第24話 そんな君を好きになった
ハッと目覚めると、カーテンの隙間から夕陽が覗いていた。茜色をしていて、とても綺麗な印象だった。冬の季節の、こういう夕陽が、けっこう好きだったりする。
ただ、お腹と腰の激しい痛みは健在。薬を服用しているが、なおも、【赤い悪魔】の魔の手を振り払うに至れていない。朝の光景をビデオで繰り返して再生するように「いてて……」と呻きながら、ベッドから立ち上がる。
で、今日何度目か、回数が多すぎて分からないトイレへ向かう。
ちょっと寝たら、回復するかなという考えは浅はかだと、【悪魔】は不適に笑っている。こうやって、世界中の女の子たちを苦しめているんだろうなぁ。
悪霊退散。
茜に満たされた部屋に戻って、また倒れ込むようにベッドイン。スマホの時刻を確認すると、16時の表記が。
あと30分で、約束の時間だ。
ゆずるとの約束の時刻だった。絵を見せてもらうために、家をお尋ねするはずが。
重い身体を起こして、モコモコした質感の寝間着を脱いで、洗濯用に置かれた籠の中へ。
次に、シャワーをしっかり浴びる。寝ている間に汗をたんまりかいたし、何より、清潔感が気になるところ。人様の家にお邪魔させてもらうのだから、できるだけ完璧な状態でありたいと思う。
「はぁ。サッパリした~」脱衣所に上がると、シャンプーやリンスの花の香りがふわっと広がって、爽快感とともに、ちょっとした寒気を感じて、体がぶるっと震える。……どうしても、冬の脱衣所は冷える。
ちなみに、お父さんもお母さんも帰ってきてはいないので、家中に静寂が満ちている。
ジーパンを履くときに、腰が痛んで、「うう……」という苦痛のうめきが上がった。黒いベルトは、緩めに締めておいた。痛みを制して、黒のパーカーを羽織ったスタイルに大変身。それから、玄関の前の姿見でピースサインを決めて、家を出る。
手元には、帰り道の途中で立ち寄ったスーパーで買ったチョコ菓子の詰め合わせの袋をぶら下げて。訪問の手土産として、ゆずるに受け取ってもらうつもりだ。
体調はバッド。でも、外見は、やっぱり今日もバッチリかわいい。
笑顔を作る練習をしながら、夕焼けを仰ぎ見て、木々の間を抜けるような、ゆずるの家までの短い道を歩いた。
****
お腹を押さえながら、自宅からふらふらと徒歩で行って3分ほど。林を縦に割るようなアスファルト舗装の道路をまっすぐに歩いていくと、海老色のような深く渋い色をした屋根の家が見えてくる。
白い外壁には、表面にちょっとした
「あのー、ゆずるくん?居る?七瀬だよ~」
インターホンのボタンを押し込むと、ピンポーン!という音が窓越しに聞こえてきた。
ドタドタという足音が聞こえてきて、これはゆずるに違いないという確信を得る。
玄関のドアに取り付けられた上下のカギがガチャンという音を立てた。それが開いて、いつもの見慣れたゆずるの顔が覗いた。
――ふと思う。こんな優しくて穏やかな人をいじめていた、小学生の頃の自分は、どうかしていたと。
「ありがとう、来てくれて。体調、大丈夫なの?」
相変わらず表情は薄いが、心配してくれる声の色をしていた。
「強がり言わないと、正直、辛い……」
歩いているだけで腰に激痛が走って、今すぐにどこかに座り込みたいと切望する。生理痛兼頭痛薬を飲んだが、時々、錐でぐりぐりと頭蓋を削られるようなズキンっとした痛みがある。今日は、頭痛すら襲いかかってきている。
「ど、どうする?帰って、安静にしたほうがいいよな……?」
「ううん。大丈夫」首を横にふいと振った。そのかすかな遠心力だけで、また頭がズキッと痛む。
「せっかく来たから、お邪魔させてもらうよ」
4時半には行くと、学校で約束して、仮眠まで取って痛みを押さえつけながらここまで歩いてきたというのだから、本来の約束と目的を果たそうではないか。
ゆずるの誘いの通り、絵を見せてもらおうじゃない。
「そ、そうか。無理しないで」
「ありがと」
ゆずるは労わってくれるように、手を貸してくれた。彼に導かれるまま、加賀美家にお邪魔させてもらうことになった。
――お邪魔します。
加賀美家の内側は、ぱっと見の初見の印象で言えば、少し散らかっていて、生活感のある家といった感じだった。
食卓と思われる長テーブルの端っこには、ペン立てがある。その中には、多くのボールペンと、ハサミと、液体糊が詰まっている。さらにその隣、ガス、電気、水道料金の知らせのハガキや町内回覧板の書類やらが、ある程度は秩序立って、縦に重ねられている。
リビングとキッチンが棚で仕切られていて、コンロの隣に何か汚れたものがあるなと思って近くで見たら、紙たばこの吸い殻が捨てられていた。これは、ゆずるのご両親の吸い殻だろう。
洗面所の鏡はきれいで、水垢の一つない。洗濯物が入ったバケツには、水が張られている。
これは、七瀬家でも同じようなことをしているから、よくわかった。洗剤を入れた水に洗い物の衣服をつけ置きするのは、よくやる。
「座る?」
「うん……」
長テーブルを囲うようにして置かれたL字のソファーに、座らせてもらった。立っているときよりは、痛みが幾分かマシに……
いや、やっぱり、そんなことはなかった。
【赤い悪魔】は、存外にしつこく、悪質だ。縄で縛られるような痛みが、ずっと続いている。
「ごめん、横になっていい?」
そう聞きながら、倒れ込むようにしてソファーの上に体を預けていた。フカフカとした感触があって、寝心地は良かった。
ゆずるは「別にいいよ」と言いながら、気に掛けるようにして、ちょっと遠慮気味に
「あったかい飲み物飲む?ココア用意しようか?」
一息、大きく空気を吸い込んで、「お願い」と言った。どうやらゆずるは、好みの飲み物を覚えていてくれたらしい。
温かいココアは、寒さで芯から冷えた身体を温めるのに最適だ。牛乳の甘みと、ココアの粉末の甘さが相乗効果を成して、とってもおいしい。とにかくおいしい。好きだ。
私は、温かい牛乳に混ぜたココアが大好きだ。
ソファーから立ち上がったゆずるは、冷蔵庫の前に立って、マグカップに牛乳を注いでいる。そして、そのマグカップを電子レンジの中へ。黙ったまま直立して、温まるのを待って、白い湯気を上げる牛乳にココアの粉末を入れて、スプーンでかき混ぜた。
「召し上がれ」と短く言って、くるみが横になる長テーブルの上にマグカップを置いた。
香り高い白い湯気が、甘味の匂いを運んで鼻腔をくすぐる。「いただきます」と小さく言って手を合わせ、彼が用意してくれたココアを飲んだ。
「どう、おいしい?」
「……うん。甘くておいしい」
「そっか。よかった」
ゆずるは、こちらをちらっと見て、目線を外し、すぐに長テーブルの上に開いた黒のノートパソコンのマウスをカチカチ言わせはじめた。
と、そんなゆずるは、ソファーの近くの床に置いていた袋に気が付いた。それに手を伸ばしながら、訊いてきた。
「これ、手土産?わざわざ持ってきてくれたの?」
ココアの甘味を舌上で転がして、答えた。
「うん。ゆずるには、いっっつも持ってきてもらってばかりだったからね。多めのお返し。あ、ちなみに、中は、チョコのお菓子ね。チョコ、好きでしょ」
「ああ、そうか。わざわざ、ありがとう。ママとパパと一緒に味わって食べるわ……」
表情が薄かったゆずるは、目をすっと見開いて、顔を赤くした。
「親御さんのこと、ママパパって呼んでるんだ」
なんか、かわいらしい響きだ。ゆずるが両親のことを、子供っぽい呼び方をしていることが、ちょっと意外だった。
「……人前では、普通に『父、母』って呼んでるんだけどな……自分に油断してた。いや、だってさ、子供の頃からママパパ呼びだから、今更呼び方変えるのも、なんか変だなって思ってさ……」
言い訳みたいに弁明するゆずるに、普段とのギャップを感じて、かわいいなと思った。自分で口下手と言いながら、今は、早口で喋っている。
――それぐらい、私と一緒に居ると安心できるってことか。
「てか、体、大丈夫?どうしたの?」
パソコンの画面の端っこから目線を飛ばしてきたゆずる。体をソファーの上で横にしたくるみは、お腹を指さした。
じっと、その様子を見るゆずる。途中まで分かっていないようだったけれど、ハッと理解したようで、彼の細いラインの顎がちょっとだけくいっと上がった。
「その……何かできることあったら、言って。手伝うから。あと、そこで寝てていいよ」
首元を人差し指で掻く仕草をしたゆずる。これは、彼が困った時とか、考え事をしている時、さらには、恥ずかしがっている時にする仕草だ。
低く言ったゆずるに、「ありがと」と返しておいた。
ココアを飲み終えた身体は、ホカホカと温かくなっていた。
痛みを抱えて、横になりながら、彼の瞳をじっと見つめた。黒色の瞳が、こちらに気が付いて、きょろっと向いた。
「何?」
「いや、何しているのかなーって思って」
永遠に静かなリビングで、マウスのクリックのカチカチ音が続く。一体、この高そうなパソコンを使って、何をしているのか、気になっていた。
ゆずるは「ああ」とこぼして、パソコンの画面をこちらにクルっと向けて見せてくれた。
「3DCGで遊んでる」
「えっ!?」と、驚愕の声が零れた。
3DCG!?なにそれ、おいしいの?
そんな高度そうなことをやっていたのかと、目を見張った。まさか、自分たちが知らないところで、こんなに面白そうなことをやっていたなんて……
「絵具で描いた絵は、動かないでしょ?でも、CGなら動かせる。動きがあるっていう、映像の特性を活かした作品を作ってみたいなーって思って、最近始めた。まだ全然できてないけど」
試しに、製作中の映像を見せてくれたゆずる。
パソコンの画面には、うさぎが跳ねていた。そのウサギたちが、なんと崖から飛び降りたのだ。どうなってしまうだろう、まさか、衝撃で潰れて死んでしまうのだろうか。血が飛散するのだろうか。
そんな悲劇的なシーンの訪れを予想したが、崖を落ちるウサギたちは、次々とリンゴの形に変形していって、地面に落ちる時には、すでにリンゴそのものになっていた。
お遊びなのか、それとも、深いメッセージがこめられた映像なのか……彼自身は「遊んでる」と言っているが、たぶん、ゆずるが作ったものなら後者が正しいのだろうけれど。
「どう?すごいっしょ?おもしろいでしょ」
誇らしげに言ったゆずるの顔は、頬がちょっと上がっていて、柔らかな笑みを作っていた。
「うん。すごい」
素直に、凄いと思う。そういう技術は、将来役に立つだろうなと思って、ちょっと羨ましくもあった。
「これ、自分で買ったの?」パソコンを指さして、訊いてみた。
「うーん……月にいくらか、お小遣いもらってて、それを貯めて買ったから、どうなんだろ」
「すごいじゃん、貯金したってことでしょ」
謙遜するゆずるに、素直な賞賛を。
私では、貰ったお小遣いをすぐに使っちゃう性格だから、彼みたいにはコツコツ貯金できないなと、くるみは思う。頻繁に友達とごはん行っちゃうし、自分やバイトの先輩、後輩にプレゼントを買ってしまう。
しかし、彼は、「大した事じゃないよ」と言わんばかりの凛々しい顔をした。
「俺、物欲無いからね。お小遣いは、すぐ貯まったよ」
「このパソコンは、おいくら?」
「パソコン本体は14万円。マウスは、3000円。イラストとか描いたり、CGが作れるぐらいの性能のパソコンって、どのぐらいがいいかなって、何回もネットで調べながら買ったよ。インテルのi7のCPU性能。結構性能は良いよね、GPUもそこそこの性能が出るやつ。どのくらいかは、忘れた。あと、できるだけ安く済ませられるように、円安具合とか、店で一番安く買えるタイミングとか、いろいろ考えながら買ったよ。7月が一番安そうだなって目星つけて、下旬ぐらい……夏休み入る直前ぐらいに買ったよ。あ、あと、マウスは8000円ぐらい。親指のとこの横にボタンついてて、ここにいろいろな操作を割り当てられるようになってる。めっちゃ便利で、効率的に作業できるんだよ」
???
んん?
つらつらと言葉を羅列したゆずる。まるで呪文か、聖書を朗読しているかのように流暢で、早口であった。声の抑揚が少なくて低く、しかし発音がはっきりしていて聞き取りやすくはある声だった。
まあ、要するに、性能とか値段とかをじっくり考えて買ったということだろう。そういった点、丁寧で、慎重で、彼らしいなと思う。
――もし私だったら、お父さんにおねだりして、適当に良さそうなものを即行で買ってしまうだろうなと、思う。
また、体を横にして、ソファーに深く沈み込む。
少しずつ、ゆずるに体を寄せた。彼は気が付いておらず、パソコンの画面に集中している。ずっと、CGを作る作業をしているのだろうか。
薄目で、パソコンの画面を見た。彼は、こちらを気にする素振り一つない。
――生理痛 痛み
――生理 仕組み
――生理 男性 できること
CG作成の合間合間に、なにやら調べ事をしていることが、薄目でもわかった。ブラウザの検索欄にカタカタ入力する文字をじっと見てみると、なんと、彼らしくない言葉がずらりと。
彼の表情は、変わらず薄い。けれど、その凛々しい瞳の奥にはどこか、思いやりの温かさがあるように思えたのだ。
……まさか、私のために?
「あ……起きてたの?」
ゆずるは、即座に調べていたサイトを最小化して、CG制作のソフトの画面に戻して、こちらをちらっと見た。
目をぱっちり開ける。
あなたの思いやりの心は、十分届いているよと、暗に伝わればと思って。
彼は、首元を指で搔いていた。
「ココアのおかわりいる?それとも、毛布とかほしい?」
彼は低く抑揚のない声で、しかし、やっぱり温かみのある声で訊いてくれた。
「じゃあ、毛布もらえる?」
「これ、母さんのひざ掛けなんだけど、いい?」
「問題ないよ。ありがとう」
ゆずるが取ってくれた毛布を受け取って、それをお腹のあたりに掛けた。質感が羽毛っぽくてモコモコしていて、温かさと抱擁の安心感が得られた。
また、彼を見る。
特段イケメンというわけではない。けれど、肌は保湿とかしているのか、ニキビ等のデキモノの一つなく綺麗で、髪も、コンディショナーやトリートメントをしっかり使っているのか、サラサラしている。
よく見て見れば、キーボードを打つ手の爪は短く切られていて、清潔感は、バッチリだ。
そして、何より、その凛々しい目に惹きつけられる。何を考えているのか、何が見えているのかわからないけれど、理知的で、物事を達観するようなあの瞳に、引き付けられそうになる。
彼は、人間に興味がない、他人に興味がないように振る舞う。けれど、仲良くなった人のことは徹底的に理解しようとするし、誠意を見せてくれる。たぶん、そういう人なんだ。
現に、【赤い悪魔】の痛みや仕組みについて、知ろうとしていたのだ。おそらく、自分にできることを、探してくれていたのだ。
過去にも、彼に理解してもらったことがあった。
中学生の頃の悪い私に、手を上げ、手を差し伸べてくれたのは、紛れもない、彼だ。私は、小学生の頃に、彼を笑いものにしたのに、彼は、私を笑わずに、怒ってくれた。
そんなことを、ふと思い出した。
「ど、どした?」
彼はまた、彼の傍で横になってじっと見る私に振り向いて、訊いた。
「なんでもないよ」
私は答えた。体調が未だ悪いから、頬のあたりが熱いのだろうか。
いや、体調が悪いことに起因する熱さではない。
これは、彼を見ていると起こる熱だった。温かいカイロを口に含んでいるかのように、頬がカッと熱くなる。
――私は、微笑みを抑えきれなかった。
なぜなら、彼の黒いTシャツから覗く鎖骨と、キーボードを打つ指が、良い形をしているなと思ったからである。
今度ハグできる機会があれば、バレないように触ってみたい。
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