トドオカ菩薩胎内廻り

武井稲介

トドオカ菩薩胎内廻り

 私が焼き上げた香ばしく焼き上げたハムエッグをテーブルに載せると、妻はぱっと顔を輝かせた。

「ほんまに料理上手なったなぁ。助かるわ」

「このくらいはできるようにならないとね。私も父親になるんだから」

 自分で言ったその言葉が照れくさくて、ふふっと笑い声を漏らした。

 妻はその言葉を受けて、慈しむように腹を撫でる。そこには、私たちの愛の結晶が育まれている。

「それより、いいのか? 今日の検診、付き添わなくて」

「ええよ~。もっと大きくなったらわからんけど、まだ全然動くのに不自由せえへんし」

 妻はハムエッグの黄身を破って醤油を落としながらけらけらと笑う。

「先のことを考えたら、今休むよりも有休は先にとっておいて欲しいと思うなぁ」

 確かに、と私は頷く。遠からず訪れる出産、さらに十数年続く子育てまで考えたら、有休を使わざるを得ないことは増えるだろう。私も妻も近くに頼れる親族はいないこともある。いざという時への備えはしておくに越したことはない。

「わかったよ。でも、何かあったら連絡をしてくれ。すぐに行くから」

「大げさやねぇ」

 私の言葉に、妻は困ったように眉を下げる。

「うちの旦那様はほんまに心配性やわ」

 ご飯とハムエッグ、味噌汁とミルクだけの簡単な朝食を終えると、私はジャケットを羽織った。

「気ぃつけてね」

「ああ。行ってくるよ」

 そう言い残して、私は出勤した。

 正確には、出勤する振りをした。

 予め、職場には有休申請を済ませてあった。私は、妻に嘘をついてでも行かなければならない場所があった。

 行き先を、トドオカ菩薩という。

 どこにあるのかはわからない。だが、記憶を代償にどんな願いも叶えてくれるというトドオカ菩薩の存在は、以前より聞いていたし、伝承からしてその場所も絞り込めていた。

 そんなうさんくさい話に頼らなければならないのには、もちろん理由があった。それは、私の生まれた家庭環境にあった。

 私の父親は、市役所に勤める職員で表向きは温厚、母とも良好な関係のおしどり夫婦を演じていた。だが、家の中では暴力で家庭を支配しているような男だった。まだ小学生の私が家から放り投げられて庭の池に落ちた時のことは、今でも鮮明に思い出せる。あの時、私の頭が少しずれて庭石に当たっていたら間違いなく死んでいた。

 だから、高校生の頃、父が交通事故で死んだ時は心底ほっとした。生命保険のおかげで、生活にただちに不自由することはなかった。

 問題が生じたのはそれから数年後のことだ。大学卒業を控えて就職活動をしていた僕は、希望通りの業界に就職することがなかなかできなかった。それに対して、他の業界でも地元で堅実に働けばいいと告げてくれた母は、百パーセントの善意だったはずだ。

 だが、僕はその言葉を許せなかった。僕はなんの迷いもなく、母の頭を殴っていた。

 間違いなく、父と同じ血が自分に流れていると確信した瞬間だった。

 それからまもなくして冷静になった私は、救急車を呼び大ごとになることは避けられた。だが、自分の中に暴力的な血が流れていることは認めざるを得なかった。

 程なくして別の業界に就職した私は実家を出て、それ以来家に帰ることはなかった。母には悪いと思っていたが、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 数年前に母が病死した時は、やはり顔を合わせておくべきだとは思ったが、それでもどうするべきだったのかの答えはでなかった。

 こういった経緯で、何かあれば私は間違いなく家族に暴力を振るう人間であり、どんなに自制しても防げるものではないと理解していた。

 となれば、すがるしかない。

 どんなに信じがたいものであっても、トドオカ菩薩という存在に願いを叶えて貰う。平穏な家庭を築く。

 そんな思いを抱えて歩いていると、自分が見知らぬ道を歩いていることに気付いた。

 うっすらと靄がかかった石畳。森のように木が生い茂った一角の奥に五重塔のようなものが見えた。敷地に入ると、奥に寺のようなものがある。いや……仏教の寺とも違うのか。

 体調の悪い時に見る夢のように、少しずつ、細部に違和感がある。

「おやおや。こんなところに人の子が来るなんて珍しいわぁ」

 突然、声をかけられてばっと振り向く。

「トドオカ菩薩に人が来はるなんて、何年ぶりかわからんわ」

 関西弁で喋るその女の耳には、狐の耳が生えていた。

 私は、驚きのあまりパクパクと口を動かすことしかできなかった。

 いつの間にか、周囲に人の気配が変えている。

 結界が張られたみたいに、異空間に取り込まれている。

「どうしはった? まるで、会うはずのない人に出会ったみたいに」

 狐色の髪に、狐耳。

 赤い瞳。

 上半身は巫女装束だが、下半身は袴風のミニスカートで、太ももまである長い靴下を履いている。

 菩薩……というより神の使いのような雰囲気がある。

「菩薩でも神でも妖怪でもなんでもええんよ、ウチは。人が来てくれるならな」

 女は、歯を見せて妖艶に笑う。

 その姿は、妻の姿そのものだった。

 正確に言えば、妻は妊娠しているから腹部は異なる。今の妻ではなく、出会った頃の妻の姿だった。

「これ、ええやろ? 相手の望んでいる姿になれるんや。これがトドオカ菩薩の力なんや」

 トドオカ菩薩はけらけらと笑って、衣装を見せつけるように両手を挙げてポーズをとった。

「願いがあって来たんか?」

 ストレートに問いかけられて、ごくりと唾を飲み込んだ。

 この女がトドオカ菩薩……。本気で信じていたというわけではないが、超常的な力があるのは間違いない。

「記憶を代償に、願いを叶えてくれるんだったな」

「そういうことになるなぁ」

 トドオカ菩薩は、唇に指を当てて言った。

「ウチとししては記憶やのうて過去の人生を貰っているつもりなんやけど、人間からしたらそうなるんかなぁ」

「では……私の家庭を、平穏なものにしてくれ」

 これが、私の願いだった。

 記憶を失ってもいい。

 過去よりも未来のほうが大事だ。

 自分の手で自らの子に暴力を振るう。そんなことをしたら私は耐えられない。

「私の手で、私の家庭を破壊することはなんとしても避けたい

「ほーん、おもろい願いやなぁ……」

 トドオカ菩薩はうんうんと頷いてみせて、

「あかんわ」

 と唐突に言った。

 崖から突き落とされたような気持ちになる。どうして、ここまで来てダメだというのか?

「ごめんな。意地悪で言うとんのとちゃうで」

「なら、どうして……」

「既に願い叶えとったわ……あんた、家庭が欲しい、言うてここに尋ねてきたんやったわ。せっかく話させておいてごめんな。ウチ、人間の区別ようつかんのよ」

 数年前?

 私はここに来ていた?

 周囲がぐるぐると回っているような感覚がある。

 何を言っている?

「正確にはなんだったか……そう、理想のパートナー? 妻? そういうんが欲しいっちゅう話をしとった気がするわ。なんでも、お母さんを亡くしたことをきっかけに家族が欲しゅうなったとか」

 思い出せない。

 トドオカ菩薩に来た記憶も、そんな願いを頼んだ記憶も。

「あー、そういうパターンか。対価として、その記憶そのものを失っているパターン」

 トドオカ菩薩は困ったように眉を下げた。

「ほら、思い出してみい。どうやって奥さんと出会ったのか、思い出せんのと違うか? それはウチが願いを叶えて、作り出してやったからや」

 妻とどこで出会ったのか? そんなこと、もちろん……。

 思い出せない。

 私と妻は、一体どこで出会った?

 いかにして交際した?

 プロポーズはどこで?

 そもそも、狐耳の女など、存在するはずがあるのか?

 トドオカ菩薩に願ったから、私に都合のいい想像の産物が生じた……。

 すべては、私の妄想ではないのか?

「な?」

 トドオカ菩薩は、宙に白い指を差しだした。指がボコボコと音を立てて膨れ上がり、人間の頭部くらいの大きさになるとぼとりと地面に落ちた。肉塊はびくびくと蠢いて膨れ上がり、妻の顔を形作ったかと思うとそのまま妻の顔をした人面犬になった。人面犬はきゃんきゃんと吠えて、どこかに走り去っていく。

「覚えてへんけど、前もこうして作り出してやったんやと思う」

 そんな……。

 だとしたら。

 私の妻は……そんな妖怪同然の……。

「ま、ええやないか」

 私の心情には頓着せず、トドオカ菩薩は妻と同じ声で言った。

「明るい家庭を自力で築く。それでこそ人や」

 そんな薄っぺらいことを言って、トドオカ菩薩は笑う。

「ウチも似たようなもんやで。最初は、ただの物の怪だったのに、いろんな人に話を広められるうちにヤクザになり、女子高生になり、ツイッタラーになり、今は菩薩と呼ばれるようになってしもた。人も妖怪も、人がどう考えるかで形を変えるものかもしれへん」

 そこから先の記憶はない。

 気がつけば、私は駅のカフェでコーヒーを飲んでいた。

 私の妻は、トドオカ菩薩が作った存在だとして……妻は今、妊娠している。

 では……トドオカ菩薩の作り物と、私の間に成された子供。

 今、妻の胎では何が育っているのだろうか?

 私は、どんな家庭を築いていけばいいのだ?

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