第30話 月が綺麗ですね

 船は、瀬戸内海を進み、折り返し地点を過ぎて、元の陸地に戻りつつあった。



 明石の、煌びやかなイルミネーションのような工業地帯の光を浴びながら、デッキで風に当たっている。



――隣には、ジト目の夏目が居る。



「え、冗談じゃなくって、本当に?」

「何度でも言うよ、悪いことじゃないから。わたしは、君のことがとっても気になっている」



 それは真実か。それは、夏目の本心からの言葉であるかと、何度尋ねても、答えは変わらなかった。「気になる人とか、いないの?」という問いに対して夏目は、臆することなく、ただ端的に「君」と言ったのだ。



「君」は、まさに、自分のことだと、ゆずるは自覚して、体を芯から震わせた。




 横の夏目をちらっと見ると、眼鏡越しのジト目をこちらに向けていて、ばっちり、視線が交わってしまって、気恥ずかしい。



 すぐさま視線を逸らすが、その隙を見逃してくれない。


「入学当初は、正直に言うと、君に興味がなかった。ただ、くるみちゃんを通して君を知るたびに、気になっていったんだよ」



 またちらっと夏目のほうを見ると、視線は夜景の光ではなく、ゆずるのほうへ向けられて固定されていた。



 気になっていると言われて、悪い気はしないのだ。それは、相手が自分を、何かしらの形で評価してくれていることの表れだから。


 ただ、こうも真っすぐに、率直に言われてしまうと、首を掻く指が無意識のうちに止まらなくなっていた。



「君は、芸術が好きなんでしょう?」

「まあ、うん……趣味で絵を描いたり、本読んだりしてるぐらいだし」


 夏目から唐突に聞かれたそれに、素直に答えていく。



「お気に入りの絵は?」



「ええ、んー……『最後の晩餐』とか、『死の舞踏』とか。たくさんあって、一つには絞れない」



「べりーぐっと。好きな小説作品は?」



「太宰治の『人間失格』かな」



「素晴らしい。好きなクラシック音楽は?」



「ええ、あんまりクラシックは聞かないけど……しいて言うなら、『ラ・カンパネラ』かな。パイプオルガンの教会音楽も、心が落ち着いて好きだけど」



「最高か、君は」



 夏目は、右手で親指を立ててグッドの形を示した。



 頑張って記憶を手繰りながら答えた回答に、夏目は「最高」の評価を下してくれた。どうやら、彼女の好みと共鳴したようで。




「最後の晩餐か。ダ・ヴィンチの最高傑作だと、わたしは個人的に思ってる。あの絵一つを見るだけで、ダ・ヴィンチが構図、光とかの科学、歴史、絵画の技術とかの、あらゆる学問に詳しかったことが分かる。それと、好きな小説は、『人間失格』かぁ。そういえば、行きの新幹線の中で、三島由紀夫も読んでなかった?太宰と三島の二人を読むって、君の学の深さが透けるね。うんうん、確かに、読書は心の栄養になる。大事なこと。クラシックを聴いていない?謙遜しすぎでしょ、リストのラ・カンパネラを挙げるなら、それなりに知っているんでしょ。――やっぱり、わたしと君の趣味嗜好は、ばっちり合いそうだ、ゆずるくん」



 夏目は、自分の思ったことをつらつらと羅列して声にした。低い声だけれど、特徴的で、聞き取りに難くない声だから、何を言っているのかは、だいたい分かったが、



……とんでもない早口だ。彼女も、芸術分野に詳しいらしい。



「な……ハルカさんも、本とか、絵とか、音楽とかの芸術に興味あるの?」



 また「夏目さん」と、苗字で呼びかけてしまった。


 恐る恐る、声が喉に絡まりながら聞いてみたら、夏目は「うん」と言って、右手を胸の前に添えた。



「元々、音楽系の高校を志望してたから、芸術とか、そういう分野を勉強したんだよ。だから、そういう方面の知識に富んだ君に、惹かれてしまったということ。そういうこと」

「ああ……そうだったんだ。興味の方向が同じことは、嬉しいよ」



 果たして、彼女の興味は、ゆずるという人間に向けられたものか、あるいは、内包されている知識や知見に向けられたものなのか。その答えは彼女の思考の中なので、判りえない。



 だから、微妙な返事をして、結局いつもの沈黙を作ってしまうのである。



 ただ、夏目は、まだ話したがっているようだったので、彼女のよく回る舌に場を任せようと思う。




「……ちょっと恥ずかしいけれど、言い切っちゃうと、君のことが好きだ、ゆずるくん」



 それは、耳元で囁かれた言葉だった。「好き」という、たった二文字の言葉が鼓膜を揺らめかせて、頬をカっと熱くさせる。



「賢い考えとか、冷静な感じ、普段の様子と、くるみちゃんと居る時の様子のギャップ、知識の広さとか、誰にでも平等に接する態度とか、そういうを総合して、ゆずるくんのことが、好きだ。……好きなんだよ」

「あー……そう言ってもらえて、嬉しいよ……」


「にへへ」



 また微妙な返事をしたのだが、夏目は独特な笑いを笑った。



 さて、どうしたものか。




 他人に好かれるなんて、想定外だ。どうやって反応したらよいか、困ってしまう。


 とりあえず笑えばいいかと思って、ぎこちなく頬をつり上げるのだが、心はヘルプを叫びたがっている。




 本当は、七瀬のことが好きだ。ただし、夏目のことも拒否し難い。こんな板挟みの感情を助けるには、どうすれば良いか。誰か教えてくれ。


 オッケーグーグル?



 七瀬との関係が、微妙に良い感じであることは、自覚している。だからこそ、こんな場所で言い寄ってきた夏目に、どんな言葉を返せばよいか、分からない。



 もちろん、大前提として、「好きだ」と言われて、悪い気はしない。



「……」



 沈黙の内に思考を巡らせていると、夜景の光によって、夏目の赤淵の眼鏡のレンズがキラリと光ったのが視界の端に映った。





「――もし、くるみちゃんとの恋が成就しなかったら、わたしのところに来てほしいな」





 そう耳元で囁いて、夏目は、船内への階段を降りて行ってしまった。



「あ……」



 七瀬とは、仲が非常に良いが、別に恋仲という訳じゃないと、弁明しようとした声が、単音を残して虚しく消失した。


 彼女の言葉を冷静に反芻して、理解すると、つまりは、「自分を二番目でいいから置いてほしい」ということか。



 まったく、どうして自分の回りには友達が少なくって、近づいて来る人は独特な人が多いのだろうか。



 距離感がバグった七瀬然り、キザッたらしい来栖然り、唐突な告白をかます夏目然り……



 この会話を聞いていたのは、自分と夏目と、あとは、夜空に浮かんでいる月だけだった。




 お月様よ、もし、神がそこに居るならば……




――自分が、七瀬が、来栖が、夏目が、全ての人が幸福を手にする道は無いのですかと、お尋ねください。




 回答は、自分が死ぬまでに。死んでからでは、答えをお聞きすることができません。





 寒いので、夏目の背中を追って、船内に戻った。

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