第6話
新しい部署に来て早一ヶ月が立とうとしている。
改めて配属となり一から覚えることだらけだが、やりがいがあって初めて仕事が楽しいと思えた。
”わからないことがあったら何でも誰にでも何回でも聞いて”と言われているのが心強い。
今日は千秋が休み。千波は両親と同年代のおばちゃん────
ここの部署のおばちゃんたちは皆世話焼きだが、彼女は群を抜いていた。そのため誰よりも好かれ、頼られている。
他の部署でも仲がいい人が多く、千波が元いた部署の連中でさえ一目置いている存在。ただし、彼女はヤツらに対しては厳しく接しているようだ。書類の作り直しをさせるのはしょっちゅう。横溝曰く、”口先だけで大して仕事はできないおばはんばっか”とのこと。
「ほんっと、若名さんはあっちの部署でよく頑張ってきたよね~。おばちゃんには無理だわ」
「はは……。あたしの感覚がマヒしてただけですよ」
こちらに配属されてから本当にそう思う。人の優しさにふれるたびに。
前の部署ではミスをして謝っても、無視されるか無言でうなずかれるだけ。自分が悪いのは分かるがそこまで冷たい態度をとらなくてもいいと思う。
千波は後輩が入ってきたら絶対にそういう態度はとらないと決めている。失敗しやすい箇所を覚えておき、疑問点を想定していた。残念ながらあんな部署なので、後輩が入ってきてもすぐに辞めたり異動してしまい、千波は万年後輩だった。
しかし、今は必ず返答がある。”そんなこと気にしなくていいよ”だったり”次は気をつけよう”だとか。
反応らしい反応があることがありがたい。
「こちらへ異動できて本当に嬉しいです」
「そうなの~。がっくんには感謝だね」
横溝は目を細めながらマグカップを持ち上げた。その爪は綺麗に磨かれ、くすみカラーのマニキュアが施されている。
新しい部署の女性社員は皆おしゃれで、細かいところにも余念がない。服はもちろん、髪型やメイクも洗練されている。ネイルを施し、目につきやすい部分を華やかにして気分を上げている者も多い。
千波もそれを見習ってネイルを、せめてマニキュアくらい挑戦しようかと思った。水色とか綺麗そうだ。でも冬の時期には寒いかな……と、自分の小さな爪を見つめた。
「お礼は言ったの?」
「それが……」
言ってない。普段、あれだけツンケンした態度をとっているので今さら素直に言いづらい。
言ったら言ったで”やっぱりツンデレラじゃん!”と、からかわれそうで嫌だ。
実際に言っている岳を想像してしまい、消し去ろうと頭を振る。
横溝は一人で問答している千波を笑うと、デスクの引き出しからクッキーを取り出した。抹茶味の深い緑色のクッキー。千波の手にのせると、自分の分も取り出して封を切った。
「いつでもいいから言ってあげなよ。がっくん、細かいことを気にするような男じゃないと思うけど。むしろめちゃくちゃ喜びそう」
「……ですよね」
「それよりどうしてこっちに来たいと思ったの?」
「居心地がいいからです」
「そうだよね~。向こうの部署は最悪だよね。……あ! それとね、こっちに来て正解の理由、もう一個あるよ!」
「そうなんですか?」
突然手を叩いた横溝に驚きつつ、千波は一休みしようと手を止めた。
ステンレスのボトルを手に取り、フタをひねる。中身はあたたかいルイボスティーだ。
これは千秋におすすめしてもらったもの。スーパーの大容量パックが安くておすすめ、と。冷たくてもあたたかくても美味しい赤いお茶は最近のお気に入りだ。
ボトルに口をつけると、横溝はニンマリと得意げな笑みを浮かべた。
「こっちの部署にはジンクスがあんのよ! 女子限定でね」
「はぁ……?」
「ここにいた女子はみーんな、寿退職してんのよ~すごくない!?」
言われてみればこの部署には、新卒採用や高卒で入社した人が少ない。ほとんどが既婚者の中途採用だ。
千秋は千波と同じく高卒で入社した身。
「はぁ……」
ボトルのフタをキュッと締めて曖昧な返事。つい最近もこんな話題を振られて逃げた覚えがある。
マグカップを置いた横溝は、つまらなさそうに千波のことを半目で見つめた。
「若名さん反応薄いー。もしかしたらあたしも近いうちに……!? とか思わないの?」
「想像つかないです」
「結婚は想像じゃなくてするモンよ」
横溝が語るモードに入った。膝上のブランケットを、デスクの下で掛け直す。
仕事は順調なので千波は手を止めたまま聞くことにした。
「これは若名さんが会社に入る前の話なんだけど、いい歳した女性社員がいてね。その人も今の若名さんと同じようなことを言ってたの。でも、その内にやっぱり結婚したいって思うようになったって。そこからしばらく経たない内に歳下の彼氏ができて結婚、次の年には寿退職よ」
「ふ~ん……」
出来過ぎなほどハッピーエンドなお話だ。自分には縁がなさそうな。
不意に脳裏で岳がよぎったが、咳払いをしてごまかした。
「こら。反応が薄い。お世辞でもすごいとか言いなさいよ」
「わーすごーい」
横溝に二の腕をはたかれ、千波は小さく拍手をした。ただし、表情筋が追いつかなかったので顔は死んでいるかもしれない。
「棒読みかい! ……まぁ、若名さんらしいけど。彼氏いないって聞いたけど欲しくないの? もうすぐクリスマスじゃん。クリぼっちなんて嫌じゃない? 」
「とm……」
「友達と過ごすからとか聞いてない」
横溝の方が早かった。クリぼっちなんてワードを知ってることが千波にとっては驚きだ。
千波は両手でステンレスボトルを弄ぶと、首をひねった。
「別に嫌じゃないですけどね……。でもこの前、SNSで彼氏とさつえ……イルミネーションデートする、ってつぶやきを見た時は死にたくなりました」
「それ重症じゃん! よっし、おばちゃんに任せときな! 合コンをセッティングしてあげるよ!」
「え。いいですそういうのh……」
「遠慮しない逃げない! 出会いのチャンスは積極的に拾って行かなくちゃ!」
千波は”コスプレの撮影し合い”と言いかけたが、おばちゃんは気にしてないようだ。自分の話に熱が入って夢中になっている。
この熱で暴走しないように、千波は慌てて首をぶんぶん振り始めた。
「あっあの……あたし本当にいいですから! 男の人と何話せばいいのか分かんないし、ぶっちゃけ人見知りなので……」
「じゃあそれを治すチャンスだよ! 合コン行って人見知り治して男の一人や二人つかまえて来なさい!」
「そんな簡単に治らないと思います! てか二人とか問題ありじゃ……ってこの展開は前にもあったような……」
おばちゃんの勢いに押され、千波の初合コン参加が決まってしまった。
「合コンを逃げる理由? うーん……。そもそも逃げらんないよ、あのおばちゃんからは」
「そんな……嘘だと言って下さい」
「ごめん、ホント」
合コン参加を強制された翌日。
千波は書類を提出して上司と二人になった隙に、参加を断る理由を考えてもらおうとしていた。が、見事にお手上げされた。
上司はパソコンから目を離し、椅子をターンさせて千波と向かい合った。
「いいんじゃない? 行ってみれば。好みの人がいなければ適当にはぐらかして、二次会行かずに帰ればさ」
「参加自体が嫌なんです……!」
千波が強情に首を振ると、上司はやれやれと苦笑いをした。
「そもそもさ、若名さんは恋愛するのが嫌なの? それとも男嫌い?」
「別にどちらでも……。もし男嫌いだったらこうして相談しません」
「あ、そうだよね……。結婚願望は? 憧れないの?」
「正直あまり考えたことなくて……」
「そうか……。でもね、やっぱり結婚はいいよ。子どもは可愛い。子育ても楽しいよ」
「……大変なことは奥さん任せだからでしょ」
「うわぁっ!?」
突然横から湧き出た男。上司は派手に驚き、千波は目を丸くして固まった。
黒髪に浅黒い肌。健康そうな体つき。着ているのは街でよく見かける配達員の制服。
「毎度ありがとうございま~す。足首がつって痛い
「なんだケンちゃんか……。びっくりしたじゃん、急に現れないでよね」
帽子を外してお辞儀をしたのは、配達員の大草。この会社に荷物を届けにくる若いあんちゃん、らしい。
上司との話ぶりから二人は仲がいいようだ。”ケンちゃん”なんて呼んでる辺り。
大草は持ってきたダンボールを置き、上司の机に置いてある大きな封筒の束を手に取る。 そしてハンディスキャナーで封筒のバーコードのシールを読み取り始めた。
「
大草は半分冗談、半分からかいのまなざしで上司のことを指さす。
「ンなわけ! このコから相談されてたの。変なこと言わないでよね」
「ホントに~? お嬢さん、あまり見かけない顔だけど大丈夫?」
「実をいうと……」
「おぉい若名さん! 誤解させるようなことは言わんでくれ……」
「おもしろいコですね。見た目に反してなかなかおもしろいじゃん」
大草はケラケラと笑いながら、封筒の束を持ち上げた。やや屈むと、千波の顔を覗き込んだ。
「相談ってどしたの? 仕事嫌なの? 畑中のおじさんが嫌なの?」
知らない男の人の接近に驚き、固まりそうになる。あからさまに避けるのも失礼だし、と千波はうつむいて視線をそらした。
こんな至近距離で見つめられることには慣れていない。
「いえ、両方違います。仕事のことは解決しましたし……」
「おじさんのことはフォローしてくんないのか」
「合コンが嫌で……」
「えっ。そんなこと?」
「おじさんのことはガン無視かい」
千波は珍しく、初対面の相手につらつらと話をした。大草は聞き終わると、ふむとうなずいて指を鳴らした。
「いいじゃん、行きなよ。案外いいと思うよ。運命の相手に会えるかもしれないし」
千波は、この人もダメだったわ……と諦めた。
他に頼れる人は……と思い当たる人を探そうとしたら、新しい声が乱入した。
「あ。ケンちゃんじゃん。お疲れー」
「お疲れー」
千秋だ。さっきまで別の部屋で調べ物をしていたらしく、戻ってきたようだ。
「若い女子口説いてたの?」
「ううん。相談にのってた」
「合コン行きたくないです」
「行くこと決定してるから! 断れませーん」
「えぇ~……」
「良かったらケンちゃんも来る? 彼女いるっけ? 」
「いないよ。せっかくだから参加させてほしいな~」
意外なことに大草がノッてきた。彼のことをまじまじと見つめると、片目をつむってきた。岳とは正反対の見た目なのに、そういうところはヤツに似ている。
「今度は外で若名さんと話したいな。出会いとかどうでもいいってんなら、僕とおしゃべりしていようか」
「それならいいかな……?」
少ししか話をしていないのに、なぜか大草に心を開いている。自分でも珍しいと思った。
彼とは話しやすいのだろう。人の懐にするっと入ってくるタイプだが、嫌ではない。
千秋もそんな千波を見て、二の腕をつつきまくる。
「おっ。若名ちゃん、初めて乗り気になったじゃん」
「別に恋愛絡みじゃなければいいですよ。でも二次会は行きませんからね」
「それはどうかな? 案外楽しくて行くことになるかもよ~? ケンちゃんのことは横溝のおばちゃんに伝えておくから」
「よろしく~。んじゃっ、今日はこれで。またよろしくお願いしま~す」
大草は封筒の束を小脇に抱え、帽子を外して頭を下げた。
さっぱりとした人だ。用が済んだらすぐに帰ってしまった。と思ったら、彼が振り返った。
忘れ物かな、と思った千波に向かって手を振り、ウインクをした。
急に岳のような動きだ……。千波は会釈をして見送る。
「……またね」
少し残念そうな表情で、彼は再び小さく手を振った。
「……はっ!?」
「おっと」
食堂から戻ろうとした時のこと。
曲がり角で岳が現れ、ぶつかりそうになった。
急ブレーキをかけて前のめりになったが、岳が肩を押さえてくれたおかげで転ばずにすんだ。
「すみません、ありがとうございました……」
「待ったチナ」
岳は千波の前に立ちはだかり、壁に手を突いてみせる。彼女はあからさまにため息をついた。
「壁ドンですか……」
「そ。ときめいた?」
「いいえ全く」
「なんだよ冷たいな~……」
そう言いながら、彼は手にした缶コーヒーのプルトップに指をかける。
「なんかこういうの久しぶりだな」
岳は子どものように照れた笑いを浮かべ、缶コーヒーをあおる。
言われてみればそうだ。最近は彼のデスクが空席になっているのをよく見かけていた。
「そうですね。香椎さんは外回りが多いそうで」
「そうなんだよ~。おかげでチナといられる時間が短くて寂しいわ」
「よく言うわ……」
千波はケッと向こうを向く。そして気づいた。これはお礼を言うチャンスではないか、と。
岳はそんなこと気にしないと思うけど、とは聞いたが、お礼を言わないままでは胸のあたりがざわつく。
こんなにいいことをしてくれたのに自分はなんて恩知らずなんだ、と。
「あの、香椎さん」
「お? 何々?」
千波から話を切り出すのは珍しいからか、岳が食いついてくる。
彼女は表情を変えないよう、緊張していることを悟られないように口を開いた。
「だいぶ遅くなりましたが……。部署を異動させてくれてありがとうございました」
軽く会釈をして相手の反応を待つ。きっと馴れ馴れしく、肩をパンパンと叩きながら"そんなこと気にすんな"と言うだろう。と思っていた。
なかなか返ってこない……。おかしく思って顔を上げると、岳は目元を片手で覆ってうつむき、肩を震わせていた。
「香椎さん……?」
「チナがこんな……お礼言ってくれるなんて……! 貴重なシーン、動画撮っておきたかったわ!」
「やめて下さい! 肖像権の侵害! やっぱ言うんじゃなかった……」
はぁ、と重くため息をつくと、岳が寄り添うように横に並んだ。
「え、え? もしかしてお礼言うために悩んでたの? 俺のことで?」
なぜか期待に満ちた目で見つめてくる。千波はムッとして顔をそらした。
「うるさい! さっさとお昼食べて来たらどうですか!」
「はいはい。ガッツリ食べて来ようかな~。あ、チナ。最近外回り多くて疲れてるから甘い物食べに行こ。パンケーキとかクレープとか……」
「女子か」
でも悪くない。千波は甘い物は嫌いではない。むしろ好きな方だ。
岳はいつもみたいに全力拒否な態度を取られなかったのを、肯定と受け止めたらしい。
「いつにする? 土曜日の帰り? 日曜日?」
「あ……仕事の後はあんまり。今度の日曜日は用事が……」
「用事って? 友だちとか?」
「……ま、そんなところです」
微妙に視線をそらし、少しずつ後退して逃げているのがバレたらしい。
岳は視線を鋭くさせた。
「さてはお前……。合コンか?」
「なんっ……!?」
「最近、横溝さんが意気揚々としてるからな。そういう時のおばはんはたいてい、合コンのセッティングをしてるんだよ。まさかチナ参加するんか!?」
「だって……断りきれなくて」
あんたがそばにいたら、行かないことになっていたかもしれないのに。あんたがその場で善良で止めてくれたのかもしれないのに。
しかし、それは黙っておいた。
「でも、あたしはケンちゃんさんとずっと話してることにしてます。そういう場に慣れてないので」
「ケンちゃん。……か。なんだよ、俺のことはがっくんって呼ばないクセ、にケンちゃんのことはケンちゃんか」
「本人がそう呼んでほしいって言ってたので。でも歳上ぽいから”さん”付けしてます」
「俺だってチナに名前で呼ばれたいわ! ケンちゃんのこと好きになったりしてない? 合コン行って他の男に惹かれるなよ?」
岳に肩をつかまれる。彼は本気で心配してるらしい。
いつもより真剣な眼差し。最近、社内のあちこちで飾られるようになった、真っ赤なポインセチアと同じ色の瞳。
一度とらえたらそらすことはできない。
「ないですよ、そんなこと。あたしにそういう気はないですから……」
赤い瞳にのみこまれる前に首を動かす。迫ってくる瞳は、脳裏にしっかりと焼き付いた。ふとした時に思い出させてやる、と言わんばかりに。
「……はぁ。お前ってホントにオトすの苦労するわ」
岳に動揺させられたのはひそかに数回あるが。頭をかく彼の後ろ姿を目で追った。
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