今、生きているということ

@kobayashi4869

第1話 Lost

 乾ききった目から、ひとつぶの雫が落ちた。その瞬間、母は死んだ。

 僕がまだ幼かった頃、母は病を患っていた。あまり記憶にないが長々とした病名だった。

 その最後の瞬間、僕は母の腕のなかにいた。僕の記憶にあるのはそのくらいだ。あと、母の腕の中はとても温かかったのを覚えている。

 それから数年経っても父は母の死から立ち直れずにいた。というより、受け入れることができていなかった。僕はというと、物心ついたときにはすでに母は他界していたためそういうものだと、気にすることもそうなかった。

 高校2年の夏。特に部活に所属することもなく、なんとなくで高校生活を過ごしてきた。

 学校から帰ると、すでに父が帰っていた。まるで僕が返ってくるのでも待っていたかのように座りながらドアの方をじっと見ていたようで、玄関に入るときに目があった。いつものように素通りしようとすると、

 「お父さん、会社辞めたんだ」思わず振り返ってしまった。

 父は会社をやめバイトを始めるつもりらしい。今までの会社で最低限の衣食住は保つことができていたのに、今後どうしていけばいいというのだ。

 「まだお母さんのこと引きずってるの?」父は僕の言葉などまるで気にする素振りも見せず、「生きる意味って何だ?」と訊いてきた。

 僕は呆れて返す言葉も出なかった。父を無視して自分の部屋にこもった。


 夏休み前最後の日の夜、クラスの友人と裏山の神社の祭りに出かけた。友人と言っても、それほど仲が良いというわけでもない。すべてなんとなくだった。なんとなくでつるみ始め、なんとなくで祭りに行くことになった。

 普段はもの寂しいその神社も今日ばかりは賑わっており、様々な出店が僕たちを待ち受けていた。金魚すくい、じゃがバター、焼きそば、カステラ。なんとなく友人のあとについていき、なんとなく構えている店を見て回っていると、店の間を縫うようにプカプカと光るものが浮いているものが見えた。その不思議な物体をじっと見つめてみると、それは人魂だった。その物体に僕は呆然とした。人魂に見入っていたせいで目の前の人に気づかなかった。

 「おい君、危ないじゃないか」

 細身でスラッとしていて、おしゃれなシルクハットを被っており、絵に書いたような口ひげが特徴的だった。いかにも男爵という言葉が似合う人だった。日本の夏祭りには似つかわしくないその風貌にうろたえてしまった。その男は僕をまじまじと見るなり、何かに気がついたように、

 「やあ君、ここで会ったのも何かの縁。ぜひ私の屋台に来てくれないか」

 「すみません、友達が待っているので」

 「友達も連れて来るがよい」

 僕は少し気味が悪くなって、気が向いたら行ってみます、とだけ返答した。去り際、男爵が「君は絶対に私の元へ来るよ」そうつぶやいたように聞こえた。

 友人の元へ駆けていくと、「遅えぞ」と野次られた。

 そして僕らは花火の見える、広い丘へと移動した。ひゅー、どんと、耳を付く音が何度もなる。ただそれが心地いい。疲れ切った心が花火の音でふるえる。赤に白に黄、その名の通り火の花が夜空をきれいに彩っていく。

 花火も終盤に差し掛かるというとき視界の隅で光るものが揺れた。さっきの人魂だった。

 「ねえ、あれ何?」ちょうど隣に座っていた友人Aに訊いてみた。

 「あ?どれだ?」

 友人Bや友人Cにも訊いたがみんな見えていないようだった。

トイレに行くと嘘をついて僕は人魂の後を追った。人魂は人気のない林の中を彷徨うように、また、暗い木々をまたもや縫うようにプカプカとと浮いて僕から遠ざかっていく。僕は徐々に歩くスピードを早めていった。気づかぬうちに僕は走り出していたようだった。息遣いが荒くなる。もう少しで、手が届きそうだった。

 「触るな!」後ろから大きな声で呼び止められた。はっと手をひっ込めた途端、人魂はみるみるうちに遠ざかっていった。

 先程の声の主がだんだん近づいてきた。草を踏みしめる音が妙な緊張感をつくった。その人は僕より背が高く、真っ白な着物に白い狐のお面をつけていた。顔はわからなかった。ただ、声は低く、若かった。

 「危ないところだった。君、死ぬところだったよ」

 何がなんだかわからなかった。

 「あなたはあれが見えるんですか?それにあなたは?」

 「聞きたいことがたくさんありそうだな、それ、向こうにベンチがある。腰をおろして話そうとしよう」

 ベンチに向かう間、周囲を見回すと、裏山の反対側まで来ていたようだった。それほど夢中になっていたのだと思うほどなんだか恥ずかしくなってくる。

 「まず、君にはあれが見えるんだね?あれは何だと思う」

 「人魂のように見えました」

 近いね。クスクスとおかしそうにしていたが、本当に笑っていたのかは知らない。

 「あれは生霊だ」

 その言葉を聞いた僕は固まってしまった。

 「それに生霊は普通見えるものじゃないんだ。だが君には見えた」おかしいねえ、といってまたおかしそうにする。なんだかこの会話を楽しんでいるように見えた。

 「生霊ってどういうものなんですか」

 「そうだねえ、もうすぐ死ぬという人が夜になるとああいう形でさまよい出すんだよね。もちろん例外もあるけど。夜っていうのは生界と死界の区別をなくすからね」

 「じゃあ、生霊が見えた僕ももうすぐ死ぬんですか」

 「いい質問だ。そういう人は稀にいて、その人達は皆生きる意味や生きがいを見失っているんだ。つまり君は今まさに生きがいを失っている」

 心を見透かされたようで、ドキリとした。

 「私たちはそういった人や生霊を総じて『ロスト』と呼んでいる」

 『ロスト』と心のなかで繰り返す。

 私で良ければ話を聞こうか、と問われた。この際だから、打ち明けてみようかという気持ちになった。そして僕は思いつくままに語った。いや、吐き出したという方が正しかったかもしれない。母の死、父の変貌、クラスに馴染めないこと、生きる意味を聞かれて答えられなかったこと。ロストに関係ありそうな、思い当たるすべてを僕は吐いた。

 「私の想像以上だったね」その人は真剣に耳を傾けていた。

 「残念だが私では君の抱える問題を解決できそうにない。私の知り合いに森じいというのがいる。神保町にある、思い出書店というところに住んでいて、その古書店は夜にしか開かない。つまり『ロスト』にだけ入店を許しているところなんだ。そこに出向いてみると良い。森じいは何でも知っているからな。」

 「もし、僕がその古書店にも行かず『ロスト』のままだったら僕はどうなってしまうんですか、やっぱり死にますか」

 そうだね、とその人は穏やかに言った。

 「あの、生きる意味ってなんですか」

 「私は答えないし、答えるつもりもない。自分で見つけないと君は『ロスト』のままで、常に死が身近にいる状態で生きていかなければならなくなる」

 今は何時だねときかれたので携帯を見ると、すでに夜の十時を過ぎていた。友人たちから心配する通知が山のように届いていた。そして僕らはゆっくりベンチから腰を持ち上げた。

 「またあなたにお会いできますか」僕は訊ねた。

 「あなたが行動を起こせば、必ず再開できます」最後にクスッと言ったのが聞こえた。

 山を降りようとして、後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。夢でも見ていた気分になったが、友人の通知が現実であったことを証明する。

 僕は半信半疑だった。夏祭りから二週間経ってもそれ以来日常に変化がなかったからだ。なんなら友人Bとの交流が増えたように思う。ただ、父は本当に死にかけだった。見るからにやつれていて、無気力な眼をしていた。父はまるで夜そのものだった。

 それは体育館から教室に帰ってくる途中のことだった。頭上から冷水を浴びせられたのだ。全身濡れた。こんなことは初めてだった。ドラマだけの話かと思っていた。上を向くと、二階には友人Aと彼を取り巻くその他諸々だった。こういう時、衝撃と表現するのが正しいのだろうか。言葉が出なかった。

 「お前の親父キモいんだよ」と彼らは大きな声で笑った。するとバケツを持った生徒が、

 「お前の親父がバイトしてるコンビニで俺もバイトしてんだよ。声ちっさくて何も聞こえねえし、ずっとうじうじしててキモいんだよ」よくぞ言ったと周囲の生徒が(友人A含め)称賛していた。

 僕は無言でその場を去った。背中に飛んでくる罵詈雑言を受けながら。

 その日は学校を早退した。父はまだバイト中のようだった。別に誇れるような父ではない。僕もうんざりしていたのだから。次第に、友人A等への怒りとともに父への怒りも増幅してきた。これでとうとう、僕に居場所はなくなった。僕は家出の決心をした。今まで頭の片隅に居座り続けていたその考えに、やっと踏ん切りがついた。ちょうどいいタイミングだったのだ。

 定期券と全財産約五万円の入った財布、着替え三日分、一冊の文庫本、それとナイフを黒のバックパックに入れた。

 二度と帰ってこないつもりでいるので、携帯はすべてのデータを削除して部屋の勉強机の中にしまった。それと、書き置きなんてことはしなかった。もうどうでも良くなったのだ。

 途中で路線図を買い、神保町に向かった。家からは二時間ほどかかった。ドトールに入って日が暮れるのを待った。持ってきた文庫本はその時読み終わってしまった。甘ったるいコーヒーを飲み干して、窓の外をぼうっと眺めていた。

 夜行性の動物でもあるかのように僕は日が沈んでから席を立ち、夜の神保町を歩き始めた。夜になるとほとんどの本屋が営業を終了し、飲食店が賑やかになる。飲み屋の明かりでいっぱいになっている中で、僕は思い出書店なるものを探した。

 見つからない場合はどうしたらいいだろう。腕時計を見ると十二時前だった。高校生なら補導される時間だった。

 経験上、嫌な勘というのはすぐに当たるもので、ちょうど向こうから警察官がゆっくりと近づいてくるのが見えた。こんなところで見つかってしまえば、家出が水の泡と化してしまう。僕は慌てて、そばで明かりのついていた店に飛び込み、いそいで死角になるところを探し隠れた。息を潜めて、警察官が通り過ぎるのをじっと待っていた。

 警察官が遠ざかってしまうと、思わず大きなため息をついてしまった。

 「おや、お客さんかな」後ろから声がして、心臓が跳ね上がった。恐る恐る振り向くと、そこには白のポロシャツにベージュの短パンで、頭のもじゃもじゃした白髪のおじいさんがいた。

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