結晶
サバの塩焼き
第0章
部屋に入るたびに、あの日の記憶が鮮明に蘇る。テーブルの上には、彼女が最後に使った赤い口紅が残されたままだ。それを目にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。あの口紅は、僕が彼女に贈ったものだった。彼女はその時、少し照れたように微笑みながら「似合う?」と訊いて、軽く唇に塗り、鏡に映る自分をじっと見つめていた。
その光景は、まるで昨日のことのように今でも鮮明だ。しかし、今僕のそばには彼女はいない。残されたのは、彼女の化粧道具や二人で選んだ家具、そして僕を責め続けるような思い出の数々だけ。
僕たちは、あの頃確かに幸せだった。少なくとも、僕はそう信じていた。彼女との日々は、特別な瞬間の連続だった。夜遅くまで一緒に見たドラマ。最終回が近づくたび、「どうなるんだろうね」と話し合っていたのが、まるで遠い昔のことのようだ。でも今、僕は一人でそのドラマの続きを見ている。
彼女も今、あの最終回を見ているのだろうか。それとも、もう僕たちの時間を忘れてしまったのだろうか。あの主人公が、まるで彼女に見えてくるのは、僕の未練のせいなのかもしれない。
部屋には、まだ彼女の痕跡があちこちに残っている。二人で選んだソファ、悩んで決めたカーテン、玄関には、彼女がいつも履いていた靴の跡がまだ見える気がする。彼女と喧嘩をしたとき、感情が爆発して何度も言い争ったあの玄関。今でも、あの日の彼女の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「どうして、こんなことになっちゃったの?」
泣きながら彼女が投げかけたその言葉が、今でも心に深く刺さる。そして僕は、何も答えられなかった。
時間が経てば、少しは楽になると思っていた。でも、それは甘い幻想だった。僕の心には、彼女との思い出が結晶のように固く残り続けている。その結晶は、時間が経つほどに鋭くなり、僕を傷つけ続ける。
玄関先で泣いていた彼女の姿が、どうしても頭から離れない。彼女の声、彼女の顔、彼女が言った言葉。その全てが、僕の心にこびりついて離れない。
「もう、あの頃には戻れないんだ……」
その言葉が、僕の心の中で何度も反芻される。
二人で過ごした日々は、確かに幸せだった。少なくとも僕にとっては。しかし、気づけば彼女の心は少しずつ僕から離れていったのかもしれない。僕はその変化に気づかず、ただ自分の理想を押し付けていたのだろう。
彼女が去ってから、僕は彼女との思い出を少しずつ処理しようとした。口紅を捨て、写真を消し、彼女の痕跡を全て消そうとした。それでも、僕の心には彼女の結晶が残り続けている。その結晶はまるで僕を苦しめるために存在しているかのようで、決して消えることはない。
「君は、消えないまま……」
僕は彼女を忘れるために、彼女を追いかけることをやめた。二人で過ごした記憶を全て消し去れたら、どんなに楽になれるだろうと何度も思った。でも、現実はそんなに甘くはない。彼女との思い出は僕の心の中で深く根を張り、今でも僕を支配している。
捨てた口紅も、消した写真も、彼女の結晶は何ひとつ消え去ってくれない。
僕たちが最後に別れた日、彼女は涙を流しながら、僕に背を向けて玄関を出て行った。あの日のことを思い返すたび、胸が痛む。もし出会う前に戻れるなら、そうしたかった。彼女との時間が全て夢であれば、こんなにも苦しむことはなかったのに。
時は流れ、僕は新しい生活を始めようとしている。でも、彼女の記憶が僕の心から完全に消えることはないのだろう。彼女の破片は今でも僕の中で鋭く輝き続け、痛みを感じるたびに、僕は彼女を愛していたことを思い出す。そして、その愛がもたらした苦しみも。
「君を愛してたよ。だけど、もう終わりにしなくちゃいけないんだ。」
それでも、結晶は消えないまま。
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