上海

 冬の暮れは早く、三時を過ぎたあたりからもう日が翳り始め、陽の光に黄色みが強くなって、自然と足が早くなる。商店街の歩道の庇のうえ、色味のないコンクリートの壁がセピア色に染まり、薄汚れた窓にかけられた雑巾さえなんだか意味深く思われる。年末の帰省で地元の駅に降り立ったばかりの美智子は、スーツケースを片手に引きずりながら、人気の少ない駅前通りを歩いていた。小さな頃から見慣れた商店街はほとんど店の入れ替わりもなく、真新しい飲食店が数件目立つのみ。垢抜けない敷物屋や、客がいるのを見たことがない着物屋、最新型のものなどきっと置かれていない電気屋に、古い耳鼻咽喉科の青字の看板。大抵の店はシャッターが下りている。着物屋の奥の座敷に、店主らしき老人が座り込んで新聞を読んでいる。ショーウィンドウには一張羅の鮮やかな赤い着物に金織の帯。流れるような花の絵を境に、振袖の裾は黒い。

 着物屋を通り過ぎると、隣の電気屋との間に路地裏につながる細い通路がある。奥には居酒屋の看板がひとつポツンと佇み、灰色の壁に挟まれて、排水管や店々の室外機が道を余計に狭く見せている。さながら廃墟の風情だが、夜にはあの看板には灯が点って、それなりの賑わいを見せるはずだ。道はトの字になっており、向こう側の狭い道路へ出る道と、大きさ交差点へ出る道に別れている。交差点を挟んで向かいにはスーパーがあり、斜向かいにパチンコ屋がある。そしてちょうど交差点の手前に、父の友人の中華料理屋があった。

 ほとんど黒に近いグレーのビル。隣の建物との狭い隙間に吹曝の非常階段がついている。その一階部分が店になっており、外から中は見えないが、二階にも団体用の座敷席が三つある。赤い電飾看板には白抜きで「中華料理 上海」の文字。いまは電気が落とされ、店内の椅子はカウンターのものを除きすべて机の上に上げられている。

 美智子は、派手派手しい看板を懐かしい思いで眺め、薄暗い店内へふと視線をやり、あっと声を上げた。カウンターに人影があった。端の席に女性が座っている。携帯を触っているのか、そのあたりがぼんやりと白く光っている。

 杏ちゃんだ、と美智子は思った。

 杏ちゃんは、中華料理屋を経営する夫婦の美智子より二つ上の娘で、両親と店主が長話をしているあいだ、よく相手をしてもらったものだった。放課後のほとんどの時間を杏ちゃんは店で過ごしていた。店には漫画でびっしりの大きな本棚があり、油で汚れ、経年劣化で黄ばんだ古い漫画が収められていた。杏ちゃんは、それらをすべて読んだと自慢していた。幼い美智子はそれを素直に尊敬した。杏ちゃんは癖のない黒髪で、毎朝お母さんが結ってくれる髪型は、美智子のお母さんには到底できない凝ったものだった。それも、美智子が杏ちゃんを好きな理由の一つだった。美智子は杏ちゃんにべったりで、杏ちゃんに会いたいので「中華食べたい」と両親に強請ったりした。

 杏ちゃんは中学から私立校へ通うようになり、部活を始めてからは帰りが遅く、店に行っても会えることが少なくなった。そのうちに、中学生になった美智子も陸上部に入ったため、次第に店について行かなくなった。もう十年以上、杏ちゃんには会っていない。

 女性は、黒い髪を三つ編みにゆって、それをさらにお団子にまとめてある。袖のゆったりとした黒いトップスに、ベージュのパンツを履いている。そのほっそりと小さな肩のシルエットも、まさに杏ちゃんそのもので、あれからお互い成長したとは言え、見間違えるはずもない、と美智子は思った。彼女は杏ちゃんが大好きだった。

 杏ちゃんは、自信に満ち溢れ、それがやや彼女自身の実力を上回っていたためか、地元の小学校で嫌われているようだった。家が中華料理店だというのも、それに拍車をかけた。杏ちゃんはそんな同級生たちを小馬鹿にしていて、いつも「学校の連中は」と悪口を言った。学区が違ったため違う小学校に通っていたのをいいことに、美智子も学校の「バカでガキな同級生たち」について一緒になって非難した。本当のところを言うと、美智子は学校の友だちが好きだったのだが。いま思えば、杏ちゃんはそうやって自分の心を守っていたのかもしれない。私立学校へ行ったのも、地元で馴染めなかったせいだ、と父と母が話しているのを聞いたことがある。

 美智子は店の窓ガラスに歩みより、少し躊躇ってからコンコン、と指の背でガラスを叩いた。杏ちゃんは気付かない。もう一度、力を強めて叩いたが、やはり音は届かないようだった。店の扉の方へ移動しかけて、美智子は足を止めた。もし鍵が開いていたとして、勝手に入るのは流石にまずいだろう。そもそも、もう十年も会っていないのに、杏ちゃんのほうは美智子がわからないかもしれない。

 美智子は再び窓ガラスから杏ちゃんを見やり、しばらくじっとしていた。その間、杏ちゃんは一度も振り向かず、身動ぎもしなかった。美智子は諦めて帰ることにした。

 実家に着くと、両親は大掃除の真っ最中だった。リビングの掃き出し窓を洗っていた父が、歩いてきた美智子を認めると、「部屋に荷物置いて、着替えてこい」と命じた。帰って早々にこき使われるのは癪ではあったが、美智子は従った。母は仏間の畳の拭き掃除をしていた。荷物を置きに入った美智子の部屋はすでに掃除された後だった。母と一緒になって仏間の掃除をし、続いて風呂場のカビを一掃する。家に帰ったら杏ちゃんの話をしようと思っていたのもすっかり忘れ、美智子は掃除に没頭していた。杏ちゃんのことを思い出したのは、一段落ついて、父親の作ってくれた炒飯を食べている時だった。

 「そういえば、杏ちゃんおったよ」

 匙を口に運びながら、美智子は言った。

 「あら、あの子も帰ってきてるん」

 母はそう言って、美智子ではなく父を見た。美智子と杏ちゃんが疎遠になると、母の足も上海から遠のいたが、父と杏ちゃんの両親はまだ付き合いがある。

 「いや、聞いてない」

 「まあでも帰ってきてるやろ。お父さんがあんなんやから」

 「杏ちゃんのお父さん?」

 母は唇を突き出して、神妙な顔で小刻みに頷いた。

 「なんかあったん」

 「ちょっと前に倒れたんやと。脳卒中や」

 「え、それ大丈夫なん」

 「すぐ救急車呼んだからなんとかなったって、綾子さんは言うとったな。でもまだ入院中やろ」

 綾子さん、というのは杏ちゃんのお母さんのことだ。彼女は夫より二歳年上で、美智子の父にとっても先輩に当たるひとだった。

 「美智子、どこで杏ちゃんに会ったん」

 母に訊ねられ、美智子は帰り道の話を両親に聞かせた。すると、父は首を捻ってうんうん唸り出した。母親も怪訝そうな顔で美智子を見てきた。

 「それ、ほんまに杏ちゃんなん」

 母が言った。

 「いや、顔は見てないけど、でもそうやろ。なんなんふたりとも」

 両親は顔を見合わせて、しばらく黙っていたが、やがて父の方が口を開いた。

 「いやな、あの店あるやろ、あれ、もう何年も前に潰れて今やってへんねん。あいつと綾子さんも引っ越して、あの店は持て余してる状態らしい。だから、それほんまに杏ちゃんなんか? 思って」

 「でもまだ一応杏ちゃんちのお店なんやろ? じゃあなんか頼まれてあそこおったとかちゃうの」

 「いや、俺もわからんねんけどな。でもなんでそんなとこおったんやろ思ってな」

 「それに、なんでそんなとこで灯りもつけんと携帯なんか触ってるん。気味悪いわ」

 母の言葉に、美智子は何も言い返せなくなった。でも、杏ちゃんじゃないとしたらあれは誰だったと言うのか。自分が大好きな杏ちゃんを見間違えるはずがない、という意地もあり、美智子は黙り込んだ。

 その晩、父は綾子さんに連絡を取って、それとなく杏ちゃんのことを確認してくれた。「年末やのに綾子さんも大変ですね。あいつどうですか? はあ、よかったです。いや、うちは娘がちょうど帰ってきましてね。杏ちゃんは帰ってきはりました?」

 炬燵でデザートのアイスを食べながら聞き耳を立てていた母と美智子に、父は話を続けながら頭を振った。

 「そうですか。まあ大きなったらみんなそんなもんですね。ああ、え? はい。また明日でも寄らせてもらおう思ってます」

 通話が他の話に移行したのを聞くと、母はアイスのカップとスプーンを持って炬燵から抜け出した。ひとり残された美智子は、あの人影のことを考えていた。

 そして、杏ちゃんだと思い込んでいたばっかりに、見落としていたことに気付いた美智子は、ぞっと血の気が引くのを感じた。こんなに恐ろしい気持ちになるのは生まれて初めてだった。

 携帯の明かりでぼんやりと光っていたのだと思っていたあの後ろ姿。しかし、携帯の光だったなら、胸元を中心に頭にかけて、後光のように光るだけだろう。それが、あの女性の後ろ姿は、頭の先から足元まで、薄明かりに照らされたようにはっきりと見えたのだ。

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