都市伝説の検証中に女の子がエレベーターに閉じ込められておもらしをしてしまった話

「ハァ、ハァ、ハァ…… 」


 密室の中に女性の息遣いが響く。俺は意を決して息を荒げる女性に声をかけた。


「もう諦めてください。このままじゃ……」


「いや! 絶対いや! こんなところでおしっこするなんて絶対い〜や!! 」


 彼女はブンブン首を振る。被っている鹿撃ち帽が落ちそうになるが、そんなことを気にする余裕は彼女にはないようだ。


「……わかりました。俺はもう何も言いません」


「うん…… ありがと、だいじょぶ、だから……」


 「だいじょぶだいじょぶ」と彼女はうわごとをつぶやく。


「だいじょぶ、おしっこ、がまん、できるもん……」


 腰をくねらせ、同じことを何度もつぶやく。手は両脚の間にずっと挟まれている。


 このエレベーターに閉じ込められてから1時間近く経った。その間ずっと彼女の膀胱には尿が注がれ続けている。彼女がいつ限界を迎え、粗相をしてもおかしくない。いっそ床にしてしまえば楽になれるだろうに。それでも彼女は”トイレでおしっこする”という希望を捨てず我慢を続けた。


 あのとき、”異世界エレベーター”などという彼女のたわ言につきあっていなければ。あのとき、彼女がトイレに行きたがっていることに気づいていれば。あのとき、すぐに助けを呼んでいれば。後悔してもしきれない。


(どうしてこうなっちまったのかなぁ……)


 俺はため息をつき、こうなったいきさつを振り返る。



プルルルルルル


「はい、もしもし」


『ねぇ、異世界にいこう! 』


 朝七時とは思えない異様に元気な声が電話口から聞こえた。相手は昔使っていた『性癖マッチングアプリ』を運営している会社の女性社員だ。


 彼女は都市伝説や怪談の類が好きで、心霊スポットに行ったり、都市伝説を検証したりするのが趣味らしい。俺達が会ったきっかけも幽霊だ。


 俺は昔から異様に霊感が強く、幽霊に絡まれることがよくあった。付きまといや不法侵入はまだいい。物を壊されたり、安眠を妨害されたり、実害が出ることもある。


 そして今回も幽霊による被害を受けた。『性癖マッチングアプリ』で知り合った女性が実は幽霊だったのだ。かなりいい感じのマゾヒストだっただけに本当に悔しい。いや、俺に『もっといじめて』といっていたことすら、俺に会うためのウソだったのかもしれない。


 そんな非実在女性との待ち合わせ場所に行ったら、なぜかアプリの運営を名乗る女性がいた。茶色の鹿撃ち帽に白ワイシャツ、黒のスキニージーンズに革靴といったちょっとイタイ服装の女性だ。彼女は正規の方法で作られていないアカウントとやり取りする俺が気になり、メッセージを覗いて待ち合わせ場所を特定したらしい。


 ちなみにそのとき「待ち伏せする以外の解決法はなかったんですか? 」と聞いたら、彼女は「あったけど、これが一番おもしろそうだったからね! 」と答えた。ここで俺は彼女のことがちょっと苦手になった。


 その後、本来の待ち合わせ相手を塩により除霊しているところを彼女に見られて「すごい、霊感あるんだ! ねぇねぇ友達になろ! 私、オカルト大好きなの! 今度一緒に超常現象の検証しよーよ。どこ行くか決まったら電話するね! 」と言われた。そして、こうして俺に電話がかかってきたわけだ。


(ああ、この人か…… )


 とてつもなく面倒くさい。断ろうかとも思った。だが、俺は弱みを握られているので逆らえない。彼女とあった日、彼女は俺とのツーショット写真を取って「君、『恋より演技』がキャッチコピーの俳優さんでしょ? 一般の女の子とのツーショ写真が流出したら困るんじゃない?しかも、夜も更けた神社で…… 」と脅してきた。恋愛に興味がないキャラで売り出している俺にとって、その行為は致命傷になりうる。なので、彼女のことは無下にできないのだ。


「はぁ。詳しくどうぞ」


 とはいえ、情報が少なすぎる。『ねぇ、異世界にいこう! 』だけでやることがわかったやつがいたらそいつは超能力者だ。俺は霊は見えるが、彼女の考えは見えない。なので、意図を読み取るために質問をする。


『だ〜か〜ら! 異世界に行くの!! 私と一緒に! 』


 全く情報量が増えなかった。これはこちら側のミスだ。もっと核心に迫る質問をすべきだった。


「そうですねぇ…… では、どうやって異世界に行くのかご教示いただけますか? 」


『よくぞ聞いてくれた! 私は今回エレベーターで異世界に行く術を手に入れたのだ! 』


 返ってきた答えは実にくだらないものだった。彼女は有名な都市伝説である”異世界エレベーター”のことを言っているのだろう。


「あぁ、それ。”異世界エレベーター”ですよね。俺もネットで見たことありますよ。『迷惑だから絶対に真似するな』っていう注意書きと一緒に」


 「だからもう電話を切りますよ」と言おうとした俺の耳に待ってましたとばかりの笑い声が聞こえた。


『フッフッフッ…… 私もそれくらい知ってるよぉ。たしかに”異世界エレベーター”はいろんな階のボタンを押しまくるから普通にエレベーターを利用したい人からしたら超迷惑。でもいったよね? 私は今回異世界に行く”術”を手に入れたって。』


「まぁ、言ってましたね。で? 」


 早く用件を言ってくれないだろうか。今日はオフだが、無限に時間があるわけではないのだ。


『今日うちの会社休みなんだよね。で、昨日、社長に聞いたら一日誰もいないから好きに使っていいって! 』


「はぁ、そうですか」


(いくら都市伝説を検証したいからって自分の会社のビルを使うか、普通? )


 ここまで来ると彼女の探究心がちょっと怖い。


『だからうちの会社前に集合ね。場所わかるでしょ? 』


「まあ、スマホで調べれば…… 」


『じゃあ一時間以内に来てね。今日はどうせお休みですることないでしょ? 』


「…… なぜそれを? 」


『君の電話の口調やSNSから簡単に推理できたよ』


 俺は言葉を失う。俺が無言なのを了解のサインと受け取ったのか、彼女は『じゃ、あとでね〜』と言って電話を切った。後にはスケジュールを特定された恐怖心だけが残った。あの推理力を敵に回したら何をされるかわからない。やはり、俺は彼女には逆らえないようだ。



「あ、おっそーい。女の子を待たせるなんて、男の子失格だぞ」


 待ち合わせ場所に着くやいなや文句を言われた。電話で面倒な人はやはり対面でも面倒だ。


「すみません。以後、気をつけます」


「ん、素直でよろしい。さ、行こっか」


 俺の了承を得ずに彼女はガンガン進み、社員証を使ってビルの入口を開けた。俺は彼女の後に続いてビルの中に入る。ビルは三階建てで、入口のドアを開けると長い廊下が続いており、廊下の左手に目的のエレベーターがあった。


「さて、あのエレベーターでやるよ。手順を確認しといてね」


 といって彼女はポケットから取り出したA4の紙を俺に見せる。紙には丸っこい文字でこう書かれていた。


――――


〈「三階建てのビルのエレベーター」で異世界に行く方法〉


1.エレベーターに乗る(人数制限はない)


2.乗ったら最上階のボタンを押し、素早く閉まるボタンを押しっぱなしにして扉が閉まるまで待つ


3.扉が閉まる直前に開くボタンを押し(今度はすぐに離していい)、開いたら閉まるボタンを押し(これも指を離していい)三階のボタンをキャンセル、開くボタンを押す(ここまで、比較的素早く行うと良いらしい)


4.次にエレベーターに乗ったまま、三階→一階→二階→一階→三階 二階→一階→二階→三階→二階→一階→三階と移動(キャンセル操作はなし。この間に邪魔、誰かが乗ってきたら失敗)


5.三階についたら降りないで、一階→キャンセル、二階→キャンセルの順にボタンを押してから、今度は普通に一階、二階の順にボタンを押す(各階ごとに移動して停止、つど自動で扉の開閉をさせてから次のボタンを押す)


6.二階に着いたら案内人が乗ってくる(話しかけてはいけない、性別不明。ただ女が多いらしい)


7.乗ったら一階のボタンを押しキャンセル、そのあと普通に一階ボタンを押す


8.押すとエレベーターは一階に行くものの扉が開かず、そのまま三階に上がっていく(上がっている途中で別の階を押すと、棄権できる)


9.三階の扉が開けばそこは異世界


――――


「…… こういうのって何処から見つけてくるんですか? 」


「内緒。ネットは広大なのだよ」


「…… そうですか」


 どうやらネットで見つけてきた情報のようだ。まあ、出典がどこだろうとこれはあくまで都市伝説。つまりはデマなのだ。手順を見る限り十分くらいで俺は自由の身になるだろう。さっさと終わらせてオフを満喫したい。そう考え、俺は彼女と一緒にエレベーターに乗り込んだ。



ウィィン


エレベーターが三階につき扉が開く。


「よし、次は手順の五番目だね」


「えーと、五番目はまず一階押してキャンセル、次に二階押してキャンセルですね」


「りょーかい、えっと一階押してっと…… 」


 俺たちは順調に手順をこなしていた。この手順が終われば次の手順で二階から案内人が乗ってくるらしいが、今のところ何かが起こる様子はない。


(次の手順がダメだったら帰るって言おう)


 そう考え、俺は帰宅後にすることに思考をスライドさせる。えっと、最近買ったゲームをするか先輩オススメの映画を観るか……


「ねぇ! 次はどうすればいいの? 」


 しかし、俺の思考はデカい声によって強制的に引き戻された。声の方向にはピンクの髪に鹿撃ち帽を被った緑の目の女性がいた。


(手順知りたいなら自分で紙を持てよな…… )


 そもそもこの手順なら俺はここにいる必要がない。一人で出来るなら勝手に異世界に行ってくれればよかったのに…… 心のなかでそう思った。


「はいはい、次は一階押してください。一階について、扉が開いて閉まったら二階を押してください。そうすれば二階で案内人が乗ってくるらしいですよ 」


「おぉ〜、ついに何かが起こるんだね! 楽しみ楽し…… 」


ブルッ


「? どうしたんですか、いきなり震えて? 怖くなったんなら俺帰りますよ」


「そ、そんなわけないじゃん! これは、その、武者震いだよ! 」


「そうですか、ではさっさと一階のボタンを押してください」


「うん…… わかった」


 俺の言った通りに彼女は一階のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターが動き出す。エレベーターはゆっくりと下に降りていき……


ゴトン


 大きな音を立てて、止まった。そのうえエレベーター内の照明もバチンと落ちた。


「わっ、何!? これも手順にあるの? 」


「いや、次は『二階で案内人が乗ってくる』のはずなので止まるのはおかしいですね」


「じゃあこれは超常現象!? 」


「うーん、何も感じないので単純な停電でしょうね」


 そんなことを話しているうちにパッと照明が復旧した。


「あ、明るくなった。よかった〜、でも超常現象じゃないのはちょっと残念…… 」


「そんなこと言ってる場合ですか、照明はついたけどエレベーターは止まったままなんですよ。早く管理会社に連絡しないと」


そういいながら俺は階ボタンの中にある電話のマークのボタンを押そうとしたが、


「待って! もしかしたら私達はもう異世界にいるのかもしれないよ! 」


 謎理論に止められた。


「はぁ? なにをいってるんですか? どうみてもエレベーターが止まってるだけでしょ。大体手順を完遂してないのに異世界にいけるほどこの世は甘くないんですよ」


「そんなこと! わかんないじゃん! 窓の外を見てごらん。ほら! 」


 そういって彼女が指差した先には壁があった。


「壁がありますね。異世界って壁みたいなんですね」


「ふざけてゴメン、早く助け呼ぼう」


「そうですね」


 俺はボタンを押し管理会社と連絡をとる。


「あの、エレベーターに閉じ込められたんですけど…… はい、今日休みの…… あぁ、そのビルです…… はい…… で、どれくらいで……え! そんなに? …… はい、はい、そうですか…… わかりました。お待ちしております」


「どうだった?」


「え〜、助けは来ます。ただ、復旧まで一時間くらいかかるとのことです」


「えっ! なんでそんなに?! 」


「今の停電、けっこう範囲が広かったそうで、同じような閉じ込めが多発して業者側の人手が足りないそうです。後、連絡が遅れたので、このエレベーターの復旧は最後に回されて、そうすると一時間かかると…… 」


「そんな! 困るよ! だって、私、もう…… 」


 彼女はそう言ってヘナヘナと床にへたり込んだ。


「どうしたんですか!? まさか体調が悪いとか?! 」


「違うの。体調は大丈夫だけど、その…… 」


 彼女はそこで言葉を切った。俺はどうしたのかと思い、彼女の顔を覗き込む。


「…… おしっこ」


「は? 」


「おしっこ! おしっこしたいの! 一時間も我慢できないかもしれないの! それくらい察してよ! ホント、君は推理力のない子だね! 」


 彼女は自分がどういう状況にいるかをワーッと喋る。彼女がへたり込んだ理由はあまりにも幼稚でくだらないものだった。


「はぁ、そんなことですか」


「そんなことって…… 君、デリカシーなさすぎない? 」


「だってそうでしょう? そんなにトイレに行きたいなら端っこで済ませちゃえばいいじゃないですか」


「君はバカなの?! そんなこと、できるわけないじゃん! 」


「こういう状況なら仕方ないのでは? 」


「状況とかじゃなくて君がいるでしょ! 」


「まぁ、俺はあなたの放尿なんて興味がないので見る気も起きませんが…… 」


「見る見ないの問題じゃなくて私が嫌なの! 」


「そうですか。じゃあ我慢するしかないですね。頑張ってください」


 そう言って俺は腰を下ろす。視線の端の彼女はプルプルと震えている。恐らく限界が近いのだろう。


 彼女がそうなったのは自業自得以外の何ものでもないが、この状況は可哀そうすぎる。だから、なんとかしてあげたいとは思う。が、彼女の尿意を鎮めてあげることは俺にはできない。俺はただ助けが早く来ることを祈った。



ハァ、ハァ、ハァ……


 閉じ込められてから一時間。エレベーターの中には彼女の息遣いが響いていた。


 俺は何度か下着を脱いでエレベーターの端ですませるよう彼女に進言したが、彼女はそれを拒否した。ここまで頑なだと言うことを聞かせるのはもう無理だろう。


 この一時間、彼女はずっと尿意と戦っていた。黒のスキニージーンズの股には思いっ切りシワがよって、手がしっかり挟み込まれている。口はずっと動き続けて「だいじょぶ、だいじょぶ、我慢できるもん」とうわ言を唱え続ける。


 時たま彼女の動きが完全に止まることがあった。その時、彼女が絶望した表情をするので俺はそのたび「やってしまったか? 」と不安になった。が、しばらくするとまたモゾモゾと動き出すので、ただ尿意の波が大きくなっただけらしい。


「もうダメ…… おしっこ…… いやぁ」


 さっきから彼女が段々「おしっこ」という言葉を使う頻度が増えていた。きっと尿意が高まりすぎてもう言葉を選んでいられないのだろう。あるときなどは何かの呪文のように「おしっこおしっこおしっこ……」と何度も唱えていた。俺の視線に気がつくと頬を赤らめ唱えるのを止めてしまったところを見るにどうやら無意識で「おしっこ」と連呼していたようだ。


 彼女の目線は脚の間に挟んだ手に注がれている。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。後数分もすれば彼女が粗相をしてしまうのは明らかだった。


(頼む……早く誰か来てくれ……)


 俺は早く助けが来るように祈る。その願いが通じたのか、エレベーターの外から声が聞こえた。


「あの〜! 大丈夫ですか〜! 」


「! はい! ここにいます! 二人とも無事です! 」


「わかりました! 今から助けますので、もう少々お待ちくださ〜い」


(やった! 助けが来てくれた。もうすぐエレベーターから出られる! )


「ほら、助けが来ましたよ。もう少しの辛抱ですからね 」


「もう……どうでもいいから……はやくしてぇ」


 彼女の方は尿意が限界でそのもう少しもツライ状態のようだ。彼女は助けが来たと聞いてもずっと床に座り込みモジモジと体を動かしている。


(…… この人立てるのか? )


 少し不安になる。一時間ずっと座り込んでいる人が突然立って大丈夫なのだろうか? 立ち上がった瞬間に尿を全部出されてしまっては困る。


「その、助けが来る前に確認なんですが、立てます? 」


 こんなことを成人女性に聞くのもおかしな話だ。普通なら「立てる」と答えるに決まっている。もう赤ん坊ではないのだから。だが尿意を抱えている場合は事情が異なるようだ。


「…… 無理…… 今立ったら…… 全部、出ちゃう…… 」


 彼女はもう立ち上がることもできないようだ。さてどうしようかと考え、俺は三つの案を思いつく。その案を彼女に伝えるため、俺はひざまずき彼女に目線を合わせた。


「ちょっと状況を整理しますね。あなたがこの状況でとれる選択肢は三つです。一つ目は頑張って立ち上がりビルのトイレまで我慢すること。二つ目は助けがくる前にエレベーターの隅で済ませること。三つ目はこのままなすすべなく粗相をすること。で、あなたはこの三つのうち、どれを選びます? 俺は選んだ選択肢を手伝わせていただきますので」


三つ目は冗談だ。できれば二つ目を選んでほしい。そうすれば、俺は目と耳をふさぐだけでいいのだから。だが、今までの彼女の態度からするとそんなことはしないだろう。つまり……


「一つ目……頑張って、立つから……手伝ってぇ」


 やっぱり一つ目。彼女にも俺にも一番負担のかかる最悪の選択肢だ。予想通りとはいえ少し頭が痛い。とはいえ、自分で提示した選択肢なのだ。俺が止めようとは言えない。


「わかりましたよ。じゃあ俺はどう手伝えば? 」


 彼女はさっきまで股に挟んでいた右手をゆっくりとこちらに差し出してきた。俺がその意味を計りかねていると、彼女の方から説明があった。


「手、引っ張って、ゆっくり…… 」


 なるほど一人では立ち上がれないので、俺を支えにして立ち上がろうということか。彼女の行動の真意を理解した俺は彼女の手を取り、様子を見ながらゆっくりと上に引っ張った。


「! 待って待って待って! 止まって! 止まってぇ! 」


 状態を起こす途中で彼女が騒ぎ出した。その「待って」や「止まって」は俺に言ってるのかそれとも自分の尿意にいっているのか、彼女の真意はわからなかった。


 そうしてわめきながら彼女は立ち上がった。左手は脚の間にギュッと押し込まれ、腰は目一杯引かれている。歯をギュッと食いしばり、涙をためた目で遠くを見つめる。その様子はどうみてもおしっこを我慢している姿だった。


 この状況で人前にでるのは恥ずかしいだろうな、とは思ったがヘタなことを言って暴れられても面倒なので俺は口をつぐんだ。


 「はやくはやくはやく」と種類の変わったうわ言を繰り返す彼女と手をつなぎながらしばらく待っていると、エレベーターの外から再び声が聞こえた。


「お待たせしました。これからエレベーターを一階に動かします。少し揺れるかもしれないので気をつけてくださ〜い」


「揺れるらしいですよ。倒れないように気をつけてくださいね」


 彼女はコクリと頷き俺の手をギュッと強く握った。それだけで揺れに耐えられるとは俺には思えなかったが、これが今の彼女の全力なのだろう。


ガタン


 エレベーターが大きく揺れ動き出した。彼女は、揺れた瞬間、泣き出しそうな顔をした。エレベーターの揺れが膀胱に響いたのだろう。が、彼女のズボンから尿が漏れ出すことはない。なんとか揺れに耐えたようだ。


 一階と二階の間に停まっていたエレベーターはすぐに一階に着き、扉が開いた。


「あぁ、よかった。なんともありませんか?遅くなりすみません。体調がすぐれないようなら救急車を……」


 扉の外には作業服を着た男性がいた。こちらを心配して色々気を回してくれているが、今救助された女性が粗相をしそうなことには気づけていないようだ。


「いえ、大丈夫ですので失礼します。助けていただきありがとうございます。ほら、いきますよ」


 俺は足早にこの場を去ろうとする。ここで話し込んでは彼女がもたないと判断したからだ。


「そうですか? お連れの女性、体調悪そうですけど…… 」


「大丈夫です。そちらもお忙しいでしょうから今日はこの辺で」


「…… そうおっしゃるなら、私は管理会社に報告だけしますのでお気をつけて」


 作業員は不満そうではあったが俺達を行かせてくれた。本当に申し訳ないが、今は彼女の膀胱事情のほうが優先事項だ。


「ほら、さっさとトイレに行ってください。ここ、あなたの会社でしょ? 」


 そう言って俺はさっきから握りしめられている手を離そうとする。しかし、彼女の握力は全く衰えない。どうしたのかと思い、彼女の方を見ると彼女は目に涙をためながら懇願してきた。


「お願い…… 一人じゃ歩けないの。トイレの前まで…… 一緒に来てぇ」


 彼女の尿意はもう一人では歩けないほどに高まっているらしい。ここで見捨てて粗相をされても寝覚めが悪いと思い、俺は彼女の指示に従いながら、ゆっくりゆっくり女子トイレの前まで彼女を誘導した向かった。しばらくして見慣れたピクトグラムが描かれた扉の前にたどり着いた。


「ほら、トイレに着きましたよ。俺はこの扉の向こうに入れないので後は自分で…… 」


「ありがと! トイレ! 」


 俺の言葉が終わる前に彼女はトイレの扉に飛びついた。何にせよここまできたら大丈夫だろう。もう帰ろうと思い、俺はビルの出入り口に向かった。


ガチャン


 が、無機質な金属音のせいで足が止まる。音がしたのは先程までいた扉の方だ。俺は扉の方を見る。そこには扉が開かなくて、混乱している彼女がいた。


「なんで?! なんで開かないのぉ!? 」


『今日うちの会社休みなんだよね。で、昨日、社長に聞いたら一日誰もいないから好きに使っていいって! 』


 突然、ここに来る前に電話で聞いた彼女のセリフが再生された。


「あの、もしかしてですけどお休みで誰もいないからトイレが施錠されているんじゃないですか? 」


 俺の言葉で彼女は青ざめた。


「…… っ!? えっ!? じゃあ、ここで、おしっこ、できない? 」


「そうじゃないですか? だから大人しくビルの外へ…… 」


 そこで俺の言葉は止まる。これ以上、言葉を続ける必要がなくなったからだ。


「もう無理ぃ…… 」


パタタタタタタタッ


短い一言の後、リノリウムの床を叩く水音が聞こえた。音の発生源はさっきまでトイレの扉にすがりついていた女性だ。


「あぁ…… ん、えぇ、やだやだぁ、もう、出ないでぇ…… 」


 彼女のジーンズからは尿がジャバジャバとあふれる。ある水流はジーンズの裾から彼女のブーツに注がれ、またある水流は床にこぼれて彼女の足元に水たまりを作る。


 時折、彼女から湧き出る尿の勢いが強くなった。おそらく少しでも被害を抑えるため、尿道を閉めようとしているのだろう。尿道が細くなることで水流は一時的に強まる。が、尿道を閉じるにはいたらないようで、またショロショロと尿が漏れ出す。


「あ! 何見てるの!? ダメ! 見ちゃダメェ! 」


 彼女は俺が見ていることに今更気づいたらしく、脚に挟んでいなかった右手をブンブン振って俺の視線を逸らそうとした。その間も彼女の粗相は続いていたので、尿が飛び散る。俺は、ハァとため息をついた後、彼女に近づく。


「ちょっと!? 私見ないでって言ったじゃん!! なんで近づいてくるの?! 」


 俺は彼女の後ろから肩にポンッと手を置き話しかける。


「ほら、あんまり動かないでください。被害が広がって掃除するのが大変になるでしょ? 」


「やめて!! 近づかないで! かかっちゃうよ! 」


 俺が近づいたからか、また水流が強くなったり弱くなったりし始めた。また尿を止めようとしているのだろう。


(もう止められないクセに…… )


「ほらもう無理しなくていいですよ。全部出しちゃってください。それともまた何か手伝いましょうか? 」


「…… だいじょぶ、もうすぐ終わるから」


 彼女の言う通り、ショロロという小さな音を最後に彼女の粗相は終わった。足元には大きな水たまりが広がっていて、近づいた俺の靴もかなりの被害を受けていた。彼女は気持ちよさそうな表情をしてフルッと体を震わせた後、扉によりかかり顔をクシャクシャにして泣き出した。


「ふぇえ…… 私、そんな、グスッ、頑張ったのにぃ…… 」


「泣いてる場合じゃないでしょ。早く掃除しないと明日出社した人にこの水たまり見られちゃいますよ? さ、掃除用具の場所を教えて下さい。まあ、そこの施錠されているかも知れませんが…… 」


 彼女はちいさく「うん…… 」と言ってトボトボと歩き出した。多分、そっちに掃除用具があるんだろう。俺は彼女の後について歩く。ペシャペシャと音を立てて二人分のおしっこの足跡が廊下に刻まれる。


「ん、ここだよ。このロッカーならカギとかないし、グズッ、用具も、勝手に使っていいから…… 」


「はい、ありがとうございます。じゃあ、後は俺がやっとくんで、あなたはもう帰ってください」


「え…… 私も掃除するよ」


「びしょ濡れジーンズで泣いてる人なんて掃除の足手まといにしかなりません。さっさと帰って着替えてください」


 彼女はシュンと落ち込む。間に合わなかったことがよっぽどショックだったのだろう。もう最初の頃の強引さは残っていない。ちょっとかわいそうだと思い、俺は彼女の頬をつまみ、上にぐいっと引っ張った。


「にゃ! にゃにすりゅの〜」


「口角をあげてます。口角上げると楽しいことしか考えられなくなるって昔、ドラマの監督に教えてもらったんですよ」


「だかりゃって、おんにゃの子のほっぺいきなり掴む〜? 」


 そういえばそうか。この人は共演者でもなんでもない。ただの一般女性だった。俺は手を離して彼女を開放する。


「はぁ、君、ところどころネジ外れてるよね。幽霊が見えるとか関係なく、そういうところが理解されないんじゃない? 」


「別に理解してほしいとは思ってないですよ」


 彼女は俺の言葉を聞いてなぜかフッと笑う。そんなに面白いことは言ってないと思うのだが……


「それはウソだね。君は理解者を探してる。だから、私の意味わかんないお願いにも付き合ってくれる。いや、私だけじゃない。きっと誰の頼み事でも聞いちゃうんだろうね。そうしてお願いを聞いていれば、いつか自分に真剣に向き合ってくれる人が出てくると思ってるんだ」


 返す言葉もない。その通りだ。俺は誰かにわかってほしい。突然、無に向かって話しかけるのも、なくし物が多いのも、朝起きれなくなるのも、全て俺だけのせいじゃないし、俺だけではどうしようもない。だから、俺のことを理解して助けてくれる人がほしい。もう助けてくれなくてもいい、ただわかってほしい。それだけで気持ちがラクになる気がするのだ。


「でもその役、私以外には難しいと思うなぁ。普段見えてないものが見える人を理解するには並外れた推理力が必要だもん」


 俺が言葉を返せないことを察して彼女は調子に乗る。さっきまで粗相をして泣いていた人とは思えない。というか現在進行系で濡れたジーンズと下着をつけているのになぜ調子に乗れるのだろう? 俺の疑問まではさすがに推理できなかったようで、彼女はそのままの調子で話を続けた。


「まぁ、私もこの推理力で煙たがられてた時期があったし、君みたいな子の気持ちはよ〜くわかっちゃうんだな〜。もしかして私達、最強コンビかもね! 」


「そうですかね。俺はそうは思いませんが」


「素直じゃないね〜。今日だって楽しかったでしょ? 君、お仕事以外の話ができる機会なんてあんまりないだろうし」


 やっぱり言葉に詰まる。全部正解だ。最初は弱みを握られイヤイヤ検証に付き合っていたけど、正直ちょっと楽しかった。それに人と仕事以外で話すのは久しぶりだった。この人には全部お見通しみたいだ。


「ね、これからもっと仲良くしよ。あ、そうだ。これからは”君"じゃなくて名前で呼ぶね。えっとテレビで見た名前はたしか…… 高島たかしま れいくんだったよね? 」


「はい、あってますけど…… 」


「じゃあ冷くんって呼ぶね! 私のことも好きに呼んでいいよ! 」


「いいよと言われてもそもそも俺、あなたの名前を知らないんですけど…… 」


「えぇ! 私、名乗ったでしょ? 御手洗みたらい 知佳ちかだよ? 覚えてない? 」


「覚えてないというか、今初めて聞きましたよ。というかそんなことどうでもいいんで早く掃除して帰りましょうよ」


 彼女、御手洗さんは「あ、そうだった」と言ってロッカーを開け、モップを二つ手に取った。そしてその一方を「はい、冷くん」と言って俺に渡してきた。俺はそのモップを受け取り、エレベーターの前まで向かう。


 変な気持ちだ。胸はドキドキするし、もっと御手洗さんと一緒にいたいと思ってしまう。強引だし、変な格好だし、粗相はするし…… 欠点ばかりだけど、なぜか御手洗さんから離れたくない。


(そっかこれがホントの友達か…… )


 この日、俺に本当の友達ができた。


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