【短編】きみのための神様

文里荒城

きみのための神様

 秋の色に染まった山の向こうに、ゆっくりと太陽が沈んでいく。

 烏の鳴き声が遠くなり、代わりに虫が歌い出す。静かで心地よい夜が姿を見せるその時間、『彼』は子どものすすり泣きを聞いていた。

(……またか)

 人気のない神社の裏で泣く男の子の背中を、『彼』はじっと見つめている。

 小学校に入ったばかりの男の子のシャツとズボンは薄汚れている。背負ったランドセルも同様だ。噂によると、親からほぼ放置されているとかいないとか。そのせいで同級生からいじめられてもいるらしい。

「っ……」

 しゃくりあげる男の子の声が、風に乗って、『彼』の背中の中ほどまである黒髪を掻き分けて、鼓膜を震わせる。

 伝わってくる暗い感情に、『彼』は形のいい眉を顰めた。

 どうして自分がこんな目に遭うのか。どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか。悲しみと、怒りと、苦しみと。ない交ぜになった感情を浴びて、『彼』は大きく溜め息を吐いた。

(これは、良くない)

 このままではいずれ、男の子はこの世を見限ってしまうだろう。

(さすがにそれは、放置できない)

 優しさでも同情でもなく、自分の役割として、『彼』は一歩足を踏み出した。着物の裾から伸びた草履を履いた足が、手入れの行き届いた地面を踏む。

「おい。桐生湊人きりゅうかなと

 名前を呼ぶと、ビクッ、と小さな背中が震えた。

「え……?」

 振り返る丸っこい目が、『彼』の姿を捉えて驚いたように見開かれる。

「誰……?」

 呟く疑問は、ただ『彼』の名前を訊くものではない。突然現れた『彼』の、存在そのものを問うものだった。

(意外と聡いな)

 自分が気づかなかったのだ、と都合よく誤魔化さないことが、『彼』としては少し面白かった。

 実際『彼』は、突然姿を現した。正確には、存在を認知できるようにした。だから彼の疑問は、正しい。

「なんで名前……」

 続けて尋ねてくる男の子に、『彼』は軽く唇の端を吊り上げた。着物越しに、胸元に手を当てる。

「知ってるに決まってるだろ」

 名前も、彼がこの村でどんな目に遭っているのかも、どう生きてきたのかも知っている。何故なら。

「暁。さすがのお前でも、この名前に覚えはあるだろう?」

 言えば、ぽかんと男の子は口を開ける。

「あかつき……って、かみさま、の……?」

 そう呟く男の子に、『彼』はにっこりと笑ってみせた。


◆ ◆ ◆


 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……。

 不意に。

「――さま」

 遠くから声が聞こえてきて、暁は薄らと目を開けた。

(今の声は……)

 ゆっくりと顔を上げる。と、同時に。

あかつき様~!」

 階段を駆け上がってくる男の姿があった。

 スーツに身を包んだ、爽やかな印象の青年だ。長い階段を全力疾走してきたのか、肩で息をしている。ぜえはあと荒い呼吸で苦しそうな表情だった彼は、しかし、暁の姿を確認するやいなや、パァッと顔を輝かせて両手を振った。

「暁様っ」

 そして彼は、本殿の階段に座り込んでいる暁へ駆け寄ってきた。

「もしかして寝てました?」

「……いや」

 答えつつ、とはいえ人間の感覚でいえばそれに近いのだろう、なんてぼんやりと暁は考える。

 暁は人ではない。

 人と同じ姿こそ保ち、同じ言葉では喋るものの、その正体は、この神社に祭られた、村を守る神様である。

(私は一体どれくらい――)

 疑問の答えを出す前に目の前に手が差し伸べられて、暁は思わず目を瞬かせた。

 ちら、と手の主である青年を見上げる。彼はにこにこと嬉しそうに暁を見下ろしていた。

(少し前まであんなに小さかったくせに)

 暁の脳裏に浮かぶのは、青年がまだ小学生かそこらだったときの姿だ。めそめそと神社の裏で泣いていた彼の――湊人の背中を、暁はまるで昨日のことのようにありありと思い出せる。

 それが今では、もう二十代も後半になったのだったか。

 百八十近い身長と、整えられた短髪、幼さなどとうに消えて整った顔立ちは、自分とは全く違う。

彼と頭ひとつ分ほど小さい身長も、長い黒髪も、着物も、皺の一本増えないこの容姿も。暁の見目は、十八で止まっているのだ。

 湊人の手を無視して暁は立ち上がる。

「暁様?」

「賽銭くらい入れていけ」

 階段を下りて、湊人の横を通り過ぎる。

「はーい」

 背後で小銭の投げ込まれる音を聞きながら、暁は雑草を踏みつけるようにして敷地内を歩き出した。

「どこ行くんですか?」

 そんな暁に湊人がついてくる。

 特に答えず、暁は先ほど湊人が上ってきた階段の前に立った。

 鳥居の向こう、眼前に広がるのは山と民家だ。

 何百年と、暁が神として守り続けてきた村である。

「お前、どこに泊まってるんだ?」

 もうすぐ夕方なせいか人も少ない静かな村の様子を一瞥しながら、暁は隣に立つ湊人へ尋ねた。

 深い意味はない。ただこの村に、彼が寝泊まりできるような場所が未だにあるのかと疑問に思っただけだ。

 すぐに返事があると思って黙っていた暁は、けれどしばらく待っても湊人が答えないので眉を顰めた。

「おい?」

 見れば、湊人は目を丸くして暁を見つめている。

(……こうやって見ると、やっぱり湊人なんだな)

 初めて出会ってから二十年ほど。暁にとっては一瞬にも似た短い期間。

 その間に成長して、背も雰囲気も随分と変わった彼だが、自分を見る目は、表情は、あのときとなんら変わりはない。

 それにどこかホッとしている自分を、暁は自覚する。もちろんそんなこと言わないが。

「なんだ」

「いや、だって暁様が俺に興味持ってくれるなんて! 村から出て十年以上、毎年会いに来てますけど、そんなこと聞いてくれたの初めてじゃないですか!」

(そうだったか?)

 言われてみればそうだった気もする。

「嬉しい……ッ」

 感極まって両手で顔を覆う湊人を、暁は無言で見つめる。

 というより、それ以外どうすればいいのか分からないのが本音だった。

「……」

「俺が泊まってるのはあそこです! 見えますかね、民宿」

 相変わらず片手で顔を隠したまま、湊人がもう片手で指を差す。

「民宿なんてあるのか、この村に」

「古いですけどね。お客さんも、いっつも俺ひとりです。まあ観光地とかでもないし、わざわざ来る人なんてそれこそ俺みたいに帰ってくる人だけじゃないですか。というか俺が珍しいくらいっていうか。みんな出てったらそれきりでしょう?」

 ザァッと吹いた風が、暁と湊人の髪を撫でて通り過ぎていく。乱れた前髪を直そうと、無意識に目の前に手を持ち上げた暁は――その腕越しに村の風景が透けて見えてぎょっとした。

「っ」

 思わず手のひらを広げて眼前にかざす。ずれた着物から覗く細い腕は、震えてこそいるものの、まるで先ほどのことが見間違いのようにいつも通りだった。

「暁様?」

 そんな暁の様子に気づいた湊人が首を傾げる。

(相変わらず……)

 聡い、と思った第一印象の通り、湊人は勘がいい。こういうときすぐに気づく。それが暁は、苦手だった。

「……いや」

 なんでもない、と緩く首を横に振る。

 と、地面が揺れた。

 咄嗟にだろう、湊人が暁の肩を抱くようにして引き寄せる。

 数秒もすれば、揺れはすぐに治まった。

「びっくりしたー。暁様、大丈夫ですか?」

「ああ」

 頷いた暁はそのまま湊人から離れようとする。

 が、暁を腕の中に収めたまま、湊人は動かない。

「おい?」

「へへ」

 暁を抱きしめた湊人は、髪に顔を埋めるようにして頬をすり寄せてくる。


 ――湊人が暁に、そういう意味で「好きです」と伝えてきたのは、出会って一年ほどのことだ。

 親からはいないもの同然として扱われ、いつも薄汚いせいか下を向く彼を、歳の近い子どもはからかい、いじめた。他の大人も、そんな湊人を腫れ物扱いしていた。

 村を守る立場としてそんな湊人を放っておけず、暁は彼の前に姿を現した。立場上、面倒を看ることができるわけではなかったが、話し相手くらいにはなった。

 唯一自分を見てくれる相手と出会った湊人が暁に懐くのは、ある意味で必然だったのだろう。

「すきです、あかつきさま」

 頬を赤らめて、瞳を潤ませて、震えた声で。

 幼い彼がそう告げてきた日のことは、暁からすれば記憶に新しい。

 とはいえ、暁にそれに応える気はなく――


「いつまでやってる」

 むんずと湊人の顔を掴み、暁は押しのける。

「ぐえ」

「よく飽きないな、お前も。村から出てもう随分経つのに」

「飽きる? 俺が暁様に? あり得ませんよ!」

 間髪入れずにそう返すと、湊人は暁の手を掴んだ。

「あの日、暁様が俺に声をかけてくれた日から。傍にいてくれた日から。俺にとって暁様が全てです。ずっと。ずっとずっと。好きです。暁様」

 真摯な瞳が、真っ直ぐに暁を見る。

 ぐ、と暁が言葉に詰まったのは、彼の言葉に嘘も偽りもないと分かっているからだ。

 暁に「好きです」と湊人が伝えて、一年後。湊人の環境に気づいた親戚が彼を引き取り、村の外へ引っ越していった。

 きっともう会うことはないだろう。そう思っていた暁の意に反して、湊人が一年に一回会いに来るようになったのは、彼が二十歳になってからのこと。夏の終わりに、一年に一回。そして毎年、同じ言葉を暁に告げる。

「…………湊人。ずっと言っているが、私は」

「分かってます。付き合ってほしいとかそんなこと思ってません」

 どれだけ同じ姿をしていても。会話ができても。触れ合う真似ができても。

 良くも悪くも、違うモノなのだと彼は理解しているのだ。

(外には色々とあるだろうに。娯楽も、女性も、何もかも)

 理解した上で、暁を選んでいる。

(だからこそ、私は――――)

「俺、明後日まで村にいられるんです。その間会いに来ますね! 本当はどこかお出かけとかできたら嬉しいんですけど! なんて」

「分かった」

「え?」

 頷いた暁に、ぽかんと湊人が口を開ける。あまりにも予想外だったらしい。

「なんだ、嫌か?」

「えっ違……! だって暁様、今までそんなこと」

「嫌ならいい」

「嫌じゃないです! じゃ、じゃあ、今から……?」

「明日」

「アシタ」

 店どころか街灯も少ないこの村で、夕方以降出かけられる場所などない。

 明日出かける約束をして、湊人は帰っていった。というより、暁が帰した。湊人があまりにも戸惑っていて、会話が続かなかったからだ。

 どんどんと小さくなる彼の背中を見つめながら、暁は小さく笑う。

(思っていたより面白い反応だったな)

 初めて見る反応だったかもしれない。そもそも自分が、初めての返しをしたからなわけだが。

(湊人。お前がいてくれるから、私は)

 湊人の背中から視線を外し、暁は神社を振り返る。

 数年、誰も手入れしていない神社は寂れ、雑草にまみれている。湊人以外、足を踏み入れることすらない。

(あのときと随分と変わってしまった)

 沈む直前の太陽が、神社を、暁を照らす。

 その光が、半分透けた自分の体を突きつけているのを、ぼんやりと暁は眺めるのだった。


◆ ◆ ◆


 翌日。

 神社へやって来た湊人を、暁は本殿へ招き入れた。

「あのー、俺、罪悪感がすごいんですけど」

「いいからさっさとしろ」

「うぅ……」

 仁王立ちの暁に命じられて、おずおずと湊人が手を伸ばすのは、本殿に飾られている手のひらサイズの像だった。

 御神体――つまり、暁の宿っているものである。

「これは家だと思ってもらえばいい。ただ、この家の近くじゃないと私は動けないからな。もちろんあまり遠くへ行くつもりもないが、自由度が上がる。だからつまり、なくすなよ?」

「プレッシャーかけないでくださいいぃぃぃ……」

 震えながら丁寧に御神体をハンカチで包んで鞄に入れる湊人の様子が少しばかり滑稽に見えて、暁は笑ってしまった。

「さて、行くか」

 そして改めて、ふたりで並んで神社を出る。

「どこ行く?」

 尋ねるも、湊人から返事はない。

 振り返れば、彼は目元に手を当てて立ち竦んでいた。

「おい?」

「本当に……デートしてもらってる……夢かな……夢なら醒めないでほしい、なんならこの気持ちのまま死んでもいい……」

「……」

 指の隙間から、ツーと涙が伝っているように見えるのは、果たして暁の気のせいか。

「行くところがないなら帰る」

「ありますありますありますありますッ!」

 今来た道を戻ろうとした暁の手首を、勢いよく湊人が掴んだ。

「だったらさっさとしろ」

「はい!」

 暁が逃げないようにだろう。手首を掴んだまま湊人が一歩先を行く。

「俺、昨夜全然眠れなくて。暁様とどこに行こう、どこだったら楽しんでくれるだろうってずっと考えてて」

 そう話す湊人の足取りは軽い。

 その背中と、視界の端を流れていく景色を、暁はぼんやりと見る。

 青空と山と田んぼと畑の広がる田舎は、昼にもかかわらず他の人の姿が見当たらない。広すぎる土地に対して、住んでいる人間の数が少ないからだ。

「着きました!」

 不意に湊人が足を止める。

 目の前にあるのは、寂れた喫茶店だった。村で数少ない飲食店なので、古くても最低限の客が来るためなんとか潰れずに残っている。

「来たことありますか?」

「いや。前を通ったことはあるが」

「よかった」

「あ、待て」

 扉を開けようとした湊人を、暁は制した。

「はい?」

「私の姿はお前にしか見えてない。だから今のお前はひとりでべらべら喋ってる変な奴だ」

「それ先に言っといてくださいよ!?」

「悪い」

 正直、タイミングを失っていた。

「んー、でもまあいいです」

 思ったよりあっさりと湊人は頷き、にこりと笑う。

「だってそれって、暁様を俺が独り占めできるってことですもんね!」

 ――思わず、暁の目が丸くなる。

 その間に湊人は、扉を開けて店内へ入っていった。

「すみませーん」

 湊人の声に合わせて、店の奥から年配の男性が出てくる。

「お好きな席にどうぞ」

「暁様、あっち」

 湊人が選んだのは、入り口から死角にもなっている、端の窓際の席だった。

 二人掛けのそこに向かい合って座る。

 テーブルに置いてあるメニューを手に取った湊人は、それをテーブルに広げた。暁にも見えるよう、且つ自分ひとりで見ても不自然ではない絶妙な角度だ。

「好きなのありますか?」

「別に……」

 答えようとして暁は、男性が訝し気にこちらを見ていることに気づいた。

「怪しまれてるぞ」

 目でちら、と指せば、湊人が「んー」と唸る。

「あ、じゃあ」

 そう言って湊人はスマホを取り出した。片耳にイヤホンも差す。

「これなら喋ってても大丈夫かなって」

 どうやら、通話している体でいくらしい。

「お前がそれでいいなら」

「俺コーヒーにしよっと」

「私はいい」

「えーっ」

「別に私は飲み食いしなくてもいいからな」

「もしかして食べられない?」

「食べられはする。必要がないだけだ」

 むぅ、と唇を尖らせた湊人は「じゃあ適当にしちゃいますね」と店員を呼んだ。

 やって来た男性に、手早く注文を済ませる。準備のために店の奥へ行く背中を、ふたりで見送った。

「静かですね」

 誰もいない店内を、湊人が見回す。

「年々、人が減ってる気がします。今日も誰ともすれ違わなかったし」

「村に残ってるのはジジババばっかりだからな、。死んでく一方だ」

「言い方……」

 苦笑する湊人から視線を外し、暁は頬杖をつく。

「昔は賑わってたんだがな」

「まあ……俺が子どものときはもう少し人もいたかなーって思います。……そういえば、暁様っていつから神様なんですか?」

「うん?」

「訊き方難しいな……なんていうか、いつからこの村にいるのかなーって」

「いつから……数えたこともない。二百年くらいまでは把握できてた気がするんだが」

「にひゃく……!」

 思っていたより多い数字だったらしい。

(そういえばあまり、こういう話はしてこなかったな)

 一年に一回のペースでは会話も限られてくる。子どものときはそもそもそういう話にもならなかった。

「生まれたときから神様ですか?」

「いや? 元は、お前たちと同じただの人間だったよ」

 目を細めた暁は、窓の外に見える山に視線を向けた。

「この辺りは地震も多くて、災害が多かった。それを鎮めるために、私は捧げられたんだ」

 ぽかんと、湊人の唇が開く。

 その反応に、暁は苦い笑みを浮かべた。

「昔だからな」

 それこそ災害は天の怒りだと恐れられていた、遠い遠い昔の話だ。

 家族を守るために、暁は身を捧げた。人間としての命を終え、次に目が醒めたとき、暁は村を守る神として、人とは違う理のモノとなっていた。

「だから着物と髪……神様っぽい格好をわざとしてるのかと思ってた……」

「なんだ、それは」

 そんな話をしていると、店員がトレーを手にやって来た。

「お待たせしました。コーヒーと」

 コーヒーの入ったカップがテーブルに置かれる。そして、

「パフェです」

 ソフトクリームと生クリームにフルーツの載せられたパフェも。

「わ……」

 反射的に暁は声を漏らす。

 この店の前は通ったことはあるし、パフェそのものは知っている。しかし、こうやって目の前でまじまじと眺めるのは初めてだった。

 男性が去ったあともじっとパフェを見ていた暁は、ふと視線を感じて顔を上げる。

 見れば、湊人がどこか楽しそうに暁を眺めていた。

「……なんだ」

「こういうの食べたことないって、昔言ってたから。今もかなって思ってたから、当たってたみたいでよかったです」

「……」

 そんなにバレバレの反応だったのかと、居心地が悪くなる。

「よく覚えてたな」

「覚えてますよ」

 客が湊人ひとりだからか、男性は店の奥に引っ込んでいる。それを幸いとばかりに、湊人がパフェ用のスプーンを暁へ渡す。

「あなたと出会ってからのことは、全部覚えてます」

 低い声は優しく、暁の耳に届く。

 真っ直ぐに見つめられて、暁は硬直した。

 暁の姿は、基本的に人には見えない。例えば、子どもだった湊人に声をかけるべく姿を現わしたり、以降暁を暁として認識していれば、見える。

 だがそうでなければ――暁を認知しておらず、暁自身も姿を見せようとしなければ、特にそういうことはない。

 つまりこうやって見られること、誰かと目を合わせること自体が、暁にとって久しぶりだった。

(こういうとき、どうしていただろう)

 見られている、と変に意識してしまって、ギクシャクしてしまう。

 暁の葛藤を知ってか知らずか、湊人はにこにこしながらカップに口をつけた。

 暁もそれに合わせてパフェを食べる。

「……んっ」

 舌に広がるじんわりとした甘みに、つい夢中になる。

 無自覚に目をキラキラさせて、暁はパフェを口に運んでいく。

「美味しいですか?」

「ああっ」

「気に入ってくれたならよかった」

 笑いながら、湊人が微かに身を乗り出した。

 暁に向けて、あ、と口を開ける。まるで雛が、親鳥から餌を待つようだった。

 何を望んでいるのか言われなくてもすぐに理解できて、暁はスプーンを持っていない方の手を持ち上げた。

「調子に乗るな」

 そのまま、前髪の隙間から覗く額を指で弾いた。

「あだっ」

 小さく呟いて、湊人が顔を顰める。けれどそこには、隠しきれない笑顔が滲んでいた。

 柔らかく細められる両目と、頬に浮かぶえくぼは、子どものときの笑い方となんら変わらない。懐かしさに、微かに胸の奥が締めつけられる。

 直後。

「あ」

 テーブルが小さく揺れ、コーヒーカップと皿がぶつかって音を立てる。地震だ。

 とはいえ、揺れは大きいものではなく、すぐに治まった。

「多いですね、地震」

湊人が呟くと同時に、揺れに耐えきれなかったのか、溶けたアイスクリームの中に、さくらんぼが落ちて沈んでいく。

「……そうだな」

 それを、暁は眺めていた。


◆◆ ◆


 喫茶店を出たあと、湊人が暁を連れて行ったのは村はずれにある川だった。

「ここは――」

「あ、覚えてくれてました?」

 石を拾い上げた湊人が、緩やかに流れる川にそれを投げる。

「遊び方、あなたが教えてくれましたよね」

 石は水面を、二度、三度と跳ねる。

「村を出てからも練習してたんですよ。暁様に勝つぞーって。上手になったと思いません?」

「そうだな。子どものときはお前、ただ投げてただけだもんな」

 どうしたらあかつきさまみたいにじょうずにできますか?

 そう訊かれてなるべく平たい石を選べばいいやら、上からではなく横に投げるようにすることを教えたのを、暁も覚えている。

「どうですか、また昔みたいに勝負」

「……いいだろう」

 どうせ他にすることもない。

 ふたりで、投げるのに良さそうな石を探す。

「子どものころ色々しましたよね。虫取りとか、かくれんぼとか。暁様が絶対見つけてくれるから、俺かくれんぼが大好きでした」

「よく変なところに隠れてたな、お前は」

「井戸の中に隠れようとして怒られたの、今も覚えてます」

「あったか? そんなこと」

「ありましたよぅ」

 他愛ない会話をしながら、当時そうしていたのと同じように、手頃な石を見つけてはキープする。最後に、一番跳ねそうなものをひとつ選ぶのだ。

「そういえば、暁様って今までも、あんな風に声かけたりしてたんですか?」

「あんな風って?」

「子どもとかに」

「いや? あのときは、あのままだったらお前は死ぬだろうなって思ったから」

 数日間様子を見るだけで、湊人がどんな目に遭ってきたのか分かった。

「独りは……辛いからな」

 どれだけ叫んでも泣いても、誰も気にも留めない。それが日常になれば、いつしか手を伸ばすことすら諦めるだろう。

 ――いつかの自分が、そうだったように。

「といっても、これくらいしかしてやれることもなかったけどな」

 三個、いい石を見つけたところで、暁は顔を上げる。

 立ち尽くすようにして自分を見ている湊人へ歩み寄った。

「準備は?」

「え? あ、……はい」

 三個拾った石の中から、一番形の綺麗なものを選ぶ。

「せーの」

 同時に投げた石は、水の上を跳ねていく。

「……私の負けか」

 先に水中に沈んでいったのは、暁の投げた石だった。

「へへっ、初めて勝ちました!」

「そうだったか?」

「はい!」

 嬉しそうに湊人が残りの石も投げたのを見て、持っていた二個を暁は彼に差し出した。

 受け取ろうと、湊人も手のひらを広げて暁の前に出す。

「……さっき暁様は、これくらい、なんて言いましたけど」

 暁が手渡す直前に、そう、湊人が口を開いた。

「そのこれくらいが、俺には人生で最高に嬉しかったんです。生きてていいんだーって」

「……そうか」

 石を受け取った湊人は、それを手の中で遊ばせる。暁から渡されたそれを手放すのは惜しいとばかりに、指先で優しく撫でる。

「……だがそれは、私でなくとも同じ気持ちを抱いたと思うぞ」

 そして湊人はその相手を好きになっていただろう。今、暁を想うように。

「でも、あのとき俺を救ってくれたのは暁様じゃないですか」

「……」

「だから俺が好きなのは、暁様です。生きていいって思わせてくれて、傍にいたいって思わせてくれて、この人のためだったら死んでもいいって思わせてくれて。――ね、暁様」

 雲の隙間から、太陽が顔を覗かせる。逆光が湊人を照らし、表情を隠す。眩しさに、暁は目を細めた。

「次は、暁様の行きたいところ行きましょ? 俺、ついていきますから」

 そう言って湊人は、勢いよく石を投げた。

 二個の石は曲線を描き、高く、高く宙を舞う。

「だってそのために俺を誘ってくれたんでしょう?」

「え――」

 絶句する暁の前で、石は激しい音を立てて、水に落ちた。


◆◆ ◆


 ざわざわと、草木が風で音を立てる。

「わっ」

 背後で湊人の悲鳴が聞こえて振り返ると、湊人が木の根に躓いて転びかけているところだった。

「セ、セーフ……!」

 寸でのところで大勢を整えた湊人は、暁と目が合うとへらっと笑う。

「暁様も気をつけてくださいね?」

「ここは慣れてるからな」

 山道と呼ぶには荒れ果てたそこを、暁は草履で軽々と進んでいく。

「俺は初めてです。ここ、入っちゃいけないって言われてきたし……」

 暁も、自分達のが今歩いているこの山が、神域と呼ばれていることは知っていた。

「なんでかは知っているか?」

「えっと、確か神様が住んでるからって。……あれ、でも暁様は――」

「あの神社は依り代だ。お前が持っているそれがな」

 鞄の中に、神社から持ってきた物が入っていることを思い出したのだろう。慌てたように湊人が、大事そうに鞄を抱える。

「だが本体はここだ」

「そうなん、です?」

「ああ。ここは――私が、捧げられた場所だ」

 湊人が、小さく息を呑む音が聞こえた。

「山に命を捧げて、私は村を守る存在になった」

 どうして自分が選ばれたのか、正直もう、暁は覚えていない。時の流れで風化した記憶に残っているのは、家族を守りたい、それだけだった。

(……もうその家族も、とうの昔にいなくなったわけだが)

 それでも暁は消えるわけにはいかなかった。いや、消えなかった。

「どうして私が神なのか分かるか?」

「いえ……」

「人々がそれを望むからだ」

 神としての存在を望まれ、願われるからこそ、暁は『そういうもの』としてここに在る。『そういうもの』として崇められるから、暁はそうでいられる。そう振舞う。

 だが――――

「っ」

 不意に、がくっ、と暁の足から力が抜けた。

「暁様!」

 反射的に湊人が後ろから支えてくれて事なきを得たが。

「……暁様……」

 その体が薄らと透けていることに、湊人が気づく。

(……湊人がいても、もう限界か)

「手を貸してくれるか?」

「は、い」

 湊人の手を借りて、ゆっくり、ゆっくりと暁は先へ進む。

 覆い茂った木は光を遮り、まるで洞窟にでもいるような気分にさせられる。

 進めば進むほどその暗さは増していく。暁と湊人を飲み込もうとするように。

「……もうこの村に、ほとんど人は残っていない。私を語り継ぐ者も、覚えている者もいない。人が、村がなくなれば、私の理由も」

 記憶は伝承となり、噂となり、そして、その噂を口にする者すらいなくなった。

 暁の魂を、神として縛るものはなくなった。

「偶像は、信じる者がいて初めて形になる」

「でもあなたは今ここに、」

「お前がいるからな。……逆にな。お前がいなかったら、私はもういないんだ」

 ここ数年の暁の記憶は、湊人の傍にいるときのものしかない。

 湊人が自分に会いに来てくれるから。自分を想ってくれているから。だから暁はその時だけ、この村を守る神の暁様として、目を醒ますのだ。

 暁様、と。唯一、彼が名前を呼んでくれるから。

「――――ッ」

 暁を引く湊人の手が震えていた。

「じゃ……じゃあ、俺、もうずっと村にいます! というかずっと、そうするつもりだったんです!」

「嘘をつくな」

「嘘じゃないです! この村って人いなさすぎて仕事もなくて。だから、仕事がなくても生きていられるようにって、俺、そのお金貯めるためにずっと働いてきたんです! 俺がなんで一年に一回だけしか来れなかったって、激務すぎるからですよ! けど給料だけはいいから、暁様との将来のために我慢、我慢だーって!」

「へえ?」

「信じてませんね!? 本当ですよ!?」

 暁は微かに笑う。こんな場合だというのに、湊人の必死さが心地よかったからだった。

「本気か?」

「もちろんです!」

「じゃあ、私のために死んでくれるか?」

 直後、ふたりの前の景色が開けた。

 湊人が足を止める。

 それは、眼前に崖が広がっているのを見たからだった。

 崖の向こうには、やけに綺麗な青空が広がっていて、暁は眉を歪ませる。

(ああ……嫌なことを思い出す)

 守ろうとした家族の声も、顔も、もう忘却の彼方に消えていった。それなのに、あの日、神になることを、身を捧げることを命じられて、ここに立ちながら見上げた、鮮やかな空の色だけは、今もはっきりと思い出せるなんて。

「ここに身を捧げてくれれば、お前は永遠に――」

 最後まで、暁が言う前に。


「はいッ!」


 ぱっ、と暁の手を離して、湊人が崖に飛び込もうとした。

 それはあまりにも躊躇がなく、暁が目を見開いたくらいだった。

 だから、

「ッ!」

 咄嗟に、暁は湊人に飛びついた。

「わっ!?」

 ふたりして、転がるようにして地面に倒れる。

「お……ッ前、何して!?」

「え、だって暁様がここにって」

「だからってそんな……もっと……あるだろ!? 躊躇うとか泣き叫ぶとか嫌だとか!」

「ないです!」

「はァ?」

「だってこうしたら、暁様が消えないんでしょ? 理屈は分かんないけど、暁様が助かるなら俺はいいんです! 言ったじゃないですか、暁様のためなら死んでもいいって」

「は……」

 暁は思い出す。「そのために、俺を誘ってくれたんですよね?」という湊人の言葉。その意図を聞くタイミングはなく、有耶無耶なままここまで来てしまった。

(全部、分かって)

 子どもの頃から、湊人は聡かった。だから――もしかしたら知っていたのかもしれない。消えそうになっていた暁の体のことも、どうして暁がここに彼を連れてきたのかも。

 そう思えば、おとなしくついてきた理由も、動揺もなかった理由も、頷けた。

「それとも」

 起き上がることもしないまま、湊人が暁の身体を抱きしめる。

「暁様は、そうだったんですか?」

 服越しに直接、湊人の声が響く。

 暁は唇を開く。しかし、声が出ない。

(私、は)

 村を守るのが役目だった。名誉だった。そうやって何百年と生きてきた。

 それは――――そう思わなければ、納得できなかったからだ。

(どうして――なんで、私が、俺が)

 蓋をしていた感情が溢れてくる。

 ここに立ったとき、怖かった。けれど後戻りもできなかった。

 目を醒まして、神になったときは安堵した。自分の死に意味があったと思った。

 家族の前に姿を現わして、村人からも感謝されて。頑張ろうと思ったのだ。

 ……けれど、どんどんと家族は歳を取った。まず親が、次に妹が、死んでいった。それでも、姪や甥がいたから頑張れた。その家族を、子どもを、見守っていった。だが時が経てば経つほど、同じ時を生きられない自分を自覚させられて、疎外感を抱くようになった。

 それからは逃げるように、姿を隠すようになった。その一方で、神として存在する以上、村を守ってきた。守らなければ、存在する意味がなかった。それに、感謝されること自体は、嬉しかった。

 そうやって長い長い年月が経ち――今ではもう、『暁様』を覚えている人が、いない。

「俺は……なんのためにここにいるんだろうな」

 やっと暁が口にできたのは、そんな一言だった。

「お前がいてくれれば、傍にいてくれれば、このままでいられる。利用しようとした。だってこのまま消えたら、俺って、なんのために今まで生きてきた?」

 静かに、湊人は話を聞いていた。暁も応えはいらなかった。だから続ける。

「でもだからって、俺がされてきたことを、お前にしたくないんだ」

「暁様、俺は」

 湊人の胸元に手を滑り込ませた暁は、彼を離した。顔を上げて、何か言いかけたその唇を唇で塞ぐ。

「…………へ、ぁ……?」

 触れるだけの口づけは、けれどそれだけで充分な効果があったらしい。

 間抜けなくらいに硬直した湊人に笑い、暁は身を起こす。

「お前に救われたのは俺だって同じだ」

 傍にいた期間は、何百年という時間の中では短い方だった。湊人に声をかけたのも、義務感からだった。

 それでも、独りじゃなくなったのは、暁だってそうで。

「じゃなきゃ姿も消す。お前ひとり相手に、さすがにそれくらいの力だって残ってる」

「暁様」

 湊人が起き上がる。再度、暁を抱き締めようと手を伸ばしてくる。

「好きです、ほんとに、俺」

 だがその手が暁に触れる前に。

 地響きと共に、激しく地面が揺れ出した。

「うわっ、わ!?」

 山にいた動物達が騒ぎ、鳥達が一斉に飛び立っていく。

 突然のことに身構えることもできず、湊人がバランスを崩し地面に伏せる。

「あ、あかつき、さま」

 暁だけは静かに、まるで何事もないかのように、湊人の前に立っていた。

 振り返った暁は、しゃがんで湊人の頭をぽん、と撫でる。

「最後の仕事だ」

「え」

「私は、この村を守るのが役目だからな。……ずっとな。会いに来てくれるの、嬉しかった」

 湊人が何か言いかける前に――彼が地震で立ち上がれないのをいいことに、暁は崖から飛び降りた。

 湊人が悲鳴のように、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

(あいつは聡い。だからすぐに理解する)

 村を守るために暁は捧げられた。その力が弱まれば、抑えていた自然災害も復活する。

 湊人の魂を取り込んで永遠として固定すれば、暁は消えず、今まで通り災害を抑え込むことはできる。湊人の存在を現世から断つ代わりに、ふたりでずっと、違う理で生きていける。湊人もきっと、それを拒否はしなかった。

 だが果たして、それは正しいのか。

 むしろ自分は、『暁様』でいられることを終えると、喜んでもいいんじゃないか。

(もう充分働いた)

 だから最後に、まだ暁として意識が、力があるうちに。

(私が守りたいのは――――)

 何百年と生きてきて、今の自分を好きだと言ってくれた彼の姿を思い描きながら。

 崖の下へと落ちていく暁の姿は、そのまま闇の中に溶けて、消えた。


◆◆ ◆


 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……。


「ちょっと行ってきますね、暁様」


 突如聞こえてきた声に、暁はハッと目を開けた。

 まず視界に映ったのは、見知らぬ天井だった。

「……え?」

 瞬きを繰り返しながら身を起こす。そして暁は、自分がソファーに横になっていると気がついた。

「……」

 ワンルームの知らない部屋。最低限の家具の置かれた殺風景な部屋で、電源の点いたテレビが流れている。

『――三年前の震災では――村は壊滅状態にはなったものの――奇跡的に死者はおらず――――』

 ニュースをぼんやりと聞きながら、暁は身を起こす。その際、指先に何かが触れた。

「あ……」

 手のひらサイズの像。見慣れたそれは、神社に祭られていた――

 そんなことを考えていると、ガチャリと扉の開く音がした。

 顔を向ける。目が合う。

 事態をすぐには把握できなかったのだろう。硬直した彼は――湊人は、しばらくの間動かなかった。

 けれど不意に、持っていたコンビニ袋が手から滑り落ちる。

「暁様ッ」

 玄関に放り出すようにして脱いだ靴と、落としたコンビニ袋からペットボトルが無造作に転がる。それを暁が指摘するより早く、湊人は暁に駆け寄ると抱きしめてきた。

「ちょ……放せ、苦しい……」

「待って、嘘、無理、無理です、だって」

 耳元で、湊人の震えた声が呟く。

 湊人が力を緩める気配もないので、暁は肩を竦めて、そのまま彼の好きにさせてやることにする。

「どれくらい経った?」

(完全に消えたと思ったんだが)

 自分の存在そのものと引き換えに、暁は村の人々を守った。そのまま消えた――はずだった。

「震災……暁様がいなくなって、三年……」

「そうか」

「家とか全部壊れて、村からみんな出て行って……けど、怪我人はいても、誰も死んだりとかなくて。俺、暁様だ、って」

 暁の肩に顔を埋める彼の、湿っぽい声を、暁は静かに聞く。

「もう……会えないと思った……っ」

「……そうだな。私も、そのつもりだった。けど……ずっと、忘れないでいてくれたのか」

 持ったままだった像を、暁は手の中で遊ばせる。神としての暁の依り代だ。分身と呼んでもいい。これがあり、且つ、存在を願われたから、暁は目を醒ました。

(とはいえ)

 本来であれば、村人全員に存在を認識されて形になった存在が暁である。それが、いくら依り代が手元にあるとはいえ、湊人ひとりの想いでこうやって戻ってくるなんて。

「どんだけ私のことが好きだ? お前は」

「そんなのっ」

 ガバッ、と顔を上げた途端、湊人の目からぼろぼろ涙が溢れ出した。

(私のために泣いてくれるのか)

 じんわりと、胸の奥がくすぐったい。涙だけではない。名前も会話も、自分のために何かをしてくれたのは、もうずっと彼だけだ。

 もちろん、それは自分で決めたことではある。立場上見返りだって求めていない。

 けれどだからといって、それに何も思わないわけでもないのだ。

暁は微かに笑うと、湊人の頬に伝う粒を拭った。

「っ……」

 するとますます、彼は表情を歪める。

 近くでこうやって改めて見ると、少しだけ皺が増えていることに気づく。前に比べて痩せてもいるようだ。

 時の流れを感じると同時に、それが羨ましい。

「……村はもうないんだな?」

「はい。山も開発されるって」

「……そうか」

 悲しいというわけではない。湊人を取り込まなかった時点で、暁はあの村に見切りをつけたのだ。

 しかしいざはっきりと聞くと、心に穴が空いたような喪失感はある。

(もうないのか。私が存在する理由は)

 守ってきたものも、守る理由も、もう――。

 思わず目を伏せる。

 と、湊人の頬に触れたままだった手を掴まれた。

「みな」

「だから、暁様。俺のためにここにいてくれますか?」

 まるで、暁の思いを見透かしたような台詞だった。

「死ぬまで傍にいてください」

 自分を見つめてくる瞳から、暁は目を逸らせなくなる。

 村にいるときから。村を出てから。暁が消えても。

 ずっと願ってくれた。

(そんなの、もう)

 絆されないわけがないのだ。

 俯く暁の顔を、湊人が覗き込んでくる。

「どこまでも信者だな、お前は」

「そうなんですかね? でもそれでもいいです。暁様の傍にいられるなら!」

 その言葉には嘘も偽りもない。暁がここにいることがその証拠だ。

 逆に、湊人が暁を望まなくなれば、その瞬間に暁は消える。恐らく、次こそ永遠に。

(……悪くないか)

 ずっと見送ることしかできなかったが、今回は違う。

 死ぬまで。それは文字通りだ。

「最後の信者の願いくらい、そうだな。聞いてやってもいい」

「あか――」

 湊人の唇に、暁は唇を重ねる。

 真っ赤になったその体に体重を預けるようにして、湊人を抱きしめた。

 最後くらい、たったひとりのために神様を名乗るのも、悪くない。


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【短編】きみのための神様 文里荒城 @ahrh321

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