やみつきになる鶏南蛮

木村紫

第1話

「ベジタブル飲料『べジ30』は、30種類のビタミンとミネラルが配合されているだけです。飲んだからといって、すぐに痩せたり健康になったりすることはありません。甘いジュースやアルコールをガブ飲みするよりはマシ、といった程度です。」


「髪の傷みを一切修復しません。いい匂いもしません。無添加なだけの安価なノンシリコンシャンプーです。オーガニックにこだわり、米のとぎ汁やお酢で洗髪するのにもそろそろ飽きてきた、30代後半の元『森ガール』がターゲットです。」


 世間で見かける広告の文句が様変わりして、どれくらい経つだろうか。


 人々が華美な褒め言葉や、巧みな言い換えを嫌って大規模な不買運動を起こしたせいで、広告の世界はすっかり様変わりしてしまった。


 インターネット上では、以前のようにうっかりクリックして、数行も読まないうちに「しまった」と舌打ちしたくなるような、あからさまな誇大広告は姿を消し、テレビやラジオのCMでは、各企業がこぞって自社商品のデメリットを宣伝している。


 街頭に貼られたポスターには「宣伝活動につき、ご迷惑をお掛けしています」という一文とともに、作業着姿でちょこんと頭を下げている可愛らしい少年のイラストが、広告の脇に必ず描かれるようになった。


「ほんとイヤな世の中になったもんだ。開発する人間の気持ちにもなってみろっての」


 前山はそう呟くと、疲れを振り払うように目の前のビールを一気に飲み干した。

週末の居酒屋は混んでいて、広い店内はあまり空調も効かない。カウンターに並んで座っていても、大柄な前山の額に汗が滲んでいるのがわかる。


「そうだけどさ、売れないよりは売れた方がいいんじゃないの」


 そう言い終わらないうちに、前山がキッと僕を睨むように、体の向きを変えたのがわかった。


「お前はいいよ、総務だから。広報や営業のやつらが『ウチの健康食品はけなすとこばっかで売りやすい』とか言いやがって。俺は気分が悪いんだよ」


 嫌なことを思い出したからか、効かないエアコンにイライラしているのか、前山はネクタイの結び目に指をかけ、ぐいっと引っ張って軽く緩めた。


 前山は同期の中で1人だけ開発部に配属された男で、同じく1人だけ総務部に所属している僕とは割と仲が良い。「ひとりだけ同盟」というわけではないが、同じスタンスで働く同期がいない寂しさからか、時々どちらからともなく誘っては、会社帰りにこの居酒屋で飲むようになり10年位が経つだろうか。


「まあ、でも嘘ついてるわけじゃないし、ちゃんと理解されて売れてるしいいんじゃないの。おかげで、昔みたいに『騙された』って消費者のクレームもほとんど来なくなったしさ」


 これは僕の正直な気持ちだ。小さな健康食品メーカーに勤めていると実際色々ある。


「効果を実感」「もう手放せない」みたいな表現で誤解を生んだり、クレームの処理に追われたりするのはもうたくさんだと思っていた。


「売れればいい、か。あ、すいませんビールお代わり」


 カウンターに差し出した空のジョッキには、白抜きで『ビール腹に乾杯 ―シロクマビール』とプリントしてある。こんな天下の大企業たるシロクマビールでも、買われなくなるのは怖いのか。


「そうだよ。不買運動のときは、お前も大変だっただろ」


 僕がそう言うと、前山は少し黙った。当時を思い出そうとしているのか、ビールのおかわりを待っているのか、腕組みをしてカウンター前の厨房をじっと見つめている。


 ビールのおかわりが届くと、ほんの少し口をつけ、前山は静かに話し始めた。


「確かにあの時は怖かった。『デメリットを言わない企業の商品は買わない』だっけ?部屋いっぱいに返品の山ができてよ、あの時ばかりは、会社が倒産して俺は路頭に迷うのかと思ったよ。だがな、俺は最近思うんだ。あれはすべてが仕組まれたものだったんじゃないかってな」


 僕は前山の方を見ずに、乾きはじめた枝豆に手を伸ばした。酔っぱらうにはまだ早い時間のはずだが、空きっ腹にビールをおかわりすると、酔いの回りが早くなるのだろうか。


「お前、俺が今酔ってると思ってるんだろう。いや酔ってはいるが、これはずっと考えてきたことなんだ。俺が『食べゴロ』でちょっと有名だったのは知ってるだろう」


「あの食べ歩き専門のSNSか?お前凄いらしいな。フォロワー数5万人超えだっけ」


「5万2千だ。もうそのアカウントはなくなっちまったがな」


 僕はそこで、やっと前山の方を振り向いた。


「え、何で?」


 いつだったか、ただの食べ歩きが好きな素人とはいえ、そこまでの人気を得るのに、何年の歳月をかけてレビューを執筆しファンを獲得していったか、という話を酒の席でうんざりするほど聞かされたことがあった。


 あのアカウントは前山にとって命の次に、とは言わないまでも、とても大切なものであったはずだ。


 それまでは僕へと視線が向けられていたのに、今度は前山が目を逸らす。


「わからん。正確に言うとアカウントはまだある。だがアレはもう俺のじゃない」


「わかんないな。どういうことだよ。誰かに乗っ取られたってこと?」


「違う。レビューは今も俺が書いてる」


 はっ、と僕は呆れたように息を漏らした。こいつはやっぱり酔っている。まだ残っている枝豆の皿をすすめるか、それとも何かつまみを追加してやった方がいいだろうか。それなら飲み物もお代わりだ。僕は半分ほど残していたビールをぐいっと飲み干した。


「違うんだ。何て言ったらいいか、俺が書くには書いているんだが、俺が書きたいように書いていないんだ」


 あまり酒に強くない僕は、もはや前山が何を言っているのか理解するのをやめようとしていた。


「なんだよそれ、スランプかよ。意味わかんねぇよ。俺ビール頼むから、お前何かつまみ頼めよ」


「ああ、そうするよ。ここの店のレビューも昔書いたんだ。ここの鶏南蛮はソースにケチャップを使ってるところが独創的で、ねっとりした鶏肉に胡椒とソースがよく絡んで、一度食べたらやみつきになるってな」


「おお、美味そうだな、それ頼めよ。どこがスランプだよ、そんな風にじゃんじゃん書けばいいだろ」


 僕のその発言が、前山の中にあるどこかのスイッチを押してしまったのだろうか。大きな体が急に僕の方へ向いたかと思うと、前山は堰を切ったように捲し立て始めた。


「ああ書きたいさ、そんな風に書きたいさ。俺は大した趣味もなく、この通りでかいだけでモテもしない、小さな会社で二番煎じの開発やってるうだつの上がらねえ男だよ。でもな、食べ歩きだけは俺のライフワークだった。美味そうな店を選ぶとき、俺は人の噂なんか信用しねえんだ。店の面構えや看板なんかを見て、自分の目で、野生の嗅覚を使って慎重に選ぶ。綺麗な店だからって美味いとは限らねえし、行列ができるから美味いってわけでもねえ。そうやってよ、自分の目で選んだ店のメニューを舌で味わってよ、表現するんだよ。自分が感じたままに、まるでもう一度それを食ってるみてえによ。その楽しみをあの不買運動が奪いやがった。SNSだって広告だ。今まで俺が書いてきたようにレビューを書くと、店の迷惑になっちまうんだ。ここだけは死ぬまでに一度は行く価値があるって思っても、事実だけを淡々と書くように指導が入るんだよ。今じゃあ、SNSやブログでちょっと人気があるやつは、みんなネガティブなレビューを書くようになってる。その方がヒットするし、人の目に留まるからだ。みんなそうやって操作されてんだよ。中には喜んで書いてるやつもいるが、俺は嘘をつくのは嫌だ。ここの店の鶏南蛮だって、しょうがの焼酎割りだって、俺はどこの居酒屋よりも最高に美味いと思ってる。それが正直な気持ちなのに、そうは書けねえんだよ。なんで俺がここに通ってるかわかるか?最高だからだよ。この値段でこんなに美味いもんを出すのに気取ってなくて、ビールの泡のバランスや温度もそうだが、このちょっとだけ空調を弱めてるところなんかもまたビールが美味くなって、とにかく全てが最高なんだ。この店に通わないやつはバカだと思うくらいだ。そんな風に思っても、もう昔みたいに自由に書くことができねえんだ。なあ、俺が見つけた素晴らしい店について自由に語ることができないなんて、そんなバカな話があるか?」


 気がつくとあたりは静まり返り、店にいた客も店員も、みんなが僕と前山を見つめていた。すると奥から店長らしき、穏やかそうな中年男が出てきて、僕らにこう言った。


「すみませんがあんたら、うちの店をそんなにでかい声で、オーバーに褒めてもらっちゃあ困るんですよ。営業妨害で警察を呼びたいところだが、今まで常連さんだったし穏便にってことで、今日のお代はいいんで今すぐ出てって、二度と来ないでもらえますかね」


 ふとカウンターを見ると、いつの間にか出来上がっていた鶏南蛮がそっと置かれていた。鶏はすっかり冷えて表面に油が浮き、付け合わせのレタスは緑の部分とケチャップが混ざって黒っぽくなってしおれていた。

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