申之丈が花野屋の縄のれんを手でかき上げ外に出れば店から漏れ出る灯りが道をぼんやりと照らしていた。

 神無月も中ほどを過ぎた暮六つには闇が町を覆い、冷気が静かに空から舞い降りてくる。

 申之丈は花野屋を出て右手に歩を進めた。真っ直ぐ行けば十番馬場である。その手前を右に折れ善福寺方面へと足を向けた。目の前でほわっと白い物が表れては消える。吐く息が白くなるほど冷え込んでいる。しかし、申之丈は湯あがりに飲んだ酒と、おのぶと話せた事で体も心も火照っていて寒さは感じなかった。

 家々から漏れ出る灯りが浮かび上がらせる道を歩むと善福寺の入り口が右手にぼんやりと見えてきた。

 「ん?」人の気配を感じ申之丈は歩みを緩めた。

 善福寺の門のところに蹲る黒い影を認めた。

 「酔っぱらいか?」とも思ったが、その傍を通り過ぎようとした時に荒い息遣いが聞こえた。刹那、その者がドサッと横に倒れた。

 「おい、いかがいたした」その場から声をかけたが返事が無い。

 警戒しながら近づくと右肩を下に横向きに倒れ、袴姿でその左腰には太刀が差してあった。

 「浪人者か」と思いつつ尚も近付くと、喘ぐような息遣いをしていたが酒臭くはなかった。

 「おい、大丈夫か?」申之丈はしゃがみながら再び声をかけた。

 「だいじょうぶ・・でござる」

 浪人と思しき者は弱々しい返事をした。

 「とても大丈夫そうには思えんが」申之丈は浪人と思しき者の正面へ回り起き上がらせようと脇の下に腕を差し込んだ。その時、手に体の熱を感じた。

 半身を起き上がらせ、「おぬし・・」脇の下から手を抜き、その者の額に当てた。

 「凄い熱があるではないか」

 「なに・・、ただの風邪、たいしたことはござらぬ」

 「なにを申す」暗がりではあるが近くで見るその者の面立ちは、五十路あたりに差し掛かっているのではないかと思われた。

 「其方の齢では油断はならぬぞ。住まいはこの辺りか?」

 「近くの町人長屋に住んでいるゆえ、お気遣いは無用にて」

 「近くであれば肩を貸そう」

 申之丈は浪人者の左側へと回り込もうとした。

 「いや・・、私はある人を待っていて、そのお人を家まで送り届けなければならないのです。ですから・・」

 「そのお人は間もなく参るのか?」

 「あと半刻ほどで・・」

 「半刻も?」この寒空の下で半刻も待っていては初老の浪人者の病状は益々悪化する。

 「其方の長屋まではどれほど離れておる?」

 「三町ほどでござる」

 「ならば、某が其方を長屋まで送った後に、ここに戻りそのお人を待つ事にしよう。半刻もあれば間に合うであろう。それでよいか?」

 「しかし、初めて会った方にそこまでは・・」

 「かまわぬ。それより其方は自分の体を心配なされよ」

 「いや・・しかし・・」躊躇う浪人者に、

 「失礼仕る」と言って、浪人の腰から太刀を抜き取り右手に持ち、右脇腹辺りを抱え込み、左腕を担ぎ立ち上がった。浪人の体は軽くほっそりしていた。しかし、担いでいる左腕は細いがしっかりとした筋肉が付いているようであった。

 「某、暮林申之丈と申す」

 「私は・・、神田清衛門と申します。見ての通り、浪人でござる」

 「清衛門殿、では道案内を頼む」

 「かたじけない・・。ここを右へお願いいたす」躊躇いつつも清衛門は申之丈に甘えることにした。

 「うむ」

 二人は善福寺を右へ出た。すぐに、左へ曲がれば二の橋、右へ折れれば仙台藩下屋敷へ向かう通りへと出た。

 「ここも右でござる」

 「分かった」

 抱え込んでいる清衛門の体が少し震えているのが申之丈に先程から伝わっている。悪寒からくる震えだろう。はやく体を温めた方がよいだろう。などと思いながら緩やかな坂を上っていくと、仙台藩下屋敷の門の前まで来ていた。

 「清衛門殿、暫しここで待っていて下され。すぐ戻るゆえ」

 申之丈は清衛門を門の脇へ一旦腰を下ろさせ清衛門の太刀を手渡し、潜り戸から中へと入っていった。

 門番に事情を説明して、帰宅時刻をあと一刻ほど猶予してくれと頼んだ。訝しがる門番は開けっぱなしの潜り戸の外を見やる素振りを見せた。

 「ああ、あの者だ。あそこに腰を下ろしている浪人者だ」

 暗がりに腰を下ろしているような黒い影が僅かに見える。

 「年老いていて歩くのもままならぬのだ」

 「私にもお咎めがくるんですよね・・」

 「佐吉殿には迷惑は掛けぬゆえ」

 申之丈は懐から巾着を出し、中から百文銭を一枚取り出し門番の佐吉の手に握らせた。

 「あと一刻で戻ってきてくださいよ」

 「相分かった。かたじけない、佐吉殿」

 佐吉に礼を言い潜り戸から出た申之丈はまた清衛門に肩を貸し歩き出した。下屋敷の角まで来ると、

 「その角を左でござる」

 二人は左に折れた。

 「仙台藩の御仁でしたか」

 「江戸に来たばかりで、この近辺も不案内なのです」

 「私は五年程が経ち申した」

 「では、随分と詳しいのでしょうな」

 「自由が効く分あちこち出歩けますからな。この界隈であればいささか分かり申す」

 「折があればいろいろ案内して下され」

 「承知いたした」

 話をしている間も清衛門の体はぶるぶると震えている。

 二人の前方に四ノ橋が見えてきた。

 「あの橋を渡ればすぐに長屋でござる」

 「さようか」

 四ノ橋を渡り右手に折れた二人は表店脇の木戸を潜った。

 真っ直ぐにどぶ板が通り、左右に腰板障子が並び、そこから漏れ出る灯りがそれを照らしていた。

 「奥から二件目でござる」

 「うむ」

 時折ぎしっぎしっとどぶ板のきしみ音をたてながら部屋の前まで来ると、左隣の戸が開き幼い女の子が出てきた。

 「お志乃坊」

 女の子に気付いた清衛門が首を捩り名を呼んだ。

 「・・お母ちゃんは?」

 「まだなのじゃ、これから・・」言いかけたところへ、女の子の後追うように中年の女が出てきた。

 「おかえり・・、どうしたんだい先生」

 申之丈に抱えられた清衛門を見てただ事ではないと思った女は驚いた様子で訊いてきた。

 「実は・・」清衛門が話し始めようとしたところ、

 「清衛門殿は熱が高いゆえ、中に入ってから話しましょう」申之丈が割って入った。

 「あ、あ・・はい」

 女はうろたえながらも清衛門の部屋の引き戸を開け、

 「中へ入って、あたしは火種を」言って自分の部屋へと急いで戻っていった。

 「御免」申之丈は中へ入ると、土間からの上がり口に清衛門を座らせた。

 「かたじけない」

 志乃が心配そうに入口からこちらを見ている。

 「先生、熱があるんだって」志乃の後ろに半纏を纏った男が現れた。

 「俺が医者を呼んできてやるよ」

 「いや、留さん、それは困る。私には医者にかかるような金など無い」

 「心配すんなって、そのお医者様は俺らみたいなもんからは金は取らないから」

 「いや、しかし・・」具合が悪いうえに困り果てた表情も重なった清衛門に、

 「任せておけって、ひとっ走り行ってくらあ」の言葉を残し走り去っていった。

 「誰も任せてないってんだよ。あっ、志乃ちゃん、ごめんね、おばちゃん通してくれる」

 女が火種が消えないように片手の平で火を覆い中に入ってきた。

 「ちょいとごめんよ」

 清衛門の脇を通り上がり込むと行燈に火をともした。そして、畳んである布団を囲っている枕屏風をどかし、薄っぺらい敷布団を敷くと、

 「さ、さ、先生こちらへ」清衛門をうながした。

 「お梅さん、すまぬ」清衛門は上がり口から這うように床に向かい敷布団の上に横たわり仰向けになった。

 お梅が静かに掛け布団を掛け、清衛門の額に手を当てた。

 「凄い熱じゃないかい。こんなんでおのぶさんを迎えに行こうだなんて。」

 「おのぶ?」あの花野屋のおのぶなのか?しかし、おのぶという名はよくある名。同一人物とは限らぬ。ただ、清衛門殿が迎えに行っていたのは、戸口の所から心配そうにこちらを見ている志乃の母親らしいことは申之丈には察しがついた。

 女は土間に下りてきて、

 「志乃ちゃん、風邪が移らないようにおばちゃんちへ行っていて」と声をかけた。

 「お母ちゃんは?」

 「お志乃坊、今このお方にお母ちゃんを迎えに行ってもらうからな。だから、おばちゃんちで待っといで」清衛門が言うと、志乃はうなずき、俯きながらお梅の部屋へ向かった。

 「清衛門殿、迎えに行くのは、おのぶさんというお志乃坊の母親でござるか?」

 「左様・・」清衛門は暫し思案してから言葉を繋いだ。

 「おのぶさんは、ある武士からつきまとわれておるのじゃ。いつぞやであったか、強引に連れて行かれそうになっていて、偶然にもその場に通りかかった私がそ奴を追い払ったことがあってな、それから迎えに行っておるのじゃ」

 清衛門が話している間にお梅は、水亀から手桶に水を汲み、手ぬぐいを浸し枕元へと来た。

 「おのぶさんは器量がいいからねえ。言い寄ってくる客がいるんだろうよ」そう言いながら手拭いを絞り清衛門の額に当てた。

 「客?」

 「料理茶屋で働いて、お志乃坊を養っておるのじゃ」

 「女手ひとつで育てているんだからたいしたもんだよぅ」

 「そうでしたか。その、おのぶさんとやらが働いている店は、もしや、花野屋ではあるまいか?」

 「あらまあ、ご存じで?」

 清衛門も驚いたように申之丈を見た。

 「はい、湯屋の帰りに花野屋で一杯やった後だったのです。それで・・」

 「そうでしたか。それでは説明するまでもござらぬな」

 「はい。しかし、清衛門殿が毎日迎えに行っておられるのであれば、その男も諦めるのではあるまいか」

 「それが、毎日いやな気配を感じておるゆえ、こちらの様子をどこからか窺っているのではないかと・・」

 「諦めの悪い奴のようですね」

 「おのぶさんもやっかいなお侍さんに目を付けられたもんだよ、まったく」お梅が火鉢の炭の火を熾しながら心配そうに言った。

 「では、急いで迎えに行ってまいりましょう」

 「すまぬがよろしくお願いいたす。暮林殿」

 「うむ」清衛門の言葉を背中に聞き、申之丈は戸を開け出て行った。

 申之丈には、おのぶのあの眼差しの意図が少し分かったような気がした。


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