乱舞方 暮林申之丈

寺池 魔祐飛

 「それがしの女にならんか?」

 言った後で申之丈は(何を口走っておるのだ俺は)と思ったが一度口から出た言葉は引っ込められぬ。

 言われた女は顔色ひとつ変えずに申之丈のちょこに酌をしていた。しかし、口角が僅かに上がっているように見えていたが、それは客商売をしているがゆえの表情だとすぐに気付いた。

 「お武家さまは、たしか・・・」と傾けていた徳利を直し、申之丈の顔に斜に目を向け問いかけの言葉を口にした。

 「暮林申之丈と申す」

 「暮林様は、先日、佐々木様といらっしゃった・・」

 「さよう、江戸に来たばかりの某をこの花野屋に連れてきてくれたのじゃ」

 そう言うと申之丈はちょこの酒に口を付け膳に置いた。

 料理茶屋の四畳半の座敷には申之丈と花野屋で働くおのぶの二人しかいない。

 「そうでございましたね」

 「左様、それでまだこの辺りに不案内で、酒の飲めるところもこの店しか知らんのだ」

 「そうですか・・・、」

 おのぶは盆に空いた徳利を載せ、何事もなかったかのように今にも立ちあがろうとする素振りであった。このような料理茶屋では酔った客から言い寄られることはよくあることなのだろう。

 「いや・・、先程のことは忘れてくれ」

 申之丈は照れ隠しの笑みを薄っすら浮かべた。

 「某には国元に妻が居ってな、それが、某にはもったいないほどめんこい・・、いや、美しい女ごでな」

 踵を立て、立ちあがろうとしていた足を戻し、申之丈に向き直り正座し、手に取っていたお盆を畳に置き、今度は、はっきりわかる笑みをおのぶは浮かべた。

 「美しいだけではなくてな、やさしくて、良く気が利く良い妻なのじゃ」

 自慢げな表情で話す申之丈に、おのぶは半ば呆れたような笑みに移ろう。

 「よいのか?」と、申之丈はにやけた視線をおのぶに向け尋ねた。

 話したければどうぞと言う返事のかわりに笑みを貯えたまま小さく頷いた。

言い訳がましいが「某の女にならんか」の言葉のままおのぶに受け取ってもらうのは申之丈の本意ではない。言い方を違えたのである。それを正しておかなければこの先おのぶには自分がそういう男だと誤解されたままになってしまう。

 「某は千代・・、ああ、妻の名なのだが、千代と暮らすようになってから女のありがたさを知った。お役目で嫌な事や辛い事があっても、家に帰り千代と話しているとだんだんと心が和んでくるのだ」

 膳のちょこを親指と人差し指で摘まむように持ち上げ口に運んだ。おのぶは申之丈ににじり寄り膳に置かれた徳利に手を延ばす。ぐいと飲み干したちょこに首を傾げ清酒を満たした。舐めるように口を付け膳に置くと申之丈は続けた。

 「いつでも千代は某を分かってくれる。某の味方でいてくれる。家に帰れば千代が居る。そう思うと頑張る事が出来た。某が帰る場所は千代なのだ」

 遥か彼方を見るような眼差しを正面に向けた。

 「恋しいのですね、千代様が」

 「女々しいと思うか?」

 「いえ・・。千代様の代わりはできませんが、私でよければお話を伺う事はできます」

 徳利を手に取り促すおのぶに応え、申之丈はちょこの酒を飲み干し差し出した。

 「この花野屋で、ですよ」おのぶは流し目に笑みを添え釘をさすように言って酌をした。

 「相分かった」

 やはり聰い女であると申之丈は思った。

 申之丈は江戸に出て来てまだ日が浅い。十日程しか経っていないのにおのぶが言ったように千代が恋しくなっていた。そんな折りに上役の佐々木善右衛門に「酒の飲めるところも知っておくとよかろう」と連れてこられたのが善福寺門前町にある花野屋であった。

 申之丈が滞在している麻布の仙台藩下屋敷から近く、旨い下り酒が飲め、料理も奥州者の口に合い、さらに湯屋にも近いからと連れてこられた。

 その時に、申之丈が厠へ行った帰り、板場の脇を通った折にその隣の部屋からなにやら話し声が聞こえてきた。

 「おみっちゃん、おひささんはおみっちゃんが憎くて言っているんじゃないんだよ。早く仕事を覚えて欲しいからなのよ」

 鼻をすする音に混じり、「うん」と返事をする声が僅かに聞こえた。

 「近頃は特に忙しくなってきてねぇ、それでおみっちゃんを雇ったのよ」

 どうやら新入りが怒られたのを慰めているようだった。

 「私も初めはおみっちゃんとおんなじだったの。でもね、おひささんは言い方がきつい時があるけど、とても面倒見がいいのよ。だから、ね、」

 「うん」

 「わからないことがあったらなんでも訊いてね」

 その時、「ちょっと」と板場から叫ぶような声がした。

 「ちょっと、誰かいないの?藤の間にお膳を運んでちょうだい」

 「はーい」と返事の後、「さ、おみっちゃんがんばろ」の声が聞こえ障子が開いた。

 女中が出て来て、その後から幼く見える女の子が出て来た。

申之丈は今通りがかったふりをした。出てきた女たちは申之丈に気付いて軽く会釈をして板場に入っていった。

 「おのぶさんはこれを藤の間に運んでちょうだい。おみっちゃんは、こっちだよ、こっちを桜の間へ運んで」

 板場の声を背中に聞き、申之丈は座敷へと戻っていった。すると間をおかずに「失礼します」と言って障子が開き先程の女が膳を運んできた。それがおのぶだった。

 「これは、これは、おのぶ殿。ささ、こちらへ持ってきてくれ」

 佐々木はおのぶを手招きした。

 「この者を紹介しておこう」

 おのぶは膝を着き障子を閉め、膳を持つと立ちあがり佐々木の右側へ歩み寄り再び膝を着き、佐々木の前へその膳を置いた。

 「暮林申之丈と申してな、仙台から出てきたばかりだ。よしなに頼むぞ、おのぶ殿」

 佐々木の言葉を聴きながらおのぶは、膳の徳利を持ち佐々木が差し出したちょこに酒を満たした。それから、申之丈の傍へと移った。申之丈は膳からちょこを摘まみ上げ酒を飲み干しおのぶの目の前へすっと差し出した。おのぶは口元に笑みを浮かべ申之丈の眼を覗きこんでいた。その眼は申之丈がどのような人間なのかを探るような、その人となりを推し測っているような眼差しに申之丈には映った。

 おのぶは申之丈からちょこに目を移し酒を注いだ。

 「よしなに」

 「こちらこそよろしゅうにおねがいいたします」

 おのぶは口元の笑みはそのままに、申之丈の眼を射るような視線をむけた。

 この女、わしの心の内を見ようとしている。

 その時、

 「失礼いたします」と声がして障子が開けられた。

 先程おのぶと一緒に出てきたおみちだった。

 「おのぶさん、女将さんがお呼びです」

 「はい。今行きます」

 「なんだ、もう行かれるのか?」

 佐々木の言葉に、

 「申し訳ございません。今宵は忙しくて。またおいでの折にはゆっくりとお相手いたしますので」そう言っておのぶは出て行ったのだった。

 その時のおのぶの懐疑心に満ちた眼差しが今も申之丈の脳裏には焼き付いていた。

 しかし、今のおのぶの目元は優しさを湛えていた。ように申之丈には映った。

 「今日は忙しくはないのですか?」

 「まだ時が早いので、六つを過ぎますと少しずつお客様が増えてまいります」

 「さようか」

 申之丈が湯屋で七つの鐘が鳴ってから半時ほども経ったであろうか。江戸詰の藩士たちには門限があった。藩邸からの外出も制限され窮屈な江戸での暮らしを強いられていたが、江戸に幕府が開かれてより二百五十年程が経った嘉永六年の今となっては当初ほど厳しくなくなっていた。湯屋に行く際は一刻ほどの外出が許されていた。   申之丈は風呂に入った帰りに花野屋に立ち寄り一杯やっていた。

 「さすれば、この頃合いに来ればおのぶ殿と話が出来るのだな」

 「ええ・・、長い時間は無理かもしれませんが・・」

 「よいのだ、少しの間だけでも。それに、某も度々来れる程懐具合がよろしくないものでな」

 「暮林様はどのような役どころなのでございますか?」

 「某は乱舞方である」

 「らんぶ・・方?」

 聞きなれないお役目におのぶは首を傾げた。

 「さよう。舞を披露するのだ」

 「まあ」おのぶの表情が華やいだ。「どのような舞いなのですか?」

 「某は幼き頃より父から申楽を教わったのだ」

 「申楽と言いますと、お面をつけて舞うものですよね」

 「御存じか?」

 「子供の頃、神社で一度観たことがあります。遠くからでしたが」

 「伊達の殿様は昔より客人を招いた折に、舞を披露してもてなしておられたようで、それで、このようなお役目ができたのかもしれぬが、その仔細は某にはわからぬ」

 「お父上様も乱舞方でしたの?」

 「左様。暮林家は代々乱舞方なのじゃ」

 そう言った申之丈の表情は、おのぶの目には誇らしく映った。

 「だが、まだまだ父のようには舞えん。まだまだなのじゃ」

 申之丈はちょこの酒をぐいと飲み干した。

 「さて、そろそろ門限の刻限じゃ」太刀を掴み立ち上がった。

 「また、おいでくださいませ。お待ちしております」

 おのぶは手を着き礼をすると申之丈を仰ぎ見た。その眼差しからは、懐疑の情は失せていた。

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