おかえり、雪兎
ふあ(柴野日向)
1
カーテンの隙間から白い光が部屋の中に伸びて、それが顔に当たって僕は目を覚ました。暗い部屋の中を、白い線がすうっと横切ってるのをぼんやり眺めて、もう一回寝たいなあって思いながら、でも学校があるから頑張って身体を起こした。パジャマと身体の隙間に冷たい空気が入って、身体がぶるって震えた。枕元の着替えを抱いて、畳を踏んで、僕は襖を開けた。
向かいの居間に入ると、むんわりした空気がはみ出てきて、嫌な気持ちになった。炬燵の上にビールの空き缶がたくさん載って、いくつかはそこから転げ落ちて畳を濡らしている。お母さんが見たら怒るだろうなって考えて、僕は炬燵に足を突っ込んでいびきをかいているお父さんを見下ろした。
電灯の明りの下にお父さんの真っ赤な顔があって、息をするたびにごうごうって大きな声を立てている。お酒のにおいがとても強い。お酒に弱いから、飲み会も苦手なんだって前は言ってたのに。
こんなお父さんは嫌で、お酒のにおいも嫌いで、だけどお父さんは嫌いじゃなくて、風邪をひいたら可哀想だから、毛布を持ってきてかけてあげた。お父さんは全然起きないままで、僕は点けっぱなしの炬燵に着替えを入れてあっためた。畳に零れたお酒は、ティッシュで拭いた。指についたのをちょっと舐めてみたけど、それだけじゃ味はしなかった。残ったお酒を飲んでみたい気持ちにはならなかった。僕までお父さんみたいになったら駄目だし、自分からこのにおいがするなんて嫌だと思った。
僕は四年生だから夕方にはすっかり学校が終わって、下校のチャイムが鳴るまで運動場で暇つぶしをした。夜に降った雪はすっかりぐしゃぐしゃになって、みんなは綺麗な雪を探してどこかの公園に行った。僕はみんなと雪合戦をする気になれなくて、鉄棒にぶら下がったり、飼育小屋の兎を眺めたりした。地面の穴から、真っ白な兎が頭を出して鼻をひくひくさせている。それにもすぐに飽きて、チャイムが鳴る頃にまた雪が降り始めて、僕は機関車みたいに白い息を空にはあはあ吐きながらお家に帰った。三階の端っこの部屋。ひんやりした空気に震えながら、もうお酒のにおいはずっと薄くなっていたのが嬉しかった。
冷凍ピラフをレンジでチンして、炬燵で食べて、お風呂に入った。あったかいお湯が冷めないように蓋をして、急いで身体を拭いてパジャマに着替える。でも洗面所は寒くてぶるぶる震えながら炬燵に戻って宿題を始めた。算数の問題が分からなくて、考えているとだんだん眠くなった。
「おい、炬燵で寝るな。風邪ひくぞ」
お父さんの声で目が覚めた。黒いコートからは朝と同じようなお酒のにおいがして、僕はくさいって呟いた。お父さんは冷蔵庫からまたビールの缶を出している。
「そんなに飲んじゃだめだよ」
「大人だからいいんだよ」
「朝だって、酔っぱらって炬燵で寝てたじゃん。よくないよ」
聞こえないふりをするお父さんの顔は、もう真っ赤だ。お母さんだったら怒ってるのに。お酒ばっかり飲んで、お仕事も遅刻ばかりするようになったお父さんには、僕が代わりに怒らないといけない。
「もう、お酒飲まないでよ」
「うるさいな、いいだろ少しぐらい」
「全然少しじゃないじゃん。病気になっても知らないよ」
「おまえ、あいつみたいなこと言うんだな」
お父さんの顔がぐにゃりと歪んで、僕は何も言えなくなった。僕を見ているはずなのに、どこを見ているかわからない目が怖くて、顔は眠たそうにも悲しそうにも怒ってるようにも見えて、僕も悲しいのか怒ってるのか自分がわからなくなる。ただ、嫌だ、と思う。お父さんのお酒のにおいも、絵の具みたいに真っ赤な顔も、お母さんをあいつって呼ぶようになったことも。
炬燵の教科書やノートや筆箱を抱いて、僕は自分の部屋に逃げた。宿題は諦めた。わからないところは、結局わからないままだった。
僕はいつの間にか趣味になっていた、真夜中の散歩に出た。お父さんがいびきをかく頃を見計らって、服を着替えてもこもこのダウンジャケットを着て外に出る。お酒でくさい部屋から外に出て、ほわっと真っ白な息を吐く。
ドアの一枚向こうは、まるで違う世界だ。いつも僕が暮らしてるのとは違う、暗くて白くてきらきらで、とっても静かな世界。僕の大好きな夜の世界。雪が降ってればもっと最高で、今日は大粒の雪が降り続いていた。
裸の耳がきんって冷えて、ほっぺに触る空気は冷凍庫の中みたいに冷たい。氷みたいな冷たさが、僕の身体の上から下まで通り抜けると、僕は新しい気分になる。嫌なものが外へ全部押し出されて、つま先まで綺麗な銀色でいっぱいになる。どこまでも行ける気がする。雪の降る音しか聞こえない道路を辿って、疲れないままいつまでも歩ける気持ちになる。
車がすれ違うのがやっとな道は、真っ白な雪に覆われていた。誰かが通った足跡は真夜中の雪に隠れて、僕の足跡だけが後ろに続いていく。買ったばかりのノートに名前を書くような少し緊張した気持ちと、世界にひとりぼっちなちょっとした怖さと、それよりずーっと大きなわくわくした心で、僕は夜の散歩をする。
そこで、僕は自分のじゃない足跡を見つけた。それを追いかけると、やがて歩く街灯に追いついた。
灰色の棒の先に丸っこい明かりがついた街灯は、足元が二つに割れていた。その足で雪を踏み踏み、滑らないように歩いている。歩く度に頭の明かりが揺れるのがおかしくてくすくす笑うと、街灯は僕を振り向いた。
「やあ」
街灯に顔があるわけがないのに、僕には街灯が笑っているのが分かった。
「やあ」
同じ返事をすると、街灯は嬉しそうに頭を左右に振った。明りに載った雪がふわふわと零れ落ちた。
「今日も綺麗な雪の夜だね」
「うん。ねえ、どこに行ってるの」
「パーティーだよ」
街灯はちらっと道の向こうを見た。
「仲間が集まってね、パーティーをするんだ。間に合うかなあ」
「楽しそうだね。僕も行っていい?」
「うーん」
街灯は腕を組んでいるような気がした。
「きみじゃあ、ご馳走のテーブルに手が届かないかもしれないね」
確かにそうだと僕は街灯を見上げて納得した。真っ白な光が眩しくて、まるで大きな雪の塊のようにも見えた。
「さよなら」
「さよなら」
僕らは挨拶をして別れた。真っ直ぐ行って振り向くと、通り過ぎた角をえっちらおっちら曲がっていく街灯の姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます