木組みの街

絃亜宮はと

木組みの街

 “葛藤とは、衝突ではなく乖離である”——。ふと、随分前に何処かの国の学者がそう言っていたのを思い出した。或いは、これは真理なのかも知れない。初めてこの言葉を耳にした時こそ、その内に秘められた意味を汲み取ることが出来なかったが、今となっては幸か不幸か、それが痛い程に理解出来てしまう。

 私は弱い人間である。その証拠に、私は今もこうして大した名もない逃避行を続けている。在るべき私の姿に恋焦がれながら、然し決してそれには成れない怠惰な自分を無理やり信仰して、嘆く資格すら有していないのに、正善な風を装って理不尽に喚いている。彼のニーチェが危惧した愚かな人種に成り下がってしまった私にとって、徳倫理という鞭は充分過ぎる程に凶器なのである。故に心は、浅はかにも救いを求める。科学の恩恵を大いに享受していながら、都会の喧騒から放たれた途端に道徳だの美学だのに酔い痴れて保身に走るこの私をも、優しく抱いてくれる安寧を求めるのである。

 それにしても、この冗長で愚鈍な葛藤を経て辿り着こうとしている境地が、ある種の”逃避”を象徴する人物と縁の深い場所であるというのは、些か皮肉が過ぎるのではなかろうか。否、寧ろこれは必然的な結論であるとも取れる。歴とした表現者としての葛藤を乗り越えた末に大成した彼女の血が今も流れ続けている彼の街は、美しく顕現することを冀う幼き迷い人の眼に、非常に魅力的に映ったのだろう。

 そんな調子で垂々と下らない考え事を続けていると、私の脳は徐々に眠気に襲われてゆく。カタンコトンと身体に響く列車のリズムが心地良い。そういえば昨晩も、寝台に横になったは良いものの、結局は眠りに就くことなく、気が付いたら外から光が差していた。ここ最近の夜は自己嫌悪で忙しい所為で、真面に睡眠を取れた試しがない。けれども、永久の暗闇に包まれながら得体の知れない何かに怯える真夜中より、暖かい光に抱かれて何となく安堵を憶える朝の方がずっと、昏々と眠るには適しているのだ。そうして、止め処ない言い訳に流されている間にも、私の瞼は段々と重くなる。何処までが瞼裏の暗黒かも分からない儘、私は静かに微睡に溶けた。



 「……べたい!たべるの!」

 突如として、私の平穏な惰眠は可愛らしい怒号に因って崩壊した。電車の座席にて眠りから覚めた時に感じる特有の気怠さに顔を顰めながらも、目を擦りつつ声の主の方に焦点を合わせると、反対側のボックス席に座っている幼女が必死の形相で母親に抗議している様子が映った。

 「ごめんね。さっき落としちゃったので最後だったの。」

 「いやだ!あめちゃんたべるの!」

 ぎゃあぎゃあと甲高い声を上げて駄々を捏ねている彼女は、どうやら飴玉をご所望のようだ。というのも、母親が誤って落としたことで在庫が切れてしまったらしい。母親に悪意があった訳ではないだろうし、特急列車は揺れることが多いのだから仕方のないことのような気もするが、幼い身からすると理不尽極まりない不幸なのだろう。

 (はぁ……)

 私は心の中で小さく溜息を吐いた。選りにも選って、この私がこのタイミングでこの現場に邂逅することになろうとは。私もつくづく運が悪い。きっと今回も、自らの無力さを痛感した儘、持ち前の記憶力で何時までも不条理な失敗を引き摺ることになる筈だ。

 「だって…だって……うわぁぁぁぁん!」

 遂に、彼女の号哭が車内全体に響いた。鋭い叫声が私の胸に突き刺さる。これ以上は耐え難い、そう思った私は脚を組み替えて目を瞑った。すると、上になった左脚の大腿に違和感を憶えた。ジーンズのポケットに何か固いものが入っている。何だろうと思い手で探ってみると、透明なセロハンに包まれた乳白色の飴玉を発見した。それと同時に、私は救われたような気持ちになった。どうやら、この前友人から貰った飴玉をズボンに入れた儘にしていたらしい。最近のものだから、口に入れても問題ないだろう。そう思うや否や、私は席を立った。

 「あの、もし良ければどうぞ。」

 そう言って、私が彼女の母親に飴玉を差し出すと、途端に泣き声が止んだ。彼女はまじまじと私を見つめている。

 「え、あ!……良いんですか?」

 母親が目を丸くして尋ねた。

 「ええ、勿論。」

 「あ…有難う御座います。すみません、ご迷惑をお掛けしてしまって。……ほら、レイちゃん!お兄さんが飴ちゃんをくれたわよ。」

 彼女は瞼を腫らした儘、飴玉を受け取ると透かさず包装を解き、光沢のある白玉を口に放り込んだ。

 「こら!レイちゃん、お兄さんにお礼は?」

 彼女はハッと我に返ったかのようにして私の方を向くと、飴玉を含んだ小さい口で舌足らずに喋った。

 「ばにらあじ、おいしい!おにいさん、ありがとう!」

 「どう致しまして。」

 彼女の屈託のない笑顔を見届けてから、私は軽く会釈をして席に戻った。すっかり冷めてしまったカップコーヒーの残りを飲み干すと、その瞬間、言葉では言い表せない程の充実感に包まれた。私の心に残ったのは、同情を装った優越感でもなければ贈与の後の罪悪感でもない、只々満たされた気持ちだけだった。

 徐に頬杖を突いて窓の外を眺めると、辺り一面に田園の風景が広がっていた。太陽の光に照らされた金色の小麦の穂が、一斉に風に靡いてきらきらと輝いている。前方へ目を遣ると、茶色や紺色の屋根が密集している部分が小さく見えた。それは即ち、この当てもない慰安旅行の目的地が近づいていることを意味していた。



 「木組みの家と石畳の街」という愛称で親しまれているこの街は、その名の通り、メルヘンチックで美しい街並みと田舎ならではの穏やかな雰囲気が魅力的な名所である。実際にこの地に足を踏み入れたのは今回が初めてだが、前に読んだ雑誌ではそう紹介されていた。都心の大きな駅から高速鉄道と特急列車を乗り継いで3時間弱、日帰りの旅行には持って来いの観光地。一部の小説好きの間では、”死ぬまでに一度は行きたい聖地”としても名が高い。ぴょんぴょんと弾む心の高鳴りを感じながら、私は足を踏み締めるようにして駅の階段を降りた。

 「わぁ…!」

 外に出た瞬間、私は思わず感嘆の声を漏らした。足元から街へと繋がる石畳の道に、色彩豊かな木組みの家々。ふわりと優しい風が立ち、私の髪を翻す。俄かに目の前に広がった明るい情景は比類ない程にカラフルで、まるで幻想の世界へと入り込んだかのようだった。

 ふと、時間を確認しようと左手首に目を向けるも、そこに目的の代物はなかった。一瞬、血の気が引いたような危機感に襲われたが、それは直ぐに安堵に変わった。そういえば、そうだった。普段はチクタクと煩く騒いでいる金属製の手錠は、今日に限っては私を拘束しない。それどころか、ギラギラと眩い青光を発する重い板すらも、今日の私に付き纏うことは出来ない。私がトートバックに入れて持って来たのは、お気に入りの万年筆とスケッチブック、それから小さめの財布だけ。旅をするにしては少な過ぎるとも言える所有物だが、今この場所に、私を現実に縛り付ける悪徒は存在しないのだ。折角、貴重な時間を使って有名な観光地に赴いたのだから、出来る限り効率的に見て回りたいと考えていたのを思い出したが、それでは本末転倒だから、また別の機会にしよう。結局、今が何時かも分からない儘、やや東寄りの空で煌めいている太陽を頼りに、暢んびりと街を散歩することにした。



 噂に聞いていた木組みの街の風景は、想像していたより何倍も美しかった。街並みの中心には大きな水路が流れており、その両側にパステルカラーで彩られた趣深い木組みの家が延々と連なっている。窓にウィンドウボックスが掛けられている家が多く、街全体が色取り取りの花の匂いで包まれている。どうやら水路沿いの建物の殆どはお店のようだ。どの家にも印象的な看板が吊り下げられており、中には店先に白いパラソルが並んでいる爽やかなカフェもある。前に読んだ雑誌に拠ると、昔この街ではお店の種類が一目で分かるように、職業別に家の色が決まっていたらしい。黄色、水色、ピンクと様々な淡い灯りに癒されながら、高台の方に見える教会らしき尖塔を目指して石畳の道を上ると、偶に水路を下って来る小舟と擦れ違う。その度に街の子供達は元気良く手を振り、船頭は笑顔で応じてくれた。

 何となく小道へ逸れてみると、水路の通りの賑わいとは打って変わって清閑な雰囲気が漂っていた。日陰の多い路地であるものの、決して暗くはない落ち着いた感じ。それに浸っているかのように、端の方で野生の兎が昼寝をしている。そういえば、この街は至る所に野生の兎が生息していることでも有名らしい。確か、街のマスコットキャラクターも兎を模したものだったような気がする。

 細長い小道を抜けると、急に開けた場所に出た。大通りの真ん中には、色鮮やかな野菜や果物、花などが一面に並んで売られている他、タルトやクレープを中心にスイーツの屋台も多く展開されている。私が都会に住んでいるのが原因なのかも知れないが、これ程までに活気に溢れている市場は見たことがなかった。

 景気の良い市場の奥を進んでゆくと、段々と店の佇まいが変化しているのが分かる。公園の近くまで来ると辺りはすっかり露店のみになり、少し古びた食器や家具、衣服などが数多く並べられている。これを狙って来た訳ではないのだが、嬉しいことに今日は古物市が開催されているらしい。不思議な模様の壺、無駄にビビッドな色をしたドアノブに、眼帯を付けた兎のぬいぐるみ。売られているものはどれも私の感性を刺激する物ばかりで、目を輝かせながら品物を眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてゆく気がした。それに、こういった行事には、えも言われぬロマンがある。掘り出し物に出会うことが出来るかも知れないという淡い期待を胸に、私は古物市を観覧し始めた。



 アンティークの陶器とカトラリーが並んでいる露店で商品を物色していると、ふと、可愛らしいティーカップと目が合った。宛ら天使の羽のように白く、滑らかなフォルムをした彼女の縁にはココアブラウンの線があしらわれていて、お腹の部分に横を向いた兎の画が小さく描かれている。洗練されたシンプルなデザインが何とも美しい。カールスバードやヘレンドなどが大好きな母親の影響で、ヴィンテージの陶器に目がない私だが、こんなにも心を打たれたのは初めてだった。成程、一目惚れとはこのことを言うのだろう。優しくカップを手に取り裏側を覗くと、驚くべきことにロイヤルコペンハーゲンの紋章が刻印されていた。マークからすると、1951年頃の作品だと推測出来る。青い草花の絵柄の印象が強いロイコペで、こうした素朴な優美さを体現したような作品があるとは思いもしなかった。これぞ正に、私が漠然と求めていた掘り出し物だと言える。

 問題は値段の方だった。幾ら中古であるとは言え、これだけ貴重な陶器が安い筈がない。然し、何故かこの露店ではどの商品にも値札が付いていなかった。ゆっくりとカップをソーサーに戻してから腕を組むと、急に不安が胸に押し寄せて来る。客に購入の意思表示をさせてから、途轍もなく高額の言値で買わされるという詐欺的な手口だろうか。だが、どんなに狡猾な商売だったとしても、決してこのティーカップを諦めたくなかった。

 「すみません、あの……この子のお値段をお伺いしても宜しいですか…?」

 カップを指差して、店主と思われるダンディーなお爺さんに恐る恐る尋ねた。すると、彼はいきなり高笑いして言った。

 「はっはっは!さっきから見てればお前さん、そのカップをじぃーっと睨んでは表情をころころ変えやがる!そんなに気に入ったんなら、いっそ持ってってくれ!」

 余りにも突然の出来事に、私は狐に摘まれたように呆然とした。

 「え……え、頂いてしまって、宜しいんですか!?」

 「ああ、勿論さ。何ならこっちのカトラリーも付けてやるよ!」

 彼はにこりと笑って、端に並べられていた高価そうなナイフとフォークを手に取った。

 「あ、え……本当に良いんですか?」

 再度確認をしようと尋ねると、彼は今度は少し悲しそうな顔をして言った。

 「最近の若いもんはどうも、こういうのに興味がないみたいでね。お前さんみたいな価値の分かる人間に貰って欲しいんだよ。……ほら、俺の気が変わる前に持ってけ持ってけ!」

 彼は手際良くティーカップとカトラリーを包装し、丁寧に紙袋に入れて渡してくれた。

 「有難う御座います!……本当に有難う御座います!」

 私は喜びで胸が一杯になり、受け取った紙袋をぎゅっと抱えた儘、何度もお礼を言いながら露店を去った。

 古物市の出口へと歩きながら、私はたった今起こった刹那の出来事を振り返っていた。それにしても、まさかこんな展開になろうとは。人生に於いて二度とないであろう奇跡の余韻と幸福感に浸りつつ、それと同時に、まるで嵐のようだった彼に申し訳ない気持ちが込み上げてきた。彼は見ず知らずの私に、こんなに大切なものを譲ってくれたのに、私は彼のことを知りもしないで、勝手に詐欺師の類だと訝しんでしまった。やはり、少しでもお金を支払った方が良かったのだろうか。私には既に、直接的に罪を償う術は残されていない。せめて、彼から譲り受けたこの子を精一杯に愛で、大切に使うことが贖いになると信じることにしよう。



 この街は優しいな、と思った。景色も風も匂いも人も、その全てが私を赦してくれて、受け入れてくれる。悠然と流れる街の色は、虚ろになってしまった私の目には非常に鮮やかなものとして映った。然し、その鮮明さは決して身体に悪いものではなく、寧ろ健康的な光であった。そのお陰か、閉じ切っていた私の瞳孔は徐々に開きつつある。失明の一歩手前だった私の眼は、今や快方に向かっているのである。そんなことを考えながら、私はもぐもぐとクロワッサンを頬張っていた。

 古物市を後にした私は、再び街の中心部を彷徨うことにしたのだが、歩いている最中に何処からともなく漂ってきた香ばしい小麦の匂いに釣られたのか、急に腹の虫が鳴いた。そういえば昼どころか、朝食すらも食べていなかったな、とそこそこ重要なことを思い出し、折角なので食欲を唆る良い匂いを追って辿り着いたパン屋で昼食を購入することにした。何となくでプレーンのクロワッサンとブルーマウンテンを注文し、次いでに近くでピクニックをすることの出来る場所がないか尋ねた。すると店員は皆、口を揃えて「郊外の森林公園」と言うので、多少遠かったものの、パンとコーヒーとティーカップを抱えて、森林公園にある大きな湖の畔までやって来たのである。

 大きな木陰で、クロワッサンと本日二杯目のコーヒーを平らげると、私は足を投げ出して木の幹に凭れ掛かった。ひゅうと涼しい風が吹き、ふわふわした芝生の絨毯が靡くと同時に新緑が騒めく。不規則に揺れる木漏れ日が眩しい。

 もう何も考えたくないな、と思った。長たらしい考え事をしてしまうのは私の悪い癖だが、一方でそれが私を規定するアイデンティティでもある。もし考えるのを止めて仕舞えば、きっと私が私でなくなってしまうだろう。そんな漠然とした不安を負っても尚、今だけは自分という観念から離脱して、只々この優しい自然に委ねていたい。いっそのこと、このまま溶けてしまいたいと思った。

 どれくらい時間が経ったのだろう。ぼんやりと湖の風景を見つめていると、何を思ったのか、近くにいた少年が心配そうな顔をして私のことを覗き込んできた。

 「お兄さん大丈夫?何してるの?」

 確かに、長時間ずっと同じ体勢で木に寄り掛かっていて、目を開けた儘でぴくりとも動かない男性がいたら、誰だって不思議に思うだろう。好奇心に因るものなのだろうが、声を掛けてくる辺りから子供の無邪気さを実感する。

 「ちょっとだけ、休んでいるんだよ。」

 落ち着いた声で、言い聞かせるように喋った。

 「ちょっとだけ?お兄さん、さっきからずっと動いてないじゃん。」

 痛い所を突かれてしまったな、と思い苦笑した。

 「きっと君も、もう少し大きくなったら分かるようになると思うよ。」

 我ながら、余りの上から目線に嫌気が指す。

 「分かるって、何が?……どういうこと?」

 「んー、そうだね。こういう何でもない時間が、どれだけ大切かってことかな。」

 結局、彼は訳が分からないといった顔をして去ってしまった。公園に不審者がいるといって通報されないことを祈るばかりだ。

 よいしょ、と幾らか軽くなった身体を起こし、もう一度、目の前に広がる湖の景色を眺める。明るい緑で埋め尽くされた森が、湖の水面に映し出されて幻想的な情景を生み出している。二つの世界が溶けて融合したかのようなこの神秘に溢れた景色は、私をも癒してくれて、そして私をも映してくれている。私は徐に万年筆とスケッチブックを取り出すと、慣れない手付きで風景を写生し始めた。



 街の大通りへ戻ってくると、制服を身に纏った学生を頻繁に見掛けるようになった。私も然り、この時期はどの地域でも学校が休みになる筈だが、休暇中も部活動などがあるのだろうか。兎も角、学生の皆が下校しているということは、今は大凡おやつを食べるべき時間帯であるということに違いない。散歩を再開しつつ、一息吐くことの出来る喫茶店を探すことにした。

 水路の通りにある雑貨屋の角を左に曲がって小道に入り、突き当たりの古本屋を右に進むと、Y字路の分岐点に小ぢんまりとした喫茶店があるのを見つけた。勾配が急な茶色い屋根に、アイボリーホワイトの壁が特徴的なこの家の入り口には、コーヒーを飲もうとしている兎が描かれた看板が吊るされており、ドアの直ぐ横にはメニューボードが立てられている。窓からこっそり中を覗いた所、喫茶店とは思えない程に閑散としていて空いていたので、入ってみることにした。

 ギィと重たい木製の扉が開く音を響かせて中に入ると、途端にコーヒーの香りが胸に広がった。クラシックな焦茶色を基調とした古き良きといった感じの店内に一人、カウンターに立つ白髪の少女が目に留まる。どうやら彼女は焙煎士のようだ。暗めに統一された店内装飾に、彼女の白く光沢のある髪の毛が良く映える。

 「いらっしゃいませ。」

 彼女は私の方に目を向けると、表情を変えずに微かな声で歓迎の言葉を放った。成程、かなり大人しい子のようだ。私以外の客がいなかったので良いかなと思い、窓際のテーブル席に向かった。然し、椅子に腰掛けようと体を預けると、何と突然メキメキと鈍い音を立てて崩れ落ちた。

 「うおぁうっ!」

 私は咄嗟に対応することが出来ず、歪な悲鳴を上げながら思い切り尻餅をついてしまった。

 「だ、大丈夫ですかっ!」

 彼女は先程より遥かに大きな声で叫び、私に駆け寄った。

 「痛てて……いえ、私は何ともないです。それにしても良い椅子ですね…お店の歴史を身体で感じました…。」

 言い切ってから後悔した。少しでも場を明るくしようと冗談で言ったのだが、彼女からしたら皮肉に聞こえてしまったかも知れない。

 「あ、御免なさい。今のは......」

 誤解を解こうと話しかけるも、彼女に遮られてしまった。

 「ご、御免なさい!本当にすみません、この店は私で4代目なのですが、かなり老朽化が進んでいて...!」

 「いえいえ!こちらこそ失礼致しました。別に貴女を責める意図はなかったのです。それに椅子を壊してしまったのは私ですから…。」

 弁解したのは良いものの、彼女は何度も謝罪を繰り返し、急いで崩れた椅子の残骸を回収した上で新しい椅子を持って来てくれた。

 「色々とすみません。えっとそれで、ご注文は…?」

 全てが片付くと、彼女はまた弱々しい声で注文を尋ねてきた。

 「では、オリジナルブレンドとミルクレープを一つずつお願いします。」

 注文は既に決まっていた。メニューを一通り見てはみたが、カウンターの後ろの棚に並べられているコーヒー豆の種類の多さを考えると、きっとブレンドに拘りがあるに違いない。彼女は畏まりました、と言ってカウンターに戻った。

 それにしても、この喫茶店は驚く程に静まり返っている。朝に散歩した市場の活気とは対極に位置する隠れ家のような佇まいをしているこの場所は、その大人びた雰囲気で私を包んでくれているようだった。彼女が焙煎を始めると、コーヒー独特の安心する匂いが強まった。店の静けさとコーヒーの香りで、まるで酔っているかのような感覚に陥ってしまいそうになる。

 「お待たせ致しました。オリジナルブレンドとミルクレープです。」

 彼女が慣れた手付きでお盆を運んで来ると、さらにコーヒーの香ばしさが増した。受け取ったコーヒーの薫香を楽しみながら、控えめの声で彼女に尋ねた。

 「先程4代目と仰っていましたけど、一人でここを切り盛りされてるんですか?まだ若いでしょうに。」

 何様だよ、と突っ込まれても何も言い返せないような訊き方をしてしまった。これも、酔っている所為なのだろうか。

 「いえ、バイトの子達がいます。今日はまだ来ていませんが…お茶目さんなので、きっと何処かに寄り道でもしているんでしょう。」

 そう言った彼女の顔は、自然と綻んでいた。

 「とても、大切な方々なんですね。」

 確認するように言うと、彼女はお盆で口元を隠して恥ずかしそうに頷いた。

 本日三杯目のコーヒーは、深い苦味の中に光のように差し込む甘酸っぱい味わいが印象に残った。



 喫茶店を出た頃には、既に日が傾き始めていた。空が完全に青くなって仕舞えば、私は私の在るべき場所に帰らなければならない。残された猶予を少しでも長くしようと、私は縋り付く思いで西に向かって歩いた。

 暫く歩いていると、中心に立派な噴水のある円形の広場に辿り着いた。動物にとっては非常に落ち着く場所なのだろうか、ここには沢山の野良兎が群がっている。ザァザァと噴き出す水の音を聴きながら、私は広場のベンチに腰を掛けた。

 「はぁ〜っ。」

 私は敢えて大袈裟に溜息を吐いた。今日は長いようで短く、短いようで長い一日だった。何をしたか振り返ってみようにも、街と郊外とを移動しただけで特に大したことはしていないし、旅行のお土産といえば譲って貰ったティーカップくらいしかない。それでも、私はとても楽しかった。楽しいと言うと語弊があるかも知れない。これは、必ずしも楽しいという感情ではない。きっと側から見たら、行き当たりばったりで薄っぺらい怠惰な人間の愚行録のように映るのだろうが、少なくとも、旅を終えようとしている私の視力はほぼ完治している。その証拠に、今の私には、あの真っ赤に染まった美しい夕日がゆっくりと沈んでいく様子が明瞭に見えている。

 いつの間にか、一匹の野良兎が足元にやって来て、もふもふとした体を私の脚に擦り付けていた。

 「君も僕のことを慰めてくれるのかい?」

 私は兎をひょいと抱き上げ、太腿に乗せて優しく撫で始めた。兎の体毛は柔らかくて、ふわふわしていて、その一方で、体温で溶けてしまうのではないかと思う程に繊細だった。

 「成程、君もこうして癒されに来ているんだね。」

 返答はない。兎は無口だった。

 「もし君と僕が同じ存在なのだとしたら、僕は君みたいに多くの人から愛されるものになりたいけどね。」

 そう言った瞬間、兎にキッと睨み付けられた気がした。恐らく、お互い様だぞと言いたいのだろう。

 嘗て完全な円であった筈の夕日は、最早その殆どが地平線に飲み込まれ、地上に残された小さな赤い欠片が細く儚い光を放っている。私にはそれが悲痛な叫びに聞こえて、夕日を掴もうとしてぐっと手を伸ばした。けれども、そんな努力も虚しく、夕日は為す術もなく別の世界へと引き摺り込まれていった。

 ポツポツと、広場の電灯が点り始めた。嗚呼、遂に夜が始まってしまう。こんなにも暗い世界で生きていたら、折角回復した目がまた悪くなってしまうのではなかろうか。そういえば、兎は人間と違って光に対する感度が相当に高いと耳にしたことがある。

 「君達は暗闇の中でも、きっと少しの光を見つけて生きてゆけるのだね。」

 そう言って、私は兎の頭をわしゃわしゃと撫でた。兎は目を細めて気持ち良さそうにしていたが、急に私の膝から飛び出して、仲間達が群れている方に向かって走って行った。軽く微笑んで兎を見送ると、暗がりのベンチには虚脱感を憶えた私という存在だけが残された。

 「いっそのこと、兎になってしまいたいなぁ。」

 私はそう小さく呟くと、徐に立ち上がり、駅を目指して歩き出した。

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