標高10000メートル
@kiirou
1日目
夏の腋は異常にくさい。玉ねぎを大量の胡椒と炒めた感じだ。腕を横に大きく広げると、シャツと肌にゆとりができて、匂いが鼻まで進んだ。くさいと考える暇もなく、新しい空気が迷い込む。次は脚を広げたい。
「じゃあ、まずはゆっくりでいいので、移動してみましょうか」
僕はつま先まで全身震えていた。この瞬間のために、高校に入ったのに、もう家に帰りたいと思った。張りぼてだった雲は何よりも形を持っていた。
高校生になったところで何も変わったことはない。それもそのはずで、中学で運動部に入らなかったから精神面が育つこともなかった。運動部の仲間には入っていけず、僕はいつのまにか友達がいなくなっていた。
新しい自分を見つけるために、勉強はそこそこして、そこそこの高校に入った。結局友達はできていない。
今の高校に入ったのは、毎年一回受けることができる飛行資格試験のためだ。その年に高校にお金を積み立てて、高校内で試験監督が指導してくれて、試験を受けることができる。別に僕は空を飛びたいという訳ではなく、資格を持っていると就職で有利になるために受けるだけだ。
大人になるまでの時間の全ては就職するためにあるのだと思っている。いつか就職していい企業につけたときはこいつら全員に、自分の人生で一番むかつく顔をしてやろうと思っている。
試験内容は筆記試験と実技試験の両方がある。筆記試験は自信がある。なぜなら、機械の仕組みが主に出題されるのだが、昔からモーターカーを一から作ったり、科学部でロボットを作ったりしていたからだ。
問題は実技のほうだ。運動は大の苦手だ。走ると顎が痛くなる。あれはどういう原理なんだろう。今は実技の1日目が始まったばかりで、試験時間は7日間あり、そのうちのどの日時でもいいので自分で選び試験監督の前でいくつかの項目の試験を受ける。基本的には6日目まで練習し、7日目に受ける人が多い。僕もそのつもりだ。
周りの人は浮遊が安定してきていた。大体標高は500メートルくらいで、高所恐怖症の僕は股が寒くなった。もちろん浮くことすら危うい状態だ。
つい、僕はバランスを崩してしまった。背中のジェットが放つエネルギーはかなり強く、僕は勢いのまま身体を回転させられ、頭部の血液が逆流した。当然頭部の方が重いため、徐々に回転しながら、下へ落ちていった。
「ぅあぁ」
回転させられる度、僕は情けない鳴き声を発した。回転しながら見る世間の反応は大体同じだった。「みなと見て。あれやばいくね」「何してんのあの人」「どうする?助ける?」「やめときなよ。助けようとして、パラシュート開いたら自分が受けられなくなるって」
大笑いする集団。下を向いて肩を小刻みに揺らす女子。正義感が強く助けようと言ってる奴もいた。
その中で誰もヒーローになろうとしなかった。流石に自分の浮遊で精一杯な素人だけだったし、所詮みんな自分が一番大切なわけだ。一応標高が200メートル以下になると、緊急のパラシュートが展開するようになっている。しかし、ジェット一台を動かすには相当な費用が掛かるため、今年の試験はその時点で不合格になる。
一年目で、この結果では、二年後も変わらないだろうと思った。僕は力強くボールペンを握っていた。試験監督がいつこちらに来るかも分からない。状況は一刻を争った。
僕の肩は急に押し返され反っくり返った。視界には茶色味がかった綺麗な髪と、甘い香りが鼻を刺した。周りの人も静かになった。
「大丈夫?」
ふわふわとしていて落ち着いた声だった。女子に慣れていない僕は
「大丈夫。ありがとう」
ボソっと吐き出した。
その子とは幼稚園の時からの幼馴染で、昔は唯一仲の良い女子だった。中学生になって、クラスを離れて話す機会もなくなってから、話かけに行くのが恥ずかしくなり、次第に疎遠になった。確実にそのときから、女の子という意識を持っていたし、自分の気持ち悪さに気づきながらも、その月明かりみたいな笑顔に見惚れていた。
「思いっきり背後に体を倒してみ」
彼女は微笑みかけてくれた。瞳の中に黒い塊が映っていた。
僕は教えてくれた通りに体を倒して、背中で押し返す力とエネルギーとで均衡を保った。まだ体は落ち着かないが、安定してきてはいた。「大江ちゃんすごいね」「ありがたいと思えよ」「惚れちゃったんじゃない?」笑い声と感心の声が混ざっていた。「惚れちゃったんじゃない?」という言葉だけが頭の中で反復した。誰にも需要はないが、僕は顔を赤らめた。彼女の口元しか見れなかった。
「みんな浮くことはできてるようだね。じゃあ今度は加速してみましょうか。これはかなり難しいから近くの人と一緒にやってみましょう。加速ボタンは押し続けないでくださいね。やり方わかんないって人はいつでも聞いてくださーい」
僕の苦労も知らず先生が帰ってきた。基本ができてない人もいるんだから、あんたがこっちにきて教えろよ。と思っていたが、心の中で押し殺した。しかし、近くの人と一緒にというのは、ナイスだ。あえかな僕は隣を犬の目で見つめた。大江は小さく僕を見て言った。
「私たちは私たちのペースでやろう」
僕は天使だと思った。これが彼女だったのだ。昔から人を傷つけないように細心の注意を払っていた。でもその中で昔みたいな少女の無邪気さはなくなっているように思えた。
「僕のせいで進められなくてごめん」
僕は昔から得意の卑屈で返してしまった。こうやっておどおどしている男は、本能的に女性が嫌がるということをネットの雑学で見た。
「別にそんな風に思ってないよ」
僕は何も返せなかった。その時間の気まづさが流れて、自分との空白を見た。
そこから僕は小一時間、彼女に手取り足取り教えてもらった。その間周りの目は痛かった。(女の子に教えてもらうのが、恥ずかしくてそう思ったのかもしれないが)かなり浮遊が安定してきて、加速のステップに入ることになった。
「私が最初やってみる」
真剣な表情をしていた。その横顔も素敵だった。
彼女はレバーを引いてジェットを下向きにして、加速ボタンを押し、勢いよく青空に飛び出した。僕は遠くなる彼女を見ていた。輝いていて、太陽なのか、彼女なのか分からなくなった。しかし、5分ほど経つと体が傾き下向きの力が働いて落下してしまった。このままでは緊急用のパラシュートが開いてしまう。
助けないと。
僕は心の中で何度も自分に、動け、動けと言い聞かせていた。恐怖もあったが、どうやって助けるかを必死に考えた。考えが固まる前に、動き出し、僕は彼女を追いかけた。こんなにも真夏なのに冷たかった。初めての加速だったがボタンを連打することで、スピードはついていた。雲々はグミに変形した。このまま徐々におりて、彼女の手を握ると同時に、滑らかに上昇する。シュミレーションは完璧だった。自然と妄想が広がり口角が上がっていた。首を横に振って平生に戻った。僕のスピードは彼女に追いつきそうな勢いだった。
彼女が見えた瞬間、手を握られて、止まっていた。程よく日焼けした肌と真っ白な手が交わっていた。バスケ部で大活躍の幸樹だった。止まったならいいか。いいよな。そう自分に言い聞かせた。
「ありがとう。本当に助かったよ。このままだったら不合格になっちゃってたかも」
「びっくりしたわ。急にめちゃくちゃな勢いでくるもんだから」
「咄嗟に助けてくれるのは、普段から幸樹くんが、周りを見れてるからだね。そういう所がモテるんだろうな」
僕の居場所などもうなくなっていた。元々なかったのだ。少しでも可能性を感じていた自分の気持ち悪さだけが浮き彫りになった。ボールペンをカチカチ鳴らした。色鮮やかな視界を取り戻せたのは一瞬だった。夕陽が山から覗いていて、木が赤くなびいた。引き返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます