を失い、香耶の脳裏に映し出されていた光景もかき消える。

 おかしい。これは、何もかもおかしい。

 先ほど見た姉の姿を思い出す。

 あんなものは、ハリボテだ。姉がどんなに外見を取り繕ったところで、中身は空っぽ。なんの意味もないのだと、自分に言い聞かせる。

 長く使用人同然に過ごし、異能も見鬼の才も持たぬ彼女には何もできはしない。それで久堂家の、あの見るからにかんぺきな男の妻が務まるはずがない。

 自分のほうが美しい。何より、優秀だ。決して、落ち目の斎森家の女主人で満足して終わっていい器ではない。

『香耶。あなたは決して、あれと同じになってはいけないのよ』

 そうだ。だから、自分が「下」になってはいけない。

(久堂家の嫁にふさわしいのは、私だわ!)

 香耶は自室を飛び出し、父親の書斎へと駆け込んだ。

 両親は自分にすこぶる甘い。今からでも、婚約者を取り替えろと願えば聞いてくれるはず。

 けれど、そんな香耶の予想はあっさりと裏切られた。

「だめだ。お前は大人しく花嫁修業でもしていなさい」

「どうして!?」

 父はまゆを寄せ、苦々しい表情を浮かべている。香耶は父の言うことが納得できず、ますますいらった。

「どうしても何もない。美世のことは忘れなさい」

「そういうことを聞いているのではありません! お父さま、久堂家に嫁ぐのにふさわしいのは私のほうでしょう?」

「……香耶。時間を持て余しているのであれば、幸次君に会ってきたらどうだ」

「お父さま!」

 そのあと、何を言っても父は聞く耳を持たなかった。

 こんなことはほぼ初めてといっていい。香耶がわがままを言ったとき、いつも最初は渋っていても、最後には許してもらえた。それなのに。

「香耶?」

 父の書斎を出た香耶に、廊下で声をかけてきたのは、訪ねてきたばかりらしい幸次だった。

「幸次さん」

 一瞬、迷う。この婚約者は基本的に異母姉の味方だ。異母姉が幸せになるのが気に食わないから何とかしたいなどと言ったら、絶対に反対するに決まっている。

 と、そこまで考えて、もし婚約者を取り替えることが可能ならば、美世を好いている幸次にも利はあるのではないかと気づいた。

「幸次さん、あのね──」

 おねえさまと、婚約したくない?

 香耶の問いが理解できなかったのか、幸次はまゆを寄せて「は?」と聞き返してきた。

「だから、おねえさまと婚約できたら、幸次さんはうれしいでしょう?」

「意味がわからない」

「おねえさまより、私のほうが久堂さまの妻にふさわしいのは明らかなのだから、立場を取り替えたらどうかしらって。そのほうが絶対に良いもの。協力してくれるでしょう?」

「馬鹿を言わないでくれるかな」

 厳しい口調で言った幸次は、次の瞬間にはあきらめの色をひとみに浮かべる。

 香耶はそのことに焦りを覚えた。

「どうして? 幸次さんは私よりも、おねえさまが好きでしょう?」

「そういう問題じゃないよ。お義父とうさんは許可したの?」

「…………」

「家長の許しがないなら無理だ」

「……っ、幸次さんまで、そうやって私を邪険にするのね!」

 香耶は父親に続き、婚約者にまでそっけなく対応され、失望と悲しみを一度に味わう。

(でも、そうだわ。辰石のおじさまなら)

 香耶の話によく耳を傾けてくれるし、異母姉のことも教えてくれた。きっと、協力してくれるはずだ。香耶の心はわずかに軽くなった。

 自分の味方が誰もいなくなるなんてありえない。香耶が優秀である限り。誰もが美世よりも彼女を欲しがるに決まっているのだから。



 ──時は少しさかのぼる。

「美世さま、お支度は済みましたか」

「はい。今行きます」

 ゆりに呼ばれ、美世は表へ出た。まだ午前中だが、少し日差しが強い。

 昨夜、清霞は仕事で屯所に泊まり込み、帰ってこなかった。きっと疲れているだろうし、少しでも力になれればと、これから差し入れを持っていくことにしたのだ。

 どうやら忙しいと一食くらいは平気で抜くことがあるらしいと、ゆり江からもどうからも聞いた。今から持っていけば昼前には渡せるので、ちょうどいいだろう。

「きっと坊ちゃん、喜ばれますよ」

「それなら良いのですけれど……」

 差し入れの入ったしき包みを抱え、身なりがおかしくないか確認する。

 あの桜色の着物に遅れること数日。清霞が購入したものが、『すずしま屋』から続々と届けられた。

 これからの時期にちょうど良さそうな単衣ひとえや薄物の着物に、それらに合わせたじゆばんや帯や小物。決して大きくない家の中に山ほど品物を積まれたときには、呆然としてしまったものだ。

 いったいそれらすべてでいくらの価値があるのか、おそろしくて考えられないが、ただしまっておくのももったいなくて、少しずつ使っている。

 ちなみに今日は空色の地に、ほどよく華やかな藤の柄が美しい着物で、帯は淡い黄色を合わせている。

「さあ美世さま、こちらもお持ちくださいな」

「可愛い……」

「日差しが強くなってきましたからねえ。坊ちゃんがぜひ使うようにと」

 ゆり江から渡されたのは、真っ白な愛らしいレースの日傘。洋装にも和装にも合いそうな、これまた高価であろう一品だ。

 これを差して歩いたら、いかにも上品な、どこかのご令嬢になれそうだと思う。が、しかしだ。

「……わたし、だんさまに相当散財させてしまっているのでは……」

 久堂家自体の資産も膨大な上、清霞は士官としてそれなりの地位で働いている。金に困ることは──まあ、余程のことがない限りありえないとわかっていても、やはり心配になってしまった。

 着物を買ってもらっただけでも十分だというのに、最近は何かにつけ、こうして美世のために衣食住に関わるものや雑貨などが用意されている。

 普通の金持ちの名家の娘なら当然のように受け取るものだろうが、あいにく、美世には縁がなかった経験だ。なんだか悪いことをしている気分になってしまって仕方ない。

「あら、ゆり江も詳しくは存じませんけれど、大丈夫ですよ。坊ちゃんはもともとあまりお金を使われませんしねえ。さあさ、早く行きましょう」

「は、はい」

 軽く流すゆり江に押されるまま、ゆっくり歩きだす。

 市街地へ出ると、嫌でも香耶と遭遇したときのことを思い出した。

 今日も、会ったらどうしようと思わなくはない。今どんなに穏やかな暮らしをしていても、実家にいたときのことはそう簡単に記憶から消えてくれなかった。顔を合わせることがあれば、きっとまたおそろしくて動けなくなる。

 それでも今は、心のりどころになってくれる人がいる。絶対に美世の味方でいてくれる人が。そう考えるだけで、いつもつきまとっていた不安や恐怖は薄らぐ。

「こんにちは」

 屯所の前に立っている警備の者にあいさつをすると、身元と用件を尋ねられた。

 美世は多少つっかえつつ、清霞の婚約者とその付き添いであること、差し入れを渡したい旨を告げた。

「婚約者……。わかりました、すぐに確認します」

 門番は、何か、信じられないものを見たように、ぎょっとした顔をする。

 大人しく待っていると、若干慌てた様子の清霞が奥から出てきた。いつも涼しい顔をしている彼にしては珍しく焦った表情を浮かべている。

「美世、それにゆり江。こんなところまでどうしたんだ」

「旦那さま、お疲れさまです。ご迷惑かとは、思ったのですが……その、ちゃんとしたお食事をとられたか心配になって、差し入れを持ってきました」

 美世は意識して笑顔を作り、持っていた風呂敷包みを差し出した。

「そ、そうか。それは、……助かる」

 なぜかとても言いにくそうに、困ったようにけんしわを寄せて包みを受け取る清霞。

 おそらく彼のことをよく理解していない者が見たら不機嫌なのかと勘違いするところだが、単純に恥ずかしがっているだけだと今の美世にはわかる。

 彼の態度や表情はとにかく誤解されやすいのだ。

「歩いてきたのだろう、中で少し休んでいくか?」

「いえ、わたしは平気です。ゆり江さんはどうですか?」

「このくらい、まだまだ」

 笑顔で胸をたたくゆり江は、言葉通りまったく疲れを感じさせない。長年使用人として働いてきた賜物であろう。

「あの、せっかくですけれど、邪魔をしてもいけませんし帰りますね」

 彼が若干つまらなそうな顔になったのはきっと気のせい。忙しいのだろうし、あまり美世が邪魔をするわけにはいかない。

 ふと、清霞は真剣な目で尋ねた。

「美世、お守りは持っているな?」

「あ、はい。ちゃんとここに……」

 美世が手に持っているきんちやくを指し示すと、清霞はうなずきかけ──奥から呼ぶ声がして振り向く。

 隊員に返事をして、また美世に向き直ったときにはもう、彼はひとりの責任ある立場の軍人の顔をしていた。

「今行く。──持っているならいい。本当なら送っていきたいところだが、すまない。抜けられそうにない」

「大丈夫です。お邪魔してしまって、申し訳ありません。お仕事がんばってください」

「ああ。二人とも、気をつけて帰ってくれ」

「はい」

 返事をすると清霞は微笑み、ぽんぽん、と軽く美世の頭に手を置いて、建物の中へ戻っていった。

「ふふ、坊ちゃんったら照れていましたねえ」

「ええ、…………」

 帰る途中、ゆり江と話しながら美世は巾着の中をのぞき込んで、首を傾げた。

「美世さま? どうかしましたか」

「え、あ……はい、あの」

 巾着の底のほうまで探しても、見つからない。

 どこかで落とした? ああ、そうだ、考えてみれば。

「旦那さまにはああ言ったのですけど、お守り、お家に置いてきてしまったみたいで」

「まあまあ! 大変」

 着物に合わせて巾着も変えた。あのお守りは前に使っていた、古びた巾着に入れたまま、入れ替えずに来てしまったのだ。

 まさかそんなうっかりをするなど思ってもみなかったので、結果的に清霞に噓を吐くことになってしまった。家から出ること自体が少ないからといって、言い訳にもならない。

「必ず持ち歩くと約束したのに」

(わたしったら、本当にだめね)

 あのお守りがないとなると、美世を守ってくれている清霞の気配が一気に薄くなったようで、落ち着かない。

 意図せず言いつけを破ってしまい、沈み込む気持ちを止められなかった。

「でしたら美世さま、真っ直ぐ早めに帰りましょう」

「……そうですね」

 ゆり江の言葉にうなずき、歩く速度を上げる。

 あのお守り自体にどんな効力があるのか、美世にもわからない。しかしあれだけ持っているか否か清霞が気にしていた物だ。何か意味がある。それを無視して遊び歩くことはできない。

 しばらく口数も少なく歩き、二人は無事に市街地を抜けようとしていた。人気の少ない田舎道に出ると、ここから家まではもうそれほど遠くない。

 と、あんしたそのとき。

 けたたましいエンジン音を立てて、一台の自動車が近くに停車した。

 はじめは清霞が追いかけてきたのだと思ったが、違う。

「美世さま!」

 ゆり江の叫びが響く。完全に予想外の出来事に、美世の反応は遅れた。

「……っ!? ゆり江さ、きゃっ」

 振り返る間もなく、自動車から降りてきた何者かに痛みを感じるほどに強く腕を引かれた。有無を言わせぬ力でもって、身体の動きを封じられてしまう。

「な、何を、ぅぐ」

 誰がこんなことをするのか。それを確かめることすら許されない。口と目に布を押し当てられ、視覚も声も自由を失った。

(怖い……っ、旦那さま……!)

 そのまま身体を持ち上げられ、乱暴に自動車へ押し込められたかと思うと、美世はどうしようもない息苦しさから意識を手放した。



 かりかりと万年筆を動かし、次々に書類を片付けていた清霞は、判を手に取ろうとしたところでふと顔を上げる。

「隊長、お客さまですが……」

 扉の向こうから、やや困惑したような部下の声が聞こえた。

 来客の予定などない。何かあったか、とまゆをひそめ、応接室へと急ぐ。

 屯所の中でも入り口に近い、来客時にしか使われない部屋に踏み込むと、そこにはよく見知った人物がいた。

「……ゆり江?」

 清霞の姿を目にした途端、つい先ほど帰っていったはずのゆり江は転びそうな勢いで立ち上がり、すがりついてきた。

「坊ちゃん、美世さまが……!」

「何があった」

「み、美世さまが……坊ちゃん、美世さまをっ」

「ゆり江、落ち着け」

「い、いけません。早く、早くしないとっ、美世さまが」

 普段から冷静なゆり江がだいぶ混乱しており、すぐにはまともな会話すら成り立たない。

「落ち着け、大丈夫だ。ゆっくりでいい」

「美世さまが」

「美世が、どうした」

「か、かどわかされて……っ」

 まさか、という言葉をみ込み、清霞はうめく。想定していたことではあったが、可能性としては一番低いはずだった。まさかそこまで彼が愚かだとは考えてもみなかったのだ。

 なんとか取り乱すゆり江を椅子に座らせ、話を聞く。

「美世がさらわれる前、誰かに会ったか? 斎森の者かあるいは辰石の者なんかには?」

「あ、会っていません。真っ直ぐ帰る予定でしたから」

「お守りはどうした。持っていたのではなかったのか」

「……それが、実は」

 ──坊ちゃんと別れてから、ないと気づいて。

 ゆり江の声も手も、ひどく震えていた。ちゃんと持ち物を確認していればこんなことにはならなかったと、己を責めている。

 清霞は爆発する寸前まで膨れ上がりそうだった激情を抑え込むように息を吐いた。

 あのお守りは、相手の式から姿を見られなくする効果があった。

 人間の目や、物理的な実力行使から守るようなものではなかったから、気休め程度の効果でしかなかったが、監視に生身の人間ではなく式を用いるやからには有用だ。

「……ちっ」

 力の及ばぬことに対する、いらちが募る。

 すでに懐から取り出した、手のひらほどの大きさの何枚かの白紙に力を込め、簡易な式を生成して街中に放ち、美世の行方を探らせている。けれど、帝都は広い。この方法では時間がかかる上に、あまりにも不確実だ。

 十中八九、犯人はわかっている。しかし証拠が不十分な今の状況では、どうしても動くことができない。式で現場を押さえられればいいが、そんなに都合よくはいくまい。

 敵地に乗り込み、制圧することは清霞ひとりでも可能だ。しかし確証もなくそんなことをすれば、足をすくわれるのは清霞のほう。あとひとつ、何か決め手がほしかった。

 今すぐにでも美世を取り戻しに行きたいのに、できない状況ががゆい。

「隊長~? お客さんですよ、また」

 束の間、重苦しい沈黙に包まれた部屋に、間延びした声が割って入った。

「誰だ」

 感情のこもらないへいたんな口調で問う上司にもまったく動じず、ずかずかと入り込んできた五道は「ほら」と背後を指し示す。

 そこにいたのは、まるきり予想もしていなかった人物だった。

 彼は苦痛に耐えるように強くこぶしを握りしめている。

「あなたにこんなことを頼むのは筋違いだと、わかってる。でも、お願いします。僕だけじゃ、美世を助けられない……っ」

 香耶の婚約者、辰石幸次が泣きそうに顔をゆがめて立っていた。



 美世を守るのだと、そう誓ったはずだった。

 そのために、あえて香耶の婚約者、斎森の次期当主という地位を選択したというのに。

 現実はどうだ。幸次は清霞の運転する自動車に揺られながら、血がにじむほど唇をみしめる。

 対異特務小隊の屯所で清霞に説明し、自分でももう何度も思い出しては後悔した出来事が、再び幸次の脳裏に鮮明によみがえった。


 香耶の様子がおかしかった。異母姉と立場を入れ替えたいと言い出し、それを無理だと断れば、今度は辰石家へ行って幸次の父と話をすると言う。

 あまりに不審だったのでついていくと、香耶と父は二人で耳を疑うような相談をしだした。

『では、おねえさまがいいって言ったら』

『ああ。本人の意思であれば、久堂も聞かざるをえない。婚約は解消される。美世のことだ、君が言えばすぐに折れるだろう』

『そうね! お母さまもきっと協力してくれるわ。おねえさまは、おじさまが連れてきてくださるのよね?』

『無論だ』

 なら、きっと上手うまくいくわね、と香耶はうれしそうに手をたたく。

『馬鹿なことを! 香耶も父さんも、何を考えているんだよ!』

 慌てて割って入った幸次に、二人の冷たい視線が刺さる。

『何って、さっきも言ったじゃない。おねえさまの縁談をつぶして、立場を入れ替えるの。幸次さんも言ったでしょ、お父さまの許可がいるって。でもそれは無理そうだから、おじさまに別の方法を聞いたの』

『まさか』

 信じられない気持ちで自分の父親を見やった。

『美世を手に入れるためだ。仕方あるまい』

『人様の家に口を出すなと、以前はあんなに……!』

 昔、美世を助けようとして、父には何度も止められた。余所よその家の事情に首を突っ込むものではないと。

 今の父の行動は、それに反する行為ではないのか。

 幸次の指摘に、父はため息をつく。

『あのときは、下手にかばって斎森に美世の価値を悟らせるわけにはいかなかったからな。いずれ手放してもらわねば、手に入れるのが面倒になる』

『……え?』

 なんだ、それは。

『斎森がその価値に気づき、囲い込まぬように、美世が孤立していたほうが、都合がよかった』

『…………』

 つまり、もっともらしい理由をつけ、自分が美世を手に入れるためにわざと手を差しのべもせず、傍観し続けていたというのか。

 父がしていたことを正確に理解すると、怒りが頂点を通り越してしばし、幸次は自失した。次いで、かっと頭に血が上り、目の前が真っ赤に染まる。

 ──許せない。

 だって、まさか。あれほど苦しみ、悲しんで、笑うことすらできなくなった美世の姿を父とて知らぬはずがない。それをあえて放置するなど、人間のすることでは、ない。

 こんな、こんな外道の言うことを聞いて今まで過ごしてきたのかと思うと、自分にすら腹が立つ。全身が、沸騰しそうだ。

 ぴし、と部屋の窓にひびが入った。

 感情を抑えられない。幸次の中で吹き荒れる怒りはあふれだし、異能の暴走という形で現実世界へ干渉を始める。

『……許せない』

『幸次、無駄だ。やめておけ』

『あんたの言うことはもう聞きたくない!』

 部屋に設置されている卓子や椅子、棚などの家具が、一斉にがたがたと音を立てた。

『香耶、君は帰りたまえ』

『おじさま』

『ここを片付けたら、すぐにそちらの屋敷を訪ねる』

『わかりました。おねえさまのことは任せてくださいね』

 香耶はちらりと幸次の様子をうかがってから、興味をなくしたように大人しく部屋をあとにする。

 扉が閉まるのと、部屋中の物が重力に逆らって浮き上がったのは同時だった。

『これ以上、美世を好きにはさせない……!』

 幸次の叫びとともに、空中に浮遊していた物たちがすさまじい速度で実へと迫る。

 念動力。直接触れたり、道具を使うことなく物を動かす、基本の異能。幸次がもともと持っている力では椅子一脚浮かせるくらいがやっとであったが、今は明らかにそれ以上の力が出ている。

 もし当たれば、人間の身体などたやすく砕け、吹き飛ぶだろう。

 しかし実は顔色も変えず、そこに立っていた。

『お前にここまでの力があったのは意外だった。異能の大きさや質は、感情にいくらか左右されることもあるが』

 実が軽く片手をあげると、彼にぶつかる寸前まで迫っていた物のすべてが、ぴたりと制止した。そしてそれらはゆっくりとその場に着地する。

『なんで、動け……っ! 動けよっ』

『馬鹿者が。異能者としてろくに訓練もしていないお前が、勝てるはずあるまい』

 部屋中に暴風のように逆巻いていた幸次の異能は、すでに静まりかえり、何の反応も気配もない。

 いまだ幸次の中で怒りは少しも冷めてはいなかったが、先ほどのような本来の実力を超えた力は出なくなっていた。

『くそぉ……っ、なんで、なんで』

 なぜ、こんなに自分には力がないのだろう。偉そうに美世を守るなどと言って、肝心なときに力不足で役に立たない──まるでただのいきがった子どもだ。

 悔しくて、けれど、なすすべもなく。涙が出た。

 その後、父によってねじ伏せられ、拘束された幸次は、術で緊縛され自室に監禁された。

 美世は父の手の者に捕まり、今ごろはすでに斎森家に送られてしまっただろう。

 何もできなかった。彼女が危険であると知りながら、父親ひとり、足止めできず。

 そもそも最初から、幸次自身がどっちつかずでいたのがいけなかったのだ。

 優しい? 違う。優柔不断で、おくびようで、意気地なし。こんな、どうしようもない状況になるまで何もしてこなかった。

『馬鹿だ……僕は』

 もっと早く、選ぶべきだった。美世を守りたいなら、相応の努力をすべきだったのに。

 今さら後悔しても遅い。異能者として修業を積んでこなかった幸次には、斎森家へ向かうすべはなく、たとえ行けたとしても、また同じことを繰り返すだけだ──。

 そのとき、かぎが閉まっているはずの部屋の扉が開いた。

『なら、あきらめるかい?』

 揶揄からかうような、ふざけた言葉を口にして現れたのは、兄だった。

 見るからに遊び人といった派手なふうぼうの兄に、腹が立つ。

『あきらめない。美世を、助けにいく』

 決意を込めて言い返す幸次に対し、兄はおかしそうに笑った。

 そして、彼はどこでそんな技術を身につけたのか、父の術による幸次の拘束をいとも簡単に解いてしまった。

『なんで……』

『くだらないことを気にしている暇があるなら、早く行ったほうがいいと思うけど?』

 しやくに障る笑みに背を向け、わずかにうなずくと、幸次は部屋を飛び出した。


「もうすぐ着く。そう焦っても状況は変わらん、辰石幸次」

 自動車を運転しながら、清霞が助手席に座る幸次を感情のこもらない声でたしなめる。

「ずいぶん落ち着いているんですね、あなたは。婚約者がどんな目にあっているかもわからないのに」

 幸次は素っ気なく返した。

 運転する清霞の横顔はひどく冷静で、その凍りついた表情はとてもとらわれの婚約者を案ずるものとは思えない。

 確かに久堂清霞は、かんぺきだ。欠点らしい欠点が見当たらない。比べるべくもないが、幸次など同じ男としても異能者としても足下にも及ばず、きっとどんなに努力しても追いつくことは不可能だろう。

 だが、この男に美世を任せるのが本当に良いことなのか。第一、美世の何を知っているというのだ。彼女の深い悲しみや孤独、心の傷は?

 こうして助けに行くのも、単なる見せかけでは。

(もし、この男が美世を見捨てたら)

 そのときはもう、美世を殺して、自分も死ぬしかない。ずっと考えていた。それが最も確実に美世に安らぎを与える方法だと。身勝手な自覚はあったが、ほかの方法はもう思いつかない。

 しかしながら、決死の覚悟が無用であったことを知らされるのは、すぐ後のことだった。



   ◇◇◇



 目を覚ますと、わずかにかび臭いような、よどんだ空気が鼻をついた。

 屋内の、暗い場所だ。どこかに光源があるのか、目が慣れると何も見えないほどの暗闇ではないが、外が見えないので昼か夜かを判断するのは難しい。

 美世の身体は、ほこりっぽい木板の床に無造作に転がされていた。縄で縛られた両手は自由がきかず、少し苦労して起き上がる。

(ここは)

 よくよく周囲を見渡すと、覚えのある場所だった。特別に忌まわしい思い出がよみがえる。

 狭く、ほとんど何もない空間。冷たくじめじめとした空気。

 美世が幼い頃に閉じ込められた、あの斎森家の蔵に違いなかった。

 蔵などどこの家でも似た造りだし、ここが斎森家の蔵であるという確かな証拠はどこにもない。しかし昔とまったく変わらない中の様子は、妙な確信を抱かせる。

 詳しい理由はまだわからないが、継母や香耶であれば美世をさらい、閉じ込めるという暴挙に及ぶことがないとも言い切れない。彼女たちが美世をべつし、憎み、疎ましく思う気持ちは根深い。何かのきっかけがあったなら、このくらいのことはやってのけるだろう。

 状況を把握すると、これから何が起こるのかという恐怖と、清霞やゆり江に対する申し訳なさがこみ上げてきた。

 きっと今頃はもう、清霞にも美世が攫われたと連絡がいっているはずだ。

 彼は美世を助けようとするだろう。それが、どれだけの迷惑になっているか。申し訳なくて涙が出そうになった。

 どくどくと、早くなった鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。

 今この瞬間にも、継母や香耶がやってきたら。この家で、あの二人と再び相対することで自分がどうなるか──予想がつかないから、余計に恐怖が増す。

 家を出て、安心できる居場所を得て、少しは強くなれたと思う反面、甘やかされて忍耐がもろくなってしまったとも感じる。あの二人の前で泣こうものなら、どれだけあざわらわれることか。

 美世は意を決して立ち上がり、扉に思い切り体当たりをした。

 もしかして昔よりも大きくなった身体でなら内側から開けられるのではと、いちの望みにかけたのだ。

 しかしやはり、扉はびくともしない。

(……当たり前、ね)

 かんぬきで閉じられた扉が、体当たりなどで開くはずもない。

 この扉が開かないとなれば他に脱出できそうな場所はない。高い位置に小窓はあるが、よじ登るのも難しく、大きさからして通り抜けることも不可能だ。

 どんなにあきらめたくないと思っても打つ手はなく、まるで断罪のときを待つ囚人のような心地で座り込むと、外から物音が聞こえた気がした。

「……っ」

 身体がこわり、冷たい汗がにじんでくる。

 無意識に呼吸を止めたまま、おもむろに鈍い音を立てながら開く扉から目が離せない。

「あら、おねえさま。もうお目覚めだったの?」

 やはり。肩が、反射的にびくり、と跳ね上がった。

 厚い扉を使用人に開けさせ、日の傾きかけた空を背に、ゆっくりと蔵の入り口の一歩手前までやってきたのは香耶だった。

 母親譲りの華やかな面差しも、流行はやりの色鮮やかな着物に身を包んだその姿も、澄んだ高い声も、寸分の隙もないいつも通りの彼女だけれど、ひとみには黒く激しい感情が浮かび上がっている。

「なかなかお目覚めにならないみたいだったから、ついに心の臓が止まってしまわれたのかと思ってしまったわ」

 くすくすと笑うその表情には、おかしなことに、以前のような堂々としたごうまんさが見受けられない。どこか心ここにあらずというか、焦って余裕がないようにも見える。

「……どういう、つもりで……こんなことを」

 恐怖と緊張で上手うまく息ができない。尋ねる声はみっともなく震えた。

 香耶は、縛られ埃まみれの床にいつくばり、震えるしかない美世を眺めて、笑みを深める。

「いい気味ね。おねえさまにそんなれいな着物は分不相応よ。そうして薄汚れているのがお似合いだわ」

「…………」

 返す言葉は、すぐには浮かんでこなかった。なぜなら、それはずっと美世が心のどこかで感じていたことだったからだ。

 高価なものを買い与えられておじづくのも、結局は、それらが自分には合わないと思っているからに他ならない。

 うつむくと、ふいに、誰かが美世のすぐそばまで近づいてきた。

 ばし、と強い衝撃が片頰に走り、美世は短い悲鳴をあげて倒れ込む。

「あなたのせいよ!」

 叫ぶ声は、継母のもの。彼女の持つ扇子で張り倒されたらしい。

 頭にわんわんと響くこの台詞せりふも、とても聞き覚えがあった。まるですべての責任を美世に押しつけるような、昔からよく投げつけられていた言葉だ。

「あなたのせいで、わたくしの人生はまたおかしくなったわ!」

「……っ、ぅ」

 とつに謝罪が口をつきそうになって、それをみ込む。

「その年まで育ててやった恩を、嫁にいった途端にあだで返そうだなんて。本当にいやらしい子ね!」

「…………」

 身に覚えがないと主張しようとして、継母のはんにやのごとき形相を目にして何も言えなくなる。

 何を言っても無駄だった。今まで、ずっと。

「本当に忌々しい。あなたは大人しく使用人の真似事でもしているべきなのよ! 久堂家なんかに行くから生意気になって……!」

 起き上がれず、床に転がったままの美世の身体に、の足がめり込む。

「い……っ」

 わき腹や肩のあたりを何度か強く踏みつけられ、ようやく足が退いたかと思うと、今度は乱れた髪をわしづかみにされ、頭を引っ張り上げられた。香耶と香乃子のいらった表情が、目の前に並んでいる。

「あなた、久堂さまの婚約者から降りなさい」

「……!」

 継母の口から飛び出した言葉は、美世を凍りつかせた。

「そうよ、おねえさま! おねえさまに久堂さまの妻は荷が重すぎるでしょう。私と代わってくださる?」

 香耶も、ここぞとばかりに身を乗りだす。

 美世はなんとなく、頭の中の冷静な部分で、彼女たちの言い分が理解できてきたような気がした。

 ひつきよう、見下しさげすんでいた美世が、久堂家で上手くいきそうなのが気に入らぬということだ。どうせ結婚までぎつけやしないと高をくくっていたのに、予想に反する結果になりそうで焦っている。

「あなたはどこぞで野垂れ死んでいればよかったのよ。この身の程知らずが」

「……く、ぅ」

 つかまれた髪で引っ張られた頭皮が痛い。最初に張られた頰も、熱を帯びてずきずきする。かすかな血の味は……口の端でも切ったらしい。

「いいこと? あなたのほうから久堂さまに縁談をお断りするのよ。こんな高価な衣装を買ってもらうお願いができるのだから、縁談をなかったことにするようにお願いするのも簡単でしょう」

「安心なさって、おねえさま。私がそのあとに久堂さまと婚約するから、そうしたらおねえさまには幸次さんを返してあげるわ」

「…………」

 ここで諦めてしまうのは、きっととても簡単。

 奪われても、文句のひとつも言わない。少しでも早く嵐が去ってしまうように。そうやって生き残ってきた。そのほうが楽だった。何かに執着して痛みや苦しみが長引くほうが、美世にとっては一大事だったから。

 今だって、同じようにさっさと諦めて、清霞の婚約者の座は譲るとひと言告げれば解放されるはずだ。

 また使用人のように、心をかたく覆って、ひとりで何でもやって。低い地位に甘んじて生きていくほうが波風もたたない。前はそう考えていたと、いうのに。

「……で、す」

「あら、なあに?」

「ぃ、や……です」

 譲れない、と思ってしまった。あの家を、あの人を。手放せない。

 母の形見だって、奪われてもしばらくしたら諦めた。でも、あの人の隣にいるのは美世でありたい。誰にも、譲りたくない。

「そんな、お願いは、できません」

 美世は痛みをこらえて、真っ直ぐに二人のほうを見た。その瞳はもう揺らぐことなく、顔を背けもしない。

 継母は美世のそんな態度に、余計に表情をゆがめる。髪を鷲掴む力を強め、ぐ、と引き寄せると、また扇子で張り倒した。

「口ごたえしないでちょうだい!」

 床板に倒れ込んだ拍子に肩を強打し激痛が走ったが、歯を食いしばって耐える。

「立場を考えなさい! あなたは出来損ないよ。香耶と違って、見鬼の才もなければ、長所のひとつもないじゃないの。そんな家の恥のあなたを久堂さまの妻になんて、初めからどうかしていたのよ!」

「おねえさま、どうしてしまったの? いいじゃない、この斎森のおうちも、幸次さんも手に入るのよ? おねえさまはそれをずっと望んでいたでしょう」

「わたしは……」

 もう何を言われても、自分の意思を曲げない。

 恐怖もおびえも全部吞み込み、心の奥に隠す。美世は真っ向から、継母と異母妹の二人をにらんだ。

「わたしが、だんさまの、久堂清霞の婚約者です。絶対に、譲れません!」

 美世の叫びに、香乃子は真っ赤になって再び手を振り上げた。



   ◇◇◇



「着いたぞ」

 清霞の運転していた自動車はいつの間にか、斎森家の門の前に横付けされている。

 幸次は清霞に続き慌てて外に出ると、並んでその大きな門を仰いだ。

 すでに日も傾き、空には暗雲が立ち込め、余計にあたりを薄闇に染めている。その中で、固く閉ざされた古めかしい門が妙な存在感を放っていた。

「どうするんです? 普通に声をかけても、知らないふりをされたら──」

「問題ない」

 ほんのわずかなちゆうちよもなかった。

 端的な返答とともに清霞が片手をかざすと、せつごうおんせんこうが視覚と聴覚を覆い、奪う。

「く……っ」

 すぐそばに雷でも落ちたのかと思い──、

 ──いな、落ちていた。

 まずきゆうかくが、木が焼けた焦げ臭さを拾う。次いで、短い時間だがしていた視覚が戻ってきて、真っ黒に炭化し、裂け、崩れ落ちた「門だった何か」を映す。

 すさまじい威力の異能。

 雷を操る異能だろうか。聞いたことはあったが、まさかこれほどのものだとは……想像を軽くりようしている。

「行くぞ」

「あ、……ああ、はい」

 あつにとられたばかりか、かすかなさえ抱いた幸次は、慌てて後をついていく。

 そのとき、ちらりと交錯したひとみの奥に、激しい怒りがあるのを見た。清霞の青みがかった薄い色の瞳が、まるで真っ赤に燃えているような──そんな錯覚を起こしそうなほどに濃く、強烈な怒気。

(怒って、いる?)

 ずっと、無表情なのは彼が美世を奪われたことに対して、何の感情も抱いていないからだと思っていた。低くへいたんな声音は、彼が冷血な人間であるからだと。

 幸次はその背に問いかけようとして、口をつぐむ。

 今このときに問うたとて、意味はない。どうせ答えなど返ってはこないし、このまま進んでいけば、嫌でも知ることになるだろう。

 様々なものを吞み込んで、幸次は足早に清霞のあとを追う。

 門を破壊した際のてつもない轟音と衝撃は、当然ながら、斎森家の人々にたいそうな混乱を招いたらしい。

 使用人をはじめ、家のあるじである斎森しんいちまでもが、焼け落ちた門を確認してぼうぜんとし、我に返って右往左往する。ずかずかと我がもの顔で敷地内をかつする清霞と幸次を、とがめる者もいない。

 さすがに、真っ先に正気に戻った真一が、ろうばいしつつ声をかける。

「久堂殿……っ! 待ってくれ、これはいったいっ」

「美世はどこだ、斎森殿」

「!」

 は、と息をのんだ真一の顔色は、すこぶる悪い。今にも倒れそうなほど土気色で、冷や汗がとめどなく流れている。

「み、美世は……あの娘は……」

「──美世ならば、もう久堂家には戻らぬ」

 真一の言葉を遮ったのは、後ろからおもむろに歩いてきた実だ。

「父さん! あなたという人は!」

 かっとなって前へ踏み出した幸次を、清霞が制す。

「私の婚約者はどこにいるのか、と聞いている」

「聞いてどうする。美世はもうあなたには会わぬ、戻らぬと言っている」

「本人の意思は本人に聞いて確かめる。言わないなら、そこをどけ」

 清霞と実はじっと睨みあい、両者ともに一歩も譲らない。

 父とは完全に敵対関係となった幸次だが、この震えあがりそうなほど怒りをあらわにした清霞と本気で睨みあえる、その度胸には舌を巻く。同時に、父がどれだけ切実に美世を欲しているかを突きつけられた気がした。

「お断りする。無理にでも通るつもりだというならば、こちらとて黙ってはいられん。私邸に不法に侵入したと通報してもよいのだぞ」

「したければすればいい。力ずくでも押し通る」

 そう宣言した清霞は、けれど何もしなかった。

 腰にいた軍刀も抜かず、異能を使う様子もない。ただ猛烈な殺気をまとい、ゆっくり歩いていく。

 焦ったのは真一と実のほうだった。このまま素通りさせるわけにはいかないと、すぐさま結界で行く手を阻む。だが足止めにもならなかった。

 当代最強とうたわれる異能者は、特別な動きを何ひとつしない。ただ真っ直ぐ歩いているだけ。だというのに、実戦経験もある実や真一の術が、まるで紙でも裂くように次々と呆気なく破られる。

 実際に相対する父たちにとっては、怖いなんて生ぬるい心境では済まないはずだ。

 圧倒的強者への、恐怖、畏怖。

 後ろから追うだけの幸次ですら、血の気がせるのだから。

「……っ、さすがは久堂家当主か……」

 ついに清霞は実と真一、二人の異能者の目前に達する。切羽詰まった彼らは各々、まったく別の動きをした。

 殴りかかった実は腕をとられてそのまま投げ飛ばされ、半歩後ろに下がった真一は清霞の鋭い眼光を正面から受け止めると、へなへなと座り込んでしまう。

 戦いにすら、ならない。

 大人と子どもどころか、大人と赤子ほどの実力差。

(ありえない、これは……)

 同じ異能者として任務を経験した者同士で、これほどまでの差があるというのか。

 もはやせんぼうする気も湧かない。何もかもをいとも容易たやすく破壊し、打ち倒す清霞の姿は、幸次の目には噂通りの冷酷無慈悲な魔神のように映った。

 一方で、味方であるならこれほど心強い人物はそうそういない。

 幸次は地に伏す己の父親と、幼なじみの父親の様子をちらりとうかがう。が、すぐにいたたまれない気持ちになり、慣れた斎森の屋敷内を進んだ。

 屋敷は広い。木造平屋建てで、中は長い廊下が張り巡らされている。

 どこの廊下を通っていてもほぼ必ず、こぢんまりとした和風庭園を楽しめるように設計されており、ゆえにこの家には中庭だけでも小規模なものが複数存在し、さらに裏庭もある。

 昔はそんな珍しい造りの屋敷に一見の価値ありと、評判であったとも聞く。

「辰石幸次、美世のいそうな場所に心当たりはあるか」

 前を行く清霞が振り返りもせず問う。幸次は慌てて、頭の中でいくつか可能性を挙げた。

「美世が使っていた使用人用の部屋……は、違うな」

 香耶や香乃子が美世のそばにいるであろうことを考慮すれば、ありえない選択だ。彼女たちが使用人の部屋に進んで近づくはずがない。

 では、美世が昔使っていた部屋か。否、あの部屋は美世の実母が使っていた部屋と隣りあっていたはずだから、香乃子が嫌がる。

 そもそも古い家だ。人を閉じ込めるのに適した、完全に区切られた空間はほとんどない。座敷ろうでもあれば別だが──。

「あ……もしかして、裏庭の蔵、かも」

「裏庭?」

「はい、裏庭にほとんど使われていない古い蔵があったはず。もしかしたら」

 あそこなら、外からかぎをかけることもできる。考えれば考えるほど、そこしかないように思えた。

 清霞も同じように感じたのか、ひとつうなずく。

「案内しろ」

「はい」

「いや、待て、……後ろだ!」

 はっとして振り返る。渦巻く炎がすぐそばに迫っていた。

 ──なぜ。

 異能の炎。これは父の異能のひとつだ。必死の形相で追いすがってきたらしい父が、炎の向こうに立っている。

 幸次は、ただ呆然と迫りくる熱を眺めることしかできない。反応が追いつかず、いや、たとえ反応できたとしても防ぐすべがない。

「こんなところで火を出すとは。どこまで愚かになれば気が済むんだ」

 苦々しいつぶやきと同時に、清霞の展開した不可視の壁が、幸次と炎の渦の間を隔てた。

「結界……」

 ひとまずあんしたのもつかの間、結界にぶつかって左右にれた炎は、障子に燃え移ったばかりか、そのまま火の粉をまき散らし、中庭の草木にまでも燃え広がる。

「なんということを」

 幸次は呟き、目を覆いたくなった。

 実の執念の火が、めるように次々と周囲をみ込んでいく。

 木造の家の中で、あれほどの火を出したらどうなるか。幼子でもわかることだ。がくぜんとしていると、何かがはじけるような音とともに、実が倒れた。

 なんとも言えない感情が、幸次の胸に去来する。

 清霞が防がねば、幸次は死んでいた。父は、自分の息子が焼け死んでもかまわなかったのだ。

「軽く感電させて気絶させただけだ。急ぐぞ。もたもたしていると火が回る」

 幸次たちの目的は美世を助けること。父たちと決着をつけることではなく、ましてや消火活動でもない。

 父とはもう、事実上、たもとを分かった。幸次自身、切り替えて進むべきだ。

 幸次が実を完全に見限ったのは、このときだった。



   ◇◇◇



 突如、斎森邸に響き渡った轟音と衝撃。

 それは、離れた場所にある蔵にも伝わっていた。

「なに、今のは……」

 驚きをあらわにする継母と異母妹。

 二人の注意が他方へ向いたことで、つかまれていた手が緩み、美世はひざからくずおれた。

「見てきなさい」

 香乃子が、無言で控えていた使用人に指示する。

 その声がやけに遠くに聞こえる。──美世の意識は、はっきりしない。

 強打した肩は、すでに腕までしびれ、感覚がない。頰を打たれたときの強い衝撃のせいか、時間が経つにつれ、頭ももやがかかったようにぼんやりとしてしまう。

「お前が、何かしたの?」

 継母の美世への呼びかけが、あなた、から、お前、になっていた。そんなどうでもいいことを、どこか、思考の片隅で考えた。

「わ、たし」

 何か、とは、なんだろう。縛られ、閉じ込められている身では、何もできはしないのに。

「お母さま、早くおねえさまに──」

「わかっているわ。言いなさい、『わたしは久堂家との縁談をお断りします』と」

 やはり、継母の声が遠い。

「嫌、で……す」

 頭の動きは鈍く、もうほとんど何も考えられない。それでも、美世は拒否を続ける。

 うなずいてはいけない。たったひとつの思いだけが、美世の中で支えとなり、以前ではありえない反抗的な態度を続けさせた。

「いい加減になさい! 立場をわきまえなさいと言っているのよ!」

 真っ赤な顔で怒る香乃子は、ついにその白い手を美世の首にかける。

 脳裏に、死、という文字が浮かんで、消える。苦しい、とは感じない。けれど、きっとこのまま締めあげられたら、いつかは死がやってくるのだろう。

 ああ、そういえば、前はずっとそうやって命が尽きるのを心待ちにしていた。

 苦しくて悲しくて、だましだまし生きるのにも疲れて。自分の居場所なんて、どこにもないと思っていたから。

 でも違った。居場所は、あったのだ。──あの人のそばに。

「ぜっ、たい……に、言いませ、ん」

 美世の言葉で、香耶の表情はさらにいらたしげにゆがみ、香乃子は手の力を強めた。

 だんさま。わたしは、決して屈しませんでした。謝ることさえ、しませんでした。

 そばを離れたく、ありません。まだ死にたく、ないのです──。

「旦那、さま……」

「美世!」

 薄暗い蔵の中で、自分を呼ぶ声を聞いた。ずっと、ずっと待っていた。一番、聞きたかった声。

「久堂、さま」

 愕然として目をみはる継母の手が離れて、ずるり、と美世は再びその場に倒れこむ。

「美世」

 清霞は周りに目もくれず美世に駆け寄ると、縄を解き、ぼろぼろに傷ついた身体を抱き起こす。

 ──ああ、本当に来てくれた。自分などのために、わざわざこんなところまで。

 美世は涙目でせきみながら、ひどく安堵する。

 清霞のことを疑っていたわけではない。優しい彼なら絶対に、助けにきてくれると信じていた。そういう人だ、この人は。

「だん、な、さま……」

「もう、大丈夫だ」

 苦しそうで、どこか泣きそうな表情は、もしかして美世のひどい有様であろう顔を見たからだろうか。だとしたら、申し訳ない。見苦しいものを見せてしまって。

 でも、これはきっと恥ずべき傷ではない。初めて理不尽に屈しなかった、誇るべき傷だ。美世が家族に対して初めて自分の意思を貫き通した、そのあかしなのだから──。


 腕の中で目を閉じ、意識を失った婚約者を、清霞は大切に大切に抱え上げた。

 それなりの重さがある着物を身に着けているにもかかわらず、彼女の身体は今なお、とても軽い。たたかれたのか、頰にはみみずれが走り、触れるのも躊躇ためらわれる。

 それらすべての元凶たちが、この場にいた。

「……こんなふうになるまで、何をした」

「……っ」

 静かに問いかけると、斎森夫人と娘はびくり、と肩を震わせる。

 これだけのことをしでかして、まさか自分たちは何もとがめられることなく済むと考えていたのだろうか。二人のそうはくな顔面を見て清霞は怒り、あきれた。

「無抵抗の人間にこれほどの傷を負わせてまで、何をさせようとした」

「それは」

 香乃子は何も言えないようで、悔しそうに黙り込む。しかし香耶のほうは、まだあきらめてはいないらしかった。

「私は、悪くありません」

 香耶は顔を上げ、清霞の腕の中の美世をにらみつける。

「私は、ただ、間違いを正そうと、そう思っただけですわ」

「間違い?」

「そうよ、だって、おねえさまが久堂家に受け入れてもらえるなんて、絶対におかしいもの。どう考えても間違いだもの。おねえさまは、何もできないわ。見鬼の才はないし、頭も良くないし、外見もれいではないし。使用人としてだって、使えない。そんな人が、何もしないで私よりも上にいくの? おかしいわよ。何かの間違いでしょう」

「…………」

「お父さまだって、お母さまだって、私を一番だと言うわ。おねえさまと大違いだって。だったら、私が久堂家当主の妻になってしかるべきだわ。辰石のおじさまも、その通りだと言ってくれたもの」

 香耶は本気で怒っていた。間違っているのは自分ではない、反論ではなく正しいことを主張しているだけだと、少しも疑っていない。美世を憎いと感じても、それは決して的外れなえんではなく、自分に当然あるはずの権利を無視されたからだと、彼女の中では結論づけられているのだ。

 両親に歪んだ認識を植えつけられて育ったのだろう。それは同情するが、しかし、だからといってすべてを許せるほど清霞の怒りはぬるくない。

「久堂さま、おねえさまより私のほうが間違いなくお役に立てますわ。すべてにおいて、私のほうが優れていますから。だから──」

「黙れ」

「!」

 鋭く、冷たい眼光でかれた香耶は、さすがに恐怖を覚え、言葉を吞み込んだ。

 聞くに堪えないざれごとだ。自身の行いを正当化するのではなく、心から自身の正当性を信じ、訴えているのが余計にたちが悪い。

「これ以上、お前の話に付き合うのは時間の無駄だ」

「どうして……っ! どうして、わかってくださらないの。ひどいわ!」

 どの口が、ひどいなどと言えるのか。もう、呆れて指摘する気も起きない。

 何より、屋敷のほうの火がここまで回ってくるのも時間の問題ゆえ、ここで無意味な議論を続けるわけにはいかなかった。

「奥さま、香耶お嬢さま! 火事です! 火が、こちらまで……っ」

 様子を見に行かせていたらしい使用人が、ちょうど慌てて駆けてくる。

 そして、それまで沈黙を貫いていた幸次が香耶に近づいた。

「香耶、ここはまずい。香乃子さんも。外へ避難しないと」

「……屋敷が……そんな、まさか」

 香乃子は屋敷が燃えていることにひどく衝撃を受けているようだった。転がるように蔵を出て、黒煙に包まれた母屋を目にし、悲鳴を上げる。

「そんな、そんな……わたくしの家が……!」

 清霞はもはや周囲に構わず、美世の身体を抱えて古びた蔵を出ようとする。その服のすそを香耶がつかみ、引き留めた。

「待ってください! 久堂さま、どうか──」

 うつとうしい。香耶の手を振り払い、殺気を込めて睨む。

「お前のくだらん自慢は、もうたくさんだ。顔だの、才能だの、どうでもいい。私がお前のようなごうまんな女を選ぶことなど、天地がひっくり返ってもありえん。どけ」

 ひるんで後ずさった香耶を振り返りもせず、清霞は足早に蔵を出ていった。


 清霞の後ろ姿に無意識か、それでもなお手を伸ばした婚約者を幸次は止めた。

「僕たちも、早く避難しよう」

「嫌よ、どうして? どうして私があんな」

「いいから、早く」

「触らないで!」

 幸次が腕をとり、無理やりにでも引っ張っていこうとした瞬間、香耶はげきこうした。

「どうしてこうなるの! 私は間違ってないわ!」

「香耶」

 蔵の外では、「こんなことになったのも、すべてはあの娘のせいだ!」と騒ぐ香乃子の声が響いている。

 幸次はいい加減、うんざりした。大きくため息をつくと、強引に香耶を引きずっていく。いやだ、いやだと暴れる婚約者には取り合わず、外でわめく香乃子も強制的につれていくことにする。

「はなして! いやよ、もう放っておいて!」

「うるさい!」

「……っ。何よ、幸次さんはおねえさまが好きなのでしょう!? 私のことなんて構わずに、さっさと逃げればいいじゃない!」

 幸次は完全に頭に血が上っていた。こんな女をどうして助けなければならないのかと、いらいらして仕方ない。でも。

「ああ、そうさ! 君の言う通り、僕が一等大事なのは美世だよ。当たり前じゃないか。でもね、君なんかでも、死んだら美世は悲しむ。また傷を増やすことになるんだ! 君の、君たち家族のせいで!」

 こんな、くず同然の家族に傷つけられて泣きそうな美世を、二度と見たくない。

 だから、幸次は自分にできることをする。嫌いな人間だって、助ける。それが、美世の心の平穏につながるなら。

 基本的に温厚だった婚約者に激しい怒りを向けられ、香耶は黙ってうつむいた。そしてその後、燃え盛る屋敷を脱出するまで、一言も発することはなかった。




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