名探偵エルキュール・ポアロ〜「消えた肖像画の謎」〜

湊 町(みなと まち)

第1話 依頼

ロンドンの午後は、静寂と共に流れていた。エルキュール・ポアロは、正確に整えられた黒い口ひげを一撫でし、テーブルに置かれた紅茶を一口含んだ。その対面には、愛すべき友人であり、助手とも言えるヘイスティングズ大尉が、新聞を片手に穏やかな表情で座っている。穏やかで何の波風もない、いつもと変わらぬ午後のひとときであった。しかし、その平穏は、すぐに破られることになる。


「ポアロ、今日も事件のない日だな。時には静かに休むのも悪くないんじゃないか?」


ヘイスティングズがそう言いかけたその瞬間、玄関のベルが甲高く鳴り響いた。ポアロは新聞の端を持ち上げ、ヘイスティングズに視線を送る。「大尉、どうやらその平穏は長くは続かないようですな。」そう微笑みながら、ポアロは椅子から立ち上がった。


玄関の扉が開かれると、冷たい風と共に一人の女性が現れた。彼女は薄いクリーム色のコートに身を包み、背筋をぴんと伸ばして立っている。その瞳には、恐怖とも不安とも言えぬ混乱が渦巻いていた。彼女の美しさは、その乱れた内面を隠しきれない。すぐにポアロは、彼女がただの訪問者ではなく、深刻な問題を抱えた依頼人であることを見抜いた。


「お入りなさい、マドモアゼル。暖かい紅茶をどうぞ。」ポアロは彼女を丁重に迎え入れ、ソファに案内した。


「エルキュール・ポアロ様ですね?」女性は震える声で確認すると、その名を口にした瞬間、少しだけ安堵した表情を見せた。「私の名は、レディ・マルゴット・ヘンリーと申します。私は、助けを求めに来ました。家族が…家族が危機に陥っているのです。」


ポアロは彼女の言葉に注意を払いながらも、彼女の挙動、呼吸の浅さ、声のトーンまで観察していた。「なるほど、マドモアゼル、どうぞお話しください。家族の危機とは?」


レディ・マルゴットは、震える手でハンカチを取り出し、涙をぬぐいながら語り始めた。「我が家の家宝である肖像画が、一晩のうちに消えてしまったのです。それも、鍵がかけられた部屋から。さらに…」彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。「さらに、甥のジョージがその夜、何者かに襲われ、今も意識が戻らないのです。」


「ふむ、興味深いですね。」ポアロの目が鋭く光った。「消えた肖像画と、襲われた甥。この二つの出来事が同時に起こるとは、偶然にしては出来すぎておりますね。」


「それだけではありません。」レディ・マルゴットは声を低くして続けた。「私には、犯人が家の中にいるような気がしてならないのです。誰かが、家族の誰かが…」彼女の言葉は恐怖に包まれ、途切れた。


ポアロはその瞬間、決定的な何かを掴んだかのように微笑んだ。「では、私がその謎を解き明かしましょう、マドモアゼル。ヘンリー館にお邪魔し、あなたの家族を救い出すために。」ポアロは立ち上がり、いつものようにきちんと整った服の袖を軽く整えると、すぐさま行動を開始する決意を示した。


「ヘイスティングズ、出発の準備を。新しい事件が我々を待っている。」


その言葉にヘイスティングズは顔を輝かせ、「そうか、ポアロ!ついに新たな謎が動き出すんだな!」と力強く答えた。


しかし、ポアロの眼には、いつもの冷静な光とともに、何かいつもとは異なる微妙な緊張感が漂っていた。家族の絆が絡み合う複雑な事件、その背後にはさらなる裏切りが潜んでいるかもしれない。ポアロは心の中で静かにそう確信しながら、ロンドンの曇り空を見つめていた。

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