第六章 捧げられる犠牲、生じるすれ違い

外征軍の前途多難な船出

 車櫂くるまがいが歩調を合わせて、大海原を蹴る。


「漕ぎ続けろ!」

「おうっ!」


 船頭のげき水夫かこが応え、船足は早くなる。


「右大臣様」

「その呼び名は止めよ。今の私は護国大将軍。八島帥やしまのそちの補佐役であるぞ」

「はっ、失礼しました。閣下」


 大軍を率いる立場になっても、相変わらず細かいことに拘るのは大友隆資おおとものたかすけだ。


日出国ひのでのくにの港まで、あとどのくらいか」

「はっ、順風が続けば一日かからないかと」


 隆資が、今はまだ水平線の向う側に位置する敵国に目を向けつつ思う。


 今のところ、風は我々を歓迎してくれている。

 だが、風向きが変わらないという保証はない。

 風は女子おなごのように気紛れという。

 上機嫌なら、あらゆることを歓迎してくれる。

 だが、一度ひとたび機嫌を損ねれば歓迎は侮蔑に変わる。

 だから、風と女子は似た者同士だ。


「閣下?」


 呼びかけには答えず、隆資は尚も黙考する。目を閉じて、後悔の念を沸き上がらせる。「あの子」の姿を思い浮かべながら。


 千古。お前は本当にあの千古か。

 陰陽師から『この女子おなごは忌むべき存在だ』と告げられた、あの……。

 生れた瞬間から、胸元に忌まわしき桜のあざがあった千古なのか。

 妻から捨てるよう促され、私がなくなく洞窟に遺棄した、愛しの千古か。

 答えてくれ、千古。

 お前は本当に、生後三カ月で両親から別れを告げられた娘なのか。

 永遠とわに慈しむと誓った、あの……。

 巷で噂は聞いた。

 白拍子しらびょうしだの、遊女だの、どれも良い噂ではなかった。

 それで、私は勝手に信じ込んだ。


 我が子が男を手玉に取るような悪女に育つはずがない。

 きっと同姓同名の別人。

 娘は、これまでに多くの赤子が遺棄されてきた洞窟で死んだ。

 妙齢の悪女と噂された千古は他人で、お前とは何の関係もない。


 そう思いたかった。いや、そうなのだ、と自分を無理に納得させてきた。

 稗田智章ひえだのともあきらの子息智紀とものりから痣のことを聞かされるまでは。


「閣下!」

「ん? どうしたのかね。船頭よ」

「いえ、再三お声がけをしたのですが返答がなく、つい大声を」

「いや、頭を下げなくてよろしい。少し考え事をしていて、君の声が耳に入らなかったのだ。悪いのは私の方だ」

「考え事? 戦のことですか」

「まあ、そんなところだ」

「でしたら、船の乗組員全員が同じ気持ちでしょう。漕ぎ手から舵取り、戦闘員まで含めて」


 船頭が隆資に指し示す。船首から後ろ側に控える男たちを。


 漕ぎ手が十二名、舵取りが一名、桂甲けいこうに鉄兜と子具足に身を包む兵士が二五名。


 それに隆資のような指揮官と船頭を合わせて総勢四十名が、八島国の船団を構成する軍船四百艘に分乗している。


 総兵力は一万。これが各国からかき集められた兵員の限界だった。


(敵の数は分からぬ。やる気のない男の寄せ集めで勝てるか怪しい。だがそれでも戦わねばならぬ。


『土蜘蛛』が朝廷に送ってきた書状の差出人は庫持不死男くらもちのふじおとあった。思うに奴の正体は……)


 隆資の不安は募るばかリだが、それをさらに膨らませる出来事が起こる。


 風向きが変わったのだ。


 八島国から吹く西風から、目的地の『土蜘蛛』の領地から吹く東風こちに。



「俊信様。ちっと早すぎませんかね」

「船速はそのまま維持だ。八島帥の指示だぞ」

「へい! お前ら。手を緩めるなよ」


 隆資があれこれ思いを巡らしながら船を進めていた頃、外征軍の総指揮を任された関俊信が指揮する旗艦――彼の乗る船だけは外板を黒く塗装されていた――は後続の僚船を大きく引き離し、一足先に寄港地である日出国ひのでのくにの港が視界に入っていた。


「俊信様。よろしいですか」

「どうされました、

「船乗りの方々に無理をさせ過ぎでは?」


 男だらけのむさ苦しい空間に響いた女の声。イピゲネイア改め吾妻桜子あづまさくらこの姿は今、全長十五間27m、全幅一間二尺2m40cmの狭い軍船の中にあった。


「いえ、これも国のため。それとあなたのためなんです。桜子さん」

「そんな、俊信様。まさか隆資様のお言葉を本気にしているのですか?」

「その通りだよ」

「智紀様まで……」


 桜子は、俊信と智紀の真剣な表情に戸惑いを見せる。出陣前に聞かされた「ある姫君」の話を、彼らが本気にしていることが信じられなかったのだ。


 蛍姫。

 彼女の名は、八島国に暮らす人々に広く知られている。

 夫のため、国のため、そして、帝の覇権のためにその身を捧げた美しき妃。

 その悲劇の物語は時代を超えて語り継がれてきた。


 天地開闢てんちかいびゃくから八百年が過ぎた頃、蛍姫は生まれた。

 出身は日出国ひのでのくに。父は同国の王だった穂積宿禰ほずみのすくね

 八島は大帯帝だいたいていの御代。蛍姫は父の意向により帝の皇子みこの一人、天翔命あまかけるみことに嫁がされた。

 明らかな政略結婚。だが、皇子と姫は激しく愛し合った。

 両人とも互いを運命の相手と信じて疑わなかった。

 幸せな時間が永遠とわに続くと信じていた。

 大帯帝だいたいていが息子に「あること」を命じるまでは。


「前に話しましたよね、桜子さん。庫持皇子くらもちのみこの話。おぼえてますか」

「えーと確か、東にある『蓬莱山ほうらいさんの玉の枝』を探すように命じられた人?」

「そう、それ。で、それを探しに船で旅立ったけど、庫持皇子くらもちのみこは帰ってこなかった」

「それで愛する夫が帰還しないのを嘆いた妻は、悲しみの余り海に身を投げようとしたのです」


 俊紀と桜子の話を、船主に立って前方を向いたままの俊信が引き継ぐ。


「しかし、皇子の妻は死ねなかった。


 東に突如現れた『土蜘蛛』を討伐するために生かされたのです。


 大帯帝が『土蜘蛛』討伐のための船団を進ませると、まもなく私たちが立ち寄る日出国の港まではさしたる障害もなく到達できましたが、そこから先の海路を進むことができなかった。嵐が起こったからです。


 そこで帝は、事前に斎宮から聞かされた託宣を実行した。


『海神素戔嗚スサノオが怒った際には、庫持皇子くらもちのみこの妻を人身御供ひとみごくうとせよ。さすれば海神の怒りは収まり、東征は成功するであろう』


 大帯帝が庫持皇子の妻に託宣を告げると、彼女はこう答えたそうです」


 俊信は天を仰ぎ見る。今は亡き皇子の妻に何か思うところがあったのだろうか。


「『お義父様とうさまの遠征の成功を願いつつ、わたくしは海の底に下りたいと思います。さようなら、八島。

 

 さようなら、愛しい君。


 あなたが私に預けた、この神剣を現世うつしよに置いていきます。これは八島国の守り人のために作られた太刀。海底うなぞこに沈めるわけにはまいりませぬゆえ。


 どうか、私を受け止めてくださいまし。海神素戔嗚スサノオ様』とね」


 俊信は全てを話し終えると、腰に吊り下げている『稲薙剣いななぎのつるぎ』に目を落とす。


 そう、『稲薙剣』は庫持皇子くらもちのみこの妻が現世うつしよに残した護国の太刀だったのだ。

 

「でも、智紀様」

「ん? どうしました? 桜子さん」

天翔命あまかけるみこと・蛍姫夫妻と、庫持皇子くらもちのみことその妻にどんな関係が? 夫の名前が違いますよ」

「いや、同じ人なんです。桜子さん」

「同じ?」

「ええ、天翔命は『古記』という歴史書における庫持皇子の別名。より正確に言えば『竹取物語』内での庫持皇子という名が後付けで、本当の名前は天翔命の方なんだ」

「お、さすがは本の虫。大学寮一の博学!」


 船に乗る兵士から飛んできた野次に「うるさいやい」と智紀が返している時に、桜子が心中で呟く。


(やっぱり、右大臣様は蛍姫――天翔命様の妻に私をなぞえてるのね。でも、私は蛍様じゃないし、それに「かぐや姫」みたいな超常的な力を持つ人でもない。


 海が荒れたら、私は人身御供となるように迫られる。そのつもりじゃなかったら、女を軍船なんかに乗せるよう私に告げてくるはずがないもの。


 でも……、嫌よ。身投げなんて。


 どうか、海神様。海を荒さないでください。お願いします!)


 桜子は天を仰ぎ見て、八島国の海神素戔嗚スサノオに祈った。私を生贄として求めないでください、と。


 だが、現実は非情だった。


 ポツッポツ。


 外征軍を嵐が襲ったのだ。

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