冬の木

@siitakemikan

冬の木

最寄り駅のバスターミナルの中心に大きな楷の木がある


それは夏に青く新鮮な息遣いを見せた


冬に入っては澄んだ高い雲から注いだ光が、葉を通し、心淋しい光を照らしていた


そのようやっと生まれて漏れたような光が、地下鉄へ下る階段の踊り場まで届くと私は心を澄まされ、その木を意識せずにはいられなかった


私は淋しかった


ある時の昼下がりには、懐かしい匂いが突然やってきて学生時代の放課後を思いだした


図画工作の課題を済ませるために画板を持って校庭へでた


広い校庭と枯れきった裸の桜の木達に画板を持った私が向き合って、きっといつまでもこの時を思い出すだろうという風な心の中の約束をしたようなあの日も思い出した


夕暮れには、向こうに沈んでいく太陽が、これからくる暗さと、暮色を両立させている様を私の目に映した 耳には、消防車の警鐘か、鎮火後のカーンカーンなんて音が妙に古く懐かしくきこえたし、ずっと先に見えたクリーンセンターの煙突に光る航空障害灯はそういった日の記憶を色濃いものにした


私は、青森の八戸に生まれた


生まれてすぐ父親は失踪したらしく、母はまだ幼い兄と生まれたばかりの私を抱えて宮城の実家へ転がり込んだ


私は幼少期をこの祖父母の間で過ごしたから、私の大半はここで育まれたと言っていい


私は幼いながら自然に生まれ自然を愛し、自然に還っていたと思う


そんなだから、私が素直になれるのは、木々や雲や空、水や鳥といった自然の前だけであった


人やネオンに照らされた街が嫌で仕方がなかった


厭世的で、思い出すのはいつも田舎の田園と稜線、それから必要なものだけを使って、狭い生活圏で季節の巡りをよく見てる祖父母達であった


こんな風だから、四半世紀を過ぎても、女というものとろくな付き合いを築けたためしがなかった


憧憬は腫れ、膨れたが 同時に憎み、駆られた


最近は、恋仲にある異性というものに強い執着や妬みがあらわれはじめた


それは往来を行く知りもしない男女へ度々向けられて、不幸や疎外感を感じる


私の最後の隙間や余裕なんかが、それら私に向いた刃物を一対の男女の幸せを願うものに変えることはあるが、しかしやはり、私は陰険であった


一体全体、人に求められるとはどういうものであるか 私は考えずにいられなかった


ようするに私は、心をどうにもおさえられていなかった


ある曇った冬の朝である


私は定刻通り上り電車に乗車した


その日も、あの楷の木は人間をじっと、ゆっくり見ていたのだと思う


乗客はまばらで、冷え込んだ冬の日だった


私は落ち着かない気持ちで書見に耽ろうとした


二つばかり駅を越した時、母親とその手に引かれた小さな娘が乗車した


火照ったりんごのような頬に、まだ色素と線の薄い髪を冬の風に任せていた


その娘は、車掌のいる運転室がどうも気になるようで、母親と二人隣り合わせで運転室の設備に目を見張ってみたり、前からきては、あとずさって流れていく景色に興奮しきってどうも落ち着かない様子であった


私はこの母娘がどうも気になった


この娘の目に映っているなんたるかを想像するほうが、本に書かれた小難しい文字や常識などよりも今の私にとって大切な風な気がしたからである


私は生きていて、こういう事が度々あった


一体、何が見えているだろうか


流れては去っていくあらゆるものが色褪せているような大人の世界で、この娘は一体その目になにを映すのだろうか


私がこれから日中仕事に従事することなどよりもよっぽど、この娘の透き通った水のような目は世界にやさしい粉のようなものを振りかけるだろうと想像した


親や、世間や、女を妬み憎む私に、その目が考えさせた


娘がふと、その小さな背丈から伸びる首を上に向けて私を見た


私が手に持っていた本の背革は、青い猫ロボットのものだった


娘はふと見つけたそれを自分の内の温かいものと繋げたらしく、母親に伝えていた


私は、こういう時 何を口にしたらいいのか分からなかったし、私はその国民的アニメが今になっても好きであった


だから、娘が真っ直ぐな目と寄り添いを見せた時、私は内に温かいものが湧くのを意識した


なんとも言葉を発せれない私と、世界を見る娘


『おはよーございます』


たしかに、今は朝であった


『おはよう』


それは、いたいけで、綺麗だ


咄嗟に口を衝いてでた私の声は、まだ遠い春のように穏やかで優しい内からでた事は、私の汚れた心にさえ誓えるものであったことは言うまでもない


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