悍將―趙胤と東晉の創基

灰人

序―父の蔭

 『晉書』卷五十七(列傳第二十七)は西晉・東晉の交に各地で武事を担った將達の輯傳であるが、その一人に、武昌太守として、荊州にて杜曾及び彼が迎立した第五猗と戦い、戦没した「淮南人」趙誘の傳がある。

 その傳は以下の如くであり、全体でも506文字(句読点含む、以下同)という小傳で、更に趙誘個人に関する部分はその八割弱、386文字である。


 趙誘字元孫、淮南人也。世以將顯。州辟主簿。値刺史郗隆被齊王冏檄、使起兵討趙王倫、隆欲承檄舉義、而諸子姪並在洛陽。欲坐觀成敗、恐爲冏所討、進退有疑、會群吏計議。誘說隆曰:「趙王篡逆、海內所病。今義兵飆起、其敗必矣。今爲明使君計、莫若自將精兵、徑赴許昌、上策也。不然、且可留後、遣猛將將兵會盟、亦中策也。若遣小軍隨形助勝、下策耳。」隆曰:「我受二帝恩、無所偏助、正欲保州而已。」誘與治中留寶・主簿張褒等諫隆:「若無所助、變難將生、州亦不可保也。」隆猶豫不決、遂爲其下所害。誘還家、杜門不出。左將軍王敦以爲參軍、加廣武將軍、與甘卓・周訪共討華軼、破之。又擊杜弢於西湘。太興初、復與卓攻弢、滅之。累功賜爵平阿縣侯、代陶侃爲武昌太守。時杜曾迎第五猗於荊州作亂、敦遣誘與襄陽太守朱軌共距之。猗既愍帝所遣、加有時望、爲荊楚所歸。誘等苦戰皆沒、敦甚悼惜之、表贈征虜將軍・秦州刺史、諡曰敬。

 子龔、與誘倶死。元帝爲晉王、下令贈新昌太守。龔弟胤、字伯舒。王敦使周訪擊杜曾、胤請從行。訪憚曾之強、欲先以胤餌曾、使其眾疲而後擊之。胤多梟首級。王導引爲從事中郎。南頓王宗反、胤殺宗、於是王導・庾亮並倚杖之。轉冠軍將軍、遷西豫州刺史、卒於官。


 この傳には趙誘の子龔・胤の傳が附されているが、その次子趙胤に関する部分は98文字であり、全体の二割弱、趙誘の四分の一程でしかない。傳としては父の添えもの、蔭に隠れた存在でしかない。

 ところが、『晉書』全体を検索すると、趙誘の名(姓名)は、本傳を除けば、一紀七傳に十一回見えるのみ、しかも本傳に見える逸話だけであるのに対して、趙胤(同)は二紀十三傳で二十五回に及び、附傳以外の内容も含む。

 また、趙胤はほぼ『晉書』と同内容だが、『宋書』・『(北)魏書』にも名が見える。内容に於いては他者の傳であるので、何処までを趙誘・趙胤に関する記述と見るべきかという問題があるが、趙誘への記述は趙胤の凡そ半分程度の分量となり、逆転する。

 更に言えば、趙胤の存在は東晉に於いて重要、とまでは言えないが、折々に不可欠であった人物である。史的には無名と言ってもいいが、同時代的には名を知られた、名だたるという意味での「名將」の一人と言える。


 何ゆえに、こうした逆転が起きたのかを考察しつつ、各処に散在している趙胤の生涯を追いながら、東晉の始まり、その礎が築かれていく過程を概観してみたい。

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