きっとあなたの夢を見る

天井 萌花

第1話 静かな夜に

 誰に呼ばれたわけでもなく、ふっと目を覚ます。

 少し先に見える外は、もうすっかり暗くなっていた。


 夜を縫う月明かりも届かない小さな洞窟の中。

 流石につまらなくて、寝起きの足を動かして外へ出る。


 柔らかい月明かりを浴びて、ぐっと身体を伸ばした。

 外はもう暗いと言っても、僕の住居である洞窟よりは何倍も明るい。


 人間が朝、陽光を浴びて気持ちがいいと思うように。

 僕は寝起きで浴びる月明かりの優しさが、何より心地いいと思っている。


「ぁー……流石に身体痛いかもなぁ……」


 岩肌の上で寝ると、かなり身体が痛くなるようだ。

 もうかなり長い間ここを住居としているから、積み重ねかもしれない。

 クッションか何かがいるかな、などと思いながら、己の翼を広げる。


 畳んだり、伸ばしたりと軽い準備運動をしてから、大きく翼を動かした。

 バサッという音とともに風を感じる。

 ふわりと足が地面から離れ、ようやく僕の一日が始まった。


 少し冷えた夜風に乗って、ゆっくりと空中を移動する。

 真下に広がる家々は、どこも明かりはついていない。

 人影も見えなければ音1つ聞こえず、本当に人がいるのか心配になる。


 人間と僕は、絶望的なまでに生活リズムが合わないらしい。

 僕がこうして活動する頃には寝静まっているが、逆に僕が寝ている昼間なら賑やかに活動していると聞く。


「……人間と話してみたいな」


 死んだように眠る街を見下ろしていると、時々そう思ってしまう。


 たまたま人間が、昼間に僕達の住んでいる洞窟に入ってしまったとか。

 偶然が重なって、僕達異種族は出会うこともあるらしい。


 しかし僕は人間と直接会ったことがなかった。

 こんなに近くに住んでいるのに、運がないのだろうか。


 まあ、会ったって僕の思うように話すことはできないのだろうが。

 人間達は想像力が豊かで、出来事を書物として記録する癖があるんだとか。


 僕達は彼らにとって異色な存在。且つ殆ど交わることがないため、情報源が少ない。

 そのためかなり誇張された噂だけが一人歩きしているらしい。


 もし彼らと出会っても……背中の翼を見れば、すぐに逃げてしまうだろう。

 別に、悲しくもなんともないのだが。


 街の中央に近づくにつれ、だんだん高度を上げる。

 見上げる月につい手を伸ばしそうになった時、そっと翼を静止させる。

 ふわっとゆっくり、すぐ側に足がついた。


 気をつけたのに、カタッと瓦が小さな音を立てる。

 顔を上げると、街のはるか向こうまで見渡すことができた。


 ……流石、街一番の高さを誇る建物。

 街の軸とも言えるここは、昼間は厳重な警備がされているらしい。

 簡単に踏み入るどころか屋根に乗れるのは、夜を生きる者の特権かもしれない。


 硬い屋根の上に腰掛けて、暫く暗い景色を眺める。

 街はひたすらに冷たい静けさを纏っていて、まるで僕しかいないみたいだ。

 夜闇の奥にうっすら見える遠くの山では、僕のように夜行性の生き物が活動しているのだろうか。


 なんて見えないものに想いを馳せたところで、何も起こらないが。

 変わらない景色に飽きてきた頃、小さく息を吐いて立ち上がる。


 屋根の端ギリギリに立って――前に倒した身体を宙に預けた。

 重力によって物凄い速さで落下していく。

 少し翼を広げ、速度を緩める。

 決してゆっくりとは言えないが、それだけで周りを見る余裕ができた。


 この大きな建物は、代々国で一番偉い人の住居らしい。すなわち王城である。

 白塗りの壁は年季が入っていながらも決して古臭くはなく、威厳のようなものを感じさせた。


 城の壁際すれすれを落下するのは、結構楽しい。

 それに……この瞬間が一番、空気を感じることができる。

 今日の空気は、いつにも増して冷たい。涼しくて過ごしやすい夜だった。


 すぐ隣の壁や、近づく街を交互に見ながら落ちていると――ふと、時が止まった気がした。


「――え……」


 ――人間と、目が合ったのだ。すぐ側で。


 いつもは閉まっている城の窓が、一つだけ開いていた。

 もう皆寝静まっているというのに、大きな窓から景色を眺めていたのだろうか。

 綺麗な顔をした少女が、そこから丸くなった目で僕を見ていた。


 止まった意識とは違って、時間は変わらず動き続けていて。

 落ちていく僕の身体が、少女の前を通り過ぎた。


 ――矢先、手を伸ばした少女が、僕の翼の端を掴む。


 僕を引き止めようとしたのだろうか。

 当然、少女に落下している人1人を止める腕力などあるはずがなく。

 それでも手を離さなかった少女の小さな身体が、僕に引きずられるように窓から出てきてしまった。


 咄嗟に翼を動かすと、少女の手を振り払った形になった。

 飛ぶことで速度を殺せる僕と違い、少女になす術がないことはわかっている。


 くるりと身体の向きを変え、落ちてくる少女を抱き止める。

 そのまま少し上へ飛び、少女が顔を覗かせていた窓枠に足をつけた。

 傷をつけないように気をつけながら、少女を部屋の中に降ろしてやる。


「何で……」


 じっと僕を見つめている藍色の瞳から、危うく光が消えるところだったからだろうか。

 咄嗟に動きを変えたから、余分な体力を使ってしまったのだろうか。


 普段は静かな心臓が、どくどくと大きく脈打っている。

 いつもより冷たい空気さえも、顔にまで昇った熱を冷ましてはくれない。


「どうして、手を伸ばしたの?」


 意識的に深い呼吸を繰り返してから。

 なるべく優しい言葉を心がけて、初めての人へ向けた声を発した。


 ただ無言で、呆然と僕を見つめていた少女が、小さな口をゆっくりと開く。


「……高い所から落ちると、危ないですから」


「――ん?」


 ポツリ、と、鈴を転がすような綺麗な声が言った。

 少女の瞳は僕から逸れない。なのにまるで、僕でないものを見ているかのようだった。


「こんな所から落ちると、死んでしまいますよね。咄嗟に『助けないと』と」


「あー、なるほどね?」


 どうやら少女は、優しさであのような行動に及んだようだ。

 誰もいないはずの城の上から落ちてくる人、それも翼が生えている。

 そんな奴無視すればいいだけの話なのに。


「いい子だねぇ。でもダメだよ、自分の命は大切にしないと」


 そもそもこの少女は、僕に構うような身分じゃないだろう。


 身に纏っているナイトドレスは、かなり上質な素材で作られているのがわかる。

 ずっと僕から逸らさないままの、深い藍色の瞳。

 隅々まで手入れの行き届いた艶やかな金髪。

 印象的なこの色は、王の血が流れている証だったはずだ。


「……あなたは、何者なのですか?」


 僕の言葉には返事をせず、少女はマイペースに聞いてきた。

 鈴の音よりも綺麗な声を聞いて、ようやく少女の視線の先を理解する。

 僕自体ではなく、僕の正体を見ようとしていたのだ。

 幼さの残る丸い目が、探るように僕を見ている。


「さぁ、何だろうね?」


 答える意味を感じず、適当に返した。

 偶然が重なってしまっただけの、たった一夜の出来事だ。

 なんと答えようと、明日の少女にとってはただの夢なのだから。


 そう思って、僕は答えを出さなかったのに。


 ――吸血鬼。


 小さな、けれどしっかりとした声が、耳に入ってきた。

 不安そうな顔をしているのに、その言葉は確信に満ちている。

 僕の持つ黒い翼は、それほど印象的だったのだろう。


 すっと、大きく息を吐いた。

 立てた人差し指を口元に当て、笑いかける。

 僕の口元に集中した少女の目は、覗いた牙を捉えているのだろうか。


「――秘密にしててね、


 とんっと軽く窓枠を蹴ると、身体が宙に浮く。

 未だ藍色の視線を注がれながら、僕は少女の部屋を後にした。

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