子どもの王国

高橋湊

第1話

 八重は、小さな小舟に揺られていた。漕ぎ手と八重の二人だけの空間に、櫂が水をかき分ける音だけが響く。


 まだまだ陸に付き添うにもない。目の前を見れば、あと三十分は絶対にかかるだろう、というほど陸は離れている。


 八重は あの陸が何なのか? この舟になぜ自分が乗っているのか? その全てがわからない。


 だけど、なんとなく不安にはならなかった。


 だが、もし不満があるのだったら陸に着くまでが暇だと言うことだろう。


 八重はしばし悩むと漕ぎ手に


「ちょっと話を聞いてもらっていいですか?」


と遠慮気味に話しかけた。漕ぎ手は「はい……」と感情が乗らない声で了承する。


 八重は、断られなかったことに安堵すると、目を閉じた。規則正しい水の流れる音を聞いていると、八重は過去の記憶が少しずつ蘇ってくる。


 透き通った水のように鮮明に、途切れることなく過去の記憶が流れ出す。八重はフッと息を吐いて、記憶の流れに身を任せた。



 八重には、赤ん坊くらいからの幼馴染がいた。その男の子はカンちゃんという名前で、太陽のように明るく、活発な男の子だった。


 一方の八重は、「外で活発に遊ぶこと」よりも「部屋で沢山の本を読むこと」のほうが好きだった。


 だから最初生まれてから二人は合わされていたのだが、性格の違いから母親たちはこどもたちを会わせることをやめていった。


 二人が小学校に入ると、同じクラスになった。もちろん、二人が関わることはない。


 カンちゃんが鬼ごっこに誘われて意気揚々と廊下を走るとき、八重は教室の机で本を読んでいた。本をペラペラとめくって物語を夢中で読み耽る。


 二人はお互いのことなど考えずに、夢中になって自分の世界で遊んだ。


カンちゃんが「ドッジボールのヒーロー」なら、八重は「捕らえられたお姫様を助ける騎士」。


 二人は同じ刻に、違う世界で生きていた。


 ただそんな二人が会うこともあった。八重の席は一番窓側でカンちゃんの笑い声が届くことが有った。


 八重はシャボン玉が弾けるように「ただの八重」になってしまう。まるで物語の川が急に干からびて取り残されたようだった。


 八重は眉毛を寄せて、校庭を睨めつける。すると、待ち構えていたように、カンちゃんが八重にブンブンと手を振った。


 面くらいながら八重は、誰もみてませんようにと願いながら手を小さく振る。


 八重は、そのあと少し嬉しそうに自分の世界に戻るのだった。


 それからどのくらい経った後だろう、八重が家で本をペラペラとめくっているとブルルルル……と電話の音が聞こえた。


 お母さんは出ないのかな? と不思議におもって考える。そして、子どもだけど私が出てあげたほうがいいよね? と重い腰を上げた。


「ピーターパンと空を飛んでたのに……」


 唇を突き出して、八重は自室の扉を開ける。キィ……と木が、軋んで顔をしかめる。そして、自室から一歩出た後、うるさい着信音が止まった。


 気になって扉からそっと覗くと、母親が電話を手に取っていた。なんだ……居たんだ……。自室に戻ろうとしたときに母親の


「はい、八重の母ですが……」


と遠慮がちな声が聞こえた。先生だ……! 良くないと思いながら八重は好奇心を抑えられずに、お母さんの様子をじっと伺う。


 何を話しているのか、八重には聞こえない。しかし母親の顔は、話しているとだんだん元気がなくなっていった。


「えっ……あの子、友達いないんですか……?」


 母親の声が廊下に響いた。八重の心臓がドクリと跳ねる。


 あまり自分が気にしないようにしようとしていたことだからだ。


 自室に戻れと、脳が警鐘を鳴らす、耳を防ぎたい衝動がする。しかし八重の体は、なにも動かなかった。


 八重は、ジッと母親を伺った。小さな頃から母親は八重がたくさん本を読めば、たくさん褒めてくれた。


 しかし母親の顔は、明らかに暗くなっていく。


「ずっと、窓際で本を読んでる……。周りに目も向けずに……」


 母親は、声とともに体が小さくなっていった。最後には、電話口の先生に、ペコペコと頭を下げて。


 八重はそれを見て約束を破られたような、裏切られたように感じた。胸の中で色々なものがグチャグチャと混じり合う。


 八重は自分が誰かわからなくなっていく気がした。フワフワとした体と対照的に、胸はドンヨリと重くなる。


 八重は力の入らない体を、なんとか動かして自室に戻る。ただ一歩下がればいいだけだ。


 八重は昔、壊れかけて必死になって図工室にたどり着いたのを思い出した。なんとか壊れる前に図工室の扉に着いたときのように後は扉だけだ。


 八重は、力の入らない手で扉を閉める。八重はもう片方の手で目を擦った。大丈夫、まだ濡れてない。自身にそっと語りかける。


 体の力が抜けきった――扉が閉まる直前、母親の陰鬱な声が聞こえた。


「ウチのコもカンタくんみたいだったら……」



――グニャリ、と何かが壊れる音がした。


八重はあっ……と声をこぼした。あの時と同じだ。


 図工室の扉を開こうとしたとき、図工室の扉が勢いよく開いた。そして、出てきたカンちゃんの勢いに吹き飛ばされて、八重は地面に手をついた。


 目の前で、頑張って作った粘土の子達が倒れていた。あんなに楽しそうな笑顔だったのに……。


 八重はそのときも、あっ……と声をこぼした。


 



 


 

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