夜の船
宝力黎
夜の船
捜査一課の渡来浩二は現場に一歩足を踏み入れて首を傾げた。
「急に止まんな!」
後をついてきた同僚の千田達彦は浩二の背中にぶつかりそうになって怒鳴った。
「なんだこれ?」
「なにが!」
背後から顔を出して千田は部屋を見回した。現場は二階バルコニーと説明されている。その手前はリビングになっているが、宴会の後のようだった。ガラステーブルには食べ残したピザが中央に置かれている。ワイングラスが四つと紙皿がやはり四人分ある。
「ケーキ?」
千田が前に出てテーブルを見回す。
「ロウソクがあって――これって…」
「壁を見ろよ」
浩二に言われて壁を見た。
「こりゃまた……」
壁には拡大コピーしたと思われる文字が貼り付けられている。
「HAPPY BIRTHDAY?日付は今日だな。被害者、今夜が誕生日だったのか。なんとも切ないな」
紙の周りを囲むようにバルーン文字でも《おめでとう!》と飾られている。部屋のいたる箇所に風船が浮かび、揺れている。
「ロク(遺体を表す警察隠語)はバルコニーです」
鑑識課員に言われた。千田は立ち上がった。バルコニーでは鑑識課員が真剣な表情で作業をしていた。
「すげえな」
遺体など見慣れた千田が思わず声にした。二人は同時に手を合わせた。
「戸建てだが、広いバルコニーだな。その中央に置かれたテーブルセットで、胸を一突きか」
浩二は鑑識課員によって敷かれたシートの上を通り、遺体の傍に立った。
「犯人はガイシャの前に立って、こう――か」
千田がナイフを繰り出す真似をした。浩二は黙って遺体を見た。夥しい血が遺体の前方に飛んでいた。その血痕を、ジッと見つめた。
「発見時から遺体は動かしてない?」
傍の鑑識課員に尋ねる。若い鑑識課員は「はい」と答えた。
浩二の視線はさらに遺体の右手に移った。
「テーブルの上にはノートパソコンと、グラスが一つ……」
夕方から若干風が出ると予報が出ていた。千田は月の無い暗い空を見上げた。
「予報じゃあもうすぐ雨って話だ。月も無いそんな夜にバルコニーで何やってたんだろうな」
浩二はパソコンの位置を見た。
――扱おうと思ったら少し遠くないか?それにグラスも……。
室内にあったものと同じワイングラスがパソコンの右隣に置かれている。
近くで聞いていた所轄署の若手刑事は千田に答えた。
「被害者ですが、作家だそうです」
「作家?なんの?」
「ミステリー専門の――だそうです。本名は鍋島太一で、作家名が四季丘蓮次郎――結構売れた人らしいです」
「へえ……」
空を見上げて事切れている遺体を千田は感心した様子で見た。
「第一発見者は?」
尋ねた浩二に若い刑事は向き直って答えた。
「出版社の担当――という人物です。約束の時刻に部屋に来たら亡くなっていて驚いたそうで、通報した後気を失ったようです。いま病院にいます」
「そりゃあたまげるよな。この死に様じゃあ」
遺体は苦悶の表情を浮かべている。
「約束って言った?何時に約束してたんだ?通報は午後十時少し過ぎだと聞いたけど」
「えっと……」
メモを見返した。
「約束は午後十時だったそうです」
「死亡推定は?検視はなんて?」
「血の凝固はこの気温下でアテにならないそうですが、おおよそ午後九時から後だろうと言われて……でも最大の問題は――」
「凶器が無い」
浩二が言った。
「はい。胸には突き刺した痕があるのに凶器が見当たりません」
「んなもんは持って逃げたんだろう?」
千田は気にもとめない。
「突き刺したナイフを抜いて、か?それはどうかな」
浩二は遺体を見つめて言った。
「なんでだよ?普通じゃ無いか」
浩二は答えず、部屋に入った。なにかを探している様子だ。若い刑事がなにをお探しですか?と尋ねると、浩二はぼそりと《その名》を呟いた。
「あ、そう言えばそうですよね」
若い刑事は一緒に探し始めた。千田はまだバルコニーで鑑識と話をしている。
「見当たらないですね」
「あるはずだよな」
「どういうことでしょうか?」
浩二は思案し、一つの可能性を若い刑事に話した。黙って聞いていた刑事の顔色が見る間に変わった。
「でも、そんなこと可能でしょうか?」
「数次第だな。あとは、本人の気力か」
二人そろってバルコニーに出た。浩二は湿った風の吹く空を見上げ、遺体に呟いた。
「俺の想像が正しければ――」
「なあ、何で判ったんだ?」
千田は自販機前のベンチでコーヒーを啜る浩二に訊いた。所轄に立っていた捜査本部は先刻解散した。四季丘蓮次郎の死は自殺と断定されたのだ。浩二は虚ろな目つきで話した。
「最初に感じた違和感は《血》だ。現場の状況から考えても、被害者は《椅子に腰掛けたまま胸を刺された》はずだ。周辺には暴れた様子など無く、胸から出た血は服とズボンを濡らして椅子の下へと流れてたからな。強盗の類いで無いことは明白だ。油断させて正面から突き刺せるのは知り合いだけだし、周辺には争った痕跡など無かった。となれば、知り合いの誰かがその場にいなくてはならない。だが、それはおかしい」
「どうおかしいんだ?」
コーヒーを啜る浩二の横顔を千田は見つめた。
「血しぶきだ」
意味が分からないのか、千田は黙ったままだ。
「胸を一突き。それはいいだろう。だが、あの血しぶきを見たか?テーブルに向かって飛んでただろ?」
千田は思い出し、頷いた。
「なあ、今も言ったが、被害者は座ったまま刺されたはずだろ?なら刺した奴はどこにいたんだ?最初の血しぶきは《そいつ》に向かって勢いよく飛び散ったんじゃ無いのか?だが、血しぶきは男の前にあるテーブルに、まるで噴霧器で蒔いたように散っていたんだぞ?透明人間だって物理的に存在してるんだから血しぶきを自分の身体で受け止めるはずだ。そして、椅子から落ちることも無くほぼ即死で心臓を止めたのなら血の勢いはすぐに収まったはずだ。つまりあの勢いよく飛び散った血しぶきは、四季丘の前には《誰もいなかった》ことを意味してるんだ」
「管理官たちにもそれを言ってたよな?俺が不思議に思ったのは《アレ》の件だ。なぜ《アレ》で凶器を隠したと踏んだんだ?実際、少し離れた場所で見つかったわけだが」
浩二は吐息を零した。
「実際にパーティーなどやっちゃいなかったんだ。あれは四季丘本人が仕込んだんだよ。紙皿からは四季丘以外の指紋が出てない。それはいいさ。あるかもしれん。ではバルーン文字はどうか。あれは駅のおもちゃ屋で購入したことが判ってる。ただ、部屋に浮かんでた風船は同じ店で買ってない。おそらくもっと以前に買って用意しておいたんだろう。その際、ボンベも買ったはずだ。何しろ浮かんでくれなきゃ困る風船だからな」
千田は唸った。
「そのボンベが見当たらなかったってことで、お前は四季丘の狂言を疑ったわけだ」
浩二は頷いた。
「おそらく真相はこうだ。まず買ってきたバルーン文字で壁を飾った。同じく買って用意したピザなんかを《食べたように見せかけるため》屋根上とか、目立たない場所に捨てた。グラスは何人かいたように見せるためだが、それは捜査を攪乱する目的じゃ無いかと思う。誕生日パーティーが実際に行われ、誰かが来ていたように思わせたかったんだな。そしてバルコニーだ。自分のパソコンを、いつも通りに作業していた風に見せかけて配置し、ナイフを取り出した。ナイフの柄にはあらかじめフックを付けておいた。そしてここからが四季丘の執念を感じさせる部分だが、四季丘は自分の胸部若干下に刃先を当てて、テーブルに突っ伏したんだ。何であれ、痛みで反射的に仰け反るかしただろう。あるいは意識は確りしていたかもしれない。その四季丘が、自らナイフを抜き血しぶきが噴いた。だから四季丘の利き手である右手には他より以上に多く血がついていたんだよ。抜いたナイフは――」
「柄に付けたフックにあらかじめ繋いでおいた大量の風船で宙に……」
千田に頷いて見せた。
「そうだ。あの夜の風向きなどから凶器が飛んで行った方向を探させたら、こっちが見つける前に通報があった。浮かんだことは浮かんだ。だが重さから考えてもそう長く飛ぶことは無いだろうから、早晩見つかるはずだと思ったが、案外早かったわけさ。空になったボンベはまだ見つかっていないが、それも同じだ」
「一番判らんのは動機だ」
「そうだな。その辺は担当者が話してくれたよ。あの先生、ここ数年不調だったそうだ。時刻の約束は、雨が降り、現場に《物語的な意味が無くなる》前に発見させるつもりだったからだろう」
「それで死ぬのか?書けないだけで?自分を殺す話を書くってか?」
「千田、刑事は捜査に出られないなら死んだも同じだ」
千田は黙った。
「その世界にはその世界の《死にも等しいなにか》があるのさ」
浩二は黙り、残ったコーヒーを啜り終えて紙コップを握りつぶした。
「最後に書きたかったんじゃ無いのかな」
浩二は鑑識から聞いていた。四季丘のパソコンはスリープ状態で、動かすとワープロが作動したと。白紙のそこにはただ
「なにをだよ」
潰れたコップをくずかごに放り込んで浩二は言った。
「自分なりに満足いく作品を」
夜の船 宝力黎 @yamineko_kuro
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