禅聖鬼録

@Kirikoshi_0619

第1話

「ナニカネンレイ?ヲ、カクニンデキルノ、モッテマスカ?」

 六時を当に回ったというのに、全く日が傾く気配のない炎天下の中、その日差しから逃げるようにコンビニの自動ドアをくぐった。銀ラベルの缶を二本手に取りレジに向かうと浅黒い肌色のアラブ系らしい店員からかけられたカタコトの日本語に、またかと呆れた。俺は所謂童顔らしい。不本意ではあるが慣れてしまったことなので、大人しく財布の内ポケットから保険証を取り出した、その時だった。

「はぁ⁈何言ってっかわかんねえよ!もっとハッキリ喋れや!」

 左隣のレジから罵声が聞こえてきた。見ると中年のスーツを着た小太りの男で、担当しているのは同じくアラブ系の女性だった。男が何に対して声を荒げていたのかはわからないが、担当の女性はひどく怯えたようで見ていてとても不憫だった。

「ありがとございます。」

 会計を終え小さく頭を下げると俺は早足に自動ドアに向かって歩き出した。

「外人が!」


 ドアが閉まる直前、振り返るとレジの女性の背後から黒いモヤのようなものが立ち込め、男の首に手をかけていた。


 昔から普通の人間には見えない何かが見えた。世にいう妖怪ともどこか違う気がして、俺は単に“何か”と表現している。その何かが見える自分はおかしいのだと自覚したのは小学二年生に上がってすぐの頃だった。

 ある日学校の隅の方にある小さな池で遊ぼうという友達の誘いを俺は断った。その池には黒いモヤがかかっていて形はハッキリとしなかったが見てはいけないものだと直感的に悟っていた。次の日、登校すると、俺を誘ってきた少年たちの内一人が意識不明の重態で入院したことを伝え聞いた。溺れたのだという。そこは八歳の子供の足首がつかるかつからないかくらいの浅瀬だった。あいつにも、周りにいた奴らにもきっと見えていなかったのだろう。忠告しなかったことも相まって、その時のことは苦い記憶として今も脳裏に焼き付いている。

 関わらなければ危害を加えられることもないが、それでもやはり人外である何かに心のどこかで怯えずにはいられなかった。


 右手にあるビニール袋にできるだけ振動が伝わらないように足を進めていると、五メートルくらい先にある街灯の下で両足を左右に開き膝小僧を地べたにベッタリとつけた状態で顔を両の手のひらで覆い隠した少女が目にとまった。小学生くらいだろうか。そのまま通り過ぎるのも憚られ、付かず離れずの距離を保ったまま足を止めた。辺りに保護者のような大人の姿は見当たらない。日もそろそろ傾いてきた頃だ。声をかけるだけかけてみよう。これで不審者だなんだと騒がれても家に帰ってくれるなら上出来だろ。俺は膝を折りまげ、少女に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「ねぇ、君。お母さんや、お父さんは?」

答えが返ってくることはなく、反応しているような様子も見られない。

「家に帰らないとみんな心配するんじゃない?」

「……。」

 困ったな。声をかけてしまった手前ここで引くわけにもいかない。どうしようかと考えあぐね、交番に連絡してあとはプロに任せようとスマホを取り出した。その時だった。

 街灯の光が自分の半径一メートルほどを囲って遮られ、奇妙なことに円状に影ができていた。嫌な予感はした。が、こういう時に見てはいけないというものほど見ようとしてしまうのが人間の性。

 見上げると俺の頭上で少女の首から上が黒いドロドロとした塊になって膨張していた。口を広げているようにも見えるそれは、まるで俺を捕食しようとしているようだった。

 (ああ。終わった。)

 気が付かずに声をかけたのがいけなかった。ここまでハッキリと形を持っているのに出くわしたのは初めてで、普通の少女だと信じて疑わなかった。食われるのだろうか。どうせ食われるなら丸呑みにして、できれば歯を立てることなく一息にいってほしい。この生き物だかなんだかわからないものに歯という概念があるのかは知らないが。


 一瞬。ほんの一瞬で、目の前にいたはずの化け物は何かに弾かれたように跡形もなく消えてしまった。瞬きする暇なんてなかった。

「君、見えるんだ。」

 まだ空いた口が塞がらない俺は後ろから聞こえてきた声にまさに恐る恐るといった感じで振り返った。そこにいたのは、目鼻立ちの整った綺麗な男だった。同じ男の俺からみてもそうなのだから、女子の目にはさぞキラキラと輝いて映ることだろう。

「悪いんだけどさ、覚えててもらったら困るんだ。コイツのことも、僕のことも。」

 男がコイツと言いながら指を刺した先には、女児だったものがドロドロに溶けて原型をとどめていなかった。

「記憶、もらうね。」

 声が好きかもしれない。この状況でもそんな呑気なことを考えている自分の頭に今更どうとも思わなかった。静かに目の前に手のひらを向けてくる男の動作を腰を抜かしたまま見上げている俺はさぞかし滑稽だっただろう。口元に薄らと弧を描いただけでぴくりとも表情に変化が見られない男に拍手を送りたいくらいだ。

「………あれ?」

「?」

 予想していたような痛みは待てどもくることはなく、男の方が先にまぬけな声を出した。それでも様になっているのだからドユコトダコノヤロー。

 男はしばらく自分の掌と俺とを交互に睨みつけながら、三往復めが終わったところでこう言った。

「事情が変わった。ちょっと一緒に来てもらうね。」

「は?」

 視界が変わった。その間、俺が発することを許されたのはったった一文字で、電気のスイッチでも押したみたいにあっけなかった。

「ごめんねー。椅子も何もないけど、まあくつろいでよ。」

 どうやってくつろげというのか。どんなに肝が座ってるやつでもこの状況にすぐさま対応するなんてきっと不可能だ。床や壁は木の幹の内側にでもいるようにゴツゴツとして、とても部屋と呼べるようなそれではなかった。

「で、君何者?」

 こっちのセリフ。それこっちのセリフ。いきなり現れたかと思ったら、幽白の霊丸みたいなの出しやがって。それのおかげで助かったわけだけども。感謝してるけども。そんで都合悪くなったから攫うわ?ただの犯罪者じゃねぇか。何者だっていう側の人間じゃなくて、言われる側の人間だよお前は。

「何か言いたそうだね。」

「いえ、何も。」

 俺の意気地なし。即答してしまった自分が本当に嫌になる。

「見られたら記憶を消さなきゃいけない決まりなんだよ。まぁ滅多にアレがみえる人間もいないんだけどさ。」

 俺が何も答えないことに痺れを切らしたのか、男はあぐらをかいて座ると間延びした声で話し始めた。張り付いた笑顔からは感情が読めない。

「普通はさ、あの場で意識が飛ぶはずなんだよ。それがどうしてか、君には僕の術がかからなかった。でも君をこのまま返すこともできない。僕は今ちょっと追いかけっこをしていてね。確率は低いけど、君が鬼の奴らに捕まったりでもしたら都合が悪いんだ。」

 もともと切れ長の目を余計に細めて男はそう一息に説明してしまった。やっと頭が冴えてきた気がする。じゃあ何か?俺に死ねってか。冗談じゃない。こちとらまだ三十路前の一番油が乗った時期なんだ。これからなんだよ。まだやりたいことだって……。


やりたいこと……。


 のらりくらりと生てきて、今更何に拘ってんだ。夢もないし、俺がいなくなって悲しんでくれるような家族も友達もない。けど……

「死ぬのは嫌だ。」


「ぷっ、あははははっ!」

 俺の必死の覚悟をあろうことかあいつは腹が捩れると言わんばかりに笑いやがった。

「はぁー。殺すなんて、一言も言ってないだろ?」

「は?」

「僕だって暇じゃないんだ。君らのお巡りさんにまで目をつけられたくないしね。」

 じゃあ何なんだよ⁉︎そういう雰囲気だったじゃねぇか‼︎口封じのためとか漫画でよく見るありきたりなパターンだったじゃねぇか‼︎

 男の小馬鹿にするような笑い方に今までビクビクしていた自分が急にアホらしくなってきた。

「まぁ与太話はこの辺にして。殺しはしない。が、しかし、このまま君を野放しにするにも心配が残る。そこで僕からひとつ提案。」

「提案?」

 男は右手の人差し指をピンと立てて、ニンマリとした気色の悪い笑顔を作った。

「そ。君には僕に着いてきてもらう。もちろんその間の生活は保証するし、僕と別れた後のことも、君が元の生活に戻れるよう手配する。」

「待て、俺仕事あんだけど。てか、その追いかけっこはいつ方がつくわけ?口調的に終わりが見えてるってことでいいんだよな?」

「ああ。…遅くとも半年。早ければ一ヶ月で君は社会復帰可能だ。仕事してるって言ったよね?僕に同行してる間、君は今まで通り通勤してる扱いになる。」

「は?どうやって」

「ココを書き換えるんだ。」

 男はそう言って指鉄砲の銃口で自分の頭をトントンと二回ノックした。

「僕にはそれができる。特技というか、生まれつきの能力、遺伝みたいなものだ。だから収入は今まで通り通帳に振り込まれるし、上司や周囲との関係も今まで通り。どうだい?衣食住も保証されて、殆どタダ働きで金が手に入る。結構いい話だと思うんだけど。」

 まぁ悪い話ではないが。というかめちゃめちゃいい。タダ働きというこれから一生経験することのないであろうその魅惑的な響きに俺は今猛烈に惹かれている。

「ほんとに元に戻れるんだな?」

「ああ。約束するよ。」

 俺の質問を了承と捉えたらしい男は握手でもするかのように右手を差し出してきた。騙されたら騙されたで、そん時はそん時。人生なんて結構単純な作りしてんだ。死ななきゃどうとでもなる。俺は迷うことなくその手を取った。


「交渉成立」

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