三章 旦那さまへ贈り物

 朝、いつものようにきよを見送ったは、洗濯をしようと庭へ向かうゆりを呼び止めた。

「どうしました? 美世さま」

「あの、ゆり江さんに少し相談が」

「あらあら」

 なんでしょう、とゆり江はにこにこ笑う。しかも、

「美世さまからご相談だなんて、うれしいことです」

 などと、やけに喜ばれてしまった。

 とりあえず居間に戻り、向かい合って居住まいを正し、話を切り出した。

「実は、旦那さまに、何か贈りたいのです」

「まあ!」

 そう、美世は今かなり深刻に悩んでいる。

 清霞にずいぶん高価なくしをもらってしまってから、ずっと考えていた。

 櫛だけではない。あのあと、手入れのための椿油ももらい、この家に世話になっている日頃からの礼もまだだ。

 言葉で感謝を伝えることももちろん重要ではあるけれど、それだけでなく、気持ちを形にしたいと思った。

 しかし何を贈れば良いのか、まったく見当もつかない。そもそも美世が用意できるものなどたかが知れている。高価でも貴重でもなんでもないものを贈って、迷惑にならないだろうか。

 ひとりで考えても答えが出ず、ゆり江に相談しようと思い立ったのである。

「何を贈ったら旦那さまに喜んでいただけるでしょうか……」

 一応、予算もないことはない。

 さいもり家を出るときに父から渡された金がある。あまり多くないのでいざというときのためにとっておいたのだ。

 ため息をこらえ、美世はまゆじりを下げた。

「予算は本当に少なくて……旦那さまに贈れるようなものを買うほどはないのです」

「はあ、なるほど。そうですねえ。せっかくですから、坊ちゃんが普段使いできるものがいいですわね」

「はい」

「では、ここはやはり美世さまの手作りがよろしいと思いますよ」

「手作り……」

 それは美世も考えた。買えないならば、作るしかないと。

 ただ、昔から質の良い品に囲まれて過ごし、目が肥えている清霞に美世が作ったものなど渡しても、みすぼらしいと思われはしないかと心配だ。

 そう思われたら思われたで仕方ないが、できれば喜んでほしい。

 だって美世はここへきてからずっと、うれしいことばかりだから。

 そう伝えると、ゆり江もさらに笑みを深くした。

「美世さまは本当にお優しいですねえ。大丈夫、坊ちゃんはそのようなことを思ったりいたしませんよ。美世さまがお作りになったものならば、何だって喜ばれるはずです」

「そうでしょうか」

「ええ、そうです」

 力強く肯定されると、不思議と大丈夫な気がしてくる。清霞を育てたといっても過言ではないゆり江がそうまで言い切るのだから、なおさらだ。

「わたしに作れそうなもの……」

「ああ、それでしたら!」

 ゆり江は慌ててどこかへ行くと、戻ってきたときには一冊の本を手に持っていた。

「こちらから選んでみてはどうでしょう」

 受け取った本は女学生向けの、日常使いできる小物の作り方が載っているもののようだった。

(確かにこれなら、わたしにも作れるかもしれない)

 ぱらぱらと流し読みしてみると、着物の端切れなどで簡単に作れるものばかりだし、時間もあまりかからなそうである。

 すべてを打ち明ける前に完成させて渡さなければならないから、あまり凝ったものを作ろうとして失敗するのは避けたい。

「良いのが見つかったらゆり江にも教えてくださいね。協力しますから」

「はい。ありがとうございます」

 本はいつたん、邪魔にならないところに置いておく。

 午前中、ゆり江とひと通りの家事を終えてから自室にこもり、美世はあらためて贈り物の吟味を始めた。

「すごい……きれい」

 美しい手描きの挿絵が入った本の頁をめくる。華やかな小物たちの作り方がわかりやすく描かれていて、見ているだけでわくわくしてくる。

きんちやくは手軽ね。手巾ハンカチもいいかもしれないわ」

 思ったよりも種類が豊富でついつい目移りしながらも本を眺めていると、ある頁で手が止まった。

「これ……」

 組みひもだ。

 色とりどりの糸の束で編まれているそれは、絵だけでも美しく目と心を奪われる。いくつもの繊細な図案はどれも、絶対に清霞に似合うだろうと確信を持てた。

 これならば予算も足りそうだし、応用もきく。

(これしかないわ)

 この挿絵のように上手うまくできるかはわからないが、もう他には考えられない。

 ゆり江に報告すると、彼女もその頁を見て大賛成だとうなずく。

 買い出しに行く必要があるので、清霞が帰宅してからお伺いを立てた。

「旦那さま、近いうちに少し出かけても良いでしょうか」

「……どうした。何か足りないものでもあるのか?」

 心なしか、清霞は心配そうだ。先日の、相当な美世の不慣れさを思い出しているのだろう。

「はい。自分で選んで買いたいものができたのです。……だめ、でしょうか」

「いや、そういうわけではないが。ひとりで行くのか?」

「昼間にゆり江さんと行こうと思っています」

 さすがに美世もひとりで外出する勇気はないので、昼間のうちにゆり江にはお願いしてある。二つ返事で、快く承諾してくれた。

「危なくはないか」

「平気、だと、思います」

 美世はなんとか納得してもらうため、こくこくとうなずく。

「……私が一緒ではいけないのか」

 依然として、けんに深いしわを刻む清霞。心配はありがたいが、当の清霞に知られてしまうのは気恥ずかしいし、忙しい彼を付き合わせてしまうわけにもいかない。

「あの……はい。ですが、大丈夫です」

「そうか」

 息を吐いた清霞が、少しばかり残念そうだったのは気のせいに違いない。

「気をつけて行ってこい。知らない人間にはついていくな」

「……わかっています。旦那さまはおおです」

 子どもではないのだから、さすがにそのくらい美世にもわかる。

 安い糸を買いに行くだけだ。時間が長くかかるわけでもなし、ゆり江もいるのでそう危険なことはない。

 出かける日が楽しみだ。糸を選ぶのも初めてで楽しみであるし、組み紐を編むのも。

 清霞に渡すのは髪紐にしようと決めている。編んだ組み紐を髪紐の形にして贈る。髪の長い彼にはぴったりの贈り物。


 ゆり江と出かける日の朝、真剣な面持ちの清霞から手のひらくらいの大きさの、小さな袋を渡された。

「これは……?」

「お守りだ。今日、持っていけ」

「あ、ありがとうございます」

 どこからどう見ても神社で売っている普通のお守りである。

 たかだか二、三時間の外出に大袈裟ではなかろうかと思いつつ、美世は大切にお守りを帯にしまい込む。

「いいか、絶対に忘れるな。肌身離さず持っていろ」

「はい」

「本当にわかっているのか?」

「も、もちろんです」

 清霞が心配してくれることがうれしくて、つい頰が緩んでしまっていたようだ。慌てて手で口元を押さえる。

「まったく……」

 眉間にしわを寄せ、ふい、とそっぽを向いた清霞は、美世からかばんを受け取ると、そのまま出勤したのだった。



   ◇◇◇



 最近、家の中の空気が悪い。たついしこうは、これまでの人生で、最もゆううつな生活を送っていた。

 辰石家の当主である彼の父の機嫌が悪いことが、ひとつの大きな原因だ。

 書斎の前を通りかかると必ずといっていいほど、怒声や物の壊れる音がする。

 思ったように物事が進まずいらっているらしいが、本来そうして激怒したいのは自分だと幸次は思う。

 いらいらと落ち着かない父に、跡継ぎのくせに「よくやるなあ」などと言って、我関せずといった態度の兄。母はすっかり引きこもっていて当てにならず、使用人も父の機嫌を損ねないようにと気を張っているため、余計に屋敷の雰囲気が悪化する。心休まるときがない。

 幸次はよく穏やかであると人に言われる。実際、滅多に怒りを誰かに向けることがない。けれど、そういった激しい感情を抱かないわけではない。

「ねえ、幸次さん。お買い物に付き合って?」

 ──ああ、これだ。

 ねこで声で近づいてくる婚約者。

 父のことも頭にくるけれど、こんな女と結婚してこの先何十年も共に過ごさなければならないかと思うと、気分が悪くなる。

 幸次は幼い頃から美世のことが好きだった。

 大人しくて優しく、家族のひどい仕打ちに耐える強さもあって。そんな彼女の輝きにかれた。たまに会って、弱々しい、泣き出しそうな顔をする彼女を目にすると、自分が守ってあげなければと強く感じた。

 彼女は長女で自分は次男。家同士も交流があり、将来一緒になれる可能性は低くなかったはずだ。それなのに。

 ふたを開けてみれば、幸次の婚約者は美世を虐げていたに決まり、美世は家を追い出され手の届かないところへ行ってしまった。

 おまけに当初の父の予定では、美世は兄に嫁がせる気だったという。誰も彼もがあの子をぞんざいに、道具のようにしか見ない。

 だから幸次にとって実家である辰石家も、美世を粗雑に扱って捨てた斎森家も本当は忌々しくて仕方がなかった。

「買い物? わかった、いいよ。行こうか」

 それでも、幸次は婚約者に笑顔を向ける。

 どろどろとしたものを腹のうちに抱え、しかしそんなことはおくびにも出さず、好青年の『辰石幸次』のままでいる。

 理由は単純だ。もし幸次が香耶との婚約を拒否し美世を選んだなら。きっとあの無駄に自尊心が強い香耶やその母親のの矛先は、美世に向く。それで美世の身に何かあったらとても耐えられない。

 だから誰よりも近くで斎森家を見張る。絶対に幸次の大事な人へ害が及ばないように。

(美世を守れるのは僕しかいない)

 幸次は自分の中の決意を今一度確かめると、本心を押し殺して香耶に寄り添った。



 人通りの多い、やや細い道をはぐれないように注意して歩く。

 美世はゆり江と、予定通り街へやってきていた。今いる場所は、モダンな建物が並ぶ目抜き通りから少し外れた、昔ながらの店が集まった一画である。

 自動車を使わずとも、三十分もあれば家からは歩いて来られる距離で、ゆり江に合わせてゆっくり歩いても、四十分ほどで着く。目当ての手芸用品を扱う商店へは、ゆり江が案内してくれた。

 美世は裁縫をするけれど、使用人扱いになってからは、材料は余り物の布や糸しか使ったことがない。こういった店を訪れるのは初めてだった。

「わあ……すごい」

 いろいろな色や柄の糸や生地、針にはさみなどの道具類まで、ずらりと並んだ店内は、静かで落ち着いた雰囲気ながら、目に鮮やかなきらびやかさで心が躍る。

 どちらかというと雑貨店に近く、年配のご婦人方もいれば、楽しげに品定めする女学生たちもいる。

「さあ美世さま、どれになさいます?」

「ええと、そうですね」

 清霞の好きな色は何だろう。いや、ここは彼に似合う色を選ぶべきか。

だんさまはきっと、あまり派手な色は好まれないわね)

 清霞のあの薄い色の髪には、濃い色の髪紐がいい。黄色や明るい赤などは避けたほうが無難だろう。

 紺やあいは似合うだろうが、似合いすぎて逆に普通だ。清霞は普段は黒い髪紐を使っていたので、それと似た雰囲気になってしまう。

「どうしよう、迷ってしまうわ……」

 にこやかなゆり江に見守られつつ、美世は真剣に悩んだ。

 けれど悩んでいる時間も、ちっとも苦に感じない。特別で、幸せだ。

 自分から誰かのために何かをする、なんて、これまでは考えもしなかった。命じられたことを淡々とこなし、理不尽に耐える。それだけが美世の生き方だったのだ。

 誰かの喜ぶ顔を想像して何かをすることがこれほど楽しいとは知らなかった。

 たとえ長くは続かないとしても、こんな幸せな時間を味わわせてくれた清霞には感謝しかない。

 糸を選びながら、美世は自然に微笑んでいた。

 しばらく悩んで、ようやく選び終えた頃には時計の針はだいぶ進んでいた。これから真っ直ぐ歩いて帰ると、家に着くのは昼過ぎになるだろうか。

 会計を済ませ、代金が足りたことにあんしながら、二人は商店を出る。

「良い色が見つかって、本当によかったですねえ」

「はい。今から編むのが楽しみです」

 これだと思う色の糸を見つけたのだ。

 早くかみひもを作って清霞に贈りたい。美世でも買える安い糸で、素人が初めて作る贈り物だから、もらっても、うれしい物ではないかもしれない。

 それでも、彼がいったいどんな顔で受け取ってくれるのか、ついつい期待して心臓がせわしなく動く。ふわふわと夢見心地で足取りが軽くなり、少しだけ体温も上がっている気がした。

「ああ、そういえば!」

「ゆり江さん?」

 並んで歩いていたゆり江が、ふと立ち止まって声を上げる。

「美世さま、ゆり江はお塩を買ってまいりますから、ここで少しお待ちくださいな」

「塩?」

 ああ、確かに、と美世も思い出す。

 台所の塩が切れそうになっていた。しかも手違いでしばらく届かないらしく、それまでもつか少々心もとない状態だったのだ。

 幸いすぐ近くで買えるようだし、ゆり江が思い出してくれてよかった。

「あまり時間はかけませんからね」

「わたしが行ってきましょうか?」

「いえいえ、美世さまはここで」

 これはゆり江の仕事でございます、譲りませんよと笑い、ゆり江は行ってしまった。

 少しだけ躊躇ためらって、やはり一緒に行くべきでは、と思ったときにはすでにゆり江の姿は見えなくなっている。

 美世は道に並ぶ街灯のそばに、邪魔にならないよう立った。

 目の前を大勢の人々が通り過ぎてゆく。さっきまでわくわくとしていた気持ちが、ひとりになると急にしぼんでいった。

(なんだか、心細いわ……)

 行き交う人々を眺めていると、立ち止まっている自分がぽつんと取り残されているような心地になって、また違う意味で落ち着かない。

 早くゆり江が戻ってこないかと、彼女が向かった店のほうをうかがっても、あまりよくは見えずわからない。あきらめて足元に視線を落とした。

 ──そのとき。

「あら、おねえさまじゃない」

「……!」

 ぞくり、と背筋を走る悪寒。

(まさか)

 この甘ったるい声を、美世が聞き間違えるはずがない。斎森の屋敷にいたときはこの声が聞こえるたびに身を固くしていたのだから。

 ああどうして、こんな市街地まで出て来たら会ってしまうかもしれないと、もっと早くに気づかなかったのだろう。

 街のけんそうが一瞬にして遠ざかり、すっと血の気が引く。

「か、香耶……」

 振り向くとすぐそこに、幸次を伴った香耶がれいな笑みを浮かべて立っていた。

 久しぶりに目にした、半分血のつながった妹はやはり、とても綺麗だった。相変わらずの華やかなようぼうあんず色の地に百合の柄の初夏らしい単衣ひとえを、涼しげに着こなす姿。上品な所作は見るからにお嬢さま然として、人の視線を引きつける。

 純粋でけがれなど知らない天女のような笑みは、通りすがりの男性たちの目をことごとくくぎづけにしていた。

 けれど、そんななお姫さまの口から飛び出す言葉にたっぷり毒が含まれているのは、美世が一番よく知っている。

「ふふ、まさかこんなところで会うなんて。意外だわ。だっておねえさまがまだ生きてらっしゃるなんて、考えたこともなかったもの」

 どこぞで野垂れ死んでいると思っていたわ、と。口元は優しげな笑みを浮かべながら、ひとみにはあざけりの光が浮かぶ。

 もし香耶の声が聞こえなかったならば、きっと、綺麗なお嬢さまが顔色の悪い貧しそうな女を気遣っているように見えるだろう。

 香耶の外面はかんぺきで、その美しい容姿や甘い声に、皆、ころりとだまされてしまうから。

「ああでも、変わらずそんなみっともない格好でうろついているのだもの、どうさまには捨てられてしまったのね? 可哀そうなおねえさま」

「そ、んな……ことは」

 口の中がからからに乾き、頭も真っ白になってしまって、とつに言葉が出てこない。

「香耶、やめ──」

 香耶の隣にいた幸次が、焦って身を乗り出そうとする。

「幸次さんは口を出さないで」

 笑顔のまま、香耶は幸次のほうを見もせず、強い口調で切り捨てた。その表情は、次は何と言って美世をおとしめようかと楽しんでいるようでもあった。

 こんな人通りのある場所で滅多な手出しはされないはず。

 そう思っていても、美世は長く植えつけられてきた恐怖で身がすくんでしまう。じっとこらえてやり過ごすしか、対処の方法が思い浮かばない。

「まあ、仕方ないわよ。なあんにもできないおねえさまが、久堂さまと釣り合うわけがないもの。追い出されてしまったとしても、当然の成り行きね。命があるだけもうけものかしら?」

「…………」

「それとも、もう死んだほうがまし、と思うような目にでも遭ってしまった? 私には想像もつかないけれど」

 くすくす、くすくすと愛らしく香耶が笑う。久々に異母姉を見下すことができて、機嫌を良くしたらしい。これ見よがしに幸次にしがみつくと、うつむいて震えることしかできない美世をわらう。

「もういいよ、行こう香耶」

「幸次さんは黙っててって言っているでしょう。おねえさま、もしお金に困っているなら言ってちょうだいね? 地べたにいつくばって必死にお願いするなら考えないでもないわよ」

「……っ、わ、わたし」

 何か、言い返したい。

 美世が香耶に反論するなんて、斎森家では許されなかった。でももう言ってもいいではないか。美世は斎森家を出された。そしてきっと二度と戻ることはない。

 何年も理不尽に辛酸をめさせられた、そのまりに溜まった恨み言をこの際ぶつけてしまえばいいではないか。そういう気持ちも、あるのに。

 どうしても、香耶に歯向かう言葉が出てこない。

「あら、やっぱりいつものだんまり? どこへ行っても変わらないのね、おねえさまは」

「も、……申し訳、ありません」

 変われない自分に、一番がっかりしているのは美世自身だ。

 謝るなと清霞に叱られてから、少しずつ変われたと思っていた。けれど妹を前にしただけで身体が震え、頭を下げている。

 何よりも、恐怖に支配されてしまい、どうしようもない。握った手が白くなり、視界がじわりとにじんだ。

 清霞やゆり江の優しさに触れて、もろくなってしまった心の壁が今にも崩れ、涙があふれそうだった。

(でも、ここで泣くわけにはいかないの)

 香耶に隙を見せることはできない。こんな、弱くなってしまった姿をさらせば、彼女を喜ばせるだけだ。

「美世さま」

 背後からかけられた声にはっとする。振り向くと、買い物から戻ったゆり江が立っていた。

「お待たせいたしました。こちらの方々はどちらさまでしょう?」

「そ、それは」

「こんにちは。貴女あなたはおねえさまの同僚の方かしら。私は斎森美世の妹の香耶と申します。いつも姉がお世話になっております」

 首を傾げるゆり江に、香耶は人好きのする、柔らかい笑顔を向ける。これを見た者は何の疑いもなく香耶を心優しい性格だと思い込む。

 ああ、これでゆり江も、美世を見捨てて香耶の味方になってしまうのだろうか。もしかしたら──清霞もいつかは。

(嫌。それだけは……絶対に嫌)

 どうしたら、つなぎとめられる?

 どんなに必死に考えを巡らせても、そんな方法は思いつかない。美世が香耶より勝っているところはひとつもなく、誰かを引き留めて振り向かせるための何かをいだせなくて。

 しかし暗い穴に閉じ込められたような心地の美世を、救い出す手があった。

 無意識にしゆくし、丸まっていた美世の背中に、ゆり江の手がそっと当てられる。

「初めまして、ゆり江と申します。わたくしのような者が美世さまの同僚などと、とんでもないことでございます。美世さまはわたくしのあるじの奥方になられる大切なお方ですもの」

 背中に感じるゆり江の手のぬくもりで、息をするのが少し楽になる。

「奥方、ですって?」

 香耶は目を見開いて、驚きをあらわにする。

「はい。美世さまは、わたくしがお仕えする久堂清霞さまの未来の奥さまでございますから」

「な……!」

 ゆり江の声はいつもよりりんとして揺るぎなく、誇り高さすら感じられた。それは、香耶をわずかにひるませるほど。

「あ、あら。久堂さまはおねえさまのような人が妻で満足なさるの? ずいぶんとお優しいのですわね。それとも、単に興味がおありでないだけかしら? ちまたの評判はやはり当てになりませんわ」

 そでで口元を隠し、香耶は表情を取り繕う。さすがにそう簡単に化けの皮はがれない。

 だが、ゆり江の前で堂々と美世の悪口を言う気は起きなかったようだ。

「では、おねえさま。ごあいさつは済みましたし、私はこれで」

 ふふふ、と顔だけ穏やかに微笑んで、幸次の腕を引っ張って歩いて行ってしまう。

 美世は詰めていた息を吐き出す。ようやくこわっていた身体から力が抜けた。

「美世さま、帰りましょう」

「……はい」

 穏やかな口調でうながすゆり江のほうを、美世は見ることができなかった。

 妹に好き勝手に言いたい放題言われ、それに言い返すこともせず、ただうつむくだけの情けない自分の姿を、ゆり江はきっと目にしたはず。

 そして清霞の婚約者としての美世に、不信感を持ったのではないか。

 香耶からの暴言の数々について、今さら思うことはあまりない。どれもわかりきったことだ。言い返せなかったのは悔しいけれど、だからといって後に引きずるほどでもない。

 でも、ゆり江に失望されるのは怖かった。

 自分が清霞の妻に相応ふさわしくないことなど重々承知しているはずなのに、ゆり江や、話を聞いた清霞から「相応しくない」と突きつけられるのが怖い。

 もう清霞への贈りものについて悩んでいたときの、どきどき、ふわふわしていた気持ちは地の底へ沈んでしまった。

(嫌い。こんなわたしなんて、大嫌い)

 美世は家まで黙って歩いた。

 ゆり江も何かを察したのか話しかけてくることもなく、二人で黙々と歩を進める。

 自分のつま先ばかり見ながら、にぎわう大通りを過ぎ、街を出て、田舎道を抜ける。重苦しい美世の心中と対照的に、暑いくらいに日差しが照って、周囲が田畑ばかりの道はひどく長閑のどかだった。

 そうして家に着いたとき、やっとゆり江が口を開いた。

「美世さま、すぐにお昼ご飯にしましょうね」

「……いえ、わたしはいいです」

「美世さま?」

「今日は付き合ってくださってありがとうございました。ゆり江さんも、もう休んでください」

 目は合わせられなかった。ゆり江の瞳にどんな色の光が浮かんでいるのか、目の当たりにするのがおそろしくて。

 美世は玄関にゆり江を置き去りにして自室に向かう。ふすまを閉めて力なく座り込み、なんとなくぼうっと、畳の目を眺めた。

(……わたしはつくづくだめね)

 どうして、こんなにも。こんなにも、いろいろなことができないのだろう。多くの人より、異母妹より、劣るところばかりなのだろう。

 自分がどうしようもなく情けなくて、どんな顔で過ごせばいいのか、わからなかった。



   ◇◇◇



 ちょうど、美世が家に帰りつく時刻。清霞は彼女の実家、斎森家を訪れていた。

 美世が出かけると聞いて心配ではあったが、ひとまずゆり江に任せ、清霞自身は斎森家と話をつけるために仕事を休み、こうして出向いたのだ。

 斎森家は帝都の一角、裕福な家の屋敷が立ち並ぶ中でも、目立って大きな屋敷を構えている。

 清霞の実家である久堂家の本邸は先代が建てた西洋風の豪邸だが、斎森家は純和風。おそらくは帝が、時代の移り変わりで旧都から帝都へ居を移された際にはすでにここに建っていたのだろう、古さはあるものの、品の良いたたずまいだ。

 ──もっとも、外見と違い、中の住人は腐りきっているが。

 すでに門の前には使用人が待ち構えており、妙に恭しい態度で清霞は中へと通された。

「お待ちしておりました、久堂殿」

 玄関では、斎森家当主斎森しんいちが自ら出迎える。

 表情でも態度でも、あからさまにすり寄ってくる様子は見せないものの、それがご機嫌取りであろうことは明白。

(大した歓迎ぶりだが)

 わかっているのだろうか。清霞が、自分たちが長年虐げてきた娘の婚約者だと。

 今さら清霞と良い関係を築こうなどと考えているのなら、これほどおかしいことはない。

 とっくの昔にこの家の人間に対する評価など地に落ちている。

 彼らからすれば美世の存在は、清霞を含めた誰しもが軽んじて当然、という認識なのかもしれない。または、ていよく追い出して満足し、すっかり忘れている可能性もある。

 どちらにしろ、吐き気がするくらい気分が悪い。

「……突然のことにもかかわらず、歓迎、痛み入る」

 気を抜けば爆発してしまいそうな負の感情をなんとか押しとどめ、表情を取り繕う。さすがに愛想よくはできそうにない。

「こちらこそ、久堂殿にわざわざ足を運んでいただけて光栄に思います。さ、どうぞ中へ」

 真一にうながされ、清霞は廊下を歩きだす。

 その際、すれ違った彼の妻、香乃子をちらりと視界に入れた。

 夫の斜め後ろでしとやかに振る舞う姿からは、あまり多くのことは読み取れない。が、貞淑な妻の皮をかぶり、その実、美世にひどい仕打ちをしていたかと思うと不快さがいや増す。

 客間に通され、向かい合って座る。手入れの行き届いた中庭には、背の低い松などが植えられており、しっとりとした青さが目についた。

 先に口を開いたのは真一のほうだった。

「して、久堂殿。今日はどのような用件でしょう?」

「……あなたの娘の、美世のことだ」

 真っ直ぐに視線を合わせて告げると、真一はわずかに肩を上げ、まゆを寄せた。

「あの娘が、何か?」

(何か、だと?)

 こんな間抜けな問いがあるのか。真一は自分たちが非難されるなど、夢にも思っていないような顔をしている。

「私は彼女と正式に婚約し、ゆくゆくは結婚しようと考えている」

「……そうですか」

 いささか妙な間はあったものの、動じることなく真一はうなずく。

 だが隅に控えていた香乃子は目を見開き、ひゅっと息を止めたように見えた。

「ついては、我が家とこちらの家との関係を、はっきりさせたほうが良いと考える」

「ふむ。関係、と申しますと?」

「本来であれば、我々のような立場の人間の結婚は、相応の利害関係によって成立する。だが私はこの結婚で、あなた方へ何らかの還元をすることに少々、抵抗がある」

 回りくどい言い方になってしまうが、ここは仕方ない。

 まさかはっきり言うわけにもいくまい。お前たちにいい思いをさせるわけがないだろう、とは。

「それは、どういう意味でしょうか」

「わからないか?」

 だんだんと清霞の視線が鋭くなる。

 真一の目が左右に少しばかり泳いだ。

「この縁談での我が家への見返りはない、ということでしょうか? しかし──」

 言い募ろうとする彼を、片手をかざして制す。

 本来ならばこのまま、美世にも知らせずに縁を切らせたいところだ。もう一切、彼女に、そして彼女が嫁ぐ久堂家に関わるなと、誓約書でも書かせて。

 けれどそれでは、これからの美世の心は救えても、これまでの美世の心が報われない。

 そしておそらく、これから先ずっと、美世がこの家での思い出にとらわれてしまう原因になる。だから。

「条件がある」

「…………」

「もしもあなたがたが、美世に面と向かって心から謝罪するというならば、結納金を多めに用意するくらいはしよう」

 真一が表情を変えないまま、ぐっと手を握りしめるのが見えた。香乃子のほうは歯ぎしりでもしそうな、心底気に食わぬといった表情だ。

 調べたところ、斎森家は異能を受け継ぐ家としてはこれから下り坂になる。

 家を支えていくべき香耶は見鬼の才はあれど、さほど強力なものではない。今後、香耶の子がよほど強い異能を持って生まれない限り、帝から命じられるお役目を果たしていくのは難しくなるだろう。

 地位や財産こそ、今までの蓄えでなんとか急激な転落は免れているものの、このままでは傾く一方。交流のある辰石家にしても似たような危機に直面しており、支えあうこともできない。

 先のことを考えれば、金でもなんでも、もらえるものならもらっておきたいというのが真一の心情であろう。

「謝罪、など」

「したくないならば無理にとは言わない。これきり、縁を切るだけだ。ただし、あなたがたが美世に何をしたか、こちらはほぼすべて知っているということは覚えておいてもらいたい」

 香乃子が「あなた……っ」とすがるように真一を見る。

(自業自得だろうが)

 義理の親子とて、上手うまくやっている者も多い。

 この家の者たちも、子どもに罪はないと割り切って、良好な関係を築くことはできたはずだ。自分たちのうつぷんのはけ口のように、美世の人生をゆがめた罪は重い。いまさら取り繕ってどうにかなるものではない。

 清霞がじっと見守る中、真一は一度きつくひとみを閉じ、その額には汗が浮かぶ。そして、うめくように口を開いた。

「少し、考えさせてほしい」

 それが、彼の出した答えだった。

「了解した。だが、長くは待てない」

「……はい」

 清霞はもう不機嫌を隠すこともなく、立ち上がる。

 いらちからか肩を震わせる真一は、清霞を見送りに出ることはなかった。


 斎森香耶がひとしきり街で買い物を楽しみ、帰ってきて屋敷の門をくぐると、妙な緊張感が漂っていた。

「お客さまかしら」

 どうやら、客人がやってきているようだが、正直、面倒だ。

 今の香耶は少々気が立っている。

 街でばったり再会した異母姉。別に彼女に会うのは嫌ではない。会って嫌みでも言ってやれば、良い憂さ晴らしになるから。

 しかし、先ほどの出来事を思い出し、香耶は顔をしかめた。自分の婚約者であるはずの幸次は異母姉をかばおうとするわ、その異母姉はまだ久堂家を追い出されていないわ。気にくわないこと、この上ない。

 あの身なりからして、異母姉はまだ追い出されていないとは言っても、きっと大事にされず、放っておかれているのだろう。

 そう言い聞かせて落ち着こうとしても、忌々しくて仕方なかった。

「香耶、少し落ち着いて──」

「何よ。幸次さん、あなたはどうせ、おねえさまの味方でしょう。いいのよ、わざと優しい言葉をかけてくれなくても」

 隣を歩く幸次のほうから顔を背け、香耶は口をとがらせる。

 幸次は黙って肩をすくめた。

(どうして黙るのよ! ここは「そんなことはないよ」って否定するところでしょう!)

 頭でもでて、甘やかしてくれたら許してあげるのに。やはり、こんなに気が利かない幸次との結婚は、考え直したほうがいいかもしれない。

 内心で悪態をついていると、その婚約者が「あっ」と声を上げた。

「なに……あら? あのかたがお客さま?」

 香耶と幸次が玄関に足を踏み入れたところで、ちょうど客間から背の高い男性が出てくるのが見えた。

 軍服を着ている。若いようだが、しようを見るに相当地位が高そうだ。

 失礼のないように軽く会釈をする。すれ違いざま、ふと目線を上げると男性のそれと一瞬、交錯した。

(なんて、れいな人)

 すっと細められた目は鋭く冷たくて、射られたように身体がすくんでしまったけれど、おそろしいまでのぼうだった。

 細身で優雅なたたずまいだが、頼りなさを感じさせない。彼の踏み出す一歩一歩が、洗練されていて目が離せない。

 香耶はしばし、ぼうっと男性の長い髪が揺れるその背を見送った。


 斎森家の屋敷を辞し、職場に寄ってから清霞が帰宅すると、なぜかまだゆり江がいた。いつもならとっくに帰っている時間だ。

 ゆり江の隣には美世もいて──けれど、何やら様子がおかしい。

「おかえりなさいませ、だんさま」

「坊ちゃん、おかえりなさいませ」

 やはり、美世はどこかうわの空で、そんな彼女にゆり江がもの言いたげな視線を送っている。

 二人の間には、ぎくしゃくした空気が流れていた。

「ただいま。……どうかしたのか?」

「それが──」

「いえ」

 ゆり江が話そうとしたところを、美世が遮るように否定した。

「申し訳ありません。何もありません」

「美世さま」

 ゆり江がとがめるように名を呼び、清霞は眉をひそめる。

 美世と、視線が合わない。最近は顔を上げていることが多くなっていたし、話しているときにもよく目が合っていたのに。まるで、初めの頃に戻ったようだ。

「何か、あったのか?」

「本当に、何もありません。失礼します」

 いつもならこのまま二人で夕食をとるところだが、美世は軽く頭を下げると自室へとこもってしまった。

(これは……何かあったな)

 残ったゆり江のほうをうかがうと、ゆり江は悲しそうにうな垂れた。

「坊ちゃん、申し訳ありません。ゆり江がついていながら」

「もしや、出かけた先で何か?」

「はい……」

 用事は滞りなく済んだこと。けれど、ゆり江が少し離れた隙に、美世が異母妹に会ったこと。その異母妹の態度がやけに居丈高だったこと。

 ゆり江の話す内容に、清霞は思わず舌打ちしたくなった。

 まさか、自分が斎森家と話をつけようとしている間にそんなことになっていたとは。

 斎森の屋敷で香耶とすれ違ったときに何か言ってやればよかった。これでは本末転倒もいいところだ。

「それで美世さま、旦那さまがおかえりになる直前まで、今のようにお部屋にこもりきりだったのです。ゆり江は心配で心配で、帰るに帰れませんでした」

 清霞はまだゆり江に、美世がどのように斎森家で生きてきたかを話していない。

 別にゆり江に話さないでおこうと考えていたわけではない。ゆり江は美世と一緒にいる時間が長いのだから、当然、話して力になってもらうつもりだったのだが、まさか。

 清霞は自分が出遅れたのだと悟った。──そして、無力さを実感した。

(私も、まだまだだな)

 こんなとき、どんな声をかけて、どうやって支えたらいいのかもわからないのだ。

 今まで、何度も結婚の機会をつぶしてきたが、もしかしたら本当は、清霞自身が結婚に向いていないのかもしれない。こんなときに戸惑うばかりで何もできないから、冷たいと言われるのかも。

 だがもしそうでも、美世を守りたいと、思う。

 あの、くしを贈ったときのような、な笑顔を見たいから。

「どうしたら、自信を持ってくれるのだろうな」

 ぽつりとつぶやいた清霞に、ゆり江は「そんなこと」と笑う。

「決まっています、坊ちゃん。女は、愛されて自信をつけるのですよ。ですから坊ちゃんが今よりさらに、わかりやすく愛をお示しになって、大事にしてさしあげればきっと美世さまも心強いはずです」

「…………」

(愛、か)

 果たして清霞が美世に抱いている感情がそう呼べるものなのか。自分でもよくわからない。

 ただ、この先どうしたいか、清霞の考えを伝えることはできる。

「それで、元気になってくれるなら」

 いくらだって、言葉にしよう。

 時間が遅くなってしまったので自動車でゆり江を送り、戻ってきた清霞は美世の部屋の前に立った。

「私だ。少し、いいか?」

 呼びかけると、す、と少しだけふすまがあき、隙間から美世の姿がのぞく。

「申し訳ありません、旦那さま。ほんの、わずかな間で構いません。わたしのことは、放っておいてくださいませんか」

 清霞の予想に反し、彼女の声はしっかりしていた。震えてもいなければ、涙声でもない。静かに、落ち着いている。

 が、普段よりは低く、美世が沈み込んでいるのがすぐにわかった。

「少し、話を聞いてほしいだけだ。それも、だめか?」

「申し訳ありません」

 うつむいている美世の表情はよくわからない。

 しかし、彼女が謝罪を口にしながらも、ここまではっきりとした意思表示をするのは珍しい。

 清霞はかたくなに上げようとしない、小さな頭を見下ろし、息を吐く。傷ついた者に無理強いは禁物だ。

「そうか。ならば仕方ないな」

「家の仕事は、ちゃんとします、ので」

「……気にするな」

 ご迷惑をおかけします、と美世は軽く頭を下げる。

「ひとつだけ、言っておくが」

 襖をひく手が止まる。

「お前が悩み、抱え込んでいるものは、そのうち気にせずともよくなる。だからあまり深刻に考えるな」

 生まれつきの異能の有無は変えられないかもしれない。それでも、それ以外はあとからいくらでも身につけていける。

 美世が、自分はだめだと決めつけている原因のほとんどは、これからでも解決できるものだ。異母妹や実家のことも。ただ、美世自身の気持ちひとつで変えられるものなのだ。

 清霞のほうはもう、心を決めているのだから。

「私に何か、言いたいことができたらいつでも聞くから」

 本当は今も、美世としっかり向き合って話をしたいが、清霞はぐっと我慢してその場を去る。

 彼女の気が済むまで、少し待つほうが良いかもしれない。

「……はい」

 少し遅れて聞こえた返事は、やはり、大きな声でなくても弱々しくはなかった。

 清霞は着替えも後回しにして書斎にこもると、軽く息をつき、わずかに考えてから、便びんせんと万年筆を手に取った。



 いつの間にか花の季節は過ぎ、鮮やかな新緑が目立つようになった。

 美世と顔を合わせることが極端に減ってから一週間ほど。清霞にとって、とても重く長く感じる日々が続いている。見送りや出迎えはなく、食事は用意されているが、ともに食卓を囲むことはない。

 彼女の姿をほぼ目にすることがない生活は、ひどく味気なく感じられた。家の中の温かみが半減してしまったようだ。

 さらに、斎森家からの回答もいまだなく、清霞を見張る怪しげな式も相変わらず途切れることがない。術者の見当はすでについているが、今のところ直接の接点はなく目的が不明なため、対処を考えているところだ。

 気分が落ち込むようなことばかりの中、清霞は今日も出勤していた。

ゆううつそうですね」

 隊長室で書類整理がてら声をかけてきたのはどうだ。

 少し口元がにやついているのが、うざったい。面白がっているとまるわかりである。

「わかってますよ。珍しく、というか、初めて長続きしている婚約者のことでしょう。あれ、まだ正式な婚約はしてないんでしたっけ」

「…………」

「まさか隊長が女性がらみでこんなに調子を崩すなんて、思いもしませんでしたよ~。何が起こるか、わからないものですねえ」

「……うるさい」

「いやあ、隊長が気に入る女性。あらためて会ってみたいなあ」

「やめろ。冗談じゃない」

「なんで!」

 五道と話していると気が抜ける。まったく馬鹿馬鹿しい。

「五道。わかっているだろうな。明日あしたのこと」

 清霞が確認すると、これでも有能な片腕はにやりと笑った。

「もちろん。明日の昼過ぎに帝都中央駅ですよね。それから車で隊長の自宅へ。報酬の話、忘れないでくださいよ」

「わかっている。くれぐれも頼んだぞ」

「お任せあれ」

 最近、仕事を抜けることも多かった。無論、上に申請し、許可をとって抜けているので後ろめたく感じる必要はないが、五道の負担は確実に重くなっていたので、清霞自身の懐から臨時に報酬を出すことにしたのだ。

 といっても、大衆向けの居酒屋で三晩頼み放題という、安上がりな報酬である。

 明日、美世がどんな顔をするか。少々おそろしいような、しかし何かを期待してしまうような。

 ただ、喜んでくれればいいと清霞は願った。



 美世は、じっとづくえに向かっていた。その手はゆっくりゆっくり糸を編んでいく。

 手順はとっくに覚えたから、やろうと思えばもっと速く手を動かすこともできる。けれど、まだどこかで心の準備ができていない自分がいて、こうしてひとりでいる時間を引き延ばすようにゆっくりになってしまう。

 異母妹のことを考えるのが嫌だった。

 自分はだめな人間だと思い知らされるのにもうんざりした。

 ──だから、清霞のことを考える。

 れいで、優しくて、強い、だんさま。とてもまぶしく、そばには寄れないと思う一方で、彼のそばは居心地がよく、離れたくないと望んでしまう。

 そばにいたいなら、そう言えばいい。そして、相応の努力をすればいい。異能がなくて妻になれなくても、ゆり江のように、使用人としてならいくらでも彼を支えられる。

 どちらにしろ、こうしてずるずると先延ばしにしても何の解決にもならないのは確かだ。

 美世は、ちらりと文机の端に視線を移した。

 そこにはすでに出来上がった、美しいかみひもが置かれている。初心者が作ったにしてはなかなかの出来で、均一な編み目は十分満足のいくものだ。

 そう──本当は、清霞に贈るぶんはもう完成していた。

 今は余った糸で違う図案のものを作っているだけの、ただの時間稼ぎ。

 ため息が漏れる。寝不足で頭が重い。

 この家に来たときから続く悪夢は、今も毎晩のように美世をさいなむ。そうして夜中に飛び起きて、自己嫌悪に陥り、不安で眠れなくなる。

「美世さま、少しよろしいですか」

 もうひとつため息が出そうになったところで、ゆり江の声が聞こえた。

 時刻は昼過ぎ。このところ昼食はとっていないので、この時間にゆり江に呼ばれる心当たりがない。

「……ゆり江さん?」

「美世さまにお客さまです。お通ししてよろしいですか」

(お客さま?)

 思わず手を止めて、首を傾げる。

 自分を訪ねて、この家にやってくる人物などいただろうか。

 実家の者ではないだろう。友人は小学校に通っていたときにはいたけれど、とっくに縁は切れている。他に知りあいはいないし、そもそも美世がこの家にいることを知っている者がいるとも思えない。

「お通し、してください」

 けれど、わざわざ訪ねてきた客人を追い返すなどできず、美世はそう返事をした。

 襖をひく音がして、振り向く。そして目を疑った。

「お久しぶりでございます、お嬢さま」

 驚きが大きすぎて、声が出ない。

 最後に見たときよりもだいぶ年をとったように見える。しかし間違いなく、美世がよく知る人物だった。

「は、はな……」

「はい。──大きくなられましたね、美世お嬢さま」

 花は、少しひとみを潤ませながら、にこりと笑った。

 急いで座布団を用意し、部屋に二人きりになる。いざ向かい合っても、どこか緊迫した雰囲気が漂い、うろうろと視線がさまよう。

 花は、昔のままだった。ちょっとせっぽちで、でも垂れた目が穏やかで優しい。

 そうはいっても、正直な話、驚くばかりで再会を喜ぶどころではない。あの、蔵に閉じ込められる嫌な思い出とともに姿を消した、美世が最も信頼していた使用人。生まれたときから世話になっていたのに、別れはあまりにも突然だった。

 あれからもう、何年も経つ。

 彼女が辞めさせられてすぐの頃は、家の中でただひとり信頼できる人までもくしてしまった虚無感に襲われた。自分の中に当然のように存在していた大事な部分が、急にえぐりとられたようで、生きる気力を失った。

 けれど、いつしかそんな空白にも慣れてしまった。再会することなどないと思っていたから、また会えたらどうしようなどと、考えたこともなかった。

 一向に言葉が出てこない美世を見かねたのか、花が口を開いた。

「お元気そうで、なによりです。お嬢さま」

「……ええ、あの、花も」

 つっかえつつも、言葉を返す。

 そういえば、花がまだ解雇される前は、美世もそれこそ『お嬢さま』といった口調だった。今はすっかり使用人としての口調が染みついているから、どんなふうに話したらいいのか戸惑う。

「お嬢さま、私、実は結婚したんです」

「そ、そう。おめでとう」

「今はもう子どももいて。夫は私の実家のある村の隣の村の人で、一緒に畑仕事をして暮らしていますけれど……とりあえず、幸せです」

 にこりと微笑んだ花の顔は、よく見ると昔より日に焼けて、薄くしわも刻まれている。もともと優しそうな顔立ちをしていたが、今はもっと穏やかで包み込まれるような印象がある。

「お嬢さまは、いかがですか。お幸せですか」

 美世は、はっとした。

「わたしは」

 この家に来てからのことが、脳裏に次々と浮かんでは消え──なんといったらいいのかわからず、黙り込む。

 すると花は腕を伸ばして、美世のひざの上に置かれた手に手を重ね、握った。

 昔も、よくこうして手を握ってくれた。その温かさは、何ひとつ、変わっていない。

「お嬢さま。私はお嬢さまが一番おつらいとき、一緒にいられませんでした。申し訳ありません」

「花……」

「正直、合わせる顔がないと思っていました。何の力にもなれなかった私が今さら、と」

 心底悔しそうに顔をしかめる花。

「ですが、それでもここへ来たのは」

 真っ直ぐに、視線と視線がぶつかり合う。

「幸せになったお嬢さまを見たかったからです。私の、大事な大事なお嬢さまが、ずっと苦しい思いをされてきたお嬢さまが、幸せそうに笑ってらっしゃるところを、見たかったのです」

「……っ」

 鼻の奥がつん、と痛い。

 そうだ。落ちぶれて、『大事なお嬢さま』なんて呼ばれる資格を失ってしまった姿を、花には見せたくなかった。早くに亡くなった母の代わりに、目いっぱいぬくもりをくれた花を、悲しませたくなかったから。

「花。でも、わたし」

 斎森家を出たら、今度は久堂家だと絶望した。

 でも縁談の相手は清霞で、初めはおそろしくも感じたけれど優しい人だった。この家だって居心地はとてもいいし、ゆり江もいい人だ。

 斎森家にいた頃には想像もできなかったくらい、今の美世は幸せを感じられる。でも。

「わたしは、異能を持っていないわ。けんの才でさえも」

 声が震えた。

「だから、旦那さまの妻に相応ふさわしくない。ずっとここにいたら、だめなのよ」

 正面の花の顔が、ぼやけて見える。涙が今にもこぼれてしまいそうで、唇をんだ。

 あらためて口にしてみると、とてもつらく、苦しい。ここを出ていきたくない。他に行く当てがないから、ではなくて。

「お嬢さま」

 これ以上話すと涙をせき止めておけなくなりそうで、何も言えなくなった美世を、花が気遣わしげに見る。

「……お嬢さまは」

 しばしの沈黙のあと、花はぽつりとつぶやいた。

「お嬢さまは、私がどうやってここへ来たのか、おわかりになりますか」

「え?」

「私は解雇されてから、もう一度雇っていただけないかと、斎森のお屋敷へ通いました。けれどそれは認められず、だったらなんとかしてお嬢さまのことが知りたいと、元同僚たちをしつこく訪ね、うつとうしがられて、取り合ってもらえなくなって……実家に帰り、親の勧めで何年も前に結婚しました。そんな私が、もう斎森家とも、帝都にすら縁のなくなった私が、どうしてここへ来ることができたか。おわかりになりますか」

「……それは」

 花がどれだけ美世のことを思ってくれていたか知っている。しかし、思いだけではここへたどり着けない。

 誰かが花に、美世が斎森家を出されたことや、この家にいることを伝えたはずだ。

「初めにお手紙をいただいたときは、何事かと思いました。雲の上の方ですから。──お嬢さま。久堂さまは良い方ですね」

 そうだ、決まっている。わざわざ花を探し出し、ここまでつれてこられる人は。

「旦那さま……」

 結局、あの人しかいないのだ。

『お前が悩み、抱え込んでいるものは、そのうち気にせずともよくなる。だからあまり深刻に考えるな』

 清霞は美世のことを、すっかり調べ尽くしてしまったのだろう。花に連絡をとったなら。であれば、あれは彼のどんな考えから発せられた言葉だったのか──。

(いつものわたしなら、わたしに異能がないことを知っただんさまが、縁談をなかったことにしようと言っているのだと思うわ)

 けれども、美世はもう彼の人となりを幾分、知っている。

 軍ではどうなのかわからないが、少なくとも美世の前にいるときの清霞はいつだって優しい。だからおそらく、彼の言いたかったことはそうではない。

「……花、わたしは思い込んでいただけかしら」

「お嬢さま」

「わたしは香耶と違って、見鬼の才を持っていないから……異能を持っていないから。だから何をどうしても、わたしに価値はないと、ずっと」

 異能がすべてだった。それさえあれば、美世はもっと斎森家で違う扱いを受けていたはずで、だから、持たずに生まれたのがすべての原因。

 そんな思い込みがどこかにあったのかもしれない。いや、間違いなくあった。

「旦那さまに、打ち明けるのが怖かった。それでこの幸せを失ってしまうのが嫌だったわ。真実を知ったら絶対にわたしを捨てるんだって、疑いもしなかった」

 よく考えればそれは清霞を、美世の親と同じく人を異能の有無でしか判断しない人間だと決めつける行為だ。

 もっと早く、話すべきだった。捨てられに行くのではなく、彼の真意を確かめるために。美世は今の今までそのことに気づけなかったのだ。

「……わたし」

 づくえの上に目をやる。作りかけの組みひもの横には、清霞に贈るために作った髪紐がある。

 手をぎゅ、と強く握られて視線を戻せば、真剣な表情で花が美世を見つめていた。

「勇気を出してください、お嬢さま。久堂さまは、待っていらっしゃいますよ」

「……!」

「大丈夫です。お嬢さまなら。それに、どんな結果だったとしても私は今度こそ、お嬢さまを必ずお助けしますから」

「ありがとう。花」

 幼い少女が母親にするように、美世は花に抱きついた。

 懐かしさがこみ上げる。昔は泣きそうになるたびに、それを隠すためによくこうして花に抱きついて顔をうずめた。ゆっくり頭をでてくれる手は、やはり温かい。

「わたし、がんばって、みるわ」

 やはり清霞の反応は気になるし、おそろしい気持ちもまだ美世の中で大きい。

 けれど今、勇気を出さなくては。少しでいい。ほんの一歩──この部屋から出るだけの勇気でいいから。

 そっと腕を解いて離れると、先ほどまでよりもずっと目の前が明るくなった気がした。

 急いで髪紐を手にとり、部屋を飛び出す。

 この時間、清霞は仕事で留守にしているはずだとか、細かいことはすっぽりと頭から抜け落ちていて、何の疑いもなく美世は居間のふすまを開けた。

「旦那さまっ!」

 思っていたよりも大きな声が出た。

 ぎょっとした様子で、目を丸くした清霞が顔を上げる。長い髪を無造作に背におろした、着流し姿の彼は、表情と相まって少し気が抜けたような雰囲気だ。

 そのことになんとなくあんしてしまう。

「どうした、いきなり」

 清霞は珍しく、自信なげにふい、と美世から視線をそらした。

 二人で話すことをおそれていたのは美世のほうだったはずなのに、なぜか逆のようにも見える。

 手に持った髪紐を握りしめ、美世は清霞のすぐそばに腰を下ろした。

「……旦那さま、わたし、ずっと、旦那さまに言えていなかったことがありました」

 どきどきと、緊張で心臓が激しく脈打っている。背中には冷たい汗がにじみ、真っ直ぐ彼のほうを見るのが難しい。

 けれど、ここまできて逃げ道はもはやない。

 どんなに逃げ出したくても、前に進まなくては。

 花の言った通り、清霞はじっと、美世が話すのを待っているようだった。

「わたし……わたしは」

「…………」

「──わたしには、異能がありません」

 一度、口に出してしまえば、あとからあとからざんのように言葉があふれ出ようとする。決して涙はこぼさないように目元に力を入れた。

「見鬼の才すら、ありません。斎森家に生まれ、異能者の両親の血を受け継ぎながらわたしは、無能、です」

「…………」

「学校も、小学校止まりです。実家ではずっと使用人として働いていました。教養はありませんし、名家の娘らしいことも何ひとつ、できません。見た目もこんなで……。だから、だからわたし、本当は旦那さまの相手に全然、相応しくないのです」

 結局、話しているうちにだんだんとうつむいていって、身体も縮こまってしまう。まるで、叱られている子どものように。

 それでも、美世は懸命に先を続けた。

「旦那さまがお怒りになるなら、それはもっともです。わたしは浅ましい気持ちから、このことをわざと黙っていました。追い出され、たく、なくて……」

 泣かないと思っても、もう涙は落ちる寸前で、声も涙声になった。

「わたし、旦那さまが死ねとおっしゃるなら、死にます。出て行けとおっしゃるなら、出て行きます。今すぐにでも」

「…………」

「これは、おびと感謝の気持ちを込めてわたしが作りました。不要でしたら捨てるなり燃やすなりしていただいて構いません」

 持ってきた髪紐を、畳の上に置く。そして、この家に来た日のように深々と頭を下げた。

「今まで、お世話になりました。わたしが話さなければならないことは、これですべてです。旦那さま。旦那さまの、ご判断を、聞かせてくださいませんか」

 答えは、すぐには返ってこなかった。

 しばらくの沈黙。清霞の表情はうかがえず、美世は思わず力いっぱい目を閉じてそのときを待つ。

「──いつまで、そうしているつもりだ」

 いつか、聞いたことのある言葉。

 はっとして、上げた目線の先には、少しばかりいたずらっぽく微笑む彼の顔があった。

 けれどそれが見えたのはほんの一瞬で、次の瞬間には目の前が真っ暗になる。

「お前に出て行かれては困る。もう少ししたら、正式に婚約しようと思っているのだから」

 後頭部には大きな清霞の手。鼻をかすかにかすめるのは、彼が愛用している香のさわやかな香り。

 美世は、自分の頭が抱え込まれるようにして清霞の胸あたりに押し付けられていることを悟り、おまけに「正式に婚約」という衝撃的な発言によって、頭の中が真っ白になってしまう。

「だ、だ、旦那さま……っ」

「お前は嫌か? 私とこのままここで暮らすのは」

(そ、そういうことではっ)

 もう、違う意味で心臓がばくばくとうるさく鳴っている。緊張でそうはくだったはずの頰は、湯気でも出てきそうなくらい熱い。

 ひとりでどぎまぎしていると、はっと我に返ったように息をむ気配がして、急に手が離れていった。見上げた清霞の耳が、少し赤くなっている。

「わ、わたし」

 恥ずかしくてたまらず、混乱する。でも今、自分の意思をきちんと伝えたい。そのために、勇気を振りしぼってここまできたのだ。

「わたし、ここにいたいです。旦那さまが許してくださるなら」

「許すも何も」

 清霞は、ふ、と笑った。

「私が、お前にここにいてほしいんだ。他の誰でもなく」

「……!」

 清霞は美世を必要としてくれた。すべて承知の上で、なお。

 喜びで胸がいっぱいになって、また泣きそうだ。これまでの苦しみも悲しみも、全部、このときにつなげるためにあったのだとしたら、報われる。この人と一緒にいられるのなら、今までにくした、多くのものを対価としてもおつりがくる。

「美世」

 名を呼ぶ声はとても柔らかく、それだけで美世を幸福にさせる。

「これで、私の髪を結ってくれるか?」

「はい。……喜んで」

 清霞が髪紐を拾い上げ、差し出してくる。それを受け取り、美世はひざ立ちで彼の背後にまわった。

 れいな髪。まるで絹糸のように、さらさらとしていてつややかだ。うっかり、うらやましくてため息が出てしまいそうなほど。

 とても貴重で高価な宝物に触れている心地で、恐れ多くて手が震える。

「で、できました」

 なんとか簡単に緩くまとめて髪紐を結んだ。髪紐が清霞に見えるように、まとめた髪を肩から前に垂らす。

 結んでみると、想像していたよりも美世の作った髪紐は清霞の透けるような薄茶の髪によく似合っている。

 ──髪紐の色は、紫色。派手過ぎず上品で、清霞にぴったりだ。

「綺麗な色だな」

 清霞は結ばれた髪紐の端をちょい、とつまんでみて、口元をほころばせた。

(ああ、どうしよう。とっても心臓がうるさいわ……)

 これはきっと、怖い、とは違う胸の高鳴りだ。

「ありがとう。大事に使わせてもらう」

「は、はい」

 彼がうれしそうで、上手うまく、言葉も出てこない。今の美世は満たされて、この家に来られてよかったと、この人に会えてよかったと心底思った。


 頰の火照りもおさまり、二人の間に和やかな空気が流れ始めたところで、花が「そろそろおいとまします」と顔を出し、美世は清霞とゆり江とで彼女を見送りに玄関へ出た。

 ちなみに、美世と清霞が話していた間、ゆり江が花の相手をして二人で茶をすすりつつ、美世の話に花を咲かせていたらしい。いろいろと気を遣わせてしまったと、美世は恐縮した。

「花、もう行ってしまうのね……」

「はい。ですが、久しぶりの帝都ですし、しばらく観光してから帰ります。久堂さまが良い宿をご用意してくださったので」

 なんと、そうだったのか。

 まったく清霞には世話になりっぱなしで、いくらお礼をしても、し足りない。おそらく気にするなといわれておしまいだとしても。

 花がここへ来るときは、清霞の部下の五道が自動車を出してくれたというし、あらためて何か感謝を形にしようとひそかに決意する。

「お嬢さま、また会いましょう。まだまだたくさん、お話ししたいですし」

「ええ。わたしもまた、会いたいわ」

 花とはもう、お嬢さまと使用人の関係ではない。けれどだからこそ、会って一緒に買い物をし、食事をすることだってできる。いつだって。

「花。本当に、本当にありがとう。わたし、あなたに会えなかったら、あなたの言葉がなかったら、まだ部屋にこもったままだったと思うわ」

「お役に立てて、光栄です。私も、成長されて綺麗になられたお嬢さまと会えて、お話しできてよかった」

 両手を握りあって、お互いに笑みを交わす。

 名残惜しさに手を離せないでいると、ふとエンジン音が近づき、家の敷地内に自動車が一台入ってきた。

「来たか。──五道、悪いな」

「いえいえ~。元からそういう約束ですから」

 自動車の窓から顔を出したのは五道だった。彼が花を送っていってくれるようだ。

 美世は前に一度会ったきりだったが、相変わらずのゆるさである。軍服を着ていなければ、とても少数精鋭の対異特務小隊所属の軍人には見えない。

「見張りは?」

「一応、いませんでした。今日のことは知られていないと思います」

 小声で交わされた清霞と五道の会話は、美世やゆり江、花の耳には入らない。

 今回清霞が自分で自動車を出さなかったのは、例の不審な式に花の存在を悟られ、彼女が巻き込まれることがないようにするためだったが、美世たちは知らなくてよいことだ。

「さ、花さん行きますよ~」

「はい、お願いします」

 自動車に乗り込む花を、美世はじっと見つめた。そのとき五道と目が合ったので、感謝の気持ちを込めて深々とお辞儀する。彼は人好きのする笑顔を浮かべて手を振り、窓から頭を引っ込めた。

「……そんな顔をするな。これからは誰にでもいつでも会える」

 走り去る自動車を見送っていると、清霞が美世の肩に手を置いた。

(わたし、よほど落ち込んだ顔をしていたのかしら)

 首を傾げながら両手で頰を触ってみる。よくわからない。

だんさま、ありがとうございます」

「気にするな」

 すべてを含んだ「ありがとう」は、ちゃんと伝わったらしい。

 飾り気のない返事だけれど、美世には満足で、つい笑ってしまった。



   ◇◇◇



「……ちっ」

 まんまと監視対象にかれて帰ってきた鳥型の式を、辰石みのるはぐしゃりと握りつぶした。

 最初に式をすべて燃やされたあとは、多少距離をとるようにしたからか、問題なく久堂清霞を見張れていたはずだが、どうも肝心な部分は巧妙に隠され、いいように泳がされている気がする。

 実が知りたいのは清霞よりも美世のこと。しかしその姿も、一度も確認できていない。

『聞いてくださいな、おじさま。おねえさまったら、まだずうずうしく久堂さまのお屋敷に居座っているのですわ。あの格好じゃあ使用人扱いがせいぜいでしょうけど』

 最近辰石家を訪れた香耶が、そうぼやいていた。その裏付けもまだとれていない。

 あの甘やかされた娘は何かに使えるかもしれないと、幸次と婚約させて以来、よく雑談に付き合うが、なかなかに有益な情報をもたらす。

『幸次さんはおねえさまの味方をなさるし、わたくし、あの日は気分が良くなかったのですけれど』

 でも、とっても素敵な殿方を見たのです。

 頰を染めてうっとりしながら香耶が話していた人物は、久堂清霞で間違いない。

 あの若造が、斎森家を訪ねたのは承知している。斎森家の当主と会って何を話したのかはわからないが、香耶の話と総合すると、美世のようなみすぼらしい娘をしたことに対する苦情といったところか。

 斎森家内の空気もさらに悪化したようであるし、おそらくは清霞に迷惑料でも請求されたのだろう。

(だから初めから美世をこちらに渡しておけばよかったものを)

 本当に愚かな。実は自らのことは棚に上げ、内心で斎森家をののしった。

(だがようやくだ)

 これで美世が久堂家を追い出されたら、彼女を保護し、辰石家の嫁として迎える。そうすればすべてがあるべき場所へおさまるというもの。

 まさか清霞が美世を正式に婚約者に迎えようとしているとは露ほども考えず、実はほくそ笑んだ。



   ◇◇◇



 美世が花と会ってから、一週間後。初夏の、少し涼しい風が吹く、過ごしやすい日の午後。


 きゅ、と帯を締めると、自分が生まれ変わったような気持ちになる。

 身につけた着物も、帯も、小物も、すべてが真新しく、そしてとても良い品だ。

(少し似ている、かしら)

 鏡をのぞき込めば、そこにはいつか夢に見た母と似ていないこともない、桜色の着物姿の女が映る。せこけた身体は血色が良くなったからか、不健康には見えなくなり、髪の艶も、どうにか見られる程度にはなった。

 母の形見と似た色のこの着物をもらったときの感動は、きっと、一生忘れられない。

 清霞が美世のためにいくつも着物を仕立ててくれていたことだけでも十分うれしいのに、彼はわざわざ美世に似合うと考えて、この色を選んでくれたらしい。こっそり『すずしま屋』のけいが教えてくれた。

 それを聞いて、どこまで自分を喜ばせれば気が済むのだと、理不尽に問い詰めたくなった。実際には、うれしすぎて言葉はひとつも出てこなかったが。

 それから毎日着物を眺め、にやつく美世は、誰が見ても異様であったに違いない。

 今日はこれから、この格好で五道を招いて、もてなすことになっている。もちろん、先日の礼だ。

 一応、清霞から五道の好きそうなものは聞き出して用意してはいるが、美世自身が顔を合わせた回数も少なく、自信は持てない。

(五道さま、喜んでくださるといいけれど。悩んでいても仕方ないわよね)

 鏡の前で、ゆり江に教わった通りに軽く化粧を施すと、美世は立ち上がりうたげの支度の仕上げをすべく、台所へと急いだ。


「いやあ、楽しみだなあ」

 帰宅途中の車内。軽い調子でつぶやく五道を、清霞は鋭い目でった。

「礼なら私が約束通り、飲み屋でおごってやったはずだが?」

「しっかり者の、いい奥さんになるでしょうね。美世さん」

「なれなれしく呼ぶな」

 婚約者を気軽に「美世さん」などと呼ぶ部下に、いらっとする。

「なんですか。しつですか?」

「そんなわけないだろう。一瞬、なにやら暴力的な気分になったが」

「嫉妬じゃないですか!」

 鬼畜上司に息の根止められそう……とわざとらしく嘆く五道。完全に調子に乗っている。つい途中下車させたくなった。

 しかし美世が五道をもてなしたいと言い出したときは、驚いた。

 理由はどうあれ、彼女が自分から他人に会いたがるなど、考えられなかったことだ。それは長く斎森の屋敷に閉じ込められ、人とのかかわりがほぼ絶たれていたことや、過去の出来事から自身を卑下していたことなどが関係しているのだろう。

 彼女自身の外見もだいぶ健康的なそれに近づき、将来が定まったことでわずかでも自己評価が上がったのならば、清霞としても喜ばしい。

「見張りの式は撒けていますかね?」

「問題ない。私がこの程度でヘマをするはずないだろう」

 五道が後ろを振り返る。

 毎日毎日飽きもせず清霞のあとをつけてくる式は、今はいない。人間の目をくらますのはやや難易度が高いが、式はしよせんちゃちな人造物。いくらでも惑わすことができる。

 家には式けの結界も張っているし、花を五道に送り迎えさせたのは、念には念を入れて用心していたにすぎない。

「ま、当然でしたね。くだらないことを聞きました」

 それにしても、と五道が続ける。

「ほんと、近頃の異能者の質の低下はひどいものですね」

「異形の数自体もかなり減っているから、仕方ないことではあるがな」

 西洋の文化が流入し、帝国の科学技術は年々発達している。異形の存在を否定する者も増えつつあり、異形は急速に数を減らし、討伐する側の異能者もお役御免とばかりに少なくなっていく。

「異形は目の錯覚、人の想像で生み出された幻覚、でしたっけ。まあ、あながち間違いでもないですけど」

「そうだな」

 異形が発生する原因は、正体のわからない現象を、人間が「こういう化け物の仕業なのだ」と想像し、信じること。多くの人間が似たような想像で恐怖心を抱くことで、その想像が力を持ち、具現化する。

 だから、正体不明の現象が、実はこういう科学で説明できる、と知ってしまうと人々の恐怖心は薄れ、異形は力を失う。

「仕事が減るのはうれしいですけどね~」

 そんな現状ゆえ、有力とはいえない家の異能者の実力が落ちたとしても、必然といえば必然だ。

 当代最強と名高い清霞でさえ、大昔の異能者たちと比べてしまうとさほど優秀とも言えぬ。

「──着いたぞ。降りろ」

 話しているうちに、清霞の自宅に到着した。

 上司に運転させ、助手席でしょうもないことばかりしやべっていた五道を、自動車からたたき出す。

 すると、うぎゃ、というおかしな悲鳴のあとに文句が返ってきた。

「ちょ、乱暴はやめてくださいよ~。美世さんに言いつけますよ」

「そうか、仕方ない。……口封じも、ときには必要だからな」

「勘弁してください……」

 五道は顔色を悪くする。軽口を叩いて遊んでいるだけのくせに、よくやるものだ。やたらと演技派の部下にため息が出た。

 玄関では、いつものように美世が待っていた。ゆり江の姿は見えないので、先に帰したのだろう。

「お帰りなさいませ、旦那さま。五道さまも、いらっしゃいませ」

 手をついてゆっくりと礼をする彼女は、れいに着飾っている。

 先日、かみひもの礼だとか適当な理由をつけて半ば強制的に受け取らせた着物一式。清霞が選んだ桜色は、思ったとおり彼女にとてもよく似合っていた。

 血色の良くなった頰は薄紅に染まり、きちんとかされ緩く結った髪は色。そでからのぞく手首はまだまだきやしやで折れそうだが、以前のように不摂生を感じさせない。

 着々と生まれ変わる美世から、目が離せない。路傍で拾った石を磨いてみたら、中から玉があらわれたようだ。──『すずしま屋』の桂子が言っていた通りになった。

 しやくだが、こればかりは彼女を寄越してくれた斎森に感謝したいくらいである。

だんさま? どうかなさいましたか?」

「いや、……綺麗だな、よく似合っている」

 考えていたことがつい口から飛び出して、途端に恥ずかしくなった。

(何を言っているんだ、私は)

 一拍遅れて真っ赤になった美世が目に入ると、さらにいたたまれない。

 もう帰ってもいいかとでも言いだしそうな、あきれた表情の五道にりのひとつでも入れてやりたいものの、彼女の前ではそれもかなわない。自由にならない心は難儀なものである。

「あの、旦那さま。本当に、ありがとうございます。わたし、この色がとても、好きなのです」

「それは、よかった」

 桂子にこの桜色の着物だけ早めに仕立ててもらったがあった。若干、季節はずれになってしまったが、美世がこれほど喜んでくれたのならそんなのはまつごとだ。

「あ、申し訳ありません、五道さま! 中へどうぞ……っ」

 やっと五道の存在に気がまわったらしく、美世は慌てて戸を開ける。

 五道のほうは珍しく、はは……と乾いた笑いを浮かべて死んだ魚のような目をしたまま、玄関に足を踏み入れた。

 客人をもてなすために綺麗に整えられた居間へ移動し、席につくと、さっそく宴が始まる。

「うわあ、美味うまい」

「たくさん召し上がってくださいね」

 料理が次々に運ばれてくる。どうやら品数を多めに、一品一品の量は少なめになっているらしい。小鉢や小皿に盛られた、おみの煮物や漬物など、少し濃いめの味付けで酒に合いそうな料理が食欲をそそる。

 五道はひとくち食べるたびに感動した様子で声を上げている。

「お前は実家暮らしなのだから、毎日美味いものを口にしているだろう?」

「いやいや。わかってないですねえ~隊長は。実家の料理人が作る料理の味と、こういう家庭料理や居酒屋料理の素朴な味は違う魅力があるんです」

「…………」

 そういうものなのか。

 考えてみれば、一日のうち最低二食は美世かゆり江の作った料理を食べているので、清霞の感覚は庶民のそれに近いのかもしれない。

 幼い頃は飽きるほど高級なものばかりに囲まれてきたが、正直、今の生活のほうが性に合っている。

「五道さま、おぎします」

「あ、ありがとうございます」

 料理を褒められて照れながら、美世が酌をする。そして、あらたまって頭を下げた。

「五道さま、あらためて言わせてください。先日は花のこと、ありがとうございました」

「俺はただ送り迎えをしただけですよ」

「それでも、五道さまは旦那さまの片腕だと、お聞きしました。でしたら、わたしがあの日、旦那さまと落ち着いて話せたのも五道さまのおかげです」

 珍しく、すらすらと言葉を紡ぐ婚約者の姿は実にまぶしい。

 彼女が成長したということなのか、それともこれが本来の彼女の姿だったのか。どちらにしろ少しばかり気分が良くなって、清霞は酒をあおった。

 が、しかし。

「美世さん……! 俺、そんなふうに言ってもらったの初めてです。うれしいです、鬼隊長とは別れて、俺と結婚しましょう!」

「え……」

「おい!」

 とんでもない発言である。さすがに流せず、声を荒らげてしまった。

「五道、貴様……」

 美世は器量も悪くないし、家事は万能であるし、性格も多少卑屈な点を除けば十分良い。考えたくはないが、清霞の嫁でなくとも重宝されるだろう。

 想像して、ざわざわと胸がさざめいた。

「じょ、冗談ですよ。って、殺気! その殺気はしまってください、物騒ですって!」

 だいたい、隊長がいつも褒めてくれないから、などと、青い顔で言い張る必死な部下を清霞はてつくような目で見ていたが、ふと力が抜けた。

 美世が遠慮がちに口を開いたからだ。

「あの、五道さま。お申し出はありがたいのですが……。わたしは、旦那さまがいいので……。申し訳ありません」

 わかりやすい冗談のつもりだった五道は、本気で困った様子の上司の婚約者に慌てる。

「うっ! そ、そうですよね~。冗談がすぎました……」

 ざまあみろ、と内心で思った清霞は悪くないはずだ。口は災いの元。いつも調子のよいことばかり言っているからそうなる。

 何より、彼女の「旦那さまがいいので」という発言は、とても良い。

 心のどこかで、美世は居場所さえあれば、誰が相手でもよかったのではないかと、少々苦い気持ちを抱いていたらしい。彼女の心がどこにあるかなど、さいなこと。しかしどうも無意識に、気になっていたようだ。

 美世も、最初はおそらく居場所を求めているばかりだっただろうが、今では、清霞が勝手に購入した着物を受け取って、着てくれるくらいには心を許してくれているはずだ。

 ひとりで感慨に浸っていると、

「ええっ、では、旦那さまは軍の偉い方にまで……」

「そうなんです。久堂清霞の名を聞くだけで震えあがる将官も、少なくないそうですよ。いったい何をしたのか知りたくもないですけどね~」

「……おい」

 いつのまにか二人は打ち解け、話がどんどん弾んでいる。だが、その中の聞き捨てならない会話で我に返った。

「隊長が殺気立ったときって、もう本物のはんにやか何かにしか見えませんもん。隊長に面と向かって意見できるやつも、俺とか、あと直属の上官のおおかい少将閣下とか、とにかく少なくて」

「……五道」

「対異特務小隊の訓練の厳しさは、帝国陸軍の中でも五指に入るって有名なんです。あ、もちろん鬼のような指示を出す隊長のせいですけど。でもそのおかげで異形相手でもひるまずに戦えるんですけどね~」

「……五道。お前の口は本当に、よく回る口だ」

「ひぃっ」

 こうして、騒がしいうたげの夜は更けていった。


 五道が帰り、に入っていた清霞は居間に戻る途中、異変に気づいた。

 ずいぶんと、家の中が静かだ。美世がいるはずだが、なぜか物音ひとつしない。片付けが終わったのだろうか。

 台所は電灯もいておらず、すっかり火の気もない。

 では美世は居間か、自室か。いや、美世の部屋の前を通り過ぎても人の気配はなかったからそれはない。

 まゆをひそめて居間に近づいたとき、清霞の耳は途切れ途切れの音を拾った。

「……て、……や、お……さま、もう、……めて」

 美世の声。ただし、話しているというよりうわ言のような。

 慌ててふすまを引くと、部屋の隅にけてあった卓子に美世が突っ伏して眠っている。きっと疲れてうたた寝をしてしまったのだろう。それは不思議ではない。だが。

 どこか、異能が使われたような──ごくわずかな、ざんのごとき気配がある。

(気のせい、ではないな)

 清霞が湯を浴びている間に誰かが訪ねてきたということはありえない。それならすぐにわかる。五道が宴の間に異能を使ったわけでもなく、清霞自身が使ったわけでもない。

 不気味だった。存在しない何者かが、清霞でさえ察知できないほどの巧妙さで異能を使ったとでもいうのか。そのようなことが可能なのか。あるいは。

 考え込むのは後回しにし、彼の意識はすぐに眠る美世のほうへ向かう。

「……めて、おね……します」

 彼女の口から出るのは、懇願。静かに近寄ると、頰が涙に濡れていた。ひとみは閉じられているが、苦しそうな表情でうなされている。

 安らかな寝顔だったならば無理に起こそうとは思わないが、これほど苦しそうにしているのに放ってはおけない。

 清霞は美世の肩に手を置いて、軽く揺さぶった。

「おい、……美世。おい、起きろ」

「……や、お……がい」

 呼びかけても、悪夢は彼女をさいなみ続ける。

「おいっ」

 たまらなくなって、少し強めに声をかけると、ようやくうわ言が止み、ぼんやりまぶたが上がる。

「……ん」

「しっかりしろ。……大丈夫か?」

「あ、れ……。だんな、さま?」

 とりあえず異常はなさそうで、ほっと息を吐いた。

 しかし正体不明の異能が使われたこんせきがある以上、油断できない。

「そうだ。ずいぶんうなされていた。気分はどうだ?」

「え、えっと……」

 ゆっくり上体を起こした美世はまだはっきりかくせいしていないのか、状況をみ込めない様子で首を傾げる。涙の跡が痛々しく、清霞はついつい目を細めてしまう。

「悪い夢でも見ていたのか?」

「夢……」

 一拍おいて見開かれた目から、また新しく涙がぽろぽろとこぼれる。

 初めて見たときの涙とは違った。くしゃりとゆがめた顔を両手でおおい、細い体を丸めるようにして泣きだした美世の姿は、見ているだけで胸が苦しい。

 何か考える前に、とっさに震える彼女を抱きしめていた。

「だ、だん、さまっ……」

「構わない。嫌な夢だったのだろう。気が済むまで泣くといい」

 寝言の内容から、おそらくは斎森の屋敷での生活に関する夢だったのだとわかる。「お継母かあさま」「香耶」と呼んでいるのが聞こえたので、良い夢でなかったことも。

「私たちは婚約者同士だ。前にも言ったはずだぞ。思ったことは素直に言い合える仲になりたいと。もっと私に頼っていい、すがってもいい。自分の感情をさらけ出して、甘えてもいいんだ。そうして支えあうのが夫婦だろう?」

 果たして、自分の言葉はどこまで美世に届くのかと、清霞は考える。

 少しは心を通わせられたと思った。けれど、彼女の抱える心の傷はきっと、想像するよりずっと深く大きい。いくら清霞が慰めたとて、簡単には消えない傷。

(もう解放されてほしい)

 ここに美世を傷つけるものは何もない。もし久堂家の親族や清霞の周囲にいたとしても、絶対に近寄らせないつもりだ。

「だから、いくらでも泣け。そして涙が枯れたら、また笑ってほしい」

「……っ」

 清霞の胸元にすがりつきえつする美世の髪をそっとでる。この娘が泣き止むのなら、少しでも苦しみが和らぐのなら、何度だって同じように抱きしめる。

 腕に抱えこんだ身体はあまりにも細く、小さく、頼りない。守らなければ、簡単に壊れてしまうだろうから──。

 しばらくそうしていると、美世はしゃくりあげながらぽつぽつと夢の内容を語った。

 継母と異母妹が出てきて、亡くなった実母の形見を目の前で壊し、燃やす。やめてほしい、返してほしいと泣いて懇願する美世をあざわらうのだと。

 彼女は実際にあった出来事だとは言わなかったが、おそらく近いことが行われたのであろうことは、すぐに察することができた。

「つらかったな」

 夢の話だけではない。仲の良かった使用人の花を失い、十にも満たない少女が手探りで過ごした時間を思うと、自然にそうつぶやいていた。

 清霞には書面上の情報や実際の斎森家の印象から、美世の過ごしたつらい時間を想像するしかできないが、どれだけ時間がかかっても、彼女の心をいやせると信じたい。

「旦那さま。わたし、本当にずっと、このまま、あなたのそばにいても、いいのですか」

「当たり前だ。ここにいろ、死ぬまで」

 顔を上げた婚約者にできるだけの優しい微笑みを向ける。

「これも、ついこの間、言ったはずだ。いなくなられては困る」

「……わたしがどんなに無能で役立たずでも、ですか?」

「ああ。それでもだ。まあ、私にとってお前は無能でも役立たずでもないが」

 美世は顔を赤くして、まだ涙の残る潤んだ瞳をそらした。

「わたし」

「?」

「やっぱり、旦那さまにそんなふうに言っていただけるような人間ではないと思います。でも、できればずっと旦那さまのおそばで、旦那さまの役に立ちたいのです」

「ああ」

「だから、わたし……もっと頑張ります。できるだけ長く、旦那さまのお役に立てるように」

「……ああ。そうしてくれ」

 これが今の美世の、何年も自分を否定され続けてきた彼女の、精一杯の前向きな言葉なのだと、よくわかる。すぐに自信を持てといっても無理な話だ。だから、こうして少しずつ前を向いて、彼女自身と夫となる清霞のことを信じてほしい。

(それにしても、あの異能の気配はいったいなんだったんだ……?)

 もうほとんど何も感じないくらいに気配は薄まってしまった。

 ふと思いついた可能性に、清霞は眉をひそめる。

 もしも、もしもだ。美世の悪夢の原因が異能だったのだとしたら。その異能の持ち主は、うす家の者以外考えられなかった。



 翌朝、美世はいつにもまして平身低頭で清霞と顔を合わせることになった。

 うたた寝をして主人をちゃんと待てなかったばかりか、悪夢を見たからとはしたなく大泣きし、清霞にぐちゃぐちゃにすがりついてしまった。

 いくら素直に感情を出せと言われても、あれはない。年頃の女として恥ずかしい。

 しかもついうっかり、この家に来てからずっと悪夢を見続けているのだと口を滑らせ、余計に心配をかけてしまう羽目になった。

 険しい表情で黙りこくる清霞は本当におそろしい。あの表情を見たら、確かに冷酷無慈悲に感じるだろう。美世の失態に怒っていたわけではなかったようだが、それでも震えあがってしまうところだった。

 気まずさ満載の食事の時間をなんとかやり過ごし、いよいよ清霞の出勤時間になると、美世は用意していた小さな包みを取り出した。

「そういうわけですので、こちらをお納めください」

 それは、おびの意をこめて作った──。

「……弁当?」

「はい」

 弁当ごときで詫びのしるしになるかは甚だ疑問ではあるけれど、ゆり江にも勧められ、用意してみた。

 弁当箱はもともとこの家にあったものだが、中身は美世が料理し、布製の包みも美世が縫ったので、気持ちはこもっている。

「ありがたくいただこう」

 清霞は笑みを浮かべて弁当を手にとると、そのまま自動車に乗り込んで出勤していった。心なしか、いつもよりだいぶ機嫌が良さそうに見える。

「もっと、頑張らなくちゃ」

 彼が喜ぶことをしたい。婚約者として清霞を支えていきたい。

 できることをひとつひとつ、一生懸命やっていればいつか、彼の妻にふさわしい自分になれるだろうか。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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