先生の好きな人

 それから二週間後、レッスンの日。いつもなら私の準備が終わると「はい。じゃあ、始めようか」とすぐに始まるのに、その日は違った。

 「ごめん。ちょっと車に忘れ物したみたいだから、取りに行ってくるね」

 そう言うと、先生は慌てて部屋を出て行く。机の上にはバッグと散らばった数枚の紙。紙には手書きで言葉が綴られている。多分、先生が作詞したものだろう。

 

 「『好きだよ』

 何十回、何百回、何千回

 言っておけば良かったな……

 後悔ばかりの毎日に見つめる

 部屋の棚に飾られたままの写真立て

 Ah 今頃、他の誰かの隣で笑っているんだろうか。」


 別れた恋人に向けられた詩。AメロやBメロに比べて、サビだけ字が荒れていた。それだけ感情が乗っていたのだろう。思わず手に力が入り、紙の端にしわができる。机の上に紙を置き、慌てて手でしわを伸ばす。そして、数枚の紙の一番下に戻した。部屋の扉が開き、少し息を切らした先生が入ってくる。

 「探し物は見つかりましたか?」

 「あ、ううん。多分、家に置いてきたみたいで」

 「大事なものですか?」

 「……そうだね。まぁ、問題はないから。バタバタしてごめんね、レッスン始めようか」

 そう言いながら机に散らばった数枚の紙をバッグにしまう先生。可愛いストラップを見つめていた時と同じ感覚。先生の心の中に私は存在しない、そう感じた。

 何事もなかったようにレッスンが始まって、終わって。気にしないよう頑張っていたけど、どうしても我慢できなくて聞いた。

 「あの、先生は詞を書くときは何を元にして書いていますか?」

 「映画、ドラマ、アニメとか。旅先の景色を見て感じたこととか。あとは……自分の経験かな」

 すると大人しく聞いていた私を見て、先生は穏やかだった表情をがらりと変える。

 「もし間違ってたら恥ずかしいけど、葉子ちゃんが俺に聞きたかったことって別にあるんじゃないの?」

 初めて見る先生の真剣な目に、心臓が早く強く鼓動を始める。ここで聞かなかったら後悔するかもしれない、そう思って勇気を振り絞った。

 「あの……、机の上にあった詞の書かれた紙って――」

 私の言葉を遮り、「あぁー、やっぱり見られちゃったか」と先生は照れくさそうに笑う。その表情で察した。きっと、あの詞は先生が別れた恋人に向けて書いたものだと。

 「あれは葉子ちゃんが思っている通り、俺が彼女と別れた時に書いた詞だよ」

 「……まだ、好きなんですか?」

 こんなこと聞いても傷つくことはわかっているのに、まだ少しでも心の中に入る隙間があればと期待する自分が嫌になる。

 「そうだね、未練がないって言ったら嘘になる。好きな人ができたってフラれたからさ」

 「情けないよなぁ」と悲しそうに笑う先生を見て、胸が苦しくなる。きっと、私がかけてあげられる言葉なんてない。それでも、先生の心の中に居続ける元恋人の存在が羨ましくて妬ましくて……。

 「先生のことを振るなんて、その人はもったいないことをしましたね」


 スタジオを出ると、入り口の前に背の高い綺麗な女性が立っていた。横を通り過ぎた時、「まだかな、恵吾」と女性の呟く声が聞こえた。振り返りたい気持ちを押し殺して足を前へと進める。数メートル離れたあたりで後ろから「恵吾っ!」と嬉しそうな女性の声が聞こえてくる。私は目からこぼれた大粒の涙を拭いもせず早足でその場を離れた。

 

 

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