一章 出会いと涙と

 帝都に大きな純和風の屋敷を構えるさいもり家の朝は、他の名家と同じく、居間で一家がゆったりと朝食をとることから始まる。

 ただし、すがすがしい空気を切り裂くような、この甲高い声さえなければ。

「なによこれ!」

 ぱしゃ、と熱い液体が顔や胸にかかる。

 はうめき声ひとつあげず、床に額をこすりつけた。

 のみを片手にまゆり上げる、華やかな美しさを持つ妹と、その横で平伏する、地味なお仕着せ姿のみすぼらしい姉に、周囲の使用人はまたか、と顔を背ける。

「こんなお茶、渋くて飲めないわ!」

「申し訳ありません」

「すぐにれなおして!」

 茶の味はいつもと全く変わらないはずだ。

 異母妹のわがままに、かしこまりました、と美世は召使いのように頭を下げたまま台所へと急ぐ。

「もう。お茶も満足に淹れられないなんて、恥ずかしくないのかしら」

「本当にねえ。みっともないこと」

 後ろから聞こえてくる異母妹と継母のちようしようは、聞こえなかったふりをする。

 実の娘があざわらわれているというのに、父は特に気にした様子もなく食事を続けている。

 もう何年もこの調子だから、美世はとっくに父への期待をくしていた。


 この国には、古来よりぎようが出る。人や動物に似た姿をしたもの、名状しがたいいびつな形のもの、定まった形を持たないもの。様々な外見をしたそれらは、鬼や妖とも呼ばれ、人に害をなした。

 これを討伐するのが、代々、超常的な力を持つ者が生まれる特殊な家の異能者たちだ。

 異形はけんの才を持つ者にだけ見ることができ、異能を用いた攻撃でのみ、滅することができる。彼らはその特殊性から、帝の信用を得て、長く重用されてきた。

 斎森家は歴史ある名家である。そして、異能を受け継ぎ、その功績によって繁栄してきた家のひとつ。美世はそこに長女として生まれた。

 父と母は政略結婚だった。ともに異能を宿す身で、その特殊な血を少しでも濃く保つよう組まれた縁談であった。家の決定にはどうあがいても逆らえなかった父は、当時恋人がいたが別れ、しぶしぶ結婚を承諾したのだという。

 そんな愛のない夫婦の間に生まれたのが美世だ。

 美世ははじめのほんの数年間、確かに愛されていた、らしい。記憶はおぼろげだけれども、当時は父も優しく、母は目いっぱい美世を可愛がっていたと聞いた。

 けれど、美世が二歳のときに母が病でこの世を去り、父がかつての恋人と再婚したことで何もかもが変わってしまった。

 継母は恋人だった父との仲を引き裂いた女の娘である美世を恨んだ。父は政略結婚にうなずいてしまった負い目から、継母に弱い。さらに、やはり愛する女性との間に生まれた娘のほうが可愛いのか、異母妹が生まれ成長するにつれ、美世には見向きもしなくなった。

 異母妹であるは、美世よりはるかに器量良しで、要領もいい。おまけに美世にはない見鬼の才まで持っていて、彼女が継母とともに美世を下に見るようになるまでに時間はかからなかった。

 美世は今年十九になった。良家の娘ならば、もう嫁いでいて当然の年齢だ。

 しかし使用人以下の扱いを受けている彼女には縁談などなく、賃金ももらえないので蓄えもないばかりか、自由に家を出ることもままならない。

「お待たせいたしました」

 淹れなおした茶を、香耶のぜんに置く。異母妹は何も言わず、ふん、と鼻を鳴らした。

 きっと、一生こうして大人しく下僕のように働くだけ。

 美世はすでに、すべてをあきらめていた。


 父と継母、異母妹の朝食が終わると、他の使用人たちと後片付けをし、次は玄関前の掃除を始める。

 美世が屋敷内の掃除をすることはあまりない。うっかり継母や香耶と顔を合わせると、何かと用事を言いつけられ、面倒なことが起こるからだ。

 使用人たちもそれをわかっているので、気を遣ってか、美世の分担は決まって洗濯や外の掃除だった。

 継母と香耶に外出予定がない日の玄関前掃除は、美世も、いくらか心が軽い。

「こんにちは」

 黙々と掃除をしていると、その日は、昼も近づいたころに来客があった。

「あ……こうさん。こんにちは」

 眉を下げてうっすら笑みを浮かべる青年に、美世は頭を下げる。

 たついし幸次。かっちりした三つ揃いのスーツに身を包み、その優しげな整った顔で微笑む彼は、斎森家と同じく古くから異能を受け継ぐ辰石家の次男だ。屋敷も近く、美世や香耶とは幼なじみでもある。

 何より、彼は美世をちゃんと斎森家の娘として見てくれる、心を許せる人物だ。

「今日はいい天気だね。とても暖かくて」

「はい。洗濯物がよく乾きそうで助かります」

 美世が、こんな何でもない会話ができるのは、今は彼だけだった。

 彼は美世が使用人のように扱われるようになってから、何度も状況を改善しようと試みてくれた。

 結局、辰石家の当主──幸次の父に「人様の家のことに口を出すな」とこっぴどく叱られてしまい、以降、表立って美世をかばう言動をしなくなったが、それでも美世は彼を味方だと思っている。

「ああそうだ、つまらないものだけれど、よかったらどうぞ」

「……お菓子、ですか?」

 幸次が差し出した、綺麗な和紙でできた箱を受け取る。

「そうなんだ。流行はやりの洋菓子じゃなくて悪いけど。ああいうのは傷みやすいって聞いたから」

「いえ、ありがとうございます。使用人の皆でわけていただきます」

「うん。そうして」

 そこまで話して、美世はふと気づく。

「今日はどのようなご用なのですか?」

 幸次の格好は、いつも訪ねてくるときよりも、だいぶかしこまっているように見えた。彼が洋装をしているのはとても珍しい。

 美世の問いに、幸次は表情を曇らせ、ばつが悪そうにそっぽを向く。

「ああ、うん。まあ……ちょっと大事な用、だよ。君の父上に、ね」

 この態度も、珍しい。彼はわりとおっとりした性格だが、あいまいなもの言いはあまりしない。

 内心で首を傾げていると、「じゃあまたあとで」と言ってそそくさと屋敷の中へ入っていってしまう。

 一体何だったのかしら、と疑問が浮かんだものの、すぐに自分には関係のないことだと打ち消し、ほうきの柄を握りしめる。

 美世は斎森家の長女だが、そんなものは戸籍上だけのことにすぎない。才も、教養も、秀でた見目も持たず、そこらの貧しい庶民の娘と変わらない。幸次とももう住む世界が違うのはわかっていた。

 急に重たくなった心から目を背け、掃除に集中していると、使用人のひとりがわざわざ屋敷から出てきて、美世に声をかけた。

「美世さん、だんさまがお呼びよ」

「え?」

「すぐにお座敷に来るように、ですって」

「……わ、わかり、ました」

 ──何か、嫌な予感がする。

 普段、使用人かそれ以下にしか思われていない美世が、来客中に名指しで呼び出されることはない。予想外の事態には、恐怖しかなかった。

 震える足をしつしてなんとか座敷までたどり着く。

「失礼いたします。美世です」

 ふすま越しに呼びかければ、父が短く「入れ」と答える。その声音は硬く、緊張から襖にかけた指先が冷たくなった。

 座敷には、父と幸次、継母に香耶と勢ぞろいしていた。

 やはり、自分にとって良くないことが起きようとしている、と悟ったが、無表情でおびえを押し隠す。美世は不快そうに顔をしかめている継母と異母妹から距離をとり、入り口の近くに腰を下ろした。

 父がいっさい美世のほうを見ることなく、淡々と口を開く。

「話というのは、他でもない、縁談とこの家の今後のことだ。……美世、お前にも今のうちに聞いてもらったほうがいいと思ってな」

 縁談。その言葉を聞いただけで、ぞくりとした。

 これから確実に起こる変化に対する、不安や恐怖。そして少しばかりの期待を抱く。もしかしてそれは、美世にとって喜ばしい変化になるかもしれない──。けれど、そんなことを考えた自分を、すぐに許せなくなった。

 だって、起こるわけがない。そんな都合のいい奇跡のようなことが。

 しん、とした座敷に、父の声が響く。

「この斎森家は、幸次君に婿養子に入って継いでもらうことにした。……彼の妻としてこの家を支えるのは、香耶。お前だ」

 ──ああ、やはり。

 覚悟していたはずなのに。急に足元に大穴があいたように、恐怖か、絶望か、美世の心は黒く染まった。勝ち誇ったような香耶の表情にも意識が向かないほど、真っ黒に。

 父が辰石家の次男である幸次を入り婿にと考えていることは、前から気づいていた。だから、もしかしたら、と自分でも気づかぬうちに淡い期待を抱いてしまっていたのだ。

 もしかしたら、唯一心を許せる幸次と結婚できるかもしれない。

 もしかしたら、斎森家の女主人として存在を許してもらえるかもしれない。

 もしかしたら、香耶はどこかに嫁いでいって、もう比べられずに済むかもしれない。

 もしかしたら、父と昔のように話せる日が来るかもしれない。

 ……なんて、馬鹿なことを考えたのだろう。全部、ありえないに決まっている。

「美世、お前には嫁いでもらう。嫁ぎ先は、どう家。当主の、久堂きよ殿のところだ」

 もう、顔を上げていることさえおつくうだった。深々とこうべを垂れ、震える声で「はい」と返事をする。

「まあ! よかったじゃない。あの久堂家に嫁げるなんて」

 香耶がわざとらしくはしゃぐ。

 久堂家も異能を受け継ぐ家だ。何人もの強力な異能者を輩出し、数えきれないほどの手柄を立て、数々の伝説を残す家。地位、名声、財力、どれをとっても、他家の追随を許さない名家である。

 しかし一方で、当主の清霞は冷酷無慈悲な人物として有名だった。結婚に関しても、多くの良家の女性が、彼と婚約し家に入ってから三日ともたずに逃げ出すほどだと。

 使用人たちの噂で、美世でも知っているくらいだから、よほどひどいのだろう。

 父は、そんな男性のもとへ嫁に行けという。そして、一度家を出たからには、もう二度と斎森家の敷居をまたがせぬつもりだろう。

 女学校にさえ通っていない美世が、久堂家の当主となど、上手うまくいくはずがないことを知りながら。

「取り柄が何もないあなたには、もったいなさすぎるお話ね。お断りするなんて失礼なことはできないわねえ」

 継母もずいぶん機嫌がよさそうだ。彼女にとって、美世がどれだけ目障りなのかがよくわかる。

「ああ、もちろん断ることは許さない。これからすぐに荷物をまとめ、それが済み次第、久堂殿の屋敷に行くように」

 何も言えないまま、血の気が引いていく。

 この斎森家を出れば、少しは心が楽になるかと思った。けれど、嫁ぎ先が久堂家では、何も期待はできない。

 早々に追い出されるか、あるいは冷酷無慈悲と噂の結婚相手の不興を買い、斬られるか。今のように使用人として扱われれば、まだいいかもしれない。

 正式に婚約するより前に相手の家に入って、しきたりを学んだり、二人の相性を見たりすることはまれにある。気難しいと評判の清霞が相手なら、なおさら、そういった措置をとってもおかしくない。

 しかしそれも、美世には何もかもに見放されることのように感じられ、目の前が真っ暗になった。


 暗い気持ちで座敷から辞すると、後ろから追いかけてきた幸次の、自分を呼び止める声が聞こえた。

「幸次さん?」

 振り向けば、彼は今まで見たことがないほど気まずそうに、苦しそうに顔をゆがめている。

「美世、ごめん。僕は本当に、ないね。結局何もできなくて、今だって、なんて言ったらいいのか」

「幸次さんが謝ることではありません。ただ運が、悪かっただけ、ですから」

 美世は幸次を安心させるために微笑もうとして、けれど、頰が凍りついたようになって上手くいかなかった。

 そういえば、最後に笑ったのはいつだったか。

「違う! 運なんかじゃ」

「違いません。……いいのです。わたしは今回のこと、別に気にしていません。だって、もしかしたら、嫁ぎ先で幸せになれるかもしれないのですから」

 じんも思っていないことを口にする。意図せず、言い聞かせるような言葉がするすると出た。

「……君は、僕を恨んでいないのか」

 幸次は今にも泣きだしそうな表情をしている。

 どうして助けてくれなかったのかと、美世に責めてほしい。そんな彼の心境が見え隠れしていた。

 心労がひどく、他人の心情をおもんぱかる余裕もない美世は、素っ気なく答える。

「恨んでなどいません。そんな気持ちは、もう忘れました」

「ごめん。本当にごめん。僕は君を助けたかった。また昔のように、普通に君と笑いあいたかった。……僕は、君を──」

「幸次さん」

 ふと、彼の名を呼んだのは、あとからやってきた香耶だった。

 彼女の浮かべる微笑はたいそう美しく、そしてとても恐ろしくまがまがしいものを含んでいる。

「何を話しているの?」

「……っ」

 幸次は、唇をんで言葉をみ込む。

「な、なんでもないよ」

 名家の生まれで、能力にも容姿にも恵まれた幸次に、唯一欠点があるとすればこれだろうか。

 彼はおくびようだ。優しすぎるがゆえに。

 この場で彼が何か意見したならば、きっと美世か香耶のどちらかを傷つける。それを理解して結局口をつぐむのだ。

 彼が何を言おうとしたのか美世にはわからないし、今さら知りたいとも思わない。

 それでも、そんな優しい彼に、根本的な解決には至らずとも何度も救われたことは確かだから。

「幸次さん」

「美世……?」

「今までありがとうございました」

 美世が今言えるのはこれだけだ。

 もう、疲れた。

 深々とお辞儀をして、振り返らずに去っていく姉を、妹が美しい微笑を浮かべたまま見送っていた。


 その晩は、なかなか寝つけず過ごした。

 たった三畳ほどの、使用人用の自室はもともと物が少なかったが、最低限の荷物をまとめてしまったら、本当にもう何もなくなってしまった。

 昔持っていた亡き母の形見の着物はすべて捨てられるか、義母と異母妹に持っていかれてしまってもうない。他の、高価な小物なども全部。

 今の美世の持ち物といえば、自分自身の身体と使用人のお仕着せ、同僚から譲り受けたお下がりの普段着と日用品くらいだ。

 あとは、今日、父からだと言われ渡された、一着の上等な衣装。久堂家へ行くときに粗末な格好では斎森家の評判に傷がつく、ということらしい。父はやはり、美世がきの着物のひとつさえ持っていないことを知っていて放置していたのだと、このときやっと理解した。

 もうすっかり慣れてしまった薄い布団の中で寝つけないでいると、なぜか走馬灯のように過去のことが思い出される。

 幸せだった記憶はもうはるか遠く、痛かった記憶、苦しかった記憶ばかり。そして、明日からもきっと幸せなど待っていない。早くこの命が尽きるのを、ただ期待して眠る。それだけ。

 まるで、黄泉よみを歩いているよう。

 そんなことを考えて、しかしちようすら美世の顔に浮かぶことはなかった。



 久堂家は、異能持ちの家の中でも名家中の名家である。

 異能を受け継ぐ家は、だいたい昔から活躍していて歴史も長く、どこも名門で通っているが、久堂家はその中でも頭ひとつ飛び抜けており、筆頭と名高い。

 爵位を有していて、財産もばくだい。全国各地に広大な土地を所有しているため、その土地を貸すことで勝手にいくらでも金が入ってくるのだと、聞いたことがある。

 当主の名は久堂清霞。年齢は今年で二十七。帝大の出身で、卒業後、難関の士官採用試験に合格。現在、軍では少佐として、ひとつの部隊を率いる立場だという。

 そんな若く立派な人物で、財もあるとなればさぞ豪勢な暮らしをしているだろうと思っていた。

 早くも父からの宣告を受けた翌日には、美世は貧相な身にそぐわぬ派手な衣装をまとい、少ない荷物を持って清霞の住まいへと向かう。

 教えられた住所を頼りに、途中、慣れない路面電車を利用しつつ、なんとか近くまで来られた、と思う。

 けれどどう考えても、有名な久堂家の豪邸の方角ではなく、郊外だ。

(こんなところに久堂家の当主が……?)

 市街地からそう遠いわけではないが、森や林、田畑が多く、民家もまばら。街中と違い、夜になれば真っ暗になるであろうことは、想像に難くない。

 久堂家からの案内人はなく、この縁談には仲人や紹介人もいない。途中までついてきていた斎森家の使用人は市街地を出たあたりで帰ってしまい、美世は寂しい田舎道をひとりで歩く。

 しばらくして、たどり着いたのは、静かな林に囲まれたいおり──というには少々大きい一軒家──であった。

 名家の当主が暮らしているとは、にわかには信じられないほど質素なたたずまいの建物であったが、近くに停められた自動車が、ここの住人の財力を端的に示している。

 自動車は基本的に輸入品で非常に高価なので、ただの庶民には買えない。

 であれば、やはりここが久堂清霞の住まいで間違いないのだろう。

「ごめんください」

 おそるおそる、戸をたたいてみれば、すぐに応答があった。

「はいはい。……あら、どちらさまでしょう?」

 ひょっこりと顔を出したのは、優しげな雰囲気の小柄な老女だった。格好から見て、おそらくこの家の使用人であろう。

「斎森美世と申します。このたび、久堂清霞さまとの縁談があり、こちらを訪ねるように言われてきたのですが……」

「まあ、斎森さま。お待ちしておりました」

 主人が冷酷無慈悲ならば、仕える使用人も、もっと人形のように淡々とした冷たい人物だろうと想像していた美世は、ふわりと笑った老女があまりにも柔らかい口調と態度なので少し戸惑ってしまう。

「さ、お入りくださいな。坊ちゃんのいらっしゃる書斎まで案内いたしますよ」

 老女にうながされるまま、美世は久堂家に足を踏み入れた。

 家の中は、斎森家の屋敷と比べるととても狭い。木造で、築年数はあまり重ねていなそうな、傷みの少ない家だ。入ってみると、外から見たよりは住みやすそうな印象を受ける。

 板張りの短い廊下を歩きながら老女は、ゆり、と名乗った。やはり久堂家の使用人で、当主が幼い頃から親代わりに世話をしてきたのだという。

「……坊ちゃんはいろいろと良くない噂があるようですけれど、本当は優しいお方なのですよ。ですから、そう緊張する必要はありません」

 ずっと黙っている美世を、ゆり江は緊張していると勘違いしたのか、穏やかな口調で助言する。

 別に美世はしゃべれなくなるほど緊張しているわけではなかった。ただ、しみついてしまった癖で、必要以上に誰かと話したり何かを聞き返したりすることをしないだけだ。

 今まで、何かを口に出せば、逆らった、口ごたえしたとせつかんされる生活を送っていたから。

「お気遣い、ありがとうございます」

 本当は優しい方なのだ、などと聞いたところで、美世の気持ちが浮上することはない。

 優しかろうが冷たかろうが、この縁談が駄目になった瞬間に美世は帰る場所をくし、あとは野垂れ死ぬだけだ。

 だが、もういいのかもしれない。

 死ぬときは苦しいだろうが、そのあとはつらいことは何もない。楽になれる。

 美世は案内された書斎へと足を踏み入れ、深々と頭を下げた。

「お初にお目にかかります、斎森美世と申します」

「…………」

 縁談の相手、久堂清霞は何やらづくえで作業をしているらしく、美世のほうを見ようともしない。

 けれど、何の指示も許可もなく話し、動くことは美世には難しい。だから、いくらでも待つつもりで、頭を下げたままでいた。

「いつまでそうしているつもりだ」

 降ってきた低い声に、よかった、聞こえてはいたのだと、少しばかりあんする。むしろ声をかけてくれるだけ、親切かもしれない。

 美世はいちど顔を上げ、再び深々と伏せた。

「申し訳ございません」

「……謝れとは言っていない」

 はあ、とため息をつく清霞に言われ、また顔を上げる。今度は、窓から差し込む春らしい柔らかな日光に包まれた、美しい彼の姿が目に飛び込んできて、視線のやり場に困った。

れいな人)

 美人は見慣れていると思っていた。継母や異母妹も相当美しかったし、幸次を含めた辰石家の面々も、整った顔立ちが揃っていたからだ。

 しかし清霞は別格、というのだろうか。男性のしさを備えつつ、どこか女性的なたおやかさや、繊細な美しさも持っている。きっと、老若男女、誰であろうと彼を美しいと評するだろう。

「お前が、新しい婚約者候補か」

 問われて、違いない、と美世はうなずく。すると、清霞は嫌そうにしかめ面をした。

「いいか。ここでは私の言うことに絶対に従え。私が出ていけと言ったら出ていけ。死ねと言ったら死ね。文句や反論は聞かん」

 吐き捨てるように言って、また背を向ける彼を、美世は拍子抜けして見つめる。

 もっとののしられたり、さげすまれるかと覚悟していたのに。なんだ、そんなことかと、すぐさま了承した。

「かしこまりました」

「は?」

「他に、何か……?」

「…………」

「あの、では、失礼いたします」

 振り向いた清霞はおかしな顔をしていたものの、何も言ってくる気配がないので、美世はそのまま退室したのだった。



「ない……! ない、ないっ! どうして」

 焦って泣きそうになっている幼い自分の声を聞いた美世は、これが夢だと理解した。

 あの、最低な日の夢。

 忘れもしない。あれは、まだ尋常小学校に通っていた頃。幼い美世が、習い事の時間を終えて自室に戻ると、部屋が文字通り空になっているのだ。

「どこにいったの……!?」

 自分の持ち物はもちろん、たんの中に大事にしまっていた、母の形見の着物も帯も、装飾品も──果てには鏡台や口紅のひとつに至るまで、すべてなくなっている。

 美世はすぐに、それが継母の仕業であると確信した。

「美世お嬢さま、どうなさいました!?」

 声を聞きつけて、やってきたのは使用人のはな

 花は、美世が生まれたときから世話をしてくれている、もうひとりの母親のような存在だった。

「ないの……っ! お母さまの形見も、全部……!」

「そんな、いったいどうして」

 花は今まで買い出しに行っていて、何もわからないのだという。

 申し訳ありません、申し訳ありませんと涙まじりに頭を下げる彼女に、美世は唇をみしめた。

「きっとお継母かあさまがやったのよ」

 美世が二歳のときに母が亡くなってから後妻に入った継母のは、美世のことを嫌っている。

 香乃子の娘、美世の異母妹にあたる香耶は、美世よりも三歳年下だが、すでにその才のへんりんを見せ始めていた。

 彼女の、母親ゆずりの華やかなようぼうはまるで西洋人形のように美しく整い、習い事をさせればあっという間に何でもできるようになってしまう。それに異能の基本とされる、異形を目に映す能力「見鬼の才」も発現している。

 ──そしてそのどれもが、美世にはないものだった。

 美世の母と父との政略結婚は、異能を受け継ぐためだった。それなのに、異能をもって生まれたのは美世ではなく、異能者の家出身ではない香乃子の娘の香耶。

 では何のために自分たちは引き裂かれたのだと、かつて父と恋人同士だった継母は面白くない。

 そういった事情は、まだ幼い美世でも理解している。普段から、継母に「お前さえいなければ」「お前の母親は泥棒だ」などと憎々しげに言われているから。

 けれどそれに納得できるかは別の問題だ。

「お継母さまのところへ行ってくるわ」

 ここまでされて黙ってはいられない。美世にとって、母の形見は、この冷たい屋敷の中で自分の心を守って生きていくために不可欠なのだから。

「お嬢さまおひとりで!? そんなっ」

「……大丈夫よ。いざとなったら、お父さまに言うから」

 思えば、このときはまだ、父親を自分の味方だと考えていた。

 だんだん見向きもされなくなっていたが、それでも、美世が本当につらくてどうしようもないと訴えれば、継母に注意ぐらいはしてくれるだろうと。

 しかし、期待はあっさり裏切られた。

「い、いや……っ! 出して、誰か、出して!」

 継母のもとを訪れ、自分の部屋の物がなくなってしまった、何か知らないかと尋ねた美世に、彼女は自分を泥棒扱いしたと怒り、美世を屋敷の裏手にある蔵の中に閉じ込めた。

「反省するまで、わたくしの前に姿を現さないでちょうだい。本当、あの泥棒猫の娘なだけあるわね。人を盗人呼ばわりだなんて、性根が腐っているんだわ。香耶とは大違い」

「お継母さま! お願いします、ここから出して……っ」

 かんぬきで外から閉じられた蔵の扉は、押しても叩いてもびくともしない。必死に扉にすがりついて叫ぶ美世を、みっともないと笑って、継母はどこかへ行った。

 今思い出しても、身体が震えてしまう出来事だ。

 蔵の中は高い位置にある小窓からの光だけが頼りで、昼間でもずいぶん暗い。おまけに薄ら寒くじめじめとして、あまり使われてもいなかったため、物も置かれていない、寂しい空虚な場所だった。

 そんなところに閉じ込められ、いつ出してもらえるかもわからないという状況に、幼い少女が恐怖を抱かないはずがない。

「うぅ、出して……誰か、助けて……」

 ごめんなさい、助けて、許してとさんざん泣きわめいて、それでも誰も助けてはくれず、結局、昼過ぎに閉じ込められてから、出してもらえたのは夜も遅くなってからだった。

 頼みの綱だと思っていた父は、こなかった。

 しかも美世が閉じ込められていた間に、不当な理由で花は解雇され、屋敷から追い出されていた。

 そして、美世は斎森家の娘から、使用人以下の存在へ転がり落ちた。


 早朝、目を覚ますと、いつも通りの時間だった。

 ぽろりとこぼれた涙を、そっとぬぐって起き上がる。

 昨日の、清霞との顔合わせでのことを思い出す。

『ここでは私の言うことに絶対に従え。私が出ていけと言ったら出ていけ。死ねと言ったら死ね』

 別に何ということもない、美世にとっては今までと変わらないことだったので、ちゆうちよなくうなずいた。

 その後、何事もなく書斎を出てきた美世を見て、いくらか安心したらしいゆり江に、今度は美世の私室になるというこの部屋に案内された。

 備え付けられていたのは、時計に簞笥、文机、布団など、最低限のものだけ。

 華やかさなどじんもない、質素な部屋だったけれど、斎森家で使っていた使用人用の部屋より広く、布団ひとつにしても使い心地が全く違う上質なものだ。

 ほどく荷物もろくになく、少ない衣類を簞笥にしまうと、夕食を遠慮しそのまま休み──今に至る。

 ふかふかの布団で眠ったからか、疲れもなく、体調もいい。

 が、美世は首を傾げる。

(わたし、何をすればいいのかしら……)

 うっかり今までと同じ、まだ外も暗い時間に起きてしまったが、おそらく久堂家当主の妻となればそんなに早くは起きない。少なくとも、同じ名家の妻である継母はそうだった。

 一般庶民の家ならともかく、ここは天下の久堂家。妻が自ら炊事や掃除洗濯はしないだろう。

(でもわたし、何もできないわ)

 華道や茶道、舞踊や琴など、昔はやっていたが、やめさせられてずいぶん経つ。習った内容はすでにおぼろげで、到底使い物にならない。

 そもそも、十分な教育を受けていない美世が、久堂家の女主人になどなれるわけもないのだ。

 だが、かといって何もしないわけにもいくまい。

 悩んだ末に美世が手を付けたのは、朝食の準備だった。

 炊事をする嫁など、久堂家当主の妻にふさわしくないと思ったが、そういえばふさわしくないのは初めからだった、と少しだけ開き直って。

 どうがんばっても、美世は、美しく着飾って笑っているだけの妻にはなれない。これでこの家を追い出されたなら、そのときはそのときだ。

 それに、ゆり江のことも気になった。

 彼女はどうやら通いの使用人らしいのだが、老いた身体で毎日早くから来て食事の準備をするのは大変だろうと思うのだ。

 であれば、美世がやったほうがいいのでは、と。

 まあ、とがめられたときの言い訳だけれど。

(食材はちゃんとあるから……お米を炊いて、おしると──この魚の干物は焼くのよね。あとはお野菜も……)

 考えながらも、道具の場所の確認をし、この郊外の小さな家に水道があることに感心し、火をいて準備を始める。

 本来、食事の準備は料理人の仕事だが、美世はある程度できる。

 というのも、斎森家では美世の食事は待っていても出てこなかったからだ。

 厳密にいえば、美世は使用人でもなかったし、まして家族の一員にも数えられていなかった。だから、父や継母、異母妹と同じ豪華な料理も、使用人に振る舞われるまかないも、用意されない。

 ちゆうぼうで余った食材を譲ってもらい、自分で調理するほかなくて、食材が余らなければ食事そのものを抜かざるをえなかった。

 しばらく調理していると、そっと台所の扉が開いて、ゆり江が顔を出した。

「……美世さま?」

「おはようございます、ゆり江さん。……あの、勝手をして申し訳ありません」

「おはようございます、美世さま。勝手になんて、滅相もありませんよ。美世さまは坊ちゃんの婚約者ですもの」

 ゆり江は朗らかに笑って、本当に気にした様子もなく手を振った。そればかりか、奥さまになる方の手を煩わせてしまい、申し訳ないと謝られてしまう。

(わたし、余計なことをしてしまったかしら……)

 ゆり江に謝られてしまうなんて。そんなつもりはなかったのに。

 どんどん申し訳ない気持ちでいっぱいになり、うつむくと、そっと背中に温かい手が触れた。はっとして、顔を上げる。

「美世さま、ゆり江はもうこんなしわくちゃのばばですから、お手伝いしていただけて助かりましたよ。ありがとうございます」

「……い、え……」

 少し低い位置にある、ゆり江のにっこりと笑った顔が胸にみて、美世は声をつまらせた。

「さあさ、坊ちゃんが起きるまでにはまだ時間がありますからね。他のこともやっておきましょう。美世さま、ここはお任せしてよろしいですか」

「はい、あの、わたしでよければ」

 美世の答えに満足したようにうなずいたゆり江は、あっという間にかつぽうを身に着けると、せかせかと台所を出ていく。

 落ち込んでいた気持ちはわずかに浮上して、任された朝食の準備を進めた。

 仕事をしながらもちょくちょく台所に顔を出すゆり江に、そろそろ清霞が起きる頃だと聞き、すでに出来上がっている料理を器に盛りつける。

 炊きたての白米に、わかめと油揚げの味噌汁。作り置きされていた煮物はよく味がみていそうで、焼いたあじの干物は香ばしい匂いを放っている。あとはほうれん草のおひたしと、漬物の小皿を添えた。

 料理人のようにはいかずとも、おおむね満足のいく出来栄えだ。

 美世が朝食を手に、ゆり江とともに居間へ向かうと、清霞は畳の上にあぐらをかき、新聞を読んでいた。

 初めて見る彼の軍服姿は、襟元をくつろげていても様になっていて、目を引いた。

 ゆり江から聞いたところによると、この家での食事はぜんで用意するのが普通で、ちゃぶ台を片付けておくそうだ。今も、木製の卓子は部屋の端にけられている。

「おはようございます、坊ちゃん。朝ご飯ですよ」

「おはよう。……ゆり江、人前で坊ちゃんと呼ぶのはやめろ」

 仏頂面の婚約者は、それでも美しい。

 かんぺきに思える彼は美世にはまぶしすぎて、直視できずに目をそらす。

「坊ちゃん、今朝は美世さまが料理をしてくださったんですよ」

 ゆり江の言葉で、清霞は初めて美世の存在に気づいたようだった。新聞をたたんで置き、わずかに目を細めてこちらを見る。

 無視されるのは慣れていたから、そのまま美世の存在には触れずにいてくれても良かったし、むしろ突然注目されると困ってしまう。

「……そうか」

「ええ! それはもう手際もよろしくて、とても助かりました」

 正直、叱られる、と思った。

 久堂家当主の妻になろうという者が、炊事するなど何事か、と。けれども、清霞が考えていたのはもっと違うことだと、すぐに気づかされた。

「そこに座れ」

 冷え切った視線と声で、彼は美世に指図する。

 言われるまま、美世は自分で置いた膳の前に座る。すると、清霞自身ははしを手にとらず、美世に言った。

「お前、先に食べてみせろ」

「え……」

 あるじより先に料理に箸をつけるわけにはいかない。その意識が美世の中には深く刻まれていて、動きをためらわせる。

 そもそもゆり江に言われて自分の膳も持ってきたが、美世には清霞と一緒に食事をするつもりはまったくなかった。主人との同席は許されるものではないと思っていたからだ。

 しかし、清霞はいっこうに食べ始めない美世を見て、ますます表情を険しくする。

「食べられないのか?」

 その声はとても低い。震えあがるほどに。けれどその震えも、清霞には違うように見えていた。

「あ、の」

「ふん、毒でも盛ったか。わかりやすいことだ」

「え……」

「毒……!?」

 ゆり江が驚いて声を上げたが、清霞は黙殺し、席を立つ。

「こんな、何が入っているかわからないものは食えん。片付けておけ。──次はもっと上手うまくやることだ」

 吐き捨てて、清霞は居間を出ていき、ゆり江もそのあとを慌ててついて行く。

 美世はひとりになった。

 真っ白になった頭は、ようやく、美世が清霞を暗殺しようとしたと、そう疑われたことに思い至る。

(こんな、何が入っているかわからないものは食えん、か……)

 そういえば、父も自身の身辺にはよく気を遣っていたと、今になって思い出した。

 権力を持てば持っただけ、命を狙われやすくなる。きっと清霞も、ずっとそうして狙われてきたのだろう。

 毒殺は権力者がもっとも警戒するもののひとつだ。

(わたし、浮かれていたのかしら)

 実家を出てここに来て、ゆり江に仕事を任されて。

 名家の令嬢が手際よく料理するなんて不自然で、疑われてもおかしくないことだと考えもしなかった。

 追い出されたくなくて、焦っていたのも、きっとある。

 ──失敗してしまった。

 出だしから間違えてしまった。美世がしたのは、やはり余計なことだった。

 けれど、すぐさま斬られなかっただけ、まだ良かったのかもしれない。

 震える手で箸を持ち、時間が経って表面が少し乾いた白米を、ひとくちだけ、舌にのせる。

 ひとりで冷めた飯を食べることには慣れていたはずなのに、なぜか、小石でも飲み込んでいるような気持ちになった。



   ◇◇◇



 たいとくしようたい

 帝国陸軍の中でも飛び抜けて異質なその隊は、帝国内で起こる、怪異に関係するあらゆる案件に対処するために設立された。

 隊員はほぼ全員が見鬼の才か、あるいは、それ以上の人智を超えた能力を操る異能者によって構成されている。

 もともと、見鬼の才がある者や異能者は数が多くない上に、名家出身者がほとんどだ。その中でわざわざ危険を伴う軍人になるような変わり者ばかりなため、良く言えば少数精鋭、実際には万年人手不足の、一般にはあまり知られていない部署でもあった。

 そんな特異な隊を率いる久堂清霞少佐は、現在、書類の処理に追われている。

 隊長というのは、隊の中で最も実力のある者がなるにもかかわらず、残念なことに詰所にいることがほとんどで、現場にはあまり出ない。

 もちろん、特別に厄介な案件であれば出向くし、それ以外にも上からの命令や、状況に応じて現場に赴くことはあるけれども、今はまった書類をさばくことに専念していた。

 だが、珍しいことにいまひとつ、集中しきれていない。

 清霞自身はその原因を正確に把握している。朝のことが引っかかっているのだ。

 ただし、理由がわかっているからといって、どうこうできないのもまた、確かだった。


 ──こんな、何が入っているかわからないものは食えん。


 そう吐き捨てて自室に戻り、支度をしていれば、ついてきたゆり江に何やらぶつくさと文句を言われた。

「何も、あんな言い方をすることはないでしょうに。美世さまは一生懸命、お食事の用意をなさっておいででした。ゆり江には、美世さまが毒など入れるような方には思えません」

 親代わりのゆり江には、昔から逆らえないことがしばしばあったが、今朝のことについては、清霞も譲るつもりはない。

 会ったばかりの、信頼関係もない人間の作ったものなど、口にはできない。当然のことだ。

 ましてや、彼女は斎森の娘。あの家なら、久堂の当主を葬ってその地位にとって代わろうと画策していても不思議はない。そのくらい、斎森家も高い位置にある名家だ。

 ゆえに警戒した。どこにもおかしなことなどない。

 ないはずなのに、ゆり江に言われるまでもなく、何やら不快な気分だった。

「坊ちゃん、聞いてらっしゃいますか」

「ああ、聞いてる」

 つまり、ゆり江の言いたいことはこうだ。

 斎森美世という女は、今までの婚約者たちや見合い相手たちとは、どこか違うと。

 これまで、本当にたくさんの女性との縁談が持ち上がった。両手両足の指でも足りないくらいに。

 だが、そのほとんどは結婚相手としてもつての外の女ばかりだった。

 この質素な家をひと目見て嫌悪し、入ることすらせずに帰る者。どうして久堂家当主がこんな小屋に住んでいるのだと、怒り出す者もいた。ひたすら清霞にこびを売り、裏でゆり江をいじめる者もいたし、食事が気に入らない部屋も変えろと我がままを言う者もいた。

 名家の当主でありながら、こんな場所で暮らすのは一般的ではないという自覚はある。

 だがそれにしても、結婚するかもしれない相手を理解しようとせず、己の意見を通そうとする女はまっぴらだ。

 誇り高いのも、気位が高いのも、否定するつもりはない。しかし、何もかも思い通りになるなどと、うぬれるのも大概にしろ、といつも思う。そしていつも破談になる。

「ゆり江は、うれしかったのですよ。気を遣って、仕事を手伝ってくださった方は初めてでしたから」

「……そうか」

 居間を出るときにちらりと見えた美世の表情は、何も浮かんでいなかったはずなのに、なぜか泣き出しそうに見えた。

 言われてみれば確かに、今までの女たちとはどこか違っていたかもしれない。

 しかし仕事に出かけようと玄関に立てば、無表情の美世がやってきて、

「いってらっしゃいませ」

 と淡々と頭を下げた。その様子はもう泣きそうには見えなかった。

「いってくる」

 深々と頭を下げる彼女は──そう、まるで使用人のよう。

 斎森美世という娘は、いったい、どのような教育を受けて育ったのだろう。普通に名家の令嬢として育てられたのなら、あのようにはならないのではないかと、清霞は思う。

(しばらく様子を見るか)

 手は書類を処理しながら、ひとまず結論を出す。

 本当は、これまで通り早々に追い出してしまうつもりだったが、今のところ、気になる部分はあっても不快感はない。

 単純に、斎森の娘は結婚相手としてかなり良い条件がそろっていることもある。

(まったく、勤務中に女のことをあれこれ考えるなど。我ながらたるんでいるな)

 清霞は息を吐いて、仕事に集中しなおした。


 日もすっかり暮れてから帰宅すると、出迎えにきたらしい美世がひとり、玄関で三つ指をついて頭を下げた。

「おかえりなさいませ、だんさま」

「……ただいま」

「あの、旦那さま」

 長靴を脱いでいると、小さく声をかけられた。

 彼女は相変わらずの無表情で、目線はずっと斜め下を向いている。

「なんだ」

「……今朝は、申し訳ありませんでした。出すぎた真似、でした。旦那さまのお立場であれば、信用できない者の作ったものなど、口にできるはずもないと──少し考えればわかることでした」

「…………」

「あの、夕食はすべてゆり江さんが作っていかれて、はいぜんしたものをそのままご用意しています。誓って、毒など入れておりません。どうか」

 お許しください、と美世は地面にいつくばりそうな勢いで頭を下げた。

 今朝のことについて、怒るなら、まだわかる。だが謝られるのはどうにも、居心地が悪い。おそらく、そこまで深く謝罪されると、まるで清霞のほうが謝罪を強要した悪役のように感じてしまうからだろう。

 わずかに震える彼女を前に、いかにも弱いものいじめをしている気分だ。

「別に、お前を本気で疑ったわけではない」

 ただ勝手に清霞が警戒して、警告しただけのこと。

「こちらも言い方がきつかった」

「い、いえ! とんでもありません。わたしが、いけなかったのですから」

 美世はあわれになるくらい恐縮して、小さくなってしまう。清霞としては威圧しているつもりはなかったので、調子が乱れる。

 しかしながら、あらためて彼女を見ていると、その姿はとても名家の令嬢とは思えない。

 着ている着物は、古着とも呼べないような粗末な代物。

 そこからのぞくびもとや手首はひどくせ細っていて、日々の食生活に問題があったとしか考えられず、簡単にまとめられた黒く長い髪も、傷んでつやがない。

 さらに白い指先はあかぎれだらけで、日々水仕事をしている者の手だった。

 都会に住む娘ならば、今の時代、庶民だってもう少し良い格好をしているものだ。

「お前は、食事は? もうとったのか?」

 うつむきがちな彼女の顔は、いつもよく見えない。

「え……えっと、わたしは……」

 なぜか口ごもる美世。

 居間に入ると、用意されていたぜんはひとつだけだった。とったならとったと言えばいいだけの話。この娘は、どうやら噓を吐くのが苦手らしい。

「食べていないのか。なぜ自分の分を用意しない?」

 目を泳がせ黙り込む彼女に、あきれてしまう。

 家族やそれに準ずる関係の人間同士でともに食事をするのは常識、当たり前のことと認識していたのだが、違ったようだ。あるいは、彼女が自分の立場をわかっていないのか。

 清霞はため息を吐いた。



   ◇◇◇



 この一日、美世のほうは、気が気でなかった。

 毒を警戒するような立場の相手に、よく考えもせずに食事を作ってしまい。結果、食べ物を無駄にしたばかりか、主人を食事抜きで送り出すことになってしまった。

 清霞が噂通りの冷酷無慈悲な人物ならば、もうこの家にはいられないだろう。

 彼の今までの見合い相手や婚約者たちのように、追い出されるに違いない。ゆり江は気にすることはないと言っていたけれど、無理に決まっている。

 追い出されたらもう、帰る場所のない身。本来ならば、すぐにでも、住みこみで働けるところを探しに行くべきなのだ。

 もしかして、自分は他者を不快にしてしまう疫病神か何かなのかもしれない。

 帰宅早々、清霞につかれたため息が胸に刺さって、唇をむ。

「ゆり江はお前の食事を用意しなかったのか」

 いけない。ゆり江が疑われてしまう。

 純粋な疑問を述べているだけの、毒のない清霞の表情に気づかず、美世は慌てた。

「ち、違うんです」

 美世が自分から、とっておいた朝食の残りを食べるので、夕食はいらないとゆり江に言ったのだ。──実際には、昼に少しだけ食べて、あとは生ごみを回収に来る近隣の村人に引き渡してしまったが。

 食べたいのはやまやまだった。だが、一日一食手に入れるのもやっとだった美世は食が細く、おまけに朝の失態のせいで食欲があまりなかったのだ。

 けれど、それを素直に告げるのは怖かった。食生活に言及され、実家でのことを知られるのは、気が進まない。告げ口し、評判を傷つけたとなれば、父は美世を許さないだろう。

「あの、食欲が、なくて。わたしがゆり江さんに、いらないと言ったのです」

「食欲が? 具合でも悪いのか」

「いえ、大したことでは。たまに、あるんです」

 厳しくなった清霞の気配を感じ、あいまいに言葉を濁す。

 正確には、たまに食欲がなくなる、ではなく、たまに食事をすべて抜かざるをえなかった、だ。

「……まあ、いいだろう」

 呆れたような声色だった。

 しかし、美世の食事を気にするということは、今のところ清霞は美世を追い出そうとしているわけではないようだ。

 清霞はもういちどため息をつくと、着替えてくる、といって、自室兼書斎へ行ってしまった。

(……本当は優しい、人)

 昨日、この家にきたときにゆり江が言っていたことを思い出す。

 清霞はよくない噂があるが、本当は優しい人だから、緊張する必要はない、と。

 正直、まだ清霞のことは怖い。

 にこりともせず、今朝の冷たい顔と声も、思い出すだけで震えあがりそうになる。そのぼうゆえに、余計に恐怖があおられる。

 けれど、美世に謝ったり、体調を心配したり。冷たいだけの人でもない、と少し、わかった。


「冷えているな」

 夕食を口にした清霞がぼやく。

 用意していた食事は、ゆり江が作っていったものだ。きれいに盛り付けまでされた料理は、温めなおすこともできず、すでになまぬるくなってしまっていた。

 ゆり江は仕事を終え、もう帰っている。通いなので、清霞から早めに帰るようにいわれているのだとか。

「申し訳ありません」

「今のは、謝るところではない。お前は、息をするように謝るのだな。なぜだ?」

 何を言いつけられてもいいように側に控えていた美世は、鋭い視線を受けて、うつむいた。

 すぐに謝ってしまうのは、実家でそうしてきたからだ。一度、継母や異母妹に目をつけられ文句を言われ始めたら、謝罪以外、口にすることを許されなかった。

 それに、即座に謝らなければさらに嫌がらせやとうがひどくなるので、反射的に謝罪が口をつく。

 美世は清霞の問いに答えられず、ただうつむき続けた。

「言わない、か」

「申し訳──」

「謝るな」

 遮る声は、大きくはないのに、強い。一瞬で人を従わせてしまう、そんな声だ。

「謝るな。謝罪は、しすぎると軽くなる」

 そうかもしれない。ただ、謝らずにいられるか、自信はないけれど。

「……ごちそうさま」

 いつのまにか食べ終わっていた清霞は、はしをおく。

 彼はれいな見た目に反し、雰囲気は冷たく、おそろしい人だ。冷酷無慈悲で、簡単に人を斬り捨てるという噂にもうなずけるくらい。

 しかしやはり仕草のひとつひとつはとても優雅で、武骨とは程遠い。男性なのに、まるで深窓の姫君のようなたおやかさを感じさせる。

 それは彼が、ゆり江の言うように、本当は優しい人だからなのだろうか。

「あ、あの、おを──」

 すぐに沸かします、と言おうとすると、首を横に振られてしまった。

「自分でやる」

「ですが」

「今までも自分でやっていた。うちの風呂は少し特別だから、私以外が使うのは難しい」

「特別……?」

「異能を使って沸かせる仕組みになっている。ゆり江にも使えん」

 そういえば、異能のひとつに、発火能力というものがあると聞いたことがあった。確かにそういったものを使えば、風呂くらい簡単に沸かせるかもしれない。

(わたしには、縁のないものね)

 異能の家に連なる両親から生まれておきながら、見鬼の才すら持たない自分。

 元より、久堂家当主で、立派な肩書きも異能も持つ清霞の嫁になる資格などないのだ。

「どうした?」

「な、なんでも、ありません」

 美世に異能がないことを、おそらく彼は知らない。

 彼はやってくる妻候補にいちいち興味を持ってはいないようだし、美世が斎森家の娘だとわかった時点で、異能ないし見鬼の才を持っていると思っただろう。

(やっぱり、結婚はやめたほうがいいわ)

 ふさわしくない。斎森美世は、久堂家に、当主の妻に、ふさわしくない。

 自分のような人間は、早く追い出されたほうがいい。

 彼の妻に似合うのは、香耶のように何でも持っている女性なのだろう。


 その後、美世が台所でせっせとあと片付けをしていると、風呂上りの、身軽な寝間着姿になった清霞が顔を出した。

 何事かと首を傾げている美世に、彼は、朝食を作ってほしいのだと言う。

「……今朝は食べずに残して悪かった。また明日あした、作ってくれ」

 風呂上がりで心身ともに落ち着いているせいだろうか。おそろしげな雰囲気は鳴りを潜め、やや言いにくそうにまゆを寄せる清霞の姿はぐっと若々しく感じられて、新鮮だ。

 反射的にうなずきそうになったものの、美世は今朝、清霞の勘気に触れた原因を忘れてはいなかった。

「わ、わたしは構いませんが……」

「ああ、無論、本当に毒を入れる気ならば容赦しないが」

「滅相もございません!」

 慌てて首を横に振って否定する。

 特に訓練を受けているわけでもなし、美世などが久堂家当主暗殺の命令などされるはずがない。父が本気で清霞を暗殺したいと思ったら、もっと優秀な暗殺者を用意するだろう。

 そもそも父も継母も香耶も、美世が早々に追い出されると疑いもしていない。

「ならば、問題ないな」

 任せたぞ、と心なしかすっきりした面持ちで去っていく清霞。

「は、はい……」

 美世はぼうぜんと、気の抜けた返事をするしかなかった。



 暖かな太陽の光が照らす、穏やかな家。どこかで小鳥のさえずりの聞こえる美しいこの家は、自分以外のための楽園。

『いいぞ、香耶。お前には見鬼の才がある。香乃子、お前もよくぞ、この娘を産んでくれた』

 父の声だった。

 覚えがある。昨日の夢のできごとよりも、前のことだ。香耶に見鬼の才があるとわかったときの、記憶。

 また夢だ、と美世は思った。

『わたくしの娘ですもの、当然ですわ』

 継母の、誇らしげな顔。そして、満足そうにうなずく父。異母妹のうれしそうな笑い声。

 そこには、とても自然な、とても幸せそうな家族の形があった。

 その中に美世の席が用意されたことは一度もない。美世は彼らの家族ではないから。

 使用人のようになる前から、ずっと、遠くから見ているだけだった。どんなに頑張っても手に入らない、温かな家族を。

『香耶お嬢さまは見鬼の才を発現させたらしい』

『まだ三歳でしょう。すごいねえ』

『それに比べ、美世お嬢さまは』

『能力の発現はもう絶望的だって』

『ご両親ともに異能持ちだったのに』

『才能ないんだねえ、かわいそう』

 噂する声が、ぐわんぐわんと頭の中に響く。

 居場所が、価値が、どんどんなくなっていった。美世自身が肌で感じとれるほど、屋敷内は香耶を敬う空気になり、代わりに美世の扱いはぞんざいになっていく。

 思えば、香耶が美世を下に見始めたのもこの頃からだった。

 嫌な思い出だ。使用人のように扱われるようになってからは身体が慣れなくてつらかったが、この頃は心がつらかった。まだまだ幼かった美世の心は、ずたずたに傷つけられた。

『わたしは、いらない子ね』

 自分でそうつぶやいた日のことを、今も覚えている。

 異能も見鬼の才すらもなく、他に何も誇れることのない自分は斎森家にいらない存在だと、十にも満たない彼女は悟った。

 使用人の花は泣きそうになっていた。まだまだ親に甘えたい年頃だろうにと。

 彼女は今、どこで何をしているのだろう。蔵に閉じ込められたあのときに、継母に解雇されてしまってから会っていない。

 あの頃の彼女はまだまだ若かった。誰か良い人と結婚して幸せになっていればいいと思う。


 目が覚めると、また、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。

 二晩も連続で悪夢を見てしまうなんて、ついていない。

 何かの戒めだろうか。斎森家を出ても、美世は美世自身の価値のなさを忘れてはいけないという。

(わかっているわ)

 わかっている。自分がどれだけ平凡で、使えない人間かなんて。

 あの家に生まれなければよかったと、何度思ったか。普通でいい、少しくらい生活が苦しくてもいい、温かい家に生まれたかった。

(こんなわたしは、花には見せられない)

 美世のことを大事にしてくれた花はきっと、悲しむだろうから。

 静かに起きだして、布団を畳み、寝間着の浴衣から普段着に着替える。

 そのとき、着物のひとつが破れていることに気づいた。なんの変哲もないあいいろの綿の着物で、かなり年季が入っている。

(これももう、寿命ね)

 背中の縫い目が裂けてしまっている。おそらく何かの拍子にもろくなっていた糸が切れて、そのまま破れてしまったのだろう。

 同じところを何度も直したからか、針を刺した部分の布も薄くなっていて、もう縫い直すのも無理かもしれない。同じように破れそうになっている箇所がいくつもある。

 この着物は確か、斎森の使用人のひとりに着なくなったからと譲ってもらったもの。もらったときにすでに相当着古されていたから、仕方ないといえば仕方ない。

 しかし、ただでさえ少ない衣類がこうしてどんどん使い物にならなくなっていったら、そのうち着るものがなくなってしまう。斎森家を出るときに父にもらった着物は新しいが、あれはきのものなので汚せないし、普段着にするには少々派手だ。

 とはいえ、完全に修復不可能になるまではと、美世はゆり江に裁縫道具を借りられるか聞いてみようと考えながら、身支度を整え、自室をあとにする。

 台所に顔を出すと、昨日と変わらない時間だというのに、もうゆり江が来ていた。

「あら、おはようございます。美世さま」

「……ゆり江さん、おはようございます」

 どうして昨日よりも早いのだろう。

 疑問が表情に出ていたのか、ゆり江はにこりと笑った。

「昨日の朝のことがありますから、気になって早く来てしまったのですよ。……今朝はお食事の用意、どうされます?」

「あ……それは」

 ゆり江が見てくれていれば、毒が入っていないことは証明できるので、清霞に食べてもらえるだろう。

 けれど、その必要はなくなった。昨晩のことを思い出し、朝食を用意することになったことを、美世はゆり江に話した。

「まあまあ、坊ちゃんたら。美世さまの手料理を食べたいのなら、そうおっしゃればいいのに」

「……いえ、そういうわけではないと思いますが……」

「ふふふ。では美世さま。このゆり江にも手伝わせてくださいな」

「は、はい。お願いします」

 今朝の献立は、焼いた厚揚げと出汁だし巻き玉子に、きんぴらごぼう、葉野菜のごま和え。あとは白米と、しるだ。

 どれも斎森家の食事によく出ていた料理だが、ゆり江の作り方は屋敷の料理人とは少し違う。

 食材の切り方ひとつに執着しないし、厚揚げや玉子焼きの焼き色を、神経質に気にする様子もない。調味料はほとんど目分量。それに食器の柄や、盛り付け、並べる位置……。どれも、ゆり江はさほどこだわらない。

 おそらく、これが家庭的な料理なのだろう。料理人の仕事は良くも悪くも質が高すぎて、真似をしても素人には手間ばかりかかった。

 美世は技術がないので、正直、ゆり江の手際をそばで見ているだけで勉強になる。

 きんぴらごぼうに使うごぼうと人参は先に細く切り、葉野菜は沸騰した湯でさっとでる。出汁巻き玉子は出汁としよう、砂糖などで味をつけ、ゆり江お手製の、木綿豆腐を使った厚揚げは、こんがり焦げ目がつくまで焼く。

「美世さまはずいぶん早起きですのねえ」

「はい。実家では、ずっと早く起きていたので……」

 まあ、そうなのとゆり江は感心したようにうなずく。

「あの、ゆり江さん」

「なんでしょう」

「このおうちに、裁縫道具はありますか?」

「ええ、ありますよ。お使いになるなら、あとでお部屋にお持ちしましょうね」

「ありがとうございます」

 美世はほっと胸をでおろした。裁縫は名家の令嬢たちも日常的にすることなので、怪しまれなかったようだ。

 ──まあ、本物の令嬢なら自分の裁縫道具がなくて困ることなどないけれど。

 雑談を交えつつ、手際よく食事の用意を進める。焼いた厚揚げの香ばしい匂いと、きんぴらの甘辛い食欲をそそる香りを漂わせ、朝食が完成した。

 昨日と同じように、出来たての料理を皿に盛り付けてぜんに並べ、居間に持っていく。そこへ、ちょうど清霞が現れた。

「おはよう」

「おはようございます、だんさま」

 仕事着である軍服に身を包んだ清霞を前にして、美世はあらためて緊張した。美しい婚約者の姿を目にするたび、自信がなくなる。一時でも、これほど麗しい人の婚約者であることを、おこがましく感じてしまう。

 そう広くはない居間に、二人は向かい合って座った。美世はさりげなく膳の位置を下げるつもりだったが、清霞の眼光に脅されるようにして同席を余儀なくされた。

「ではいただこうか」

「は、はい……」

 返事をしたもののはしを手に取ろうとしない美世を、清霞がげんそうに見る。

「お前も食べるんだぞ」

「は、はい。申し訳……いえ、い、いただきます」

 しどろもどろになりながら箸を手にとり、清霞とほぼ同時に料理を口にした。

 味は、普通。舌が肥えているであろう清霞には不味まずく感じられてしまうかもしれない。

 品よくおかずを口にし、味噌汁をひとくち含んだ彼に、美世は何を言われるかと身をこわらせる。

「……美味うまい」

「!」

「ゆり江とは少し味付けが違うようだが、悪くない」

 なんということはない、普通の口調。彼が本心からそう思っているのだろう。

 何よりも。

『美味い』

 その一言だけで、今までひとりで試行錯誤していた時間が報われた気がした。

 誰かにこうして褒められたのは、認めてもらえたのは、何年ぶりだろう。

 美世は自分の内から何かがこみ上げてくるのを感じる。

「あ……っ、ありがとうございます」

 声が震えてしまった。

「…………なぜここで泣くんだ」

 大粒の涙があとからあとから、こぼれ落ちる。美世は知らず、涙を流していた。



   ◇◇◇



 しばらくして泣き止んだ美世と、会話はなくとも和やかな朝食を終え、清霞はいったん自室に戻った。

 食事中の様子を思い出す。

 黒曜石のような、しかしどこかガラス玉のように空虚な彼女のひとみが、れて光っていたのが、なぜか脳裏に焼きついていた。

 はじめは、褒めたつもりの自分の言葉が気に入らなかったのかと困惑した。

 ゆり江と比べた物言いが、あるいは美世を傷つけたのかもしれないと、口下手な自分を少し恨めしくも感じた。

 けれど美味いと言ったのはまぎれもない本心だったのだ。

 慣れ親しんだゆり江の味とは違うのに、すんなりと舌にんで素直に感心した。ゆえにそのまま口にしたのだが、まさか泣かれてしまうとは思わなかった。

 女性を慰めたことなどない。内心でどうしようかとおろおろしていれば、

「も、もっ、申しわ、け……っ、あり、ませ……」

 もう彼女の口癖ともいうべき謝罪が、途切れ途切れに聞こえてきた。

「……だから謝るな……」

 泣きながら謝られたら、余計にどうしていいかわからなくなった。

 今までにこの家にきた女性たちの中には、我がままを言った挙句に、思い通りにならずかんしやくを起こして泣きわめく者もいて、そういった手合いは捨ておいてもじんも気にならない。

 だが、このときはどうにも焦った。

「……と、取り乱してしまい、申し訳ありません。あ、あの、う、うれしくてつい涙が」

 だんだんと落ち着いてきて、かすかに恥ずかしそうにする美世の言葉を、清霞はまゆをひそめて聞いた。

 彼女は、お料理を褒められたのは初めてで、などとぽつぽつ話したが、どうもそれは彼女が泣いたことの本質的な理由ではないような気がした。

 背景が見えない。

 斎森美世という女性の今までの人生、どのような環境でどのような大人に囲まれどのような教育を受けて育ってきたか。そういう、普通、他人と向き合ったなら多少は透けて見えるはずの背景が、彼女の場合はまるで見えなかった。

 いや、正確には、清霞の知る令嬢たちとは印象がかけ離れすぎていて、想像もつかないのだ。

 目を閉じて美世の泣き顔を頭から消そうと試みながら、軍服の襟元を整えた。

「ゆり江、私の感覚がおかしかったら言ってほしいのだが」

 支度を手伝うためについてきたゆり江に、前置きする。

「もしや、彼女は普通の名家の娘として育ってはいない……のだろうか」

 昨日からずっと、抱いていた違和感。

 久堂家当主の妻におさまるために、謙虚な娘を演じている可能性も考えていたが、さきほどの涙である程度の確信を持った。

 美世のあの涙は、演技ではありえまい。

 彼女は正真正銘、清霞のなにげない言葉で泣いたのだ。

「そうですわねえ。ええ、ええ」

 神妙な顔で、うんうんとうなずくゆり江。やはり、何か思うところがあるらしい。

「事情を、尋ねたら話すと思うか?」

「それは、難しいでしょうねえ」

 お前は実家でどのような暮らしをしていたのか、と聞くことは簡単。しかしこれまでの様子からしても、おそらく美世は自身に関することを進んで話そうとはしないだろう。

「ゆり江」

「はいはい。なんでしょう」

「それとなく、注意して見ておけ。私は外から少し、斎森を調べてみる」

 どうせこのまま、何も知らずに結婚することはできない。婚約関係を続けるにしても解消するにしても、早いうちから調べておいて損はない。

 ゆり江もすぐさま心得たとうなずく。と思ったら、いたずらっぽい笑みを浮かべて、清霞を見上げた。

「かしこまりました。それにしても坊ちゃん、いつになく婚約者さまに興味津々ですこと」

「…………言うな。わかっている」

 認めよう。これまで会ってきた結婚相手候補の女性たちの中で、美世に一番、興味を引かれている。

 自己紹介のあと、ほぼ無視されているにもかかわらず、こちらがいいと言うまで頭を上げようともしない令嬢など見たことも聞いたこともない。

 いまどき、使用人でもよほど厳しい家の者でなければあそこまでしないだろう。

「照れなくともよろしいのですよ」

「照れていないし、お前が考えているような意味で彼女を知ろうとしているわけでもない」

「まあまあ、そんなことじゃあ一生独り身ですよ」

「…………」

 失礼な、と言いたいところだが、よみがえる、女性が逃げ出していく記憶の数々。

 泣いたり怒ったりしながら三日と経たずに去っていく令嬢たちに未練など欠片かけらもないが、だったら自分はどういう相手なら受け入れるのかと自問しても、よくわからない。

 まあ少なくとも、自分の母のような典型的なご令嬢との結婚はごめんだ。

「ゆり江は、美世さまは良いと思いますよ。坊ちゃんの奥さまに」

「そうか?」

「ええ、そうです」

「やけにきっぱり言い切るな」

 美世がこの家にやってきてまだ三日目。その短い間に、どうやらゆり江は美世をいたく気に入ったらしい。

「とにかく、頼んだぞ」

「おまかせくださいな。ちゃあんと坊ちゃんの良いところをお話ししておきますよ」

「余計なことはするなよ」

 一抹の不安が残るが、仕方ない。ゆり江ならば滅多なことはしない、はずだ。

 帝国の中心が西の旧都から東の帝都に移って早数十年。

 もともとや武家だったり、勲功によって華族となった家だけでも気が遠くなるほど多く存在する。爵位は持たずとも、商売や芸術で上流階級の仲間入りをしている者たちを含めれば、さらに増える。

 幼い頃より厳しい教育を受けてきた清霞でも、さすがにそのすべてを覚えてはいない。

 斎森家は久堂家と同じ異能の家柄ゆえに、当主の名と大まかな現状くらいは覚えているが、それだけだ。詳しく調べる必要があるだろう。

(やっかいな事実が出てこなければいいが)

 ただでさえ、多くない異能持ちの家。それが、さらにどうにかなる事態はごめんだと清霞はため息をついた。



   ◇◇◇



 斎森家の屋敷で、二人の中年の男が対面している。

 あくまで個人的な話し合いの場ということで、二人とも楽な着流し姿だが、室内の空気はどこか不穏だった。

 二人のうちの片方、辰石幸次の父──辰石家の当主である辰石みのるは、やや神経質そうな顔に不機嫌さをにじませ、話が違う、ともうひとりの男──斎森しんいちに食ってかかる。

「話、とは?」

 あれだろう、と半ば気づいている様を隠そうともせず、真一はとぼける。その目立った特徴のない薄いようぼうがやけに腹立たしく、実の不機嫌さがいっそう増した。

「わかっているだろう。なぜ、美世を久堂家にやった。うちの長男にと頼んだはずだが」

「ああ、そのことか」

 真一は、こだわるほどのことでもなかろうに、と肩をすくめた。

 確かに、異能を継ぐ家は多くないとはいえ、旧都にはまだいくつも残っているし、辰石の次期当主に見合う娘なら他にいくらでもいる。わざわざ見鬼の才さえ持たぬ娘を選ばずとも。だが、違うのだ。

「辰石と久堂、その二つの選択肢があれば当然、久堂を選ぶ。言うまでもないはずだ」

 家格も何もかも、久堂家のほうがはるかに上。

 まさかあの娘が久堂家でやっていけるとは思えないが、何かの間違いで上手うまくいったとしたら、久堂家とつながりを持てる。はなから美世に何も期待していない真一は、どちらに転んでも構わなかったので、より良い久堂を選んだのだろう。

 実とて、斎森家とは長い付き合い。そんな当主の思惑などとっくに見抜いている。

 しかし、あまりの愚行に黙っていられなかった。

「美世はあのうす家の娘を母に持つのだぞ。それを」

「だがあれは薄刃の異能を継がなかった」

 憤る実に対し、真一は平然と、悪びれもしない。

 五歳までに見鬼の才を開花させる。それが異能者になれるかなれないかの分かれ道だ。見鬼の才のある者だけが、その後、異能者になる可能性を持つがゆえに。

 つまり、十九になっても何も得られなかった美世は出来損ない。異能の一族に名を連ねる者としての価値は皆無。表面的には、そうだ。

「だとしても、美世の子が薄刃の異能を継がないとも限らない」

「そうまでして薄刃の力がほしいのか」

「人心に干渉する力だ、不要だというほうが噓だろうが! それにこれ以上、久堂家が強くなれば我々の立場とて危うい」

「では、美世が久堂に捨てられた暁には、そちらで嫁に迎えればいい。どうせ上手くいくはずもないのだ。拾ってもらえるとなれば、あれも泣いて喜ぶだろうよ」

 実は、ちっ、と小さく舌打ちした。

 すでに異能を受け継ぐ家の中で頂点にいる久堂家は、わざわざ薄刃家の力を欲していない。また、女たちをすぐに追い出してしまう久堂清霞が、特筆すべき長所を持たぬ美世を選ぶはずもないので、高確率で真一の言う通りになるだろう。

 気に入らない。下の娘の香耶を重要視しすぎるあまり、美世の価値を見誤っているこの男が。

 文字通り金の卵を産むかもしれない娘をわざわざ放り出すなど、正気のではない。おかげで手間が増えてしまった。

「では斎森家は今後いっさい、美世の処遇に口出ししないということで良いか」

「ああ。捨てたも同然の娘だ、どこでどうしようが、生きていようが死んでいようが、興味はない」

「そうか、了解した」

 久堂などに奪われてたまるか。実はかたく誓う。

 斎森美世を手に入れるのは辰石家だ。横取りは許さない、と。




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