冷やし中華始まりました

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冷やし中華始まりました

 夏の太陽は、容赦なく街を照りつけていた。

 蝉の鳴き声が重く空気に漂い、アスファルトの表面は揺らめく熱気に包まれている。

 ラーメン屋『ラーメン日下くさか』の店先にも、その暑さはじわじわと押し寄せ、暖簾のれんが静かに揺れていた。

 店の中はエアコンの涼しい風が吹き抜けているはずだが、外の熱気が感じられる程、この日は特別に暑い。

 店内には客の姿はなく、一人の中学生少女がカウンターの奥に座っていた。

 ショートヘアと気さくなボーイッシュな雰囲気が爽やかな印象を与える少女だ。

 時折青空を見上げる姿には、明るく清々しい輝きがあり、まるでその爽やかさが光となって空気に溶け込んでいるかのよう。見方によっては童心を持った男の子のようにも見えるが、イタズラっぽく笑う時に覗く八重歯は、まるで子猫のような愛らしさを醸し出している。

 やんちゃで元気いっぱいの彼女は、その無邪気さが自然と人を惹きつける魅力を持っていた。

 名前を日下くさか由貴ゆきと言った。

 由貴は短パンにTシャツというラフな格好の上に首掛けエプロンをし、頭巻きタオルを巻いたスタイルだった。

 この暑苦しい格好で動き回るのは、この店では見慣れた光景である。

 由貴は顔をカウンターに突っ伏し、ぼやいていた。

「ヒマや……」

 彼女の視線の先にあるのは、壁に掛けられた時計。

 時刻は午後2時を回ったところだ。

 書き入れ時のピークを過ぎたとは言え、まだまだ営業時間真っ最中の時間である。

 しかし、今店にいるのは彼女一人しかいない。

 本来ならばこの時間は忙しくなるはずだったのだが、店主であり父も母も由貴に、店を任せてどこかに行ってしまったのだ。

 店の面には『準備中』の札をかけてあるので、客が来ないのは当たり前で、由貴の役割は父と母が帰って来るのを待つだけの留守番係なのだ。

「いつになったら帰って来るんや」

 ふと、由貴は独り言を漏らした。

 店の中の静寂に、自分の声がやけに大きく響く。まるで、その一言で空気が重くなり、店の中に残る一抹の涼しささえも消えてしまったかのようだ。

 すると店先に人影が映るのを由貴は見た。

「あれ? 準備中だって」

 と少年の声がした。

 由貴は、その声に反応する。

 なぜなら、由貴のよく知っている声だったからだ。

(お、この声は)

 由貴はヒマだっただけに嬉しくなって、体を起こして立ち上がると急いで表の引き戸を勢いよく開けた。

 そこには、思った通り見知った顔があった。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名前を佐京さきょう光希こうきと言った。

 すっきりしたカーゴパンツ。Tシャツに落ち着いたチェックのシャツを羽織った地味だけど清潔感があった。

「光希、よう来たな。ヒマしとったんや、今親も居らへんし一緒にやろうや!」

 由貴は嬉しそうに言った。

 由貴は彼を親友として慕っていた。彼は、とても優しく、そして面白いヤツだ。

 だから、こうして来てくれるだけで嬉しい気持ちになる。

 一方、光希の方はと言うと、あまり嬉しそうな表情ではなかった。

 どちらかと言えば、困っているような顔をしている。

 唐突に現れた由貴に対して、どう対応していいのか戸惑っている様子だ。

 それでも、由貴は気にしない。

 由貴は、光希の手を引いて店の中へと誘う。

 すると光希は視線を逸らせ。いや、一方に視線を向けていた。

 由貴は、それに気づき、そちらに目を向けると、一人の少女がいた。

 黒のタンクトップに軽くフィットしたジャケットを羽織り、脚にはぴったりとしたスキニーパンツを合わせている。無駄のないスタイルが彼女の引き締まった体を強調し、どこか凛々しさを感じさせた。

 肩のあたりで揺れる毛先が大人可愛いワンレンミディアムヘアの少女。

 身長は高く、スタイルが良く顔も整っているため、美少女と言って差し支えなかった。

 しかし、その外見とは裏腹に、目つきは鋭い。

 つり上がった大きな瞳は、まるで獲物を狙うかのような鋭さを帯び、常に強気なオーラを放っている。その攻撃的な雰囲気は、彼女の勝ち気で負けず嫌いな性格を一目で物語っていた。

 見知らぬ少女に由貴は警戒する。

(誰やコイツ)

 心の中で呟くと、自然と表情が強張るのを感じた。

 それは少女も同じだった。


 ◆


 由貴は、光希と連れの少女を店内に案内した。

 光希と少女はカウンター席に座り、由貴は厨房に入った。

 冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出すと、グラスに注ぐ。氷を入れるとカランと音を立てて溶けていく。

 その間に、由貴は少女の顔を横目で盗み見る。同じ中学校の人間を全員知っている訳ではないが、見かけたことの無い少女だ。

(やっぱり知らん子やな)

 そう結論付けつつ、由貴は麦茶を持って二人の所に向かった。

「暑かったやろ。まあ、冷たい麦茶でも飲み」

 麦茶を差し出され、少女は「ありがとう」と口にするが、他人行儀な口調は崩さない。

「ありがとう。まさか準備中だって知らなくてさ」

 光希は由貴に慣れ親しんだ口調で、お礼を言い、由貴もそれに応える。

「ええよ。ウチと光希の仲やん」

 そう言って笑う由貴に対し、少女は目を見開いて光希と由貴を見ていた。

「……よ、呼び捨て。佐京、アンタ女子を名前で呼ぶ女の子なんて居なかったじゃない。……え、何。……も、もしかして。か、彼女?」

 少女は驚きながら言うので、思わず二人は笑ってしまう。そんな二人を見て、少女はますます困惑するのだったが、光希はあっさり否定した。

「違うよ。由貴とはクラスメイト。……あれ? どうして名前で呼ぶようになったんだっけ?」

 光希は頭を傾げた。

 由貴は呆れる。

「クラスで腕相撲大会やった時に、決勝を争ったのがウチらで、意気投合してから仲良くなったんやで! 忘れたんか? いや~あの時は楽しかったわ~」

 懐かしむように話す由貴に釣られて、光希の表情にも笑みが浮かぶ。

 だが、反対に目の前の少女は自分だけが蚊帳の外になっている状況に苛立ちを募らせている様子だった。

 由貴は訊いた。

「ところで、そっちの娘は光希とどういう関係や?」

 光希は、そこで初めて少女のことを紹介していないことを思い出す。

「そうだった。こっちはあんさん。僕の小学校の時の友達なんだ。ついそこで偶然会ってね、つい話し込んでたんだけど、炎天下なのもなんだし、僕が知ってるお店でご飯でも食べようってなって、ここに来たんだ」

 紹介された少女は、ぶっきらぼうに名乗る。

「……あん理紗子りさこよ」

 理紗子は、そっけない態度ではあったが、由貴は名前を教えてくれたことに安堵しつつ、今度はこっちが自己紹介をする番だと気づく。

「ウチは、日下由貴や。由貴でええよ」

 その豪胆な口ぶりに、理紗子はどうして光希が、彼女のことを名前で呼んでいるのか納得したようだったが、どこか煮えきらない様子である。

 何か言いたいのだが言えない。そんなもどかしい空気が流れていた。

 その空気を由貴は読んでいた。

 理紗子の光希を見る目には好意が見え隠れしているからだ。

(へえ。おもろいやんか。ウチと光希は中学になって知り合ったけど、小学校時代の女が今更しゃしゃり出て来たちゅう訳か……)

 由貴は少し面白くなって来たと思った。過去の交友関係が、現在進行系の自分にかなうはずもないのだ。

 だったらどうするか。答えは一つしかないだろう。

(この女には、負けてられへんなあ……)

 由貴は、自分の口角が上がるのを感じた。それは、とても良い笑顔をしていたに違いない。

 理紗子は、由貴と光希の二人が名前で呼び合っていた時の反応からして、片想いなのは明らかだ。

 だから、わざとらしく言ったのだ。

「それにしても、親がおらん時に光希が偶然尋ねて来た時はチャンスやと思うたのに、残念やな~」

 由貴は、向かい側のカウンター上に肘を突き、理紗子を邪魔者扱いするような視線をぶつけた。

「……な、なによ」

 理紗子は邪推し始める。

「ウチ、光希とは今の友達なんや」

 由貴が挑発してきていることを理紗子は感じ取る。

(何よ。この女、私に喧嘩売ってるの?)

 怒りが込み上げてくるのを感じながらも、冷静さを保とうとする理紗子だったが、光希とは小学生時代からのクラスメイトだ。付き合ってきた時間も一緒にいた時間も、中学になって知り合った女よりも長い。

 そんな大事な時間を、ぽっと出の女に奪われてたまるかという感情が沸き上がってくるのを抑えられなかった。

「言っとくけど。私、こう見えてお菓子作りとか得意なの。私の手作りチョコレートケーキを食べてもらったこともあるんだから!」

 自信満々と言った様子で胸を張る理紗子に、由貴はそれがどうしたとでも表情をする。

「何やチョコレートケーキくらい。その程度ウチだって……」

 由貴の言葉を遮るように理紗子は言う。

「卒業間際のことだけど、2月14日に佐京と一緒に私の部屋で一緒に食べたの」

 自慢げに語る理紗子に対して、由貴は一瞬言葉に詰まる。

(……2月14日やて。それってバレンタインやんか。しかも自分の部屋に男を連れ込むなんて、ウチでもしたことないのに……)

 由貴は自分が圧倒的に有利な立場に居たと思っていたのに、一気に形勢逆転されてしまった気がした。

 それは、そのまま表情に現れ、それを見た理紗子は追い打ちをかけることにした。

 理紗子は光希に訊く。

「ねえ。佐京、私の部屋に来た時、私がなんて言ったか憶えてる?」

 光希は困った表情になる。

「え? 安さんの部屋でチョコレートケーキをご馳走になって、言われたこと??」

 彼は記憶を辿ってみるものの、すぐには思い出せなかった。

 理紗子は、そんな光希の様子にイライラを募らせる。

(コイツ、本気で忘れてるんじゃないでしょうね?)

 理紗子は心の中で悪態をつく。理紗子はカウンターに置かれていた酢の入った小瓶を持つと、これみよがしに酢でカウンターを軽く叩く。


 酢


 それを見て光希は思い出す。

「そうだ。あの時、安さんに《好き》って言われたんだったね」

 光希の言葉に思わず顔を赤らめたのは、他でもない理紗子だった。

「小学生の頃は、安さんと意見が対立してて嫌われてたと思ってたけど、そんなことなかったんだって分かって嬉しかったよ」

 光希は照れながらも嬉しそうな顔をする理紗子を見て、自分の気持を口にした。

「僕も好きだよ。安さん」

 光希は、あっけらかんと言い放った。

 光希の言葉が空間に響いた瞬間、まるで時間が止まったかのような静寂が部屋に広がった。理紗子はその場で固まり、頭の中が真っ白になる。顔は火照り、胸の鼓動が激しく鳴り響いていたが、表情だけは何とか取り繕った。

(ウソ。……今、私に「好き」って言ったの?)

 理紗子は心の中で必死にその状況を整理しようとしたが、頭の中は混乱したままだ。

 当時、理紗子は恋愛の意味で好きと言ったのだが、光希にはその意味が伝わっていなかったらしく、人間として好きと捉えられてしまったらしい。

 光希の何気ない笑顔に、理紗子は思わず視線を逸らす。動揺している自分を、由貴に見透かされるのは絶対に嫌だったからだ。自分の方が由貴よりも関係が深いことを見せつけるための挑発だったのだが、思わぬ反撃を受けてしまったのだった。

 光希は続けた。

「安さんって、昔から強い人だよね。意見が対立した時も、ちゃんと自分の考えを貫いててさ。そういうところ、すごく尊敬してるんだよ」

 その言葉に、理紗子は胸がさらに締め付けられるような感覚に襲われた。彼が何気なく発する一言一言が、彼女の心の奥に深く刺さる。

「……ま、まあね。これでもクラスの中心的存在だったしね」

 それでも表面上は何も感じていないかのように、理紗子は爽やかに平静を装った。

 一方で、由貴も表情に変化は見せなかったが、内心は静かに揺れていた。

 光希の言葉と様子、雰囲気からして恋愛という意味ではないことは理解できていた。

 だが、こうも他の女に対し、「好き」という言葉を告げる姿を目の前で見せられ言葉を耳にし、心の奥で微かな嫉妬が芽生えたが、彼女はすぐにそれを押し殺した。

(見せつけてくれるやんか。なら、ウチも目に物見せたるわ)

 由貴は、平然とした表情のまま、カウンターに肘をつき光希を見た。

「それにしても。光希、突然女連れで来るとは思わへんかったわ。ウチは二人っきりになれると思う取ったのに」

 由貴は、そう言って少し拗ねた様子を見せると、光希が反応する前に理紗子の方が由貴に目を向けた。

 すると、そこには案の定、勝ち誇ったような笑みを浮かべる由貴の顔があった。

「……そう言えば、さっき由貴。アンタが店先に出てきた時に、ヒマしてたとか、一緒にやろう。とか変なこと言ってたけど」

 由貴は自分の思惑通りに事が運んでいることを感じていた。

「ウチら友達やさかい。一緒に遊ぼう思うたんや」

 その言葉そのものは怪しいものはない。

 しかし、その言葉とは裏腹に、彼女の表情は余裕に満ちているように見えた。

 それに気づいた理紗は言葉の裏を考えるようになる。

 そのタイミングを見計らって、由貴は追撃を行う。

「分かるかな~。つまりフレンドって訳や、楽しい肉弾戦をする仲っちゅう訳や」

 意味深な言い方をしてニヤリと笑う由貴に対して、理紗子は怪訝な顔を見せるだけだった。

 そして、理紗子の頭の中で単語がマドラーでかき混ぜられるかのようにクルクル回る。

(……肉弾戦ってなに? え!? 楽しい。……友達? 何で、フレンドなんて言い方するの。ヒマしてた?? 親が留守……。一緒にやろう……!)

 理紗子の中で、一つの単語が出来上がる。


 ――セックスフレンド


 という言葉が。

 その驚きは突発的に理紗子の表情に現れる。

 由貴はニヤリと笑った。

 理紗子の顔は、瞬く間に真っ赤に染まった。まるで内側から湯気が立ち上るかのように熱く、頭が一瞬真っ白になった。彼女の心の中で、信じたくない現実と、次々に浮かぶ誤解が錯綜している。

(そんな……。ちょっと会わない間に佐京に、そんな女ができてたなんて)

 理紗子は拳をぎゅっと握りしめ、光希の顔を見た。

 だが、光希はいつもと変わらず、何も気づいていない様子で、冷たい麦茶を口にしている。その無防備な表情に、理紗子の怒りはさらに燃え上がった。

「アンタ! 本当に佐京と……そ、そういうことをしてるの?」

 理紗子は声を震わせながら問い詰めた。目は由貴を鋭く睨みつけ、まるで野獣が獲物に襲いかかる寸前のようだ。

 由貴はその反応を見て、面白がるように肩をすくめた。

「ほんなら、光希に聞いてみたらええやん。ウチらがどんな《楽しい時間》を過ごしてるか、なぁ?」

 話を振られて光希は戸惑うものの、慌てたように目をぱちぱちさせる。

「冗談やめてよ。僕がいつ楽しんでるって? いつも、やられっぱなしなのに」

 光希は避けたい話題であるかのように苦笑いを浮かべた。

「やられてる!? 佐京、アンタ男のクセに女の由貴にやられてるの!?」

 光希の言葉に驚愕し、顔を真っ赤にしながら怒る理紗子を他所に、光希は困った表情を浮かべたまま答える。

「一方的って訳じゃないけど……。そこそこいい勝負をしてるよ」

 光希は答えた。

「い、いい勝負って……」

 理紗子は顔を、さらに真っ赤にしたまま、心の中で怒りと困惑が入り混じり、まるで火山のように沸騰していた。彼女は光希と由貴を交互に見つめ、ついには耐えきれずに立ち上がって一歩引いてしまう。

 由貴はニヤニヤしたまま、楽しそうに理紗子をチラリと見た。明らかに動揺し取り乱す彼女を見下すような態度だ。

「せやで。光希の方の突きは、力強うてな。ウチの急所を的確に狙って来るんで、腰が砕けそうになるんや」

「そういう由貴こそ息もつかせない突きの連続なんか貰ったら、僕の体力が一気にうばわれるんだから」

 光希の言葉に理紗子の想像に拍車がかかる。

 理紗子の脳裏に、汗を滴らせながら淫らに組み合う二人が腰を動かしている姿が浮かんだ。想像しただけで悔しくて堪らない気持ちになる。

「佐京!」

 理紗子は一気に光希の顔に詰め寄る。

「アンタ、由貴と何してるの? 中学生でしょ! 一緒にいる時、何をやってるのよ!」

 理紗子の剣幕に光希は気圧されつつも答えた。

「何って……。ほら、安さんと僕がしていたことと同じことだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、理紗子の表情が凍りついた。

(え!? 私と佐京がしてた?? ……いつよ、私キスだってしたことないのに!! そのうえセックスなんて……。嘘でしょ! そんな……ありえないわ)

 理紗子は両手で頭を抱え込み、混乱した頭で必死に考えるが答えが出ない。その間に由貴が興味を寄せてくる。

「へえ。光希、その女ともしよったんか。ええ体つきをしとると思う取ったやけど、そうなんか?」

 カウンター越しに少し身を乗り出した由貴に、光希が頷く。

「安さんは、日本拳法をしているんだよ」

 その言葉に、由貴の瞳が輝きだす。

「そうなんか。そらおもろいな。いっそのこと、3人でしてみんか?」

 由貴の提案に、理紗子は一人過剰に反応した。

 理紗子の心臓は一瞬で早鐘を打ち始め、冷たい汗が額に浮かび上がった。彼女の脳内では、光希と由貴、そして自分の姿がありえない状況で絡み合うイメージが次々と押し寄せてきた。

「3人で……。ですって!?」

 理紗子は信じられないという顔で由貴を睨みつけたが、その目には恐怖と混乱の羞恥の色が見え隠れしている。視線は次第に光希にも向かい、落ち着いた光希の様子に信じられない気持ちでいっぱいになっていた。

(なんで、私が……光希と、そして由貴と!? そ、そんなこと……!)

 理紗子の頭の中では、ありえないことが次々と浮かび、言葉にできないほど混乱していた。由貴が「3人でしてみんか?」と言った瞬間から、彼女の思考は完全に停止し、ただ茫然とその場に立ち尽くすしかなかった。

 由貴は理紗子の反応を見てニヤリと笑い、からかうように声を掛けた。

「なんや、理紗子。ビビっとんのか? そんな怖がることあらへんで。ウチらと一緒にやったら、すぐ慣れるわ。日拳で鍛えた実力を見せて欲しいわ」

 その言葉に、理紗子の頭の中はさらに混乱を極めた。まるで底なしの沼に足を突っ込んだかのように、抜け出せない恐怖と羞恥心が絡み合う。

「慣れるって、由貴! アンタ、ちょっと何言ってるのよ!」

 理紗子はついに声を張り上げ、顔を真っ赤にして抗議した。声は震え、目には涙が浮かび始めている。

「私、そんなの無理よ! 絶対無理! そんなの、光希だって……!」

 理紗子は光希に縋るような目で見つめる。

 光希は困惑した表情を浮かべていた。

「そうだよ。どうせ僕が2人に同時に攻められるだろ。僕の体力が持つわけないだろ」

 そう言って苦笑する光希に、理紗子は想像する。

 女の自分が、男の光希を攻めている姿を。

 2人一緒に彼を責め立てる様を。

 いやらしく彼の体を貪り、快楽に溺れさせていく自分を……。

 それを想像した途端、理紗子は自分の顔が再び熱くなるのを感じた。思わず視線を逸らしてしまうほどに恥ずかしくなる。心臓がドキドキ高鳴り始めたのだ。それが怒りによるものなのか、それとも興奮なのか分からなくなるほどだった。

 しかし、時間と共に不思議と嫌悪感はないことに気づく。むしろ好奇心に駆られている自分に戸惑いを感じていたのだった。

(私は何を考えているのかしら……?)

 理紗子は自分の心に芽生えた感情を理解できず、ただただ戸惑うばかりだった。

 そんな様子の理紗子を見て、光希は困ったように笑った。

「由貴の提案に付き合うことないよ。こんな暑い日に外で動いたら、汗で安さんの服が汚れちゃうよ」

 その言葉を聞き、理紗子の表情が一変する。

「そ、外!? 光希と由貴って、いつも外でしてるの!?」

 驚く理紗子に、由貴は面白そうに答える。

「当たり前やん。部屋ん中でしたら、狭うて動きにくいやん」

 ――野外プレイのことは聞いたことがあっただけに、理紗子の顔が真っ赤になった。

(まさか……本当に屋外でしてるの!?)

 信じられない思いで由貴を見るが、彼女は涼しい顔だ。

「ひ、非常識よ二人共。そんな破廉恥なこと平気でするなんて、私達は中学生なのよ。分かってるの!?」

 理紗子が責めるように叫ぶと、光希は首を傾げた。

「……安さん。何か勘違いしてる?」

 その一言に、理紗子はドキッとした。心を見透かされたような気がして、動揺してしまう。

「何言ってるの。 だって、さっきから《やられてる》とか《攻めてる》とか、そんな話ばっかり……!」

 そんな彼女の様子を気にすることなく、光希は答えた。

「僕たちは、組手の話しをしてるだけだよ」

 その言葉に、理紗子は呆けてしまった。

 ハッとしたように息を飲んだ。

 確かにそれなら小学校時代に光希としたことがあった。勝ち気な理紗子は負けることが嫌いで、光希が武術ウーシュー(中国武術)をしていることを聞いて、自分の日本拳法とどっちが強いかと組手をしたものだ。

 脳内でフルスピードで組み立てられた彼女の誤解は、瞬時に崩れ去り、恥ずかしさが波のように押し寄せてきた。

「く、 組手……?」

 理紗子の耳に呼吸困難になったかのような荒い息遣いが聞こえたかと思うと、すぐに大きな笑い声に変わった。それは、カウンター向こうで話を聞いていた由貴だった。よほどおかしかったのか、お腹を抱えて笑っている。

 由貴は笑いをこらえきれず、ついに大声で笑い出した。

「 理紗子、ほんまに勘違いしとったんやな。おもろいわ! あはは!」

 理紗子の頭はパニック寸前だ。顔が真っ赤になり、恥ずかしくてたまらない気持ちになった。

(私ったら……なんて恥ずかしいことを……)

 穴があったら入りたい気分だが、もう手遅れである。理紗子の顔はさらに赤みを増していき、耳まで真っ赤に染まっていた。

 そんな様子を横目で見ながら、由貴はまだ笑い続けている。

「ちょっと、人を変な方向に誘導――」

 理紗子が怒りを露わにしてカウンター越しに由貴に詰め寄って文句を言っている最中、突然その言葉が途切れた。

 何が起こったのか彼女自身が気づく間もなく、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

 目の前に拳があった。

 あまりに近過ぎて、暗くなったことに理紗子は気づき驚いた。

「話は終わっとらんけど、見せたるわ、ウチの実力を」

 由貴はニヤリと笑い、肩と腕の力をぬいた構え・捫門勢らもんぜいと呼ばれる翻子拳の構えを取る。

 その瞬間、空気が一変した。

 理紗子の目には由貴の動きがまるで消えたかのように映った。

 次に感じたのは、顔に伝わる鋭い衝撃。

 由貴の拳はまるで暴風雨の中で荒れ狂う波のように、ひとつひとつが見えないほどの速さで彼女の顔に寸止めで叩き込まれた。

 拳のひとつひとつが重く、鋭い。

 まるで一瞬で鉄の嵐に飲み込まれたかのような感覚だった。

 由貴の拳はただ速いだけでなく、的確に彼女の弱点を狙いすまして打ち込まれていた。

 理紗子の視界が揺れ、足元が不安定になる。

「どうや、これがウチの拳法やで。豪雨の如く打ち込む拳、止まることなんてあらへん」

 由貴は楽しそうに言い、得意げにした。

 理紗子は、どういうことか尋ねるように光希の方を見た。

「由貴って、佐京と同じように武術ウーシューを使うの?」

 そう聞かれた光希は、素直に頷いた。

「翻子拳。モハメド・アリでさえ学びたいと言わしめた拳法だよ」

 それを聞いた瞬間、理紗子は納得したように小さく頷く。


【翻子拳とモハメド・アリ】

 1985年5月。

 翻子拳は世界的に有名な格闘家にすら、その技術の優秀性を認めさせることになる。

 格闘家の名前はモハメド・アリ。WBA・WBC世界ヘビー級チャンピオンであり、ボクシング史上不出世のスーパースターとして、あまりにも有名な人物だ。

 彼は熱心なイスラム教徒としても有名で、国家体育運動委員会の招待に応じて、中国を訪れた時、西安のイスラム寺院も参拝した。

 西安では、アリの訪問に対して歓迎パーティーを開いたが、その席上には翻子拳の達人・馬賢達がいたことが発端になった。宴の場で、中国の武術に興味を示したアリが馬賢達に簡単な立ち会いを申し出た。

 馬賢達はそれに応じ、アリに対し拳を突き出した。

 すると、何とアリは馬賢達の拳が顔面スレスレに近づくまで、まったく反応できなかったのだ。

 結果、アメリカの教科書にも名を載せるグレートチャンプは、

「ぜひ、その武術を学びたい」

 と言って、翻子拳を誉め讃えた。


 理紗子は、改めて目の前にいる少女を見つめた。

 不意打ちに近いものだったとは言え、日本拳法で鍛えた自分が微動だにできなかったのだ。それも一発ではなく、数発の打撃を受けていたことになる。

 しかも、まだ本気を出していないことは明白だ。

(この娘……強い)

 理紗子は心の底からそう思った。

 ゴクリと喉を鳴らした。

 同時に胸の鼓動が高まり、息苦しくなるほどだ。

 しかし、それと同時にワクワクしている自分がいることにも気づいていた。

「あーおもろかった。ヒマしとっただけに、良い暇つぶしになったわ」

 由貴は背伸びをしてから嬉しそうに言った後、再び悪戯っぽく笑う。その笑顔には年相応の幼さが垣間見えており、先程までとは打って変わって無邪気さすら感じさせた。

 その様子を見て、光希も安心したように言う。

「なら2つ作ってもらうかな。表にあったメニューを食べに来たんだから」

 その一言を聞いた途端、由貴の表情はパッと明るくなった。彼女は目を輝かせて言う。

「せやな。ウチ特製冷やし中華をご馳走したるわ」

 そう言って鍋に湯を沸かし始め、冷蔵庫から取り出したハムやキュウリなどの具材を手際よく切っていく姿は実に楽しそうだ。その手つきを見ているだけで料理の腕前の高さが窺えるほどだ。

 光希と理紗子の2人はカウンター席に座って待つことにした。

「私と離れてる間に、いい性格の友達が出来て良かったわね……」

 理紗子が皮肉を込めて言うと、光希は少し困ったように笑った。

「……佐京、冷戦って知ってる?」

 2人の間に沈黙が流れた時、不意に理紗子が呟いた言葉に光希は歴史の授業で知ったことを口にする。

「確か、第二次世界大戦後の米ソ二大国を軸として東西を二分した陣営の対立のことだよね。武力は用いないが、激しく対立・抗争する国際的な緊張状態。それがどうかしたの?」

 光希の問いに、理紗子は小さく笑った。

「別に。それを自分の身を以って、初めて知ったような気がしたのよ」

 理紗子は表にあった、《冷やし中華始めました》の張り紙を思い出す。

 由貴は悪い女ではない。

 友達繋がりから、もう理紗子の友人になったと言ってもいい。

 だが、決して相容れないもの、絶対に譲れないものがあった。

 理紗子は光希の横顔を盗み見る。

 彼の柔らかい髪がエアコンの小さな風に揺れ、無邪気に笑ってその顔は、小学生の頃から何一つ変わらない。光希の姿に、彼女の胸が自然と締められる。

 小学生の高学年の頃からずっと一緒だったから、いつの間にか「特別な存在」であることが当然になってしまっていた。自分こそが光希のことを知っている理解者だと思っていたが、彼が他の誰かと親しくすることに、自分の心がこんなにもざわつくなんて、理紗子は思ってもみなかった。

「私にとって、《冷やし中華始まりました》ってとこかしら」

 理紗子は厨房に立つ由貴を見た。

 武術ウーシューを使う由貴に、理紗子はいずれ何かの機会に拳を交じえることになるだろうという予感を抱いていた。

 理紗子の視線を受けて、由貴は彼女と目が合う。

 その表情は余裕に満ち溢れているように見えた。

 そんな視線に気づいたのか、由貴は今から勝ち誇ったように笑う。それから挑発するようにウインクをするのだった。

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