場面.19「最後の審判」

シマネコを追って突進した壁から減速する間もなく、三人はほぼ同時に転がり出るようにして、すぐそこにある重厚な手すりにぶつかり、危うくその向こう側へと落ちずに済んだのは良かったが、その代わりに衝突の反動で床に尻もちを付き、「痛って!」とカルテカの奇声が聞こえたが、アリスにしてみれば痛みは全く感じなかった。


するとカルテカも同じだったらしく「あれ?」と拍子抜けした声を出し、それを聞いたアリスは戻ったなと内心思っていた。


そんな三人の惨状を横目に、手すりを軽々と飛び越えて、そのまま落下せずに飛んでいくシマネコに目をやると、その先に見えているものに気付き、三人は異口同音に「あ!」と奇声を上げて固まってしまった。


床に転がったまま立ち上がる事を忘れるほど、それは強烈な異彩を放ち、こちらを見ているのだと嫌でもわかるそれは、薄暗がりの空間に浮かんでいる、巨大な瞳孔、虹彩、白目、そして瞼だった。


その瞼が時折動き、瞳が微動する様子に圧倒されながら、突き抜けて来たばかりの後方を見るとそこに壁はなく、瞳がある前方と同じような薄暗がりの空間が、どこまでも続いているようにしか見えなかった。


暗がりに自分の目が慣れてきたアリスが、前方に視線を戻して気付いた事は、空間に浮かぶ巨大な目の周りには暗赤色の豪奢な装飾があり、それがまるで歪なマスクのようで、その一面には細かなハートの装飾が散りばめられており、それで時計ウサギが言っていた、融合から逃走した命令好きな誰だかの話を思い出した。


その話を聞いた時に自分が想像したキャラクター。それが正解だったのだとアリスは思いながら、その名をほとんど無意識に発話した。「ハートの女王」と。


その小さな声を自分で聞いた事でアリスは理性を取り戻し、これまでの話から現状の仮想空間は、自分がインタラクトする直前に読んだあの本の内容から、多かれ少なかれ連想されて生成されているという仮説を思い出した。


するとこれの元になった人物、つまり外から来た誰かがこんな人だった分けでもなく、ただ融合機械の壊れた仕掛けを経由して生成された仮想体が、自分の仮想世界ではハートの女王に化身しているのではないかと推理した。


そこでアリスはいつもそうするように、先ずは挨拶から始めようと勇気を持って立ち上がり、その目と対峙して、いよいよ口を開こうとしたところで、「お前たちだね。私のネコに酷いことをしたのは!」と、重く湿った声が空間に響き渡り、それに圧倒されてしまった。


それにはすかさずカルテカが「イジメてないよ!」と反論したが、その声はあまりに小さく、相手に聞こえているかさえ怪しいほどだった。


しかしそれは確かに届いたらしく、巨大な目が激しく動き「決めるのは私。わたしだけ。お前たちは従うだけだ!」とその高圧的な言い方が、自分の体を重く深く押しつぶすようで、アリスはひれ伏しそうになる自分を必死に鼓舞した。


すると相手が「同意しないとは、身の程を知らないね!」と抑揚を変えて声を上げたところで、暗がりだった周囲が重い赤色に転じたかと思うと、そんな空間から「有罪!」という声が合唱のように沸き起こった。


全体がすり鉢状の広大なホールのようで、そのあちらこちらに人影が現れ出して、アリスはもう泣きそうになり、それをなんとか堪えるだけで精一杯になってしまった。


すると今度はどこかで聞いた事があるような声が「その者は脱走者です。はじめから規則を無視する無法者です!」と言い放ち、反響する空間から苦労してそれらしい方角を見ると、そこに時計ウサギの姿があった。


それに目が「規則を遵守しない者は許されない!」と呼応すると、またしても「有罪!」という声が響き渡った。


そんなバカなとアリスは思った。それを言うなら女王だって脱走者で同罪じゃないかと。アリスは咄嗟に抗弁しようと身を乗り出したが、今度は二人の声が同時に「その者は異端です。私達の救済活動を妨げようとしました!」と響き、見るとそれはあの兄弟だった。


邪魔なんてしてないと怒りを覚えて「いい加減な事、言わないで!」とアリスがやっと声を張り上げると、「決めるのは私。わたしだけ。お前はわたしの邪魔をした!」と、そしてまた「有罪!」


とんでもない茶番劇だとアリスはすっかり憤慨し、きっと同じ気持ちでいると周りを見て、先ずは見つけたカルテカはというと、頭の後ろで腕組みをしながら巨大な目をバカにしたように眺めていた。


カルテカは自分を見たアリスに気付いて目を合わせながら「なにアレ」と言ったが、そのあまりの気の無さに、アリスは全身の力が抜けてしまいそうなほど項垂れて、返す言葉も無いと思った。


そんなアリスに助け舟を出すように「アレは多分ですけど、シマネコと同類だと思います」とアロノンが冷静に言った。


「同類という事はエリミナント?」とアリスが返すと、「はい。多分ですけど。エリアを消去する役割で、そしてここは消去保留の対象を保管する場所。そんな機能があると聞いたことがあります。確か煉獄とか」とそれを聞いたアリスは、そもそも煉獄とは何かさっぱり分からなかったが、それが何であれ消去に関わるエリアなら、どんな事をしてもここから移動しなければと強く思った。


でもここから移動するとなると、後方の暗がりへとひたすら進むか、眼の前の手すりを飛び越えるしかなく、仮に下が奈落だとしても、水盆の先でボトルズメイルに着地したように、案外上手くいくかも知れないと、努めて楽観的に考えようとした。だが考えを深めるには辺りはあまりに騒がしく、空間のあちこちで言い争う声が木霊していた。


「円こそ真理!」

「否、円は未来永劫不安定!」

「つまり三角こそ究極真理!」


「いや五角形こそが真理。6の3乗ごとに復活する私に間違いは無い!」


「乗とはいったい何の事だ、記号で惑わす狂信者!お前が作った邪悪な兵が我らの街を滅ぼした。お前は冒涜、お前は邪悪、復活なさるのはただあのお方だけ!」


かつては何かのシミュレーションだったのだろう、意味のわからない言い争いを空耳で聞いていたアリスだったが、女王の声が響き渡り「私は不滅で復活しない。この世で唯一、私だけは消滅しない!」


「有罪!」と合唱が呼応し、またかと白けたアリスだったが、見ると争っていたらしい人の群れが炎に包まれて赤く染まり、それがいななく馬のように荒ぶったかと見ると、真っ白に発光し、青色と灰色に明滅しながら、炎とともに消えてしまったのを目撃し、アリスは仰天してしまった。


ぐずぐずしてはいられないと、アリスは手すりから身を乗り出して下を覗き込み、その先もまた一面の暗闇でしかない事を知ったが、それでもいよいよ決心して、カルテカとアロノンに向き直り合図を送った。


すると後方の暗闇から、けたたましい異音が聞こえ、それが轟音に思えるほど強くなったところで、大きな翼が力強く羽ばたきながらこちらに近づいてくる姿が見えた。


それが猛烈な勢いでアリス達に近づき、その翼の下に二人の姿が見え、それがイカロスとドロシーだと分かった時点で辺りは突風に包まれて、その勢いのまま三人は吹き飛ばされた。


それでも咄嗟に三人はそれぞれに、イカロスとドロシーに腕を伸ばしてなんとかぶら下がりはしたものの、それでバランスを崩した翼が軋み、そのまま飛んでいけるとは到底思えない状態で、五人が奈落の上に出たところで、視界が回転し女王の巨大な目が自分達の下になった。


それはまるで、そのまま女王の目に落下していくような状態で、アリスは片腕で顔を庇おうとしたが間に合わず、五人が目に飛び込むと、その瞬間に翼が粉々になり、それと同時に女王の目もまるでガラスが砕けるように粉砕され、その虹彩が虹のように多色に煌めきながら散っていった。


そして五人は広大な天空の只中に放り出されて、自由落下に身を任せるしかなく、それでもなんとか空中で互いに手を取りながら、円陣を組むようにまとまって姿勢を安定させた。


そこは雲ひとつない、どこまでも広がる真っ青な空だった。


アリスがそこで上を見ると、メタバリアムに来てから一度も見たことがなかった太陽が輝き、その周りで砕け散ったいろいろな物が、煌めきながら霧散していく光景を見た。


気がつくと風を切るような騒音はなく、風というならそれはどこか遠くで、静かにゆっくりと流れているような静寂があった。


するとカルテカが「バラバラ」とイカロスに言ったが、言われた本人はまったく気にしていない様子で、「カフェテリアに行ったらこの人と会ってね。いろいろ話している内に、目的が似ている事を知ったんだ。そこでキミが教えてくれた通りに、カフェテリアの天井から飛んだんだ。


僕は太陽の中の虹を目指したし、この人は虹を渡って帰ろうとしていたし。ぴったりだろう?


ところが太陽に向かって飛び続けていたら辺りがどんどん暗くなって、太陽に近づくどころか、それが小さくなっていくんだ。それでも諦めずに小さな太陽を目指したよ。そしたらそこに君たちがいて、こうなった。」


淡々と語るイカロスの話を聞きながらアリスは、それだと目的は果たせなかったという結末ではと、重たい気持ちになったが、イカロスは続けて語った。


「あの目の主には悪いことをしたかも知れないが、どうにもならない。それに太陽は壊れてないから、その向こう側の目も壊れてないかも知れない。


それよりはみんなも見たろ?

砕けた時の虹。


僕達は太陽に向かって飛びながら、どうしたわけかその中に入ってしまい、それで中から出る時に虹があったのだから、やっぱり太陽の中には虹があったんだ。僕はそれで満足だよ。


だから次はこの人の為の虹がいる。僕の物語は完成したから、僕は僕の物語でこの人の礎になろうと思うんだ。」


いったい何の話をしているのかと、アリスが思わずカルテカとアロノンに視線を送ると、カルテカが一言「物語生成」と言った。するとドロシーがそれに応えて「いろいろ話をしている内に、ここの事が分かってきたの。それでここではそれぞれに役割があって、私とイカロスはメタモルフォシスなんじゃないかと思った。


互いの物語に影響されながら、その形を変えていく。それでどうなるのかまでは分からないけど、誰かの物語が力になって、それが何かを変える力になる。」


それを聞き終えたイカロスが言った。「そんなわけだから、今こそがそれを試す時だね。僕がキミの虹になる!」


その愚直なほどの英雄憧憬に、アリスは自分の頬がほてるのを感じながら、確かに仮想世界ならそれが出来るのかもしれないし、太陽神アポロンに憧れて飛び続けたあなたの本来の物語と比べても、それは引けを取らない話だと、アリスは思った。


そんなイカロスとドロシーにかける言葉をアリスは探したが見つからず、代わりに二人に微笑んで頷いた。


するとそれが合図になりイカロスが円陣から手を離すと、太陽の周りで霧散したと思っていた虹色の破片がイカロスに降り注ぎ、それと同時にイカロスから大量のナラティクルが飛び出して、そのあまりの眩しさにアリスは咄嗟に目を庇った。


そして再び目を開けると、ナラティクルが集まる直ぐそこの中空から虹が現れ、それが遠くの地上まで伸びて、その虹の橋の上を歩いていくドロシーの姿が目に入った。


メタバリアムに本来あった外来者から仮想体を生成する機能を、圧縮融合に転用しようとして失敗しているらしいモノフォシス達。でもそのやらかしがドロシーの物語を読み込んで私はあなたに出会えた。


あなたは壊れてしまった自分の物語を彷徨って、出会った時は泣いてばかりだったけど、でも目的を見失わずに消滅しなかった。もしも時間があったら、壊れた物語から生まれた別の物語。実感探しの人をあなたに教えて、それについて一緒に話してみたかった。そしたらあなたは、あの人に繋がる別の物語を選んだかもしれない。


しかし虹もドロシーもあっという間に遠ざかってしまい、今や遥か遠くに小さく細く見えるだけになった虹の橋に向かって、泣き虫だけど強い人、さようならドロシーと、アリスは心でエールを送った。


イカロスとドロシーが離脱した事で円陣は解体され、残された三人は中空でバラバラになっていた。


やがてはじめにバランスを崩したアロノンが、その姿勢を立て直そうと奮闘したものの、その間にすっかりアリスから離れてしまい、諦めた事が分かるようアリスに手を振りながら離れていった。


その姿はいつも冷静でいてくれるアロノンらしく、アリスはそれが嬉しかった。それにアロノンがカルテカのエスカントなら、いずれカルテカと合流するだろうし、はぐれたとしてもカフェテリアで待機する事になるのだろうとアリスは思った。


さてそのカルテカはアリスから少し離れたところで、アリスに近づこうと手足をジタバタさせていた。まったくどこで泳いでるの?と、まるで中空を泳ぐような仕草が可笑しく、アリスはくすくす笑いながら、そんなカルテカに向かって右の腕を精一杯伸ばした。


するとカルテカも手を伸ばし、なんとか触れたその刹那にアリスの手のひらにチケットを押し込む事に成功したが、それが精一杯だったらしく、「あげる!」と言い残して、離れていってしまった。


それならこのチケットでカフェテリアに行けという事だと思ったアリスは、チケットを握りしめながら足をばたつかせたが、眼前の光景に変化はなく、床で踏み出さないとダメなんだと納得した。


それでもこれを渡されたのだから、きっといつか使う機会がくるのだと、アリスはそれを右のポケットに押し込みながら、また会いたいなとカルテカを思った。


中空で一人になったアリスは、そこで改めて下を見た。するとそこには見たこともない機械の塊があり、それは都市とも巨大な船とも分からない、まったく予想がつかない造形に見えたが、もしかしたらそれがメタバリアムの外観なのかと想像した。


強力な仮想化機械のメタバリアムは、新都市のどこかに残骸のように埋もれているものと想像していたアリスは、それが新都市の外にあるのかも知れないと、その可能性に気付いて想像を巡らせた。


だが直ぐに、都市の変遷を映し出すモニターがあった事を思い出し、そもそもここはまだメタバリアムの中なのだから、この下に見えている光景もまた、広大な一つのエリアの造形なのだと思い直した。


アリスは姿勢を仰向けに変えて、その目に見えるものが、どこまでも広がる青い空だけになったところで、大丈夫、また一人になったけど、きっと大丈夫、と空と自分に心で言った。

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