輪廻〜ぐるぐる〜

八朔暇

輪廻〜ぐるぐる〜

「白い」

 ただそれしか感想はなかった。


 見渡す限り、何もない。ただ本当に白いだけだ。

 私は今朝まで、日赤病院の二○七号室に入院していたはずだ。そこで私は日課としているコンビニまでの散歩を済ませ、そこで購入した今朝の朝刊を一ページずつ読み込んでいた。

 そうだ、そうしていると突然経験したことのないほどの急激な眠気に襲われたのだ。ナースの声が聞こえたかもしれない。けれどそのどれもがどこか遠くで行われているように感じた。


 足元には土や草原が広がっているわけではない。それは継ぎ目のない、一枚の板のように感じられる。表面はガラスほど滑らかになってはおらず、かといって病院のリノリウムのような質感でもない。つや消し加工が施されているのか、私の姿は全く映っていない。何とも言い難い感じだ。

 視界の先には壁のようなものは全く見当たらず、ただ白く霞んでいる。

 そして天井からは、少しの温かさと、やさしい光がもたらされている。

 これらの情報からこの空間が「部屋」ではなく「世界」であるのだと察した。

 おそらくここは「あの世」である。


 私はとりあえず、自身の格好を検分する。

 いわゆる死装束だった。左前にされた白い装束、足袋、数珠に至るまで、全てが白い。けれど、何もかもが白に占められたこの世界ではこの服こそが正装であるとよく分かる。

 どうやら身につけていたものはきちんと持って来られるようで、胸元からは六文銭がプリントされた用紙が一枚入っている。うん。私の子らはうまいことやってくれたようだ。けれど、これをどう使えばよいのだろうか。こういうことは生きているうちに教えておいて欲しかった。


 その時ふいに声が聞こえる。

「おじーさん」

 声がしたほうを振り向くと、そこには少女がいた。


 年齢は中高校生くらいだろうか。顔は何とも中性的で、美少年だと言われればそう見えるし、逆に美少女だと言われると、そうだとも見える。実際、私がそれのことを彼女と呼んだのも、完全なる偶然にしか過ぎないのだ。口元は軽く笑みを浮かべているようだが、私からしてみればそうしていることに意味などなく、ただ偶然そうなっただけという感じを受けた。全身の毛髪は全て凍っているかのように純白で、まつ毛まで白い。彼女は全てが白に占められた異常なこの空間に完璧に調和していた。

 ただ一点、他と違うのは彼女の瞳だ。黒を基調としたその瞳は、漆黒の中に紅や黄色や碧といった色を筋状に絡ませている。

 服も髪もまつ毛まで、全てが白いその全身の中でただその瞳だけがこちら側に浮き出てくるように見えた。


 あと数年生きていれば私の初孫もこのくらいの歳になっていただろう。思春期の女の子は数年で本当に大きく変わる。その変化をすぐそばから見られなかったことは私の中で一つの後悔として残っている。


 頭の上には暖かな光が、ぼんやりと輪形に集まっている。私たちが天使様と聞いて想像する姿よりもいくらかリアルな御姿だった。

「あなたの名前は?」

「ツムラ マサトシです」

 もう一世紀近い付き合いになるこの名前も口に出すのはこれが最後になるのだろうか。

「そう。じゃあツムちゃん。私についてきて」

『ツムちゃん』というのは私にとって非常に懐かしい響きを持っている。学生の頃からの友人たちは稀に、私のことをその名で呼んだ。

 そうして昔の記憶に浸っているうちにも、彼女は先に進み始める。当然私に他にいくあてなど存在しない。

 私は彼女の後を三歩開けて、進み始めた。


 歩き始めたとき、やたらと目についたのは彼女の腕だった。

 前を行く彼女の白い布からさらけ出された素肌。無駄な肉の一切ついていない、完璧な腕。シルクで織られたようなその肌は、一縷の乱れもなく、それ自体がやわらかく光を放っているように見えた。

 私は袖をめくる。彼女の腕を見ているとなんとなく、自分の腕と見比べてみる気が起きたのだ。

 けれどそこにあったのは、完璧な肌などではなかった。


 痩せ細った両腕には静脈の青色がやけに浮き上がり、筋肉はなくなり、皮が萎れた花弁のようにまとわりついていた。茶色いシミが斑らに模様を作り、いつも点滴を入れていた部分だけが赤い点となっている。こうして自らがもう高齢の身となって、人生の終わりを迎えたことを再認識すると、どうしようもなく悲しい感情が湧き出てくる。

 私が思わずその場に立ち止まっていると急に視界が遮られた。

「大丈夫。だーいじょうぶ。そんなところは見なくてもいいんだよ。」

「ここでくらいはさぁ、幸せなままでいようよ」

「だーれだ」と聞かれるときのように、彼女に後ろから視界を覆われる。

彼女の手は冷たくて、覆われた私の目元から彼女の掌へと、体温の受け渡しが行われているのを感じる。

 次に視界が戻されると、袖は元に戻されていた。


 それから、私たちは少し歩いた。気まずさのようなものは一切感じない。彼女は真に空間と溶け合っている。それはまるで、しぜんの光が、ぐうぜん人の形に集まっただけなのではと感じさせほどだ。

「もうそろそろ着くよ」

 彼女は一切こちらを振り向かずに虚空に向かって言う。一体誰に向かって話しているのだろう。周辺には誰もいないことを考えると、おそらく私なのだろう。




 少し前方に、何か見えてきた。

 最初、私には黒い点としか見えなかったものが、近づくにつれてそこそこの幅を持っていることがわかり、しまいにそれは大勢の人の群だと理解する。

ひとり、ふたりと数えようとして途中で辞める。なぜだろうか、一人一人の境目がわからないのだ。それぞれが重なり合い、溶け合って、背の高いのと、低いのと、全体で一つのうねりを生み出している。

 たくさんの人がグルグルと回っている。

 その中央には何やら石柱が一本、立っている。

「盆踊りみたいって、みんな言うの」

 まぁ確かに。何かを中心としてグルグルと回る様子は盆踊りのようだとも言えるだろう。けれど問題は人数だ。何千何万、下手したら何億という人数の人間が極々小さな面積に密集している。それはとてつもない密度で、一人一人の区別などとてもついたものではない。

 その濁りの中には目が見える。口が、鼻が、見える。

 幾十種類の、人間の肌色が見える。

 幾万パターンの、人の髪型が見える。

 幾億色の、人間の服が見える。

 それらは境界なく溶け合い混ざり合って、一つの濁流を生み出している。

 こんなにも大勢の人間が集まっているのだ。とてつもない騒音が鳴っていても良いものだ。けれど音は一切聞こえない。皆静かに、粛々と溶け合っている。


 そうしていると右から、彼女は静かに一言で説明した。

「ここでしばらくの間待っていてね」

 私は当然の質問をする。

「いつまで待てば良いのかな?」

 天使は相変わらず私の方は見ずに、虚空に向かって言葉を紡ぐ。

「あなたが世界から完全に忘れられるまでだよ」

 彼女の回答は私にはイマイチ解せな

かった。

 それから「さぁさぁ」といって彼女は私の背中を押してくる。

 その灰色の水面まで来た時、私は恐る恐る水面に指を触れる。温水の如きその流体は私をその一部に迎えた。




 そこでぐるぐると回っている間、私はいろいろなことを考えた。自分の人生を何千何万回と振り返る。初恋の相手に告白して玉砕した時のほろ苦さ、勉学に打ち込み大手の企業に就職した時の喜び、一念発起して起業した会社が時代の禍に巻き込まれ倒れた苦しみ。再帰をかけて再スタートを切った四十中頃と、その時代を常に支え、鮮やかに彩ってくれた妻と子供たち。

 最初の一周目には当時と遜色のない感動があった。二周目からは新たな気づきもあった。けれどそれが百を超え、千を超え、万を超えた頃にはもうただ、自らの記憶をただの映像として眺めているだけだった。


 隣を見ると私と一緒に回っている者たちの中には毛皮をまとった原人がいた。銀色の甲冑を被った騎士もいた。彼らもまた千年前、一万年前から回り続けているのだろう。

 その時、私たちが残してきた記憶というのは何も具体的な「モノ」だけではないのだと気づかされる。血管を流れる血液にも、道端の石にさえも、私たちの生きた記憶は刻みこまれているのだ。

 果たして、私が生きてきた世界から私の残滓が消える時など来るのだろうか。


 何億年という幾星霜の時代をかけて、自らを顧み続けていると次第に自らの形が薄れてゆく。魂は少しずつ浄化され、気がつけば頭と体の境目もなくなった。ただ、この場所でぐるぐると周り、本当に来るのかも知らない自らの終わりを待つだけ。

 私はこの場所に来て初めて「輪廻」という言葉の意味を理解した。




 それからさらに悠久の時を経て、懐かしい声が聞こえてくる。

「もういいよ。いこ」

 もうすっかり主体性を失ってしまった私を、彼女が両手で救い上げる。周りの人々も次第にその歩みを緩めているようだ。

 私はそのとき「あぁ。私が生きた世界が終わったのだな」と理解した。


 その場を離れる前にもう一度、一緒に回ってきた人々の方を振り返ってみる。最初は一つの濁流にしか見えなかったものから、今では一人一人の顔を認めることができた。




 最後に私が運ばれてきたのは大きな穴だった。漆黒の中に紅や黄色や碧といった色を筋状に絡ませているその姿はまさに、彼女の瞳を思い起こさせた。いわゆるブラックホールというやつだろうか。そんな感じ。

「さぁ、ついたよ。じゃ、またね」

 この穴をくぐれば、何かが待っている。それが次の「生」なのか、それとも永遠の無なのか、それは分からない。

 私の不安な感情を読み取ったのか、彼女はいつもの微笑を崩さずに言った。

「だいじょうぶ、あなたのこと、忘れないよ」

 それがこれまで出会ってきた数多くの人間にも使っている常套句だということは、痛いほど伝わってきた。

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