吸血鬼

紫陽花

吸血鬼

 「私ね、吸血鬼なの」

 悪戯っぽく、彼女は笑う。

 「何言ってるの?テスト前でおかしくなっちゃった?」

 そんな彼女に笑い返す。

 まるで笑い飛ばすように。

 手先の震えを、誤魔化すように。

 彼女は笑う。否定もせず肯定もせず。

 ただ曖昧に、笑う。


 「今日のお昼ご飯、それ?」

 彼女の手にはジュースのパックが一本だけ。

 「そ、私吸血鬼だからね」

 ころころと、あの日と同じ顔で彼女は笑う。

 「って言っても、トマトジュースじゃん」

 呆れて私は返す。手の震えは止まらない。

 彼女は美味しそうにそれを飲み干した。

 ゆるりと口端から流れた赤い液体を舌で舐めとる様は、確かに吸血鬼にも見えなくはない。

 あの日以降、彼女は私の見てるところではトマトジュースしか口にしないようになった。

 そろそろ栄養失調が心配になってくる。家では普通の食事をとっていると思いたいが、それにしても、あまりにもだ。

 「ねぇ、そろそろ別の物も食べなよ。ダイエットだかなんだか知らないけど、それだけじゃ、やっぱ健康に悪いよ」

 思わず苦言を呈すと、彼女はまた笑う。

 「なんで?吸血鬼の食事って、血だけでしょ?」

 彼女はなんでそこまで吸血鬼にこだわるのだろう。手の震えは止まらない。

 「ダイエットなんかじゃないよ。だって私は吸血鬼だもん」

 彼女はころころと笑う。その姿は、確かに怪物のようだった。


 去年までは誰より早く半袖を着ていた彼女が、今年は夏本番になっても長袖のままだった。日焼け止めも去年よりもずっと良い物を使っていて、日傘も新調したようだ。

 彼女が好きだったニンニクもすっかり嫌がるようになってしまった。行きつけだったラーメン屋さんは、今は隣を通るのも嫌らしい。

 昔は野菜が苦手だったはずの彼女が、毎日トマトジュースばかり飲んでどんどん痩せ細っていくのが。

 去年までは暑い暑いと言いながらも、高校生にもなって外で走り回るような快活さを持っていた彼女が、今は登下校で外に出る時でさえ「今日は一段と日差しが痛いねぇ」なんて顔を顰めて日傘に全身をすっぽりと隠してしまうのが。

 前まで美味しい美味しいと、追加すらしていたニンニクをまるで汚物を見るような目で見るのが。

 見て、いられなくなって。

 「ねぇ、やっぱり吸血鬼なんて全部嘘で、好きな人でも出来たんじゃない?でも、それを言うのが恥ずかしくって、そういうのを理由にして色々気を使ってるんじゃないの?」

 思わず少し言い過ぎたが、本音であることに違いはなかった。

 そうしたら彼女は、少し寂しげな顔をして。「それは貴女の方じゃない」なんて、微かな声でつぶやいたかと思えば、またすぐにあの日と同じようにころころ笑った。

 「私は吸血鬼なんだから、普通のご飯食べないのも、日差しを嫌がるのも、ニンニクを嫌うのも、普通でしょ?」

 彼女は笑っていた。

 それは笑顔と呼ぶ筈の顔だ。

 でもその瞳は、まるでどこも見ていないようで……

 手の震えは、より一層酷くなった。


 ──彼女が「私は吸血鬼だ」なんて言い出す、少し前。

 私は、ある人を好きになった。

 クラスのみんなが憧れる、いわゆる人気者。

 スポーツ万能、勉強もそこそこ。カッコよくて優しい男の子。

 友達と恋バナを始めれば、名前が何度も上がるような、素敵な人。

 そんな人を好きになった。好きになって、しまった。ありきたりで、可能性も皆無な。好きになっても、ただ辛くなるだけの人。

 私だって。本当はそんな人、好きになんてなりたくなかった。

 もっと、私だけの人を。私なんかでも、可能性がありそうな人を。好きに、なりたかった。

 ただ、私は絶望するほど単純で。

 たまたま、席が隣になっただけ。

 たまたま、ほんの少し話しただけ。

 たまたま、みんなと同じように優しくしてもらっただけ。

 それだけで、あの人のことを好きになってしまった。

 愚かなことに、全くもって馬鹿なことに。

 ただそれだけの理由で、私が傷つくことは決まってしまった。

 あの人も、悪い人だ。と思う。

 だって私、男子に優しくしてもらったの、初めてだった。

 みんなにしてることだって、そういう性格の人なんだって、頭ではわかってる、つもり。

 でも!それでも。

 感情は、そんなに物分かりが良い筈なくて。

 貴方はいとも簡単に、私の特別になってしまった。

 忘れようと思った。忘れたいと思った。全部忘れて、楽になってしまいたいと、思った。

 だから、誰にも言わずに殺そうとした。

 こんな気持ち、殺して。埋めてしまって。

 いつか「そんなこともあったね」って、笑い飛ばせるようになるまで、消してしまいたいと思って。

 でも、そんなに簡単じゃなくて。

 殺そうとして、忘れようとしても、痛みは残った。

 傷はずっと膿んだままだった。

 気を抜くと、ぐずぐず汚いモノが溢れて、堪えようとしても、ぼろぼろ目から零れ落ちてしまう。

 堪える日々を重ねるほどに、殺そうと必死になるほどに、まるで反発するように痛みは増えていく。

 理由のない動悸がするようになった。

 立ちくらみの頻度が増えた。

 食事をよく吐くようになった。

 体調不良として傷を突きつけられる事に、嫌気が差した。

 そして私は、不意に思いついた。

 誰でも良い。誰かに話してしまえば、少しは楽になれるかもしれない。

 その考えに至れば、あとは何気ない風を装って、一番の親友の彼女に電話をかけた。

 そして全部彼女に吐き散らかして、それで終わりだと思っていた。

 確かにその程度で消えるほど、軽い傷ではなかったけど、それでも幾分かマシになった。

 あとは時間がどうにかしてくれるのを待つだけだ、と思っていたのに……

 問題のあの日は、電話をかけた二日後のことだった。


 『ねぇ、今夜空いてる、よね?』

 突然電話をかけてきたかと思えば、彼女はそんなことを言った。

 私が基本的に夜は暇なことを彼女は知っている。だからその第一声は、形式的な確認であり、今夜こちらは貴女に予定がある、という意思表示だった。

 「一応、ね」

 嫌な予感がひしひしとして、そんな曖昧な返答を返す。断言してしまえば、戻れなくなるような気がした。

 『良かった。じゃあ、一時間後に、帰り道の土手に来て』

 心底ホッとしたような声で彼女はそう言うやいなや、こちらに返答の余地も残さずに電話を切ってしまった。

 身勝手な電話だ、と思った。

 今から一時間後、と言うと深夜と言っても過言ではない時間帯である。女子高生が待ち合わせをする時間では到底なかった。

 それでも、私はその場所に向かった。

 土手と一口に言うと広いが、きっとよく一緒に習い事をサボって遊んでいた辺りだろう。

 春には菜の花が咲いて、夏には子供たちが楽しそうに水遊びをするのが見えて、秋には夕陽が綺麗に見えて、冬には雪が積もって真っ白になる。私も彼女も大好きな場所だった。

 そんな思い出に浸っていると、ぽつぽつと街灯が点在した薄暗い道の先に、ぼんやりと人影が見えた。

 最初、道の真ん中に座りこけているように見えたそれは、段々としゃがみ込んでいるのだとわかった。

 しゃがみ込んでいる、と言うのも、もしかしたらまた違うのかもしれない。

 ナニカ、に覆い被さっているようだ。

 ここまで近づけば、無意識に気にしないようにしていた異臭が、嫌でも鼻につくようになってくる。

 鉄のにおい。

 それでも、人影に近づく足は止めない。

 あと人影まで数十歩と言ったところまで近づくと、横たわるもう一つの人影に、彼女が馬乗りになっているのがわかった。

 そして足元には、とめどなく、現実味の薄い、どす黒く、より強く異臭を放つ液体が流れてきている。

 ──ぴちゃびちゃ、ぐぇぇ、ぼたぼた

 穢らわしい水音と彼女がえずく音だけが、静かに周囲に飽和している。

 「ねぇ」

 意を決して彼女に声をかける。

 弾かれたように彼女は顔を上げる。

 彼女の下に横たわる人物のがらんどうな眼球と目が合った。

 息を飲む。

 覚束ない足取りで吸い寄せられるようにそれに近づく。

 私が焦がれてやまなかった筈の彼は、ただの、ありきたりなゴミのように道の真ん中に転がっていた。

 ゆるゆると、視線を上にあげる。

 そこには、怯えた表情の彼女がいた。

 口元から喉にかけては、ぬらぬらと血肉に濡れている。

 先ほどまで響いていた水音は、彼女が彼の喉元を喰らう音だった。

 手の震えが、今までで一番強くなった。

 ようやく、この震えの原因がわかった。

 これは、抑えきれない歓喜による震えだ。

 緩慢な手つきで、ワイシャツのボタンを三、四個外す。左肩を大きく露出させ、邪魔な下着の紐も腕に下ろす。

 「私の血、吸って良いよ。おいで」

 そう言ってその場に座り込んで、やってきた彼女を抱きしめる。

 私に噛み付くのに、少し戸惑っている彼女を見ていると、どこか懐かしい声が聞こえた気がした。

 「わたし、きゅうけつきがすきなの!だってカッコいいでしょ!」

 そう言った幼い私に、同じく幼かった彼女は、一体何と返したのだっただろうか。

 ついに彼女の決心がついたようで、肩に心地良い痛みがほとばしる。

 私はようやく思い出したのだ。

 私はずっと吸血鬼に、そして何より、私のためだけに人から身を堕とすような愚かな彼女に、焦がれ続けていたのだと。

 「ねぇ、吸血鬼って、人じゃなくて鬼なんだよね?」

 優しい声音で彼女に呼びかける。

 彼女は、問いに答える余裕すらなく、必死で私の血を啜る。

 不器用に、それはそれは下手くそに。

 その大半は、彼女の唾液と交じるだけで私の皮膚をつたい、服にゆるゆると赤い染みを広げていくだけである。

 「じゃあさ、私が飼っちゃっても良いんだよね?」

 まるでこちらを逃すまいとするように、彼女の、決して尖ってはいない人間の犬歯がより深く肩に突き刺さる。

 「いらっしゃい、私のペット。これからはずぅっと一緒だよ」

 吸血鬼は、その牙にかけたものを眷属にするという。

 しかして、吸血鬼に魅入られたのは、眷属わたしであるか、愛玩動物かのじょであるか……

 はたまた、その両方であるか。

 真実は、仄暗い夜の闇に溶け、生臭い血の悪臭に掻き消えるのみであった。

 ──夜は当分、明けそうにない。

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吸血鬼 紫陽花 @Azisain0hana

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