終わりなき影
ビルの窓から差し込む夕日の光が、街を赤く染めていた。東京の喧騒は、一日の終わりに向けて少しずつ落ち着きを取り戻しつつあったが、内海隆司の心は、静かになることはなかった。彼のデスクには、山積みになった資料と、今朝届いた脅迫状が散らばっている。
「もう、終わりにしたいんだがな……」
内海は深いため息をつき、手元の紙を再び見つめた。そこには、太く力強い字で「お前の過去はまだ終わっていない」と書かれていた。送り主の名前はなく、差出人不明の手紙だったが、内容からしてただのいたずらではないことはすぐに分かった。
「過去……」
内海はその言葉に引っかかりを覚えた。彼には封じ込めたい過去があった。ずっと忘れようとしてきたが、それが再び表面に浮かび上がってきたのだ。
かつて、彼は刑事として数々の事件を解決してきた優秀な捜査官だった。しかし、ある事件をきっかけに警察を退職し、それ以降、彼は一線を退き静かな生活を送ることを選んだ。その事件――「赤い影事件」と呼ばれる凄惨な連続殺人事件が、内海の心に深い傷を残した。事件は未解決のまま、内海の辞職とともに封印されたはずだった。
「なぜ今になって……?」
内海は頭を抱えながら、その紙をクシャクシャに丸めゴミ箱に投げ入れた。だが、その瞬間、デスクの上の電話が鳴った。内海は躊躇いながらも、受話器を手に取った。
「もしもし……?」
「お久しぶりです、内海さん。」
低く冷たい声が電話越しに響いた。内海の背筋が凍るような感覚が走る。この声には聞き覚えがあった。
「お前は……!」
「覚えていてくれて光栄だよ。俺のことを忘れたとは思っていなかったがな。」
その声の主は、かつて「赤い影事件」で唯一生き残った、犯人と思われる人物だった。だが、彼を追い詰めたにもかかわらず、内海は最後にその男を取り逃がしていたのだ。
「何の用だ……?お前は……もうこの世にはいないはずだ!」
内海は激しい口調で問いただしたが、電話の相手は笑い声を漏らした。
「俺は影だ。お前の心に刻まれた、消えない影だよ。お前はあの事件を終わらせたつもりだろう?だが、終わってなどいない。俺は生きているし、お前が逃げた真実もな。」
その言葉に、内海の心はざわついた。彼は事件を終わらせたと信じていたが、実際には何も解決していなかったのかもしれない。犯人は捕まらず、証拠も不十分なまま捜査が打ち切られた。
「お前は何がしたいんだ?」
「もうすぐ分かるさ。お前の過去は、これから暴かれる。お前自身が引きずり出すことになるだろう。」
内海は黙り込んだ。何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。電話が切れ、静寂が戻ったが、その静けさはかえって彼の不安を増幅させる。
内海は再び椅子に座り込み、頭を抱えた。過去の亡霊が再び目の前に現れた。それも、自分の手で解決したと思っていた事件が、実はまだ終わっていないことを告げられたのだ。
「どうすればいいんだ……?」
内海は、その夜、昔の資料を引っ張り出して「赤い影事件」を再調査することを決意した。封印された事件は、今もなお、彼の人生に暗い影を落とし続けている。もしも、犯人が本当に生きていて、再び事件を起こすつもりなら、自分が阻止するしかない。
内海は、資料の中に埋もれていた古い写真を手に取った。それは、最後の現場――犠牲者の一人が無残に殺されていた場所の写真だった。彼は、あの時の光景を思い出しながら写真を見つめた。
「ここから始めるしかないか……」
事件は、五年前、ある廃ビルで発見された連続殺人事件だった。被害者は全て若い女性で、残忍な手口で命を奪われていた。現場には、必ず赤いペンキで描かれた奇妙なマークが残されていたことから「赤い影事件」と呼ばれるようになった。
しかし、最後の事件で決定的な証拠が見つからず、犯人は捕まらなかった。内海がその捜査を担当していたが、警察の上層部の圧力もあり、捜査は打ち切られた。そして、彼はその事件を機に辞職することを余儀なくされた。
「俺は、あの時、何を見逃したんだ……?」
内海は一枚一枚、資料をめくりながら、当時の自分の捜査の甘さを後悔していた。だが、何かが足りない。記憶の中にぼんやりとした違和感が残っている。それを見逃してしまったがゆえに、今も犯人は逃げ続けているのかもしれない。
彼は深夜まで資料を調べ続けたが、結論にはたどり着けなかった。明らかにされた情報はすでに全て調べ尽くしている。これ以上は、現場に行って何か手がかりを探すしかない。
翌朝、内海は再び事件が起こった現場、廃ビルへと向かった。
ビルは今も廃墟のまま、周囲の建物に埋もれてひっそりと佇んでいた。かつては繁華街の一部だったが、今では人通りも少なくなり、ほとんど忘れられた存在だ。
内海は懐中電灯を片手に、錆びついた扉を押し開けた。中は相変わらず暗く、空気は湿っていた。彼は注意深く足元を確認しながら、事件現場へと向かっていく。
「ここだ……」
彼は、五年前に見た光景が鮮明に蘇る場所に立っていた。
内海は、足を止め、静かにその場の空気を感じ取ろうとした。ここが、最後の犠牲者が発見された場所だ。赤い影がこの場所に残された。しかし、何もかもが打ち切られ、事件は解決しなかった。彼は懐中電灯をかざしながら、壁に目をやった。
「ここに、赤いペンキで描かれていたはずだ……」
彼はその場所に手を伸ばし、壁をなぞる。だが、ペンキの跡はすでに消されていた。捜査が終わった後、このビルの一部が取り壊されることが決まっていたが、工事は中断され、今では誰も立ち入らなくなっていた。
「まだ、何かがあるはずだ……」
内海は懐中電灯を片手に、慎重に周囲を探し回った。崩れかけた壁や壊れた家具、散らばったガラスの破片などが、当時の現場の凄惨さを物語っていた。しかし、目に見えるものには手がかりがなかった。
ふと、内海は床に散らばった破片の中に、奇妙なものを見つけた。それは、かすかに光を反射している金属片だった。彼はしゃがみ込み、その小さな破片を拾い上げた。金属片には何か刻まれているように見えるが、長い年月が経過しているため、文字はほとんど判別できなかった。
「これは……」
彼は慎重にその破片をポケットにしまい、さらなる手がかりを探し続けた。だが、現場にはそれ以上のものは見当たらなかった。
ビルを出た内海は、手に入れた金属片を再度調べるため、自宅へ戻ることにした。何かが、この小さな手がかりを解き明かす鍵になるかもしれないと感じたからだ。
自宅に戻った内海は、デスクの上にその金属片を置き、拡大鏡でじっくりと観察した。表面は腐食しているが、何かの印がかすかに見える。しかし、それが何であるかはすぐには分からなかった。
「これだけじゃ、手がかりにはならないか……」
彼はため息をつきながら、デスクに体を預けた。その瞬間、電話が鳴った。内海は警戒心を持ちながらも、受話器を取った。
「内海です。」
「内海さん、久しぶりだな。」
またしても、低く冷たい声が響く。内海は、全身が緊張で固まるのを感じた。
「お前か……」
「そうだ。もう一度、あの現場を訪れたんだな?」
「どうして、それを知っている?」
「俺はお前の影だと言っただろう?お前が何をしているか、全て見ている。」
その言葉に、内海の背中に冷たい汗が流れた。犯人は自分を監視している。それも、どこか近くから。しかし、彼は冷静を装い、声を落ち着かせた。
「何が目的なんだ?お前は何を望んでいる?」
電話の向こうの男は、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「俺の目的はただ一つ。お前に過去の真実を思い出させることだ。お前が見逃したもの、それを解き明かすまで、俺はお前を追い続ける。」
「過去の真実……?」
内海はその言葉に引っかかりを感じた。何か、自分が見落としているものがあるというのか?それとも、単なる心理戦で自分を惑わそうとしているだけなのか?
「その時が来たら、また連絡する。それまでに、思い出しておけ。」
男はそう言うと、電話は途切れた。静けさが戻ると同時に、内海の心にはさらに深い疑念と不安が生まれていた。
「思い出す……?」
内海は、男の言葉を反芻しながら、デスクに置かれた資料を再び見つめた。過去に起きた事件、そして自分が見逃したもの。その全てが今、影のように自分の後を追い続けているように感じられた。
「本当に……何かを見逃しているのか?」
彼は、当時の自分の捜査に間違いがなかったことを信じたい気持ちと、何か重大な手がかりを見逃してしまったのではないかという不安との間で揺れていた。
「もう一度、あの時の資料をすべて調べ直すしかないか……」
彼は疲れた体に鞭打ち、再び資料を手に取った。そして、当時の捜査記録を一から再検討し始めた。犯行現場の状況、被害者たちの関係、そして赤い影と呼ばれた犯人の行動パターン――どれも、すでに調べ尽くされたはずだった。
しかし、資料を読み進めていくうちに、内海は一つの重要な点に気付いた。それは、最後の被害者が発見された現場で目撃された謎の人物についての記述だった。
「この証言……」
当時の捜査で、その目撃情報は信憑性に欠けるとして処理された。しかし、今になって考えると、それが犯人に繋がる手がかりだったのかもしれない。
「もし、その目撃者が……」
内海は、資料を手に立ち上がり、再び行動を起こす決意をした。終わりなき影が彼の人生に重くのしかかる中で、ようやくその真実にたどり着くための糸口が見え始めていた。
ついに彼は、真実に辿り着けるのだろうか。それとも、この影は永遠に彼の後をつけ続けるのだろうか。
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