匣の蜘蛛が死んだ

固定標識

匣の蜘蛛が死んだ

 長いこと部屋の天井に張り付いていた、一匹の蜘蛛が化石となって死に絶えた。

 彼はもう一月ほど私の同居人であって、彼が死することは即ち私の部屋から一つ命が消えたことと同義であった。

 茣蓙を巻き付けて枕にし、頃にそぐわぬ毛布に寝転がると、彼は何時だってそこにいた。天井から私を見下していた。

 だから私は、彼がいつ顔に落ちてくるのか気が気ではなかったし、その存在を疎ましいとも思っていた。けれども手で払うようなことは、最期までしなかった。

 怠惰が七つの罪の一つだと言うならば、私は罪人のカンダタであり、此処は地獄と言って相違ない。けれども彼は糸を降ろさなかった。こんな部屋には私と彼しかいなかったから、もし仮に彼が、彗とその細糸を降ろしてさえくれれば、私は極楽まで登ることが

 出来たとは思わない。何せ背負う罪が怠惰なのだから。

 私は常に、彼に見下されていた。救う価値すら持ちはしない、有象無象と嗤われた。

 ──しかし今になって思うのは、こんな小さな匣の中で縦横無尽であった彼にとって、天も地もありはしなかったのではないかという一つの至極当然な結論である。

 実際彼は死んだのだ。

 命として一つ、この匣の中で息をしていたのだ。

 世界には救う者と救われる者しかいなかった。そして私はてっきり、自分は救われる者であって、彼を救う者だと思い込んでいたが、どうにもそれは違ったらしい。

 私が仏の御手のように彼に手を伸ばし、窓の外へと放り投げて遣っていたならば、彼はもっと長生きをしたかもしれない。そうすれば私は救う者で、彼は救われる者だった。そして私は、そんな事実に救われるのである。

 私は窓を破って外に視線を放り投げた。

 雨が降っていた。

 すん、と鼻が鳴った。




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