亡者の地下水路

@zhidagongyuan

Junction0.0 1945 曾祖父の記憶

 戦線は島南部まで後退しつつあった。そのことを、私はこの深い闇に包まれた壕の中にあって知っていた。

 安里(あさと)52高地は昨夜陥落、西部130高地も危機にさらされつつある。司令部はさらに南部へ撤退し。空を舞うのはいつも敵機。対空砲火はなく、昼夜を問わぬ焼夷弾(しょういだん)の雨で地上は小地獄の様相を呈しているらしかった。

「なあ宇轩(ユー・シェン)。俺の生まれた町も母ちゃんも知り合いも、今頃みんな焼け落ちたんだろうな。」


 目の前の男は私の腹を裂きながら、心ここにあらずといった風に言った。

 外では爆撃が始まったようだった。大地がひどく揺れている。背中をつけている岩壁は冷たく、たまに染み出た水が、静かに私の肩を濡らしていた。

「私には関係のないことだ。」

 強いて言うなら私がいつ殺されるか、という問題に関わっているのだが、それはさして重要ではない。

「明日にはここの出入り口をすべて爆破する。中のマルタはなるだけ処分するが、弾薬が惜しい。あんたのような協力者を含め、多くはそのまま生き埋めになるだろう。壕内に食料は少ないからじき皆飢えて死ぬ。飢餓地獄だ。でもあんた一人ぐらいなら撤退前に殺すことができる。」

 ナガサカはそういって、静かに私の腹に刺しっぱなしにしてあった薄身のナイフを掴んで、みぞおちのあたりまでゆっくりと、薄く私の肉を裂いた。名残を惜しむような、滑らかな手つきだった。熱い液体が私の下腹部を通り、地下壕の湿った壁まで伝っていった。


 止血しなければあと数時間で私は死ぬだろうな。

 と、ぼんやり思う。

「俺があんたを殺すよ。俺とあんたは敵同士だったが、いい友人だった。」




「吸うかい?」

 彼は捻じ(ねじ)曲がった煙草をこちらに差し出して見せた。受け取ろうとして、体を捻る(ひねる)と腹の傷がひどく傷んだ。

「遅かれ早かれ俺も死ぬ、明後日には攻撃に出るからな。心配するな、友よ。」

 私が小さく呻くと、ナガサカは満足気に煙草を私の口に咥えさせて、マッチを擦った。

 真っ暗な壕内で、二つ、か細い紫煙(しえん)が揺れる。



「なあ、ナガサカ、一つ頼みを聞いてくれないか?」

 彼は苦笑した。「なるほど。俺にできる事なら手伝ってやってもいいがね。」

「妻にもう一度会いたいんだ。彼女も私も死ぬのだろうけど、あいつは寂しがりやだからね、私が側に居ないとひどく苦しんで死ぬような気がするんだ。むやみに生きようとするかも知れない。」

「妻…ってああ、あの女か、武漢でお前と一緒にパルチザンをやってた。」

 煙草をくゆらせながらナガサカは何かを思案しているようだった。

「もう殺したのか…?『マルタ』として。」

「まさかまさか、お前もそうだが日本語を話せる捕虜は多くない。いきなり人体実験に使うには惜しいよ。それはもちろん、お前と同じように凍傷剤の実験くらいはされたかも知れないが、まだ生きてはいる。」

「じゃあなぜ会わせてくれないんだ。もう残ってる兵士も多くないんだろ?」


「俺なりの配慮だ。お前は彼女に会ったらきっと後悔する。後味の悪い死に方をするのはやめた方がいい。俺としても寝つきが悪いしな。」

「しかし彼女は…」

「やめろ。俺は君のためを思って言っている。誰しも自分の大切な人の変わり果てた姿を見るのは悲しい。それこそその人が死ぬより悲しいかもしれない。そういうことだ。やめておけ。」

「でも…」

「あれはもう人じゃない。そう…化け物だ。恐ろしいモノになってしまったんだ。 

 おまえにはもう、苦しんで欲しくない。」

「ふざけるな、死に際も選ばせてくれないのか。…お前たちの為に一体何人の同胞を殺したと思っている!」

 言い募ろうとした私の腹に激痛が走る。ナイフが深々とどこかの内臓まで刺さっていた。

 私はまた呻いた。耐え難い痛みだ。

 彼は悲しい表情のまま、静かに私を傷つけていた。

「わかった、わかったから手の力を緩めてくれ。そう、それでいい。じゃあせめて、妻の産んだ子供に会いたい。ほら、ここに連れてこられた後直ぐ彼女は子供を産んだはずだ。まだ一度も会っていないんだ、最期に、会いたいんだ。」

 ナガサカはふむ、とつぶやいてまた何か考えている風だった。

「そうだな、一応小隊長に話を通してみよう。共に実験に参加したよしみ…だからな。」

 ナガサカはそう言うや、足早に司令部まで走っていった。

 彼が去ると、壕内には再び、静寂が満ちた。


 この壕には今ほんのわずかの兵士しかいない。ナガサカが去った以上、私を見張る兵士はいないはずだ。

 私の心に、消えかかっていた希望が今一度小さく燃え始めた。


 腹に刺さったナイフを引き抜くと熱い血が一筋流れた。立ち上がろうとすると眩暈(めまい)がする。

 だがへばっているわけにもいかない。

 私にはまだやらねばならぬ仕事があるのだ。


 私は一路「研究室」と兵士たちが呼んでいる部屋を目指した。

 この無間地獄に残された同胞達に、せめてものはなむけをくれてやらねばならない。

 …彼らを助け出さなくてはならない。



 パルチザンであった私が捕虜となったのは1943年のことであった。鉄道線を爆破しようとしたところ、妻もろとも日本軍に捕まったのだ。

 私を捕らえた部隊が、関東軍隷下凶悪な人体実験を行う、731部隊であったことは後に知った。軍産資源に劣る日本軍は化学兵器の実戦投入を目論み、その実験を行うため敵国、中国の無辜の民を被検体として使用していたのだ。


 初めはハルビンの「実験施設」に拘留され、凍傷実験に供されたが、私が日本語を流ちょうに話すことを知ると、軍は私を沖縄の「新施設」まで輸送した。


 私は不運であった。日本軍は私を人体実験に用いなかったのだ。

 中国語も日本語も話せる私はいい手駒だった。日本軍は人体実験を行う人員を必要としていたのだ。実験を助けている間は妻を犠牲にしないという約束で、私は私の同胞を殺した。

 ペスト菌を同郷の人間に投与し、ナガサカと共に無数の人々を死に至らしめた。

 イペリットガスで女子供も殺した。

 妻を助けるためだと言い聞かせてきた。でも、実は違う。私は生きたかっただけなのだ。

 そのことに、最期が近づいでようやく気が付いた。私は少しでも長く、生きながらえていたかったのだ。



 そうだ。私は罪を償わなくてはいけない。



 研究室の中にはくぐもった腐臭(ふしゅう)が立ち込めていた。同胞達の骸(むくろ)だ。中には私が殺したものもあった。


「マルタ」と呼ばれる実験用捕虜たちは地下壕の全容を知らない。逃げ出すのを防ぐためだった。でもこの場所は違う。多くの捕虜たちはこの場所で実験を受け、やがて死んでゆくのだ。多くの捕虜はこの場所を知っている。

 脱出の糸口をここに残せば、助かる同胞もいるだろう。


 研究室の奥のデスクから日記を引き出した。

 この地獄の底では何か書き留めていないと、ともすると精神が持たなくなるから、ここにきてよりずっとつけていたものだった。

 ナガサカは私を信用していた。私に専用のデスクまで持たせて共に「仕事」をしたのだ。

 私が最後の最後に反逆するなど思ってもみないだろう。

 日記帳を捲(めく)る。おそらくこれが最後の日記になるだろう。どうか、息子や妻が生きてここを出られますように。


 ペンを走らせている最中に気が付いた。冊子の裏に、うっすらと指の跡が付いている。ごく最近付けられたもののようだった。誰かがこの日記を開いたのだ。

 そして…私は最近、この日記を書いていなかった。


 ―ナガサカ…―


 遠くから足音が響いていた。

 まずい、勘づかれた。

 足音が迫ってくる。その足取りには一抹の迷いも無い。

 ナガサカだ、ナガサカは私がここにいることを知っているのだ。

 ―ちくしょう、いつの間に気が付いたのだ。―

 間に合ってくれ。

 脱出口は通気のために掘られた細い竪坑(たてこう)。それは島南部最大のガマの奥へ続いている。普段は鍵のかかった厚い鉄の扉にふさがれていたが、その扉を開けることさえできれば…。

 カレンダーを捲り、急いで鍵のありかを示す暗号を残した。

 これなら学のない同胞たちも気が付くはずだ。


 だめだ、時間がない。背後の足音はますます大きくなっていた。腹の傷が強く傷んだ。この傷ではあの竪坑を這い上るのは困難だろう。


 やはり、私が生き残るのは無理か。



「やはりね。

 振り返るとナガサカが立っていた。手には小銃を持っている。彼は銃床を持ち上げ、私の心臓に照準を合わせた。

「手を上げろ。」ナガサカが言った。言葉とは裏腹に、静かな声音だった。

「気が付いてたんだな。」

「ああ、随分前からな。」ナガサカは静かに笑った。

「言い残すことは?」

「ない。」

 ナガサカの後ろから、もっと沢山の足音が聞こえた。兵士たちだ。


「…いや。祖国の地をもう一度踏みたかったな。」


 鋭い銃声が響く。激痛と共に、私は自分の身体に穴が開いたのを感じた。

 弾丸は私の心臓を正確に貫いていた。


 遠のく意識の中でナガサカの声が響いた。

「被検体556号だ。こいつは俺が処分する。お前たちは部屋に入るな。」

 それが彼の示せた、最大限の情けなのだと、私は気づいた。


 私の最期の抵抗を、彼は守った。敵国人たる私の、最期の抵抗を。


 光が見える。

 からんと音がして、狭まってゆく視界の中、何かが跳ねた。

 懐中時計、だろうか。

 なぜこんなところに懐中時計があるのだろう。ナガサカの持ち物だっただろうか。

 私には何も分からない。


 でもランタンの薄い光を、その時計はあまりにきれいに反射したものだから。

 それは不思議と神聖に思われて、私は柄にもなくお祈りをした。


 お願いします。

 私の妻と息子が、どうか生きながらえますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る