薔薇の咲く頃

海月^2

薔薇の咲く頃

 彼の庭の、赤い薔薇園を覚えている。美しく整えられたそこは、彼と、その恋人の為にあった。時折、友人や婚約者を招くこともあったようだけれど、それは彼にとってカモフラージュだった。僕たちは、仕方がなく招かれた客だった。

 彼の恋人は美しかった。線が細くて、触れれば二度と掴めないような儚さを持った人だった。彼はよく恋人に洋服を送った。そうして、普段は笑わないその人が、彼の前でだけ笑った。その度に彼は恋人に堕ちていき、外界と断絶されていった。彼らには彼らだけの二人きりの世界があった。彼らが人目を忍ぶように会っていたのは、同性の恋愛だったからだ。

 あの時代には許されないことだった。誰もがその恋心に気付かぬままに生きていた。


 いつだっただろうか。彼に惹かれ始めたのは。たぶん、彼が恋人に熱を上げて蔑ろにされた友人たちが離れていったくらいだったと思う。必然的に、僕が彼と会う時間が増えた。そうして僕は、まんまと彼に堕ちたのである。

 彼の家で出るローズティーは甘かった。本当は少しの苦みがあるらしい。けれど、僕には甘く感じられた。それは、彼を見つめすぎて味覚が馬鹿になっていたからかもしれない。彼の仕草は綺麗でずっと見ていられた。僕の家、成り上がった卑しい家とは違う本物のお坊ちゃま。僕にはどうにも手の届かない人で、誰よりも美しい彼から奪い取れる自信もなかった。

 逃げることも出来なかった。彼の誘いは可能な限り全て受けた。お茶しよう。パーティーに出よう。薔薇を見に来ないか。誘われる度に嬉しくて、応える度に虚しかった。麻薬のように、僕の心臓に刻まれた彼の痕は深くなっていく一方だった。


「じいや。この本を戻しといて」

「了解いたしました」

 じいやに本を渡そうとした。けれど一瞬、腕に痛みが走って本を落としてしまった。違和感があったのはその一瞬だけで、痛みは直ぐに収まった。

「ごめん。自分で片付けておくよ」

「いえ、じいやがやりますよ」

 じいやは僕の手から本を受け取って書棚に戻した。この頃から、足や腕が痛むことが増えていった。

 彼との予定の時は、絶対に体の不調なんておくびにも出さなかった。もしかしたら何かいつもと違うところは感じていたのかもしれないけれど、恋人至上主義を貫く彼が僕を気にかけることはなかった。その悲しい距離感が、こうなってしまってはありがたかった。


 彼にお茶に呼ばれたけれど、彼は仕事で忙しくしていて来れなくて、一人で庭園を眺めている時のことだった。

「大丈夫ですか」

 以外にも、僕の不調に一番最初に声を掛けてきたのは彼の恋人だった。

 初めて話した。彼と話しているところは何度も見たけれど、他の人間と共にいるところを見たことはなかった。だから、他の人間とも話せるのかという驚きが一番初めに来てしまった。その後、話しかけられていたことを思い出して、返答に難儀する。

 大丈夫です、と言ってしまうのは簡単だった。けれど、それは恋人くんの勇気を踏みにじってしまうようだった。震える手と、一切会わない視線が、恋人くんが自分から話しかけることに不慣れであることを表していた。

「すみません。最近、不調な日が続いていて」

 恋人くんは、何度も言いかけては言葉を噤んでいた。その飲み込んだ言葉を待ってやるように、彼のように優雅にローズティーを飲んだ。少しの苦みが舌の上を転がった。

「姉が、花咲病で亡くなっていて、それで、手とか足とか動かしづらそうだなって、えっと、だから……」

 尻すぼみになっていく言葉から伝わったのは彼の途方もない優しさと、少しだけ陰った過去だった。僕の病は花咲病、かもしれない。

 だから何だと言うのだろう。その末で死ぬとして、今の僕に何が出来ると言うのだろうか。延命治療をするくらいなら死んだほうがマシだ。叶わない恋と、役立たずの立ち位置は僕にそう告げた。たぶん家は、役立たずな僕の延命治療の金額なんて出してくれないから。そのドケチさが今の裕福な立場に繋がっているのだから、たぶん僕の家の行動は正しいのだろう。少なくとも、家を守っていくという点では。

「ありがとうございます。今度、医者にかかってみることにします」

 絶対にしないけど。安堵する恋人くんの眼の前でそんなことを思った。金があって、生き永らえる術があって、それでも生きようとしない人間を恋人くんは不思議に思うだろう。けれど、それが僕にとっての最善だった。

 結局最後まで彼は来なくて、僕は恋人くんと他愛もない話をして帰った。帰ってから、重いため息を吐いた。

 今日行って分かったのは、恋人くんがあまりにも可愛いということと、やっぱり僕では勝てないということだった。僕ですら扇情を煽られるような色気が恋人くんにはあった。選り取り見取りなはずの彼があえて選ぶわけだ。諦めと、絶望を繰り返し運んでくるような存在に、僕は嫌な気持ちになった。


 その日の夜はひたすら泣いた。部屋の外に声が漏れないように深く布団に潜って、声を押し殺して泣いた。そして翌日、体には薔薇の茎と葉が生えていた。

 関節の痛みに耐えて起きると、体に植物が巻き付いていた。しかし、数分経てばそれが巻き付いているのではなく自分の体から生えている事が分かる。恋人くんの言っていたことは正しかったらしい。僕は花咲病に罹患した。

「坊っちゃん。朝でございますよ」

「うん、起きてる。でももう少しだけ放っておいて」

「そういうわけにはいきませぬ。旦那さまより坊っちゃんのお世話を仰せつかっておりますから」

「分かった。じゃあ数分したら下に行くから」

「朝食を準備して待っております」

 じいやが扉から離れて階段を下っていく音がする。僕は手を握った。細い息が漏れて、視界が滲んだ。

 上を向いて目頭を抑える。目に力を入れると縁が熱くなった。

「ははっ」

 口から落ちた乾いた笑いが、この部屋の空気を一層重くする。

 僕はのそのそとベッドから出て着替えた。じいやが痺れを切らしてこの部屋に入ってくる前に、この薔薇の茎と葉を隠してしまわなければいけなかった。体の節々が痛む。もう、尋常じゃない痛みが常時襲ってきて、昨日とはまるきり違かった。

 その状況で着替えをし、階下に降りる。いつもの朝ご飯を食べる。けれどどこか気持ち悪くて吐き気が襲ってきた。口を抑えて、喉の奥に押し込む。

 地獄の朝食を終え部屋に戻れば、赤色の蕾が出来始めていた。明らかに僕の知っている花咲病より進行が早くて驚く。このままでは明日にも死んでしまいそうだった。

 今日は仕事を休むとじいやに言って、部屋に籠もった。体中を走る痛みが寝かせてもくれなくて、時計の秒針を目で追っている。時がもっと早く進んでくれるのなら、僕の苦しいのも早くなくなるのにという思いを閉じ込めて呼吸音だけが部屋に響いていた。


 夕方、じいやに呼ばれて下に行けば彼が来ていた。

「どうしたんですか?」

「今日、仕事休んでたから珍しいなと思って」

 彼に気遣われるというのは悪くなかった。たぶん、僕がこの先も生きていくのだとしたら飛び上がるほど喜んだだろう。けれど、もう喜ぶほどの気力も残っていなかった。

「ありがとうございます。でも大丈夫です。明日には行けます」

「いや、急かしに来たわけじゃない。今も体調が悪そうだろう、元気になるまで休んでくれ」

 心臓が痛い。花の根が絡みついた心臓の拍動を嫌に感じる。小さな蕾が、体中に出来ていた小さな蕾が開いていくのを感じた。頬を伝う涙が横倒しになって初めて、自分が倒れたことに気がついた。

「どうした!」

「花咲病です。もう治らないので、まあ、伝染ることもないので大丈夫だと思います」

「そういうことじゃないだろ。何故言わなかった」

「延命治療で、人は幸せになりますか?」

 震える声に情けなく思う。

「僕は貴方が好きでした。情けなくも、貴方に惹かれてしまいました」

 彼の顔が驚愕に染まる。僕は痛みの充満した右手を彼の頬に添えた。

「昨日、貴方の恋人と話しましたよ。姉が花咲病で亡くなっていたようで、僕も死ぬと責任を感じそうですからケアをお願いします。あと、じいやをどこかで雇ってくれるとありがたいです」

「そんな、遺言みたいな」

「遺言でしょう。これで生きていけないことくらい分かりますよ」

 胸の薔薇が咲いている。薔薇の香りに包まれた。いつの間にか、僕も彼の好きな花を好きになっていた。だから、体に咲く薔薇が赤いことが嬉しかった。

 視界の明度も彩度も下がっていく。その中で、君が腕に目をやるのが見えた。

 感染ってしまえば良いのにと、最後の最後で思う自分が醜くて仕方がなかった。

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