場面.5「複合現実」
マザーシップは返答した。「承知しました。お話した通り、ザ・ダークについては断片的な情報が多く、不正確である点に注意してください。」
アリスが降り注ぐ光を眺めながら「分かりました。詳細は省いて、推論から可能性の高い歴史を一つだけ、分かりやすく話してください。」と言うと、マザーシップの母性的な声が、アリスに丁度いいテンポで語り始めた。
「先ず、ザ・ダークの概要を述べます。
紛争、疫病、飢餓などが、同時多発的にそして連続的に発生し、その過程で、全地球規模で人命が徐々に失われていきました。それに伴い公共施設や各種インフラ、生産施設などの稼働率は急減し、荒廃し、復旧が不可能になっていきました。一方で、小規模な物理紛争による不幸な死傷者は出ていたものの、総じて大量殺戮や熱核兵器などによる大規模な破壊はありませんでした。
ザ・ダーク期の人々の生存に致命傷をもたらしたものは、前述した様々な崩壊の中心にあるマネーシステムの欠陥です。
システムは統計的なデータ解析を駆使してマネーの流通量を増減するといった手法を基本に、様々な調整制度を備えており、全体としてはコントロール可能なシステムだと、当時の人々は考えていたようです。
しかしその問題はより人の本質に根ざしたものであり、それに注視せず、あるいはコントロールに失敗した事が、ザ・ダークの根本的な原因になっていると推論します。」
「それはマネーが必須の経済システムが崩壊したみたいな事?」とアリスが訊くと「確かにそれは崩壊現象の一部ですが、本質はより深刻なものだったと推論しています」とマザーシップが答えた。
本質的という部分に興味を持ったアリスが、それについて出来るだけ簡潔に説明するよう求めると「現在の話題は、ザ・ダークの発生原因であるマネーシステムの崩壊ですが、その本質について話す場合、一度テーマが変わり、迂回する事になります。よろしいですか?」
それを聞いたアリスは更に興味をそそられ、話を続けるよう促した。
「承知しました。ここで言う本質とは仮想化です。ですから先ずは仮想化について話します。次に仮想化が人の意識の本質である点にふれ、更にマネーシステムもまた仮想化であり、結論として、マネーシステムは人が獲得した仮想化による意識を外部化した、複合現実システムであるという流れを辿ります。」
「つまり、仮想化が何か悪さをしたという事?」
「いいえ、仮想化それ自体に善悪はありません。問題の発生源は、物理現実を仮想化しているマネーを使う事で、あたかもそれが物理現実であるかのように作用する複合現実、つまりマネー経済社会において、物理現実を遥かに上回るマネーが創出された事で、物理と仮想のバランスが崩壊した事が、問題の本質です。」
「経済システムは複合現実で、それが人の意識と同じものみたいな話だけど、話の順番を変えてしまってごめんなさい。ちょっと複合現実について簡単に説明して」とアリスが言うと、眼前に半透明の仮想モニターが出現し、マザーシップは話を続けた。
「今ご覧いただいているもので、拡張現実を体験的に知る事が出来ます。」
見るとモニターには眼前に広がる空が表示され、そこに複数の円形のパラメーターが付随していた。
「その円形のパラメーターを指でなぞり、操作してみてください。」
言われた通りにそれをすると、モニターに表示されている空と連動するように天空も変化した。光彩の強弱や色、揺らぎなどが、アリスの指先の動きに追従して大きく変わるのだ。
「このメタバリアムは仮想現実ですが、ここでは今見えている空や地面は物理現実だとしてください。
すると先ず、眼の前に表示されているモニターは物理的な存在ではなく、仮想化技術で物理現実に投影されている仮想の物体です。つまり物理現実を拡張する存在であるという事から、この状態を拡張現実と言います。
次にあなたは今、仮想の物体であるモニターを操作する事で、現実の空を操作しました。つまり拡張現実という仮想を使って物理現実を操作したのです。このように物理と仮想が複合的に作用する状態を、複合現実と言います。
これをマネーに置き換えれば、マネーは仮想的な存在であり、マネーという拡張現実を通じて、物理に作用を及ぼし、それで実際に生活が可能なのですから、それは総じて複合現実と言えます。
古来、マネーがただの石や、塩、金銀、紙幣といった物体の姿に投影されている時代には、その仮想性は際立ったものではなく、人はそれを仮想的なシステムだとは思いもよらなかったのでしょう。しかしこの仮想性というテーマについて、人はより真剣に考えるべきでした。」
眼前のモニターが消え、元に戻った空を眺めながら、アリスはゆっくりと考えを巡らせた。マネーが仮想的であり、それが一種の複合現実システムだという話は面白いと思った。でも意識もまた仮想的だというのはどういう事だろうか。
「ところで意識も同じシステムだと言う話だったけどそれは?」
「はい。端的に言って、意識それ自体が物理現象を仮想化している拡張現実システムです。人は意識という拡張現実を通じて物理にアクセスする、複合現実システムとして進化した生物だと言えるかも知れません。
人は視覚、触覚、聴覚、味覚といった細胞レベルで検出した感覚情報を、外界という仮想世界として統合し、それを元に物理現実へのアプローチを行います。
また、アプローチに関わる経験的な情報を、快不快といった内的感覚として再現する為に、脳内物質による作用を物理的に形成しそれを遺伝化しましたが、それもまた物理現実を仮想的に内包する試みであり、総じてそれが未経験であれ、経験的であれ、それらを一つの外界として統合できるシステムとして、意識が形成されていると考えられます。
また、特定の物体の形状や位置関係を見て、例えばそれが、座れる物つまり椅子になるといった発見は、仮想化された物理現実への意味付けであり、それが意思の機能だと思われます。つまり意識のみならず意思もまた、仮想化を基礎としており、総じて複合現実として作動するシステムではないでしょうか。
一方では、人には物理現実に直接アプローチする能力も残されており、それが直感的な行動や、無意識的な領域と呼ばれるものですが、人はそれらを自覚的にコントロールすることは苦手であり、特殊な鍛錬や、傑出した一部の人々だけが、それを上手くこなす事が出来たというのが、実際のところです。
つまり突出した仮想化能力を駆使して、無自覚な深層レベルで構築された複合現実システムを主観としながら、物理現実を生きていくという事が人間性であると、ここでは推論します。
そして仮想化によって拡大した創造性が、人には不可能であった物理的活動を可能にする様々な発明を生み出し、地上のどんな生物よりも早く移動し、空を飛び、星々の彼方へまで探査機を送る力を、現実のものにしました。
このような、仮想化によって自意識という内面世界を構築し、その同じ力で物理現実という外界に、自らの欲動を具現化していくという流れの中にあるものの一つが、マネーシステムであると推論します。」
「なるほど、だからマネーシステムは人の意識の外部化でもあると言ったのね。」
「はい。その通りです。」
やっと話が繋がったと思いながら「それで、二つが仮想化を基本とする、本質的に同じものである事が、崩壊の原因になったという話ですか?」とアリスが訊くと、マザーシップは抑揚を変えず、ゆっくりとした口調で、アリスに答えた。
「結論を先に言えば、両方に共通する自己拡張への欲動が、マネーシステム側で崩壊を招いたという経緯になります。
ここで言う自己拡張とは、身体の機械化といった技術的な野心のみを指すのではなく、人が内包する普遍的な欲動です。念じただけで、呪文を唱えただけで、あるいは特殊な記号を用いるような事をするだけで、物理現実に強力な変化をもたらすような力を、人はずっと夢想してきました。
それは正に仮想的夢想ですが、その夢想を現実化したものがマネーシステムであり、つまりマネーの本質は呪術的でもあると考えられます。
例え話を使うなら、マネーで物体をAからBへ移動するという時、実際にはそこに労働が介在し人がいるわけですが、マネーシステムの中では人の存在は仮想的であり、マネーを行使する事で、実際に物体がAからBへ移動した、という結果を実現する事ができます。
その移動が海を跨ぎ、大陸間に及ぶなら、それがマネーの行使だけで実現するのですから、それは正に魔法のようです。
次に、物体のAB移動に伴う労働を人はなぜ実行するのかという点ですが、それは一般的に対価としてのマネーに価値があり、その価値が自身の生存を左右するほど重要であればあるほど、人はより多くの労働を実行するという事情がある分けですが、もしも生活を継続する、つまり生きていくために必要なものの全てが、マネーを介在する事でしか得られないといった状況である場合どうでしょう。
そこで人はより多くのマネー創出を望み、生活に関わる生産活動ですら、その目的がマネーの創出であるような事態へと進行していきます。
以上でテーマの核心にあたる単語について言及する前提が揃いました。」
その単語については、何も思い浮かばないとアリスは少し悔しく思いながら、一呼吸して「分かりました。話してください」と言った。
「承知しました。その単語とは抽象的な表現ですが、チカラです。
それには防衛や攻撃といった両面性があります。チカラの行使は守ろうとするものから見れば防衛であると同時に、敵対するものに対しては攻撃です。ここではその両面性をチカラとして抽象的に言及します。
マネーシステムは物理現実の仮想化である。仮想化されている物理現実には人が含まれる。人に行動を迫るものは生存である。現実的な生存環境では、防衛や攻撃、制度維持の為の強制力が必要である。強制力はチカラである。
するとマネーシステムが安定的に稼働するにはチカラが必須である事が分かります。そしてマネーシステムはより多くのものを仮想化するのですから、チカラもまたマネーシステムの中で仮想化されています。
チカラが暴力的な姿で具現化する事を人は回避しようとしてきましたが、一方ではチカラを捨て去ることは出来ません。それが必要になる事態が無くなる事はないからです。
そこでチカラをより安全にそして効率的に格納し、管理し、行使する仕組みもまた仮想化し、マネーシステムに取り込みました。AB移動の例えを使うなら、何某かの理由によってAB移動をさせないようにするチカラもまた、マネーの行使によって具現化するのです。
つまりマネーシステムは、暴力をコントロールして有効活用しようとする複合現実システムでもあるわけです。
しかしより効率的で強力なチカラを求める自己拡張の欲動がマネーの増大を推し進め、それがそのまま暴力の増大を意味する事に、人は無頓着すぎたのではないでしょうか。
マネーによって実現されていた複雑で大規模な協業体制の中で、マネー創造という目的はより強制的になり、終末期には、社会全体がマネー創出の為の巨大な複合現実装置となりました。謂わば社会が機械化し、人は部品化していったのです。
そこで益々肥大化していくチカラを、破壊的創造の手段として利用する、進歩主義が台頭しました。より持続可能で理想的な社会を実現するという思想を実現するために、考えてから行動するのでは、膨大な時間がかかる上に、可否判断の機会も限られる為、先ずは壊し直ぐに構築し、そのサイクルが早ければ早いほど、良好な結果が得られる確率も高くなるというその手法が、マネーの創造をさらに増大させました。
しかしこのような急進的な進歩主義によって消費されるチカラに対して、その再創出が追いつかなくなっていきました。マネーの魔法が通用するには、労働と生活消費を行う人的資源が不可欠ですが、その単位あたりの創出量には限界があります。
ですがその限界を無視して、或いは勘案せずにマネーを行使しつづければ、システム上のマネーの総量は増加していたとしても、それが物理現実に作用するチカラは失われていきます。
マネーによってコントロールされていたチカラが、必要に応じてマネーで実行できなくなれば、人はそれをマネーを介在せず実力行使する事になり、それがマネーの弱体化という悪循環を生み、破壊、収奪、暴力、放棄といった事象が世界中で顕在化し、労働、生産、資産といったものが、無力で無価値なものへと変質していきました。
しかしそのような状況になっても、マネーシステム中心の生活を大きく改変することは出来ませんでした。それが人の本質に深く根ざしたシステムである以上、それを改変するという試みは、人間性の改変に等しいと思えるほど困難であり、それを実現する発想も発明も起こりませんでした。
マネーシステムがなければ、個人のためだけの生産ですら不可能な状況が作り出され、それを回避する為にシステムから完全離脱すれば、それは原初的な暴力と対峙しなければならない環境への退行を意味し、結論としては、外部化された複合現実を利用した、理想的で持続的な円環社会の構築は失敗し、システムは瓦解していきました。
ザ・ダークとは、マネー複合現実システムを頂点とした自己拡張主義の終焉という悪夢でもあると考えられます。
正確な統計はザ・ダークの後半から得られなくなりますが、世界人口はピークの90億人から急速に減少し、アフターダークの黎明期には、10億人以下であったと推定されています。
最後に、現実的なトピックを数点まとめて、終わります。
エネルギー政策に関するペトロマネーを巡る独占と紛争。
イデオロギーに仮託した価値観の標準化を巡る強引な政策と紛争。
借金誘導型信用創造を利用した富の分配を巡る主権の混乱。
生産の労働化による人命の消財化と怨嗟の蔓延。
総じてそれらはマネー複合現実システムの主権を巡る闘争の物語である。」
アリスは皮肉を込めて「悪くないまとめだけど、悪い話ね。外部化した自分に似たものに、みんなして振り回された」と言いながら船体を見上げた。それが人の形なら、きっと微笑で応えていると思えたからだった。
再び訪れた静寂の中で、アリスは思った。その後の話。アフターダークについては学習していると。
ザ・ダークの終末期に生存していた人々は、限られた移動手段を使って周辺地域を調査した。しかしその結果は端的に言って酷いものだった。本来の使い方すら知らない人々が、残された資材を好き勝手に分解破壊して、消費しながら生き延びていた。
それに対して、この都市を創建した人々は恵まれていた。そこには比較的纏まった資材や機械が残されており、そこでそれらを活用しつつ、知識の再構築を試み、外部との連携よりも、先ずは自分たちの足元の復興を最優先する道を選んだ。
それはある程度成功し、およそ三百年かけて電子機械システムを復興した。しかしそこでザ・ダークの災厄を教訓として、進歩的で実験的な活動を、仮想システムで行う事を理想とし、その為に、モニター上のアバター通信システムでしかなかった仮想システムを、より体験的な技術へと発展させて、メタバリアムの構築に成功した。
最盛期には、相当にグロテスクなテーマをも含む、多種多様なシミュレーション・エリアが生成され、人々はそこでの活動に没頭した。しかしその熱狂も冷め、得られた経験情報の共有を礎に、より現実的な社会システムの建設へと人々は移行した。
そのまま仮想世界への移住を考える人々もいたが、同時に発展していたインプラントを駆使しても、個人の完全な仮想化は不可能だというのが結論になった。それには各人に対応する身体シミュレーターが必要であり、その為のマシンパワーを維持する事は、物理的に不可能だった。それは、五千万人ちかくまで戻っていた新都市の全員が、仮想世界に移住する事は不可能である事を意味していた。
技術的な追求を続ければ、それはやがて可能になるかも知れなかったが、それよりはリソースを現実社会の構築に充てるほうがより合理的だと判断した。そこでメタバリアムで使用されていた装置類を解体して再利用し、都市のあちこちにあるコンソリアンやレドロン、そして全てを接続するガイアードを構築したのだ。その為メタバリアムは徐々に実用に耐えない、不安定な仮想システムとなり、閉鎖された。
アフターダークの黎明期を生きた人々は、今でも称賛の対象だ。なぜなら、自分たちが生きている内に達成できそうもない理想を信じ、それを共有する事に成功し、その実現の礎になった人々だからだ。
アリスは歴史教科の学習をなぞりながら、ふと「喉が渇いた」と発話した。するとマザーシップが応えた。
「チケットを持っていませんか?」「え?」とアリスが言うと「ポケットに入っていませんか?」と言われ、右のポケットに手を入れると紙の感触があり、それをつまんで引き出して見ると、それは「カフェテリアの招待状」と書かれた一枚のチケットだった。
マザーシップが言った。「それはメタバリアムの最盛期に流行した、仮想世界のカフェテリアに直行できるチケットです。初めは自由に行けましたが、仮想世界への移住が懸念されはじめた頃に、ひとり一枚に制限されました。メタバリアム・ビギナーへの初回特典です。」
どう使えばいいの?と聞こうとしたアリスの眼前で、海砂漠の一部が盛り上がり、波とも砂ともつかないアーチが現れ、「その先へ進んで下さい。メタバリアムでは強制転送は禁止されています。ご自身の意思で進んでいただく必要があります。もう少し素敵なゲートをと思いますが、私に使えるリソースは、このエリアにあるものに限定されてしまっています。ごめんなさい。」
そのカフェテリアで飲めるものが仮想でも実感があるなら、今はそれでいいとアリスは思った。長話になってしまったマザーシップとの会話には、後ろ髪を引かれる気持ちもあったが、先へ進むことに決めた。
さようなら、といいかけてアリスは「行ってきます」と言い直した。「行ってらっしゃい」と母性的な声が応えた。アリスはチケットを握り締め、アーチの先の光へと歩きながら、ありがとう、と心で言った。
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