ポータブル異次元

梶田向省

ポータブル異次元

 最初に気づいたのは、妻だった。たまたま家族全員が家に揃っていた日曜の昼、「うぎゃあああ」と尋常ではない叫びが響いたので、皆が居間に集まる形となった。

 「何だよ、騒がしいな」と文句を言いつつ降りてきた息子が、絶句する。仕事を中断して様子を見に来た私も、状況を飲み込んで思わず言葉を失った。

 ゴミ箱が倒れ、中のゴミが散乱している。そして、ゴミ箱があった場所に、得体のしれない何かが鎮座している。

 強いて言うなら「穴」だった。ちょうどゴミ箱の底面にすっぽり収まるくらい、直径20センチほどの闇が口を開けている。文字通り漆黒の闇で、何も見えない。

「何なんだ、これは」

 人が入れる大きさではない。どう見ても、穴と床のはっきりした境界線が存在しないのと、目をこらせば生き物のごとくわずかに揺れているのを見るに、まず人類が経験したことのない現象であるのは間違いない。

「最近全然ゴミが出なかったの。もう2週間くらい経ってたからおかしいなと思って。のぞいたら空っぽで、どかしたらこれが……」

 腰を抜かしていた妻は、立ち上がりながらとめどなく語る。あんなに驚いていたのに、やけに冷静な状況説明だ。

 大学生のはずの息子は、「なんかおもろそう」と、まるで知性の感じられない発言をする。

「ねえ、パパ、これ、どうすればいい」

 痺れを切らした妻が叫ぶが、私に判断を仰がれても分からない。

「とりあえず、距離置いとけ。……泰輔!離れなさい。――電話をした方がいいんじゃないか?」

「どこに? 警察?」

 妻に問われて、言葉に詰まる。その通り、どこに電話をするというのだろう。警察? 病院もおかしい。まさか消防署でもないだろう。

「――市役所とか」

「取り合ってくれると思う?」

 打つ手がなくなり、居間は異様な雰囲気に包まれた。息子の泰輔だけが、軽い足取りで、居間を出ていった。数分経って、何かを片手に、戻ってくる。どうやら、トイレットペーパーの芯をいくつもつなげたものらしい。

 そして、私が止める暇もなく、実に自然な動きで、「穴」に近づいて、その、筒を差し込んだ。

「おい! 危ないと、言っているだろう」

「けれどさ、できるだけのことを調べておくのは、役に立つじゃないか」

 こう、筋の通ったことを言われると何も言い返せないのが私の弱いところである。

 泰輔は緊張した面持ちで「よし!」と、自らを鼓舞するかのように声を上げ、頬を張り、脈絡もなく、筒の先端に目を当てた。

「おい! いい加減にしろ! 目がつぶれたりしたらどうするんだ」

 「穴」の中をのぞこうという魂胆だったらしい。あまりに突然だったので反応が遅れたが、肝が冷える。

「……異次元だ」

 何が見えたのか声を震わせ、まぶたを閉じたかと思うと、おもむろに腕を「穴」に入れる。私は思わず声を上げた。

「泰輔! 本当に死ぬぞ!」

「いや、違うんだ。ちょっと見てみて」

 私は不可解な思いで筒を受け取り、恐る恐る目を当てて「穴」の奥をのぞく。途端に、信じられない景色が見えて、息を呑む。

 自然が広がっていた。森――もしくは林のようなところで、木が密集している。特筆すべきはその幹の色で、光り輝く金色だったり、澄んだ水色だったり、明らかに金属と思われる質感をしているものもあった。しかし不思議と、柔らかな太陽光(とは言い切れないが)によって、暖かで心安らぐ空間が出来上がっている。

 私が顔を上げるのを待って、泰輔が興奮気味にまくしたてる。唾が少し飛ぶ。

「ね? これは、ワープゲートみたいなものなんだよ! だから、手が粉砕されるようなことは起きないと思う、多分」

 私と息子は、それから何時間もの間、異次元に魅入られていた。色々実験的に試して、わかったことがあった。ゲートから水を注ぐと、どういった化学反応なのか知る由もないが、向こうの異次元で、むわあっと靄が立ち、水蒸気がキラキラと光って非常に神秘的なのだ。そんな情景に夢中になっているうちに、気づけば夜だった。

「なんかさ、ちっちゃくて、ポータブルって感じがするね」

 泰輔が、そんな事を言った。

「持ち運びができないんだから、ポータブルではないだろう」

「いいんだよ。大事なのは、言葉の響き。ポータブル異次元」


 なんとなく、一晩で消えてしまいそうな、そんな儚さがあったが、杞憂に過ぎず、朝を迎えてもポータブルな異次元はそのままだった。とりあえず安全である見込みが高いという結論に達する。

 害がないとわかり妻も不満はないようで、ポータブル異次元は驚くべき速度で我が家の日常に溶け込んでいった。

 異次元にも季節があるのだろうか、幹の色がゆるやかに変化する。しかもそれは、一週間にも満たないような短い周期だったので、いつまで眺めていても飽きなかった。

 私は、子供の頃、クリスマスにもらったスノードームを思い出した。美しき小宇宙は、私の幼い感性を最大限にくすぐり、いつも眺めていた覚えがある。あの感覚に似ている。自分だけの庭。

 トイレットペーパーの芯はあまりにも貧しい印象がするので、望遠鏡のようなものも購入した。レンズには度が入ってないので、構造としては筒に違いないが、大航海時代を思わせるような重厚なアンティーク調のデザインをしていて、私たち家族は、気に入って使っていた。

 心が疲れたら、異次元に意識を飛ばす。無意識に、そこに癒やしを求めている。

 私たちの生活は、いつしか異次元と共にあった。


 したがって、あの男を家に招いたことは、後々私の胸をさいなみ、自責の念を駆り立てることになった。

 彼はかくいう私の弟であった。私を含む世間は、彼を、傲慢で、不遜な男というような共通認識を抱いていた。少なくとも私はそう感じていた。

 その日も弟は、図々しくも、金の無心に来たのだった。遠回しに、金を貸すことはできない、帰ってくれ、の意を伝えようと私が苦心しているのを知ってか知らずか、彼は居座り続け、コーヒーを何杯も飲み干していた。

 ちょうど彼が、三杯目のコーヒーに口をつけた瞬間だった。私の脳裏に、一瞬にして焼き付いた、悪夢の瞬間とも言えよう。

 弟が、異次元の入口に、気づいてしまった。

 普段、来客があるときには、カモフラージュでゴミ箱を置いて、その存在を悟られないようにしてあったが、不幸にもその日は、その細工をするのを誰もが忘れていた。弟の来訪が、予告もない、出し抜けなものだったということもある。

「おい、あれは何だよ。びっくりしたなあ」

 彼は、断りもなく、スリッパを鳴らして穴に近づいた。

「いったい何なんだ? これは。作り物でもなさそうだけど」

 私たちは、経緯を説明するしかなかった。他の選択肢でも残されていれば、まだ違ったのかもしれない。

「こりゃあ、兄貴、凄えことだぜ。もっと実感を持ったほうがいい」

 弟は、いやに興奮していた。どこか、泰輔の高揚とは別の種類のものだった。もっと、下卑た好奇心だ。

 私は、さっさと立ち去ってもらいたくて、結局いくらかの金を貸す羽目になったのだが、どうやら見立ては甘かったようだ。

 数日後に、黒塗りの車が何台も家の前に停まって、一様に同じ背広をまとった男達が、チャイムを鳴らした。

「弟さんから連絡をいただきました。こちらの家に、何やら異次元につながる? 未知のゲートがあると聞きまして。我々も仕事でしてね。一応、確認だけさせてもらえばと」

 彼らは、主に政府の人間だった。市役所の職員も居心地が悪そうに混じっている。まさか、公務員が本当に真面目に取り合うとは。

 私はごまかしを試みたが、彼らもよほど確信があるから来ているらしく、頑としてその場を譲ろうとはしなかったので、従うほかなかった。

「では、一旦家を離れていただけますか? 申し訳ないのですが、ここで行われる調査は、原則極秘となりますので」

 私は久々にカッとなって、感情のままに憤慨していた。

「どうしてあなた方にそんな権利があるんですか? ここは、私の家です」

 代表の男は、鋭い眼光でこちらを見据える。

「市民の皆様の、安全を守るためです。未確認の物体が、危険を及ぼす可能性は大いにありますから」

 妻が袖を引く。私は無力感に呆然とした。

「……荷物の支度をしなさい」


 調査とやらは、常識外の迷惑を私たちにふっかけ、2日間以上も続いた。私たちは、義母の家に厄介になり、その間に、私は弟に電話で絶交を告げた。

 2日後の昼前に、政府の人間が、義母の家まで車で迎えに来た。

「いやあ、申し訳ありませんでした。とりあえず、事前調査は終了です。早急な対応が求められる危険性はないとの判断に至りました。また来月あたりにお邪魔させていただくかもしれませんが、その際は数時間の確認で済みそうです。ご迷惑をおかけしますね」

 軽薄な調子で担当者が語る車内に、応じる者はおらず、車は静かに走った。家に着くと、何人もの関係者が、大型の機械や何かを入れていたケージを車に積み込んで撤収するところだった。

 家に入ると、室内は特に何か手が加えられた様子もなく、変化があるとすれば、例のポータブル異次元だけだった。

 心なしか、一回り小さくなっているような気がする。

 すぐに泰輔が駆け寄り、中をのぞく。しばらくして、動揺を隠せない様子で起き上がり、脱力してその場に座り込む。いったい、異次元に何が起きたというのか。

 泰輔の手から筒を奪い、のぞきこんだ。すぐに、見なければよかったと後悔した。

 森が燃えている。土壌が腐り、ネズミの死骸と思しきおぞましいものが、いくつも散乱している。これ以上語る必要もなかった。


 次の日、ポータブル異次元は、消えていた。元から存在しなかったかのように、そこに何かがあったという痕跡は跡形もない。

 昨日の時点から、そんな気はしていた。異次元は、私たちの元から、去ってしまうのではないかと。だから誰の目にも驚きはなかったが、深い、悲痛の色だけが全員の顔に現れていた。

 私たちは、暗く重い朝食を、やっとのことで終えた。

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