二章 初めてのデヱト

さま、いらっしゃいますか」

「はい」

 ふすまの向こうから声がかかる。開けると、木製の針箱を携えたゆりがいた。

「お裁縫道具、お持ちしましたよ」

「ありがとうございます」

 きれいな木の針箱。高価なもののように見えるが、本当に使っていいのかと美世は不安になってしまう。

 それを素直に告げると、ゆり江はふふふ、と笑った。

「もちろん、かまいませんよ。ああでも、もし新品がよろしければご用意しますけれど」

「いえ! とんでもありません」

 もとはといえば、ほぼ身ひとつでここへ来た美世がいけないのだ。裁縫道具くらい自分で持ってくるべきなのに。

 さいもり家にいたときは、使用人用の共用の裁縫道具があったので、油断していた。

 無一文の自分が情けなくて泣けてくる。

 針箱を受け取ると、美世はゆり江にどうしても聞いておかなければならないことがあったのを思い出した。

「あの、ゆり江さん」

「なんでしょう」

「……その、だんさまは、今朝のこと、怒ってはいらっしゃいませんでしたか」

「怒る? 坊ちゃんが、でございますか?」

「はい」

 いきなり泣き出したりして、きっときよは嫌な思いをしたに違いない。

 思い返すと落ち込むやら恥ずかしいやらで、美世はうつむく。

 異母妹ほどの器量良し相手であれば男性はよろこんで慰め、抱きしめるだろうが、美世ではそうはいかない。泣き顔など醜くて見られたものではないだろう。

 清霞のためにも早くこの家を追い出されるべきだと考えているとはいえ、不快なものを見せてしまって申し訳ない。

 そう考えての問いだったのだけれども、「まさか!」と目を丸くして驚かれてしまった。

「そのようなこと、ありえませんよ」

「でも……」

 ずっと、美世の存在自体が不快だと言われ続けてきた。涙などこぼせば、醜い、みっともないとますます顔をしかめられ、いつしか、夢の中での無意識の涙以外には泣くことを忘れていたというのに。

 毎朝毎朝こうも失態続きでは、追い出されるより先に逃げ出したくなってくる。

「美世さま。泣くことは、悪いことではありません」

 ゆり江は優しい口調で言った。

「むしろ涙を我慢して、お気持ちをため込んでしまうほうが、よほど悪いのですよ」

「……そう、ですか?」

「ええ。ですから、自然に流れてきた涙はそのまま流せばよいのです。そのくらいで坊ちゃんはお怒りになりませんよ」

 本当だろうか。いや、ゆり江が言うならそうなのだろうと思うけれど。

 やはり戸惑いが大きい。すぐには実践できないし、あまり甘やかされると元のような暮らしに戻ったときが怖いのだ。

 父がおそろしいので自分からは打ち明けられないが、美世は異能も、けんの才すら持たぬ身。いずれは清霞に知られ、ここを出ていく日が来る。

 勘違いしてはいけない。この生活はしよせん、一時のもの。

 こうして、ゆっくりと温められかされていく心を止められなくとも。

「さて、ゆり江はお台所におりますから、足りないものがあったら言ってくださいな」

「あ……お昼の準備ですか? それなら、わたしも」

「いえいえ、美世さまはそのままで。できたらお呼びしますからね」

 食い下がろうとする美世を上手いこと押しとどめると、ゆり江は部屋を出ていってしまう。

(……自分のことなんて、後回しにしなくちゃいけないのに)

 これでは本当にただのごくつぶしになってしまう。

 落ち込みながらも、せっかくゆり江が時間を作ってくれたのだから、と美世は破れた着物を取り出し、針と糸を持つ。

 繕い物に集中し始めた彼女は、襖の隙間から様子をうかがう目に気づくことはなかった。



 美世がどう家にやってきて、十日ほど経った夜。

「お前は日中、何をして過ごしている? 家事だけでは時間を持て余すだろう」

 夕食をとりながら、清霞がふとそんなことを聞いた。

 ここ最近でようやく美世はこの家に慣れてきた。

 会話は少ないけれど、朝と夜の二度、平常心で清霞と一緒に食事ができるくらいには。

 他の人間からすれば大したことがなく感じるかもしれないが、美世にとって、清霞のような立派な地位にある男性と食事を共にするのは、多大な勇気を要する一大事だ。それなりに大きな壁だった。

 一方で、彼がいない昼間はとても穏やかな時間を過ごしている。

 小さな家のこと、午前中、早ければ昼前には掃除洗濯も終えてしまう。食材などは業者が売りに来てくれるので、買い物に行く用事もなく、午後は自由になる。

 ゆり江は夕方前に帰ってしまうので、美世はひとりだ。

「えっと、ゆり江さんから雑誌を借りて読んだり、しています」

 事実の半分だけを口にする。

 本当は繕い物もしているのだが、何を縫っているか聞かれると困るのでそう答えた。

 破れたり、破れそうになっている着物を直しているなどと言ったら、新しい着物をねだっていると思われそうで嫌なのだ。

 清霞やゆり江にできれば嫌われたくない。ゆえに誠実であろうとするけれど、どうしても実家や自分の──これまでの生活について告げ口のようなことをしたくなくて、やはり隠してしまう。矛盾は承知の上で。

 うつむく美世に、清霞は何を考えているのだろう。ただ「そうか」とうなずいたきり、黙ってしまった。

 そして、そろそろ夕食も終わろうかという頃。

「実は、今度の休日に出かけようかと思っている」

「はい」

 急にどうしたのか。美世はとりあえず返事をした。

「お前、ここに来てから一度も街へ行っていないだろう」

「はい」

「……行きたいと思わないか」

(え……)

 突然、街に行きたいかと聞かれても、よくわからない。

 女学校にも通わせてもらえなかった美世は、高等小学校を卒業して以降、斎森家の敷地内からほぼ出ずに過ごしてきた。

 はじめは街のけんそうが恋しく、自由だったときが懐かしくて悲しくなることもあった。

 しかし今となっては、自分で自由に使える金もなく、街へ行ったところでどうなる、という気持ちのほうが強い。屋敷からこの家に来る道中もただむなしいだけで、街のにぎわいに心を躍らせる年頃はとうに過ぎてしまった。

「あの、わたし、行け、ません」

「なぜ?」

「用事もないですし、旦那さまと一緒になんて、ご迷惑は──」

 はあ、と清霞がため息をつく。

「迷惑ではないし、用事などなくてもいいだろう。私に付き添っていればいいだけだ」

「で、でも、お邪魔では」

「まったく邪魔ではない。服装はここへ来た初日のものと同じでいい。他に心配ごとはあるか?」

 ここまで言われては、拒否できない。

「いえ……」

「ではそのつもりで。ごちそうさま」

 心なしかこわった表情で清霞は立ち上がり、ぜんを持って台所へ行ってしまう。

(また、旦那さまをあきれさせてしまったかしら……)

 せっかく気を遣って誘ってくださったのに、と美世はうなだれる。

 はっきりしない自分が嫌になる。どうしたら人と上手うまく向き合えたか思い出せない。昔はちゃんとできていたはずなのに。

(でも、もう出かけることは決まったのだから)

 出先で清霞に恥をかかせないよう、不快にさせないように今から準備しておかなければ。

 不安と緊張の中に、楽しみなような、気が重いような、複雑な思いを抱きつつ、美世は残りの夕食を口に運ぶのだった。



 桜の木があった。

 あたたかな春の日の、斎森家の中庭にある、一本の桜の木。薄紅の花が満開に咲き誇っている。

 夢だと美世は思うけれど、どうやら今度は連日の悪夢とは違うらしい。

 なぜなら、この桜の木はもう斎森家にはないからだ。

 美世の実母──うすが斎森に嫁いでくるときに、すでに育った状態で植えた木だったのだが、彼女が亡くなって一年後には弱って枯れてしまった。

 そう、この桜が咲いていたのはまだ美世が普通に斎森の娘として暮らしていた頃。だから、今回は悪夢ではない。

 それに今までの悪夢の中では、自分の記憶の出来事を追体験しているようだったのに、今夜のこの風景は覚えがない。桜は美世が三歳か四歳のときに枯れてしまったから、当たり前といえばそうなのだが。

 ぼうっとしていると、木の下に誰かが立っているのを見つけた。

 それが誰なのか、すぐにわかった。

(お母さま)

 つややかな長い黒髪が美しい。身にまとっている桜色の着物は、彼女が一等大事にしていたと聞いたことがある。継母に奪われてしまうまで、美世自身も形見として宝物のように思っていたものだ。

 咲き誇る花と同じ色の着物を着て、今にも消えてしまいそうなほどきやしやで美しい母は、まるで桜の精のよう。

 幼すぎた頃の記憶は本当にあいまいで、ぼんやりとしか残っていないけれど、そこに立つ女性が母であると美世は断言できた。

 しかしもう同じくらいの年齢になってしまった女性を面と向かって母と呼ぶのも、奇妙な話だ。

「────」

 母の形の良い唇が動く。視線は美世に向けられていて、何事かを伝えようとしているようだが、遠くて声が聞こえてこない。

「え……?」

「────」

 近くに寄ろうと歩いてみても一向に近づけず、声は聞こえないまま。

「お母さま」

「────」

「何とおつしやっているのですか」

 しきりに何かを繰り返しているようなのに、音はまったく届かない。

 と、そのとき、

「……っ」

 びゅう、と突然一陣の強い風が通り抜けた。髪と桜の花びらが一気に舞い上がって視界をおおい、美世はとつに目を閉じる。

『ま、待って……待ってください、しんいちさまっ』

 脳裏に響いたのは必死な様子の、おそらく母の声。

 なぜだかは、わからない。わからないが、これは実際にあった過去だと理解した。

『違うのです!』

『何が違うというんだ、澄美』

 今度は父の声も聞こえてくる。

『美世は、美世は……』

『異能を持たない。それ以外に何がある』

 生まれてから一度も、異形のものを目に映した気配すらないではないか。父はたいそう不満そうに吐き捨てる。

 美世は聞きかじった程度でしか知らないが、見鬼の才を持つ者は赤ん坊の頃からすでに人ならざるものを見るらしい。

 しかしそれは不安定なもので、いつもかんぺきに見えるわけではない。五歳までにその力が安定したものになり、常時完全に見えるようになって初めて「見鬼の才が発現した」と認められるのだ。

 逆に成長するにつれて異形を見なくなれば「見鬼の才はなかった」ということになる。

 異形のものは子どもの目に映りやすいというが、赤ん坊の頃に素振りすら見せないとなると、その子が見鬼の才を持つ可能性はぐっと下がってしまう。

 まれに例外もいるようだけれども非常に少ないので、子どもが生まれてしばらくして異形を見ている様子がないとわかると、親は九割がたあきらめる。この子には見鬼の才がないのだと。

 つまり、母がまだ生きていたときから美世は半ば父に見放されていた、ということだろう。

『どうか、どうかこの子を見捨てないでください』

『……我が家が斎森家でなく、異能とは何も関係がない家であったならばその子を愛せただろうな』

 冷たい父の声。昔は美世に優しかったらしいと聞いていたが、愛されていたわけではなく、それはただ、幼子に向ける慈しみなだけだった。

 ──愛する恋人と引き裂かれ、望まぬ結婚を強いられて、しかも生まれたのが無能の娘だった父の絶望も、察することはできるけれど。

 父が去っていきひとりになったのであろう母は、泣きそうな声で小さくつぶやく。

『ごめんなさい、美世。ないわたしを許して』

 謝りたいのは美世のほうだった。何の力もなく、人を不幸にするだけの自分のほうが罪深いに決まっているのだから。

『でも、大丈夫よ。あなたがもう少し大きくなったら──』

(え?)

 頭の中に響いていた声が途切れて、美世は目を開けた。

 桜の木は変わらずそこにあったけれども、母の姿はどこにもない。

(大きく、なったら?)

 そのあとは? 母はいったい何と言ったのか。

 もしかして、彼女は美世がいずれは見鬼の才を開花させられるだろうと、あの状況でも期待していたのだろうか?

 釈然としない気持ちを抱きつつ、美世は美しい夢の世界から追い出された。


 障子から明るい朝日が差し込み、ほどよくさわやかな風が流れる室内。

 鏡台の前で、いつもより念入りに髪をく。

 ところどころ歯の欠けた安物のくしではたいして意味はないかもしれないが、時間をかけて丁寧に梳けば少しはましになるような気がして。

 昨日までの倍以上の時間をかけた髪は、普段よりも艶があるように見えなくもない。

(お母さま、すごくれいだった……)

 夢に出てきた母の髪は真っ直ぐで、艶やかで、美しかった。

(わたしの髪も、きちんと手入れをしたらあんなふうになるかしら……)

 自分の髪をつまんでみて、ため息を吐く。──残念ながら、無理そうだ。

 ここへ来るときに着ていた、似合わない派手な着物。傷んだ髪。鏡に映る自分がとてもちぐはぐに見えて、また少し、清霞と出かけるのがゆううつになった。

「美世さま、入ってもよろしいですか」

「どうぞ」

 部屋に入ってきたゆり江は、奇妙なくらいににこやかだ。

「お綺麗ですよ、美世さま」

「……いえ」

「お化粧はされませんか?」

 ぎく、として動きを止める。

 化粧。当然、身だしなみとして必要になるだろう。しかし化粧道具を持っていない。

「え、ええと、わたし、お化粧があまり上手くなくて」

「それならゆり江にお任せくださいな」

「で、でも、道具も持って、いなくて」

 おろおろと視線をさまよわせる美世に、ゆり江はますます笑みを深めた。

「平気ですよ。ほら、お道具はこちらにありますからね」

 はじめから用意していたのだろうか、ゆり江の手には確かに化粧道具の入っているらしい箱があった。

(わたしがあまり物を持っていないこと、きっともう気づかれているのね)

 この狭い家の中のことだ。察しがついて当たり前ではあるけれど。

 清霞にもそのことが伝わっているかもしれないと考えると、消えたくなるくらい恥ずかしい。

「さあ、こちらを向いてください」

 ひとりで苦悩する美世をよそに、ゆり江はてきぱき道具を広げ、化粧を施し始める。

 おしろいはごく薄めに。まゆの形を整え、最後はいくつかある口紅の中から、柔らかな朱色のものを選んで引く。

「はい。できましたよ」

 ゆり江が言うのと、ふすまの向こうから声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

「そろそろ出たいのだが」

「い、今行きます! ゆり江さん、ありがとうございました」

「いえいえ、楽しんできてください」

 鏡で顔を確認することもなく、美世は部屋を飛び出す。するとそこには、紺色の着物に生成色の羽織姿の清霞がいた。

「も、申し訳あり……い、いえ、お、お待たせいたしました」

「いや。待ってはいない。かして悪かった、行こうか」

「はい」

 今日は清霞と出かける日。

 いよいよだ、と美世は気合いを入れて彼のあとをついていく。

「あ、あの、今日はどこへ行くのですか」

 清霞と二人、自動車に乗り込み帝都へ向かう道すがら、行き先がわからないことにはたと気づいて問う。

「ああ、言っていなかったか。まず私の仕事場へ行く」

「はい……!?」

(仕事場!?)

 軍人である清霞の仕事場といえば、もちろん帝国陸軍の本部であろう。

 美世は実際に見たことはないが、広大な敷地に様々な軍関係の施設が集められた、一般人にとっては、たいそう物々しく感じられる場所なのだとか。

 そんなところへ行く心の準備はさすがにできていなかったので、緊張から手が震えた。

「あ、いや。そんな顔をするな。軍本部には行かない」

 自動車のハンドルを操作しつつも、美世の驚きを正確に察したらしい清霞は、かすかに苦笑する。

「え、ですが、仕事場なのです、よね?」

「ああ。だが、軍人の職場が必ずしも軍本部とは限らんな。あそこは帝都の中心部からは少し外れた場所にあるし、帝都の至るところに駐在所も点在している。特にたいとくしようたいは軍の中でもいろいろと異質で、本拠地は軍本部ではなく帝都内の別の場所に設置されている。さほど大きな施設ではないから、緊張しなくても大丈夫だ」

 いくら学のない美世でも、斎森家にいたからには対異特務小隊の名くらい知っていた。

 そもそも構成員のほとんどを、希少な存在である異能者や見鬼の才を持つ者が占める小隊である。規模がそう大きくないことも、容易に想像がつく。

 とりあえず、このまま行っても平気そうだ。美世はほっと息を吐いた。

「それに、ただこの車を置きに行くだけだ。なんということはない。隊員たちと顔を合わせることもないだろう」

「そ、そうですか」

 この国で、自動車はまだまだ普及し始めたばかり。長い距離をすぐに移動できるのは大きな利点だが、せっかく所有していても、駐車できる場所は限られる。帝都を動き回るには、どこかに置かなければならない。

 そんな会話を交わすうち、いつのまにか最初の目的地に到着していた。

 入り口には警備の者が立っていたけれど、自動車の窓から清霞が顔を出すと特にとがめられることもなくすんなり通された。さすが、隊長さまである。

(なんだか、小学校の校舎みたい)

 対異特務小隊の本拠地の建物は、西洋風の建築様式が取り入れられており、形や大きさも、美世の通っていた小学校の雰囲気にどこか似ている。街並みによく溶け込む外観だ。

 もちろん、小学校の校庭と似ているように見える訓練場に並ぶのは児童ではなく、軍服をまとった大の大人だが。

「さて、では行くか」

 自動車を適当な場所に停めて降り、二人は正門を目指して歩き出す。

「あれ~、隊長?」

 しばらくして、背後からのんびりとした声がかかった。現れた若い軍服の男に、清霞はひどく面倒そうな表情になる。

どう

「隊長、今日は非番じゃなかったですか?」

「ああ、間違いなく非番だ。車を置きに来ただけだからな」

「なあんだ」

 五道、と呼ばれた隊員は、少々軽薄な印象のある柔らかい顔に笑みを浮かべて、肩をすくめ、ちらりと美世のほうを見た。

 美世は気後れし、思わず、半歩ほど後退する。

「で、そっちの方は? どちら様?」

「私の連れだ。せんさくするな」

 にべもなくばっさり切り捨てる清霞。しかし五道は慣れているのか、特に気にした様子もなく「ふーん」と返事をする。

「ま、いいか。隊長、明日あしたちゃんと出勤してくださいよ」

「当たり前だ。お前こそ、早く持ち場に戻れ。こんなところで油を売っている時間はないだろう」

「へいへい、了解です。じゃ」

 美世は少し迷ってから、去っていく五道に軽く頭を下げた。

 そして再び二人で歩き出すと、清霞が口を開く。

「あれは一応、私の側近ということになっている男で、五道という。ああ見えて、異能者としてはできるほうだ」

「はあ……」

「不本意だがな」

 あれはいつもあんなふうにへらへらしているし、と清霞は渋い顔だ。

 それから五道以外には誰にも出会うことなく、正門から一歩、街へ踏み出せば、自動車で通り過ぎたときには聞こえなかったけんそうが、耳に飛び込んでくる。

 西洋風と和風がごちゃ混ぜの、ごみごみした街。背の高いモダンな建物がたくさん並び、活気のある道路は人であふれかえっている。

 久しぶりに感じる市街地の空気はやはり独特で、思ったより美世の心を浮き立たせた。

「どこか行きたいところはあるか?」

「えっ」

 まさか希望を聞かれるとは想定していなかったため、驚いてしまう。

「何か、買いたい物やほしい物はないのか?」

「い、いえ、はい、特には」

 今日は本当に清霞についていくだけのつもりで来たのだ。物欲が失われてから久しく、とつに欲しいものなど浮かばない。

 難しい顔になってしまった美世を見て、清霞はふ、と表情を緩ませた。無意識にれてしまうほど美しい微笑みは、一般人には目の毒だ。

「そうか。では私の買い物に付き合ってもらおうか」

「はい」

 春から初夏へ差しかかるこの時期の陽気はほどよく、散策にはもってこいだった。

 華やかな格好をした人々が行き交う様子や、そばを走る路面電車、いろいろな物珍しい店や施設。どれもが美世には懐かしくも新鮮で、つい見入ってしまう。

 そんな彼女を、清霞も穏やかな顔で見守る。

「楽しいか?」

「はっ……も、申し訳ありません! わたし」

 夢中になってしまって、と美世は恥ずかしくなってうつむいた。

 付き添いが主人を放って景色を見るのに気をとられるなど、ありえない。

(わたし、きっとお上りさんのような振る舞いだったわ。恥ずかしくて顔を上げられない……)

 ずっと帝都に住んでいたのに。しかもさっそく清霞にいらぬ恥をかかせてしまったのではなかろうか。

「気にすることはない。好きなだけ、景色を楽しむといい。私も、誰も、それを咎めたりしない」

「でも」

 本当に、本当に良いのだろうか。

 美世のような女を連れて歩いているだけでも悪目立ちしてしまうだろうに、さらに恥を上塗りするようなものだ。

 すると、そっと頭に大きな手が乗った。

「私への迷惑を考える必要はない。お前を誘ったのは他の誰でもない私だ」

「…………」

「いいな?」

「…………はい」

 清霞の手も顔も声も、とても優しい。──優しい、が、有無を言わせぬ謎の圧力を感じ、美世はうなずいた。

「だが、よそ見をしてはぐれるなよ」

「はい。気をつけます」

「よろしい」

 彼の歩調はことさらゆっくりだ。それが美世のためだとわかって、彼の優しさにまた涙が出そうになった。

 この人の、どこが冷酷無慈悲なのだろう。こんなに優しいのに。

 もしも、美世にこの人と釣り合うだけのものがあったなら。きっと、ずっとついていくのに。

 それができない自分がまた、嫌になりそうだった。


「ここが目的地だ」

 清霞が立ち止まったのは、大きな呉服店。看板や店自体の雰囲気からして、おそらくは老舗や高級という修飾がつく部類の。

 店内は畳敷きになっており、こうには美しいふりそでがかけられている。夏に向けてか、鮮やかな色柄の反物が棚からのぞいていた。

 呉服店には初めて入るので、美世は圧倒されてしまう。

「大きい……」

「ここは『すずしま屋』といって、まあ、久堂家が昔から贔屓ひいきにしている店だ。帝のお召し物を仕立てることもあるらしい」

「す、すごいのですね……」

 清霞の説明にも芸のないあいづちしか打てないくらい、緊張する。そして、急に自分の身だしなみが気になって仕方なくなった。

 別段おかしな格好をしているつもりはないけれども、一流の店に入るには貧相すぎるのではないだろうか。

 だいいち、今着ている着物は柄も色も似合っているとは言い難い。おそらく父が適当に指示して見繕ったのだろう。安いものでもないが、特別に良い品でもない、といったところだ。

「いらっしゃいませ、久堂さま」

「今日は世話になる」

 この店の女主人とおぼしき、品の良い初老の女性がやってきて丁寧に頭を下げる。

 落ち着いた雰囲気ながらも華のある、趣味の良さそうな女性だ。

「さっそくですが事前にご連絡いただいたお品、条件に合うものをこちらで何点か選ばせていただいておりますわ。奥へどうぞ」

「ああ」

 清霞の着物を買うのだろう。美世はついていったほうがいいのか、少し迷ってしまう。

 じっとしていると、店員の女性がにこやかに近づいてきた。

「お嬢さまもこちらへどうぞ。ぜひ店内をご覧になってくださいませ」

「そ、そうですね。……だんさま、わたしはお店のものを見せていただいてお待ちしていますので……」

 おずおずと申し出ると、清霞は、

「好きにするといい。気に入ったものがあれば言え。帰るときに買おう」

 と言い残し、店の奥へ入っていった。

(旦那さまに買ってもらうなんて、そんな恐れ多い)

 この店にある品は見るからに高級なものばかり。とても気軽にねだれない。

 そもそも高かろうが安かろうが、何かを買ってもらうのは心苦しい。

「はあ……」

 場違いをひしひしと感じつつ、美世は女性店員に付き添われ、店の中を見てみることにした。


 奥の和室へと入った清霞は『すずしま屋』の女主人──けいと向き合った。

 二人の間には、いや、もはや部屋じゅうに、波打つように美しい女物の反物が所狭しと並べられている。

「ふふふ。久堂の坊ちゃんもようやっと、ですわねえ」

 桂子とは清霞が子どもの頃からの付き合いである。和服を仕立てるとなると必ずこの店に世話になっていたので、彼女にはまあ、いろいろと知られていた。

 例えば、清霞が結婚どころか恋人すらろくにいなかった過去であるとか。

 頭の痛い話だ。

「別にそういうことでは……」

「恥ずかしがらなくてもよろしいですわよ。お坊ちゃんが女性をつれてくるなんて、初めてじゃありませんか」

 確かに、それはそうなのだが。

 今日ここへ来たのは、ゆり江の報告を聞いたからだった。

『美世さまは古着をご自分で繕われて──』

 裁縫道具を持っていったら、美世がなんと、破れた着物を自分で直していたという。

 ゆり江は止めようとしたようだが、美世はあまりそのことを知られたくない様子であることに思い至り、見守るだけにとどまったらしい。

 清霞自身、普段から美世の着ているもののことは気になっていた。

 地方の貧しい農民と同じかそれ以下の古着。色や柄に違いはあれど、どれも似たり寄ったりのぼろぼろさでさすがに心が痛んだ。

 ゆえに、今までの結婚相手候補たちにはねだられても何かを買い与える気にならなかったが、珍しくこうしてこの店にやってきて、着物を買ってやろうとしているのである。

 何か特別な意味があるわけではない。

「で、彼女に合いそうな品はあるか?」

 あからさまに話題をそらした清霞を、桂子は心底おかしそうに笑う。

「ふふ。まあ、そうですわねえ。あのお嬢さまはこちらや、こちらのような淡い色のものがお似合いになると思いますよ」

 ふむ、とひとつうなずく。

 桂子の言う通り、季節を考えても淡い色の着物が良いだろう。空色や若草色、藤色も良いかもしれない。

 桂子の助言も聞きながら悩みつつ、ふと目線を上げたところで、ある反物が目に入った。

「あれは?」

「ああ、あれも良いお品ですわね。今から仕立てるとなると、少し季節が合わなくなるかもしれませんけれど」

 それは、美しい桜色の反物だった。淡いのにどこか鮮やかな色合いで、目を引く。

(この色は、似合うだろうな)

 つい、想像し──ようとして、慌てて打ち消した。

(何をやっているんだ私は)

 特別な意味はない。ないのだ。

 勝手に想像されては美世とて気持ち悪いに違いない。いやむしろ、想像しようとした自分が気色悪い。いい年をした男だというのに。

「これでひとつ仕立ててくれ」

「あら、良いのですか?」

 結局、桜色の反物を手にとって桂子に渡した。

「いい。いくらか時期が過ぎても、来年の春にまた着られるしな。あとここらの生地で何枚か仕立ててくれるか。予算は考えなくていい」

「かしこまりました」

 桂子にすすめられ、清霞自身も良いと思った色のものを何点か選んで注文する。

「帯と小物も合う柄のものを頼む。任せてもいいか」

「ええ、大丈夫ですよ。……ああ、そうだ」

 ぽんと手を打って、桂子は端に置いてあった手のひら大の箱を持ってきた。

「こちらは今日お持ち帰りでよろしいですわね」

 受け取った箱のふたをとる。そこにあらかじめ頼んであった品が入っていることを確認し、清霞はうなずいた。

「ああ、ありがとう。もらっていく。代金は着物とまとめて頼む」

「わかりました。……久堂さま」

「なんだ」

 箱を大事に懐にしまってから、あらたまった様子の桂子を見やる。

 くわっと目を見開いた彼女が何を言い出すかと思えば。

「いいですか、あのお嬢さまは絶対に離してはいけませんわよ!」

「はあ?」

「あの方はいわば原石ですわ。あの髪も肌もお顔でさえも! 計り知れないほどの伸びしろがございます。磨けばお坊ちゃんと並んでもそんしよくがないほどの美人になりますわ」

 桂子は人を着飾るものを扱っているだけあって、そのあたりにはこだわりがあるらしい。

 かくいう清霞も、美世は決して不美人ではないと思っているが。

「今日お買い上げくださった品々は始まりにすぎません。これからお坊ちゃんの愛と財力で離さず磨き続けるのです。そうすれば」

「そうすれば?」

「美しい女性を遠慮なく着飾る楽しみが生まれますわ!」

 どうやらそれが本音のようだ。

「はあ。まったく……愛などと、そういうものではないと言ったはずだが」

 清霞の母親ほどの年齢の桂子が、少女のように目を輝かせて意気込んでいるのを見て、ため息を吐く。

 けれど悪くないと、おかしなことを考えている部分も少しあり。

「また世話になる」

 深くは考えずに、そう口にしていた。

 奥から店内に戻ると、美世があるものをじっと見ていることに気づいた。その視線を辿たどってみれば。

 あの桜色の反物があった。

 どうやら似たものが展示されていたらしい。

(しかしあの表情)

 どこか寂しそうな、決して手に入らないものを眺めているような、そんな表情だ。

「……お母さま」

 耳をすませていなければ聞こえないほどの小さな声。美世は清霞が戻ってきていることには気づいていないらしかった。

 わずかな時間だけ迷ってから、声をかける。

「それが気になるのか」

「……! だ、旦那さま! あの、あのこれは欲しいとか、そういうことではなくてっ」

「…………」

「母の、形見に似たような色の着物があって……いえ、もうないのですけれど。懐かしかった、だけなのです」

「そうか」

 その形見とやらの行方は気になるところではあるが。

 とりあえず嫌いだとかいうことではなさそうで、ほっと胸をなでおろした。

「他に何か気になったものはあったか?」

「い、いえ。今のところは、間に合っている、ので」

 美世は自分からは欲しがらない。遠慮して遠慮して──だからこそ、清霞も今日この店に来た目的を彼女に話さなかった。

 話せば申し訳なさでいっぱいになり、死にそうな顔になる彼女が容易に思い浮かぶ。

 そしてその判断は間違っていなかったと確信する。

「では、行こうか」

「はい」

「またのお越しをお待ちしております」

 深々と頭を下げる桂子や店員に見送られ、二人は『すずしま屋』をあとにした。



美味うまいか?」

「は、はい。甘くて、美味おいしいです」

 呉服店を出た美世と清霞は、休憩と腹ごしらえを兼ねて甘味処を訪れている。

 遠慮はいらないと言われたはいいが、何を注文するか、いっそ注文するかどうかを迷いに迷った美世も、最後は清霞からの無言の圧力に負け、値段も高くなく店のおすすめであるというあんみつを頼んだ。

 ただ、同じテーブルの向かい、いつもより近い距離に清霞がいるという緊張と、他の客の彼に注目する視線が気になってろくに味がわからない。

(み、見られているわ……)

 街を歩いているときからそうだった。

 普通に歩いているだけにもかかわらず、清霞は周囲の注目を集める。

(その気持ちは、よくわかる、けれど)

 久堂清霞という人は、絶世の美青年だ。女性顔負けの美しい長い髪を持ち、一挙手一投足がとても優雅で隙がなく、目を奪われる。遠目からでも、その存在感は圧倒的であろう。

 そんな人が、見られないはずがない。

 おまけに、とりわけ若い女性から、美世がものすごくにらまれる。

 どうしてあんな子が、あんな素敵な人と、といったところだろうか。確か、ゆり江に借りた雑誌に連載されている恋愛小説の中で、似た場面があった。

 いわゆるしつだが、美世にしてみると、それはまったくの見当はずれで、そういった女性たち全員に弁解し謝罪して回りたいくらいである。

 自分はただの付き添いなのです。誓って、この方とは何もありません、と。

 なんなら自分が婚約者をくびになったあとは、好きにしてもらって構わない。そう言って回れたらいいのにと、もう百回くらいは考えた。

 けれどそんなくだらない考えも、なんとなく機嫌の良さそうな清霞の表情を見れば和んでどこかへいってしまう。

 普段はどちらかというと無表情というか、仏頂面といった感じなので余計に。

 どちらにしろ、美世にしてみれば落ち着かないものに囲まれて生きた心地がしないが。

「あまり美味しいと思っている顔ではないな」

「そ、そんなことはありません」

 あん、白玉、寒天。滅多に食べられない甘味だ。不味まずいはずがない。

(たぶん、きっと)

「……お前は本当に笑わない」

 何気ない調子のつぶやきに、どきり、とした。

 なるほど、うれしそうな、美味しそうな表情ひとつできない女など、気分が悪くなるだけかもしれない。

「それは……申し訳ありません」

「いや、責めているわけではなくてだな。ただ、笑っているところを少し見てみたいというか、興味があるというか」

 美世が笑っているところに興味? 思わず首をかしげてしまう。

だんさまは、その、変わっていらっしゃいますね……?」

「…………」

「あ、も、申し訳ありません! わたし、生意気なことを。し、失言でした。本当に申し訳ありません」

 変わっている、とは主人に対して失礼すぎた。

 久しぶりに街に出て、いろいろなものを見て、気持ちがふわふわしていた。そして浮ついた心地のまま口を滑らせた。最悪だ。

 きっとならば、こんな失敗はしない。あの子は美世に嫌なことばかりしてきたけれども、要領がよく、決して誰かに見とがめられることはない。

 申し訳なさとなさから、無意識に縮こまる。

「私は怒っていない。だからそんなふうに小さくなる必要はない」

「ですが、わたしは……」

「私たちはこのままいけば結婚する仲だ。思ったことは何でも言い合えるほうがいいだろう。私も、お前が今のように素直な言葉を口にするほうがうれしい。謝罪ではなく」

 今度こそ、美世は完全に固まってしまった。

(結婚する仲……)

 彼はきっと知らない。美世が異能を持たないことも、それどころか、人並みの教養も何もかも持たず、とても久堂家の嫁など務まらないことを。

 今はそれで良くとも、結婚し、上流社会へ出れば、確実にその粗を隠し切れなくなる。

 そっと、持っていたさじを置く。

 今日は清霞にたくさんのものをもらった。

 ここでこうして、楽しくお茶をできているのも、素敵な街の様子を見られたのも、このあんみつだって。

 ありがたいと思うなら、彼のことを思うなら、たとえ恨まれたとしても今ここで、自分には無理だと、あなたには相応ふさわしくないと、美世が自分から告げるべきなのだろう。

(でも)

 望んでしまった。

 少しでも長く、この人と暮らしたい。できるならば、支えたいと。

 だから今は告げたくない。手前勝手なことを考えている自覚はもちろんあるけれど、それでも。

 謝罪ではなく、美世の素直な気持ちを聞きたいと言ってくれたことも、すごく、すごく、うれしかったから。

(あとでいくらでも、どんな罰でも受けます。だから)

 今だけ、許してほしい。

「わ、わかり、ました。これからはちゃんと、言います」

「それでいい」

 初めて会ったときには想像もできなかった、清霞の柔らかな微笑みが胸にみる。

 もう少しだけこの幸せな時間を過ごしたら、本当のことを言おう。美世は心の中でひそかに誓った。



   ◇◇◇



 清霞はあえて、何も聞かなかった。美世の表情がいんうつに曇った理由を。無理に聞かなくとも、じきにはっきりすることだ。

 何も見なかったふりをして代金を支払い、甘味処を出たあとは、二人で散策を続け、書店をのぞいてみたり、躑躅つつじの咲く花ざかりの公園に行ってみたりした。

 いちいち新鮮な反応を見せてくれる美世は、同行者としてこの上なく面白い存在で、思いのほか清霞も楽しむことができた。たまにはこういう休日の使い方もいいと満足できるくらいは。

 それから流行はやりの洋食屋で食事を済ませ、車を取りに行って家に帰る頃には、日も大きく傾いていた。

「あの、旦那さま。今日はありがとうございました」

 車から降りると、やはりどこか緊張したように美世が言う。

 今日一日でだいぶ打ち解けたように感じたが、彼女が自然に、かしこまらずに接してくれるのは、まだまだ遠いようだ。

「こちらこそ。無理に付き合わせたようで悪かった。少しは楽しめたか?」

「はい。とても、楽しかったです」

「ならば、よかった。また行こう」

「……はい」

 そこで、懐に入れていた箱を今出すべきかと、わずかにしゆんじゆんする。

(やめておくか)

 今日このときに、面と向かって渡すのは何かと障りがある品だ。美世の重荷になってしまうのは本意ではない。

 夜。考えた末、美世がに入っているうちに、そうっと彼女の部屋の前に箱を置く。いくら遠慮の塊である彼女でも、さすがに部屋の前に置いてあるものは受け取らざるをえないだろう。

 気づいた美世が何を言ってくるか、居間で茶を飲みながら待つ。

 すると、風呂からあがってきた彼女が自室に向かった気配がして、いくばくも経たないうちに居間へ顔を出した。

「だ、旦那さま、これ……」

 風呂で温まったせいか、慌てていたせいか。浴衣ゆかたに身を包んだ美世は、頰をほんのり紅潮させている。

「大人しくもらっておけ」

「置いたのは、旦那さま、ですか?」

 美世は箱のふたをとっておそるおそる、といったふうに中身を凝視する。

 箱に入っているのは、くしだ。

 細かく花の模様が彫られたつげの櫛。まあ、一般的な感覚で言うと安くはない代物であるが、髪にはやはり櫛のよしあしが関係してくる。

 今の美世に贈るならこれしかないだろうと考えた。もちろん実用面で、だ。

「さあな」

 問題は男が女に櫛を贈るという行為に、求婚の意味があること。だから初めての贈り物には向かない。

 よって誤解を避けるため、こんなふうにこそこそとする羽目になってしまった。

「こんな高価なもの、いただけません」

「気にすることはないだろう」

「ですが」

「気にするな」

「え、っと……置いたのは旦那さま、ですよね……?」

「…………」

「旦那さま?」

「ふ、深い意味は考えず、使えばいいのではないか」

 意味のない問答を繰り広げてから、ちらりと美世をうかがい見て──清霞は思わず目を丸くした。

「では……はい、そうします。ありがとうございます、旦那さま」

 美世が、ほんのりと、ごくわずかに、笑っていた。

 つぼみがほころぶように、氷がとけるように。で、美しい笑み。

「大事に、使わせていただきますね」

「そうしろ」

 唇も、声も震えてしまう。

 この感情は何というのだろう。

 感動、だろうか。それとも、興奮か、歓喜か。名をつけがたいくらいにいろいろなものが混ざっているけれど。

 強いていうなら、愛しさ、だった。



 美世と二人で出かけた日から数日が経った。

 すでに規定の勤務時間を過ぎた頃に、清霞は対異特務小隊屯所内の隊長室でひとり、ある書類を眺めていた。

 今日、信用できる知り合いの情報屋から受け取った、以前より頼んであったもの。

 ──斎森美世についての調書。

 清霞は情報屋に、できれば斎森家内部の詳しい情報がほしいと依頼した。そのため、調べるのに少し時間がかかったのだ。

 斎森家の使用人や元使用人に話を聞こうとしても、彼らはそろって口が重い様子であったらしい。

『よくある話っちゃあそうなんですけどね』

 情報屋はぽりぽりと頰をかきながら、まゆをハの字にしてそう言っていた。

 美世の実の母が亡くなり継母がやってきて、さらにその娘の出来が良かったために美世は侮られ、虐げられた。

 簡単に言ってしまえばそういうことで、確かにありがちだ。

 加えて、異能を受け継ぐ家では、才能のある者とない者の扱いの差がより顕著になる。

 異能が第一。異能を持たねば、意味がない。そんな考え方の家がほとんどだからだ。

 調書に記されている、情報屋が聞き出した斎森家の内情はひどいものだった。

『母の、形見に似たような色の着物があって……いえ、もうないのですけれど』

 美世のあの言葉を思い出す。

 形見を奪われ、捨てられたとき、彼女はどんな気持ちだっただろう。自分を虐げる継母と異母妹、見て見ぬふりをする父親、傍観する使用人たちに囲まれてひとりぼっちで。

 道理で、炊事洗濯掃除、裁縫までなんでも率先してするわけだ。彼女は斎森家の娘であって娘ではなかった。下僕のようにいいように使われ、食事さえ満足に与えられていなかった。

 あのせこけた身体も、ぼろぼろの古着も、笑うことさえ満足にできないのも。

 全部、彼女の家族が原因だったのだ。

 書類を持つ手に力が入り、ぐしゃり、と紙にしわができる。

 彼女ひとりに負担を強いた人間たちに、怒りが湧いた。

 そして清霞自身も、美世にかなりきつい言葉をぶつけてしまった。知らなかったとはいえ悔やんでも悔やみきれない。

(だが、これでわかった)

 美世には異能がない。見鬼の才さえも。ゆえにおそらく、彼女は清霞との結婚は成り立たないと考えているはずだ。

 それで過剰に遠慮がちになる。いずれは出ていくつもりなのだろう。

 しかし清霞にとっては、もはや異能の有無などどうでもいい。今までの縁談の相手とて、すべてが異能者だったわけではない。裕福な商家の娘やら、政治家の娘やらとも縁談があった。

 清霞に縁談を持ってくるのは先代──つまりは彼の父親なので、結婚相手が異能を持つ娘でなければ許されない、ということもない。

 何より大切なのは、ただそこにいてくれることだ。地位や財産目当てでなく、ただ妻としてあの家にいてくれる女性を清霞は望んでいて、美世はそれをかなえてくれる。だから、手放すことは考えていない。

 そして、気になることはまだある。

 美世の母親の実家は──あの薄刃家。

 久堂家や斎森家といった異能を受け継ぐ家は、古来より帝に臣下として仕えてきた。

 常人には見ることができぬ異形を討伐するために、異能は不可欠だ。他にも、国の平穏を保つため、戦をおさめるためと、いつの時代にあっても、その力は重宝されてきた。

 異能には、さまざまなものがある。念じるだけで物を動かすもの。何もないところで火をおこし、水や風を意のままに操るもの。一瞬で離れた場所へ移動するもの。空中を歩き、分厚い壁に隔たれた向こうを見通すもの……。

 これらを複数同時に身に宿す者も、異能者の中では珍しくない。

 けれど、薄刃家の異能はこれらの比ではない。飛び抜けて異質で、危険なのだ。

 かの家の受け継ぐ異能はことごとく、人の心に干渉する。

 人の記憶を操作したり、夢に入り込んだり、思考を読んだりするのはまだ危険度の低いほうだ。中には相手の自我を消しかいらいを作り出したり、幻覚を見せて錯乱させたりする能力もあった。

 薄刃家は自分たちの異能の危険さを十分に理解していた。使い方によっては、どんな攻撃的な異能よりも国にとって害になりうると。

 ゆえに、いつからかはわからないが、彼らは決して表舞台に立たず、ひっそりと隠れて暮らしている。

 独特のしきたりによって自分たちの行動を縛り、異能の情報が漏れることを警戒し、滅多にその血を外に出さない。絶対に誰かに利用されることのないよう、場合によっては帝からの命でさえ退けることもあるという。

 この薄刃澄美という女性が斎森家に嫁いだのは極めて例外的で、珍しいことだといえる。そのあたりの事情は気になるところだ。

「はあ」

 思わずため息がこぼれた。

 正直、美世が嫁いでくるにあたって、清霞に何も損はない。むしろこれ以上なく望ましい。

 だが、薄刃家については得体が知れなくて不気味だ。接触してみようにも、久堂家の力をもってしても非常に困難で、彼らの居場所も、連絡手段すらわからない。情報屋に頼んだところで徒労に終わるだろう。

「どうしたものか」

 書類を放り出し独りちたが、妙案は浮かばなかった。


 気づけばすでに日も落ちかけている。

 清霞は帰り支度をし、夜勤の隊員に声をかけて屯所を出た。

 考えてみると、最近は前よりも帰宅時間が早くなった気がする。以前は屯所に泊まり込むことも多く、日があるうちに帰路につくほうがまれだった。

 それが今では、玄関で出迎えてくれる美世の姿に妙にあんをおぼえ、自然と、彼女との食事の時間がとれるように家に帰っている。

(本当に、らしくない)

 二人で出かけたあの日の夜から、おかしな動きをする自分の心をすっかり持て余している。

 そのうち『すずしま屋』の桂子が言っていた状態が現実になりそうでおそろしい。

 あの胸がきゅっとするらしくない感情に従って、美世に何でも与えたがる自分がすでに想像できてしまう。

 清霞は女性に対し、苦手意識を持っている。

 幼い頃から多くの女性に言い寄られてへきえきしていたし、けばけばしくぜいたく好きでかんしやく持ちの母親が大嫌いだった。

 大学時代には先輩にたしなみがどうのと言われるまま、何人かとお付き合いの真似事をしたものの、苦手意識が加速しただけ。しまいには女性の使用人の、必要以上に濃いおしろいのにおいや、ねこで声もうつとうしく感じる始末。

 さすがに今では愛想笑いを浮かべて受け流すこともできるが、ゆり江や桂子など知己を除く女性とはなるべく距離を置き、関心を持たれないように気をつける。

 とはいえ、やはり本邸は女性の使用人が多く、常に秋波を送られては心休まることもないため、あの小さな家に移った。

 それが今はどうだ。年頃の女性と好んで同居しているなど、数年前の自分に言っても絶対に信じないに違いない。

 ふ、とちようし、けれども不穏な気配を感じて、清霞は歩みを止める。

(何か、ついてきている)

 背後から、視線。複数だ。足音も息遣いも聞こえず、ざわざわとした気配のみが伝わってくる。生身の人間ではないらしい。

(どこのどいつだ。私を探ろうとする愚か者は)

 人ではない何かを使役している以上、どこかの異能者に間違いないが、とんだ命知らずだ。

 あるいは、自分の力量に絶対の自信があるのか。

 まだ屯所の敷地内であり、辺りに人気はない。ここの門番に見鬼の才はなく、結界も張っていないから、人でないものは入り放題。しかしそれは、いざというときに人目につかないここを戦場とするためのわなでもある。

「まったく、愚かな」

 清霞がかすかに指先を動かすと、物陰から小さなものが、彼らの意に反して強い力で引きずり出された。

 鳥とも人ともつかない形をした、手のひらほどの大きさの紙が、無数に宙に浮かんでいる。

 けれどそのすべてが、今は自主的な動きを封じられ空中に静止していた。

 どこの手のものかと問うても無駄であろう。相手は目として使われるだけの、ただの紙切れでしかない。

「くだらないことをする」

 つまらなそうにつぶやいて清霞がきびすを返すと、青い炎がぼうっと浮かび、動けない式たちを燃やし尽くした。

 身に宿した複数の能力を同時に難なく使いこなす技こそ、清霞が当代一の異能者と呼ばれる所以ゆえんである。

(大したことのない相手ではあったが)

 本当に、どこの誰の仕業か。

 なんとなく嫌な予感が脳裏をかすめて、清霞は自動車に乗り込み、帰路を急いだ。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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