真夜中の逢瀬にしたかったもの

灯油蕁麻

本編

 幼い頃、私はきっと神様だった――。


***


「とは云ってもただの比喩なんだけど」

 昔は世界は自分を中心に回っていた。子供なんだもの、当然だ。大人は子供を守る義務があって、私はその恩恵に与っていただけ。

 でもそんな世界も終わりを迎えた。一度ひとたび小学校に入ってしまえば周りは皆んな同じ環境、同じ立場。そこに違いはなくて、だから私の特別扱いもほぼなくなった――それでも祖父母はよくしてくれた。偶にしか会えないけれど、その時だけ、私は未だ神様だった。

 けれど、この世界でさえも終わりを迎える。井の中の蛙大海を知らずと云うが、今まで大海と思っていたものでさえ井であったような、何重にも井があったような、そんな感じ。要は中学校生活の始まりだ。もうこのころになると、祖父母でさえ私も一端の人であったと知った――元より、気付いていたのかもしれないけれど。

 高校生になるときに、最早世界は変わらなかった。中学校の延長線、私に既に、神性など欠片もなく。


「んにゃ、欠片もは嘘か」

 私の目下の悩み事。人生十七年における最重要事項。

 ――明日、四月二日。私は十八歳になる。

 この国における成人年齢。生まれたときより残された最後の神性は明日になれば消え去って、私の世界は最後にして最大の変革を迎える――。



 ここ一ヶ月、私の中はその不安と恐怖でもちきりだ。

 なんせ十八年も連れ添ってきた『子供』との別離である。身体カラダも、精神ココロも、何も変わらないはずなのに、何かが致命的に変わってしまう感覚がある/掛け違えてしまう感覚がある。

 こんなに悩んではいるけれど、親に打ち明けるのも莫迦らしい。彼らは云うだろう。

「別に何も変わりはしないさ。私達が親でいる以上、子は子のままなんだから」


 確かに、親子の関係は不滅かもしれない。それでもやはり、子と子供は違うのだ。関係性ではなく成長の度合いの話。彼らは私を見ると同時に、きっと私を育ててきた過程を見る。だから気付かないのだろうけれど。

 気付けばあと数時間で日付は変わる。退屈な授業のときは時間が一定に進むことが心の安寧を保つけれど、今だけは別だ。これほど時間が一定であることを恨んだためしはない――!

 それならせめて、子供としてみる最後の景色を目に焼き付けようと、ドアを開けて、夜の街に繰り出した。

 十七歳最期の夜、子供である私の最期の散歩。

 四月にしては冷たい風が身体に沁みる。

 ふと駅前に足を向けた――街のネオンはいやに明るくて、私の気持ちとは正反対。

 ふと路地裏に目を向けた――ビルの間はいやに暗くて、私の気持ちを嘲笑うばかり。

 行く当てのない私は自販機で適当に缶コーヒーを買って、けれど開けずに彷徨さまよって。

 そんなこんなで時間だけが過ぎ行って、買ったときは温かったコーヒーもすっかり冷えてしまって。

 やがて家の前に辿り着いたけれど、帰る気にはなれなかったので夜の散歩は延長だ。


 ――そうして、近所の公園が終着駅だ。

 時計に目をやった。日付が変わるまではあと一時間、存外時間がたってしまったようだった。

 取り合えずベンチに腰を下ろそうと見まわしてみると、先客の存在に気が付いた。

「こんばんは」

 見たこともない人だったけれど、明日に私の世界は終わるのだ。すべては些末、それならば、知らない人とお話の一つ、してみたくもなったのでしょう。


***


「こんばんは」

 先客はどうやら男の人らしい。突然声を掛けた私にも、律儀に返事を返してくれた。

「どうやらお悩み中とお見受けする。一体全体どうしたので?」

 少し時代錯誤を感じる口調で、彼は私に訊いてきた。

 それにしても、そんなに判りやすかったかしら、と呟いたのが聞こえてしまったらしい。目元のくまが酷いですよ、なんて教えてくれた。

「なにより、こんな夜更けに見知らぬ他人ひと、ましてや私みたいなのに声を掛けるなんて、よっぽどかと」

 そう云われて初めてまともに見た彼は、憚らずに云うのならみすぼらしい恰好をしていた。

 ああ、これは確かによっぽどなようだ。得心した私に彼は悩みが何なのか問うてきた。

「お悩み中とお見受けする――なんて云ってしまった手前、訊かずにいるのも忍びない故」

 とは彼の言。

 確かに、親に云うには莫迦らしかったけれど、初対面の他人であればそれもない。

 そう思った私は、訥々と昏い気持ちの吐露を始めた――。



「そうだね。話を聞く限り問題は一つだけに思える」

 私の話を一通り聞いて、彼はそう云った。

 一つだけ。そう聞いて、なんとも形容しがたい気持ちになった。たった一つの問題さえ解決すれば苦しみの総てはなくなるのかという安堵と、私の苦しみがたった一つで説明されてなるものかという憤り。

 この二律背反に苛まれ、余計に苦しい。

 鼓動は早く、呼吸は浅い。焦点はズレ、世界から音が消える。

 だのに、彼の言葉はやけにクリアだった。

「そも、大人に“成る”こと自体が間違いなのです」

 私のことなどまるで気にしない。自分の世界に閉じこもってしまって、彼はただ単語を文に、文を文章に変換してしているようだった。

「貴女は先ほど、子供から大人への不可逆性が、その間にある差が怖いと云いました」

 云ったかもしれない。何を云ったかなんて覚えていないけれど、きっと云ったのだろう。だって、充分すぎるほど私の今を説明している。

 私を見やって、彼は続けた。

「確かに、子供と大人の間には差があります。けれど、単語の意味そのものを人間に当てはめる必要はない。ほら、云うじゃないですか。大人びた子供、子供みたいな大人って」

 彼は手首の辺りを見た。時計だろうか、時間なんて確認してどうするのだろう。理由が解りもしないくせに、何故だか苦しくなった。

「子供と大人には元来区別などなく、人によって移ろう時期も違う。多くの人が大人としてやっていけるのが偶々十八歳というだけ」

 彼は自分の世界を広げて、私までを包み込んだ。

「時に、昼と夜の境目は、何時いつだと思われますか?」

 唐突に、そう訊いてきた。

 苦しむ身体で、重い唇を動かして、なんていう必要はなく、言葉は紡がれた。

「何時って……まぁ夕方だから、六時とか……」

 彼はもう私を見ない。身体は既になく、言葉だけが、今の私の世界だった。

「ですが、季節によって暗くなるは変わる。例えば、十七時にはもう暗くなっていることもあるでしょう。反対に、十九時に未だ明るいこともある」

「……」

 答えられなかった。

 彼は口を動かすだけ。

「境目なんて、ないんですよ。昼になれば夜が巡る。夜になれば昼が巡る」

「でもそれは極論だ! 朝も夕も、現に人はそう名前を付けたでしょ!」

 認められなかった、断じて。だってこれを認めてしまえば、子供と大人に違いはないだなんて、ありきたりな結論に至ってしまう。そして私は納得してしまうだろう。何故だかこの男の科白せりふには説得力があったから。

 これでは、私の苦しみ損だ。故に、この結論は認められなかった。

「そう気を急かさない急かさない。大事なのは、貴女の云う通り朝と夕の存在です」

「え?」

 ありきたりな結論から、逸脱する――。

「夕方に窓を眺めて、夜を実感するのは決まって窓から目を逸らしたときです。要は、絶えず流動するものは目を逸らして初めてその違いに気が付ける」

 きっとこれが彼の結論、そう気づいたとき、彼は私に微笑んだ。

 成人とは、一度歩み続けた足を止めて、後ろを顧みて、未来これからから目を背けること――。


***


「ほら、もう日付は変わってますよ」

「え!? あ! 本当ホントだ!」

 苦しみは既になかった。

「子供と大人なんて、大層な違いはなかったでしょう」

「はい。案外」

 子供としての私が死ぬ――なんて莫迦らしい。結局何も変わらなかった。

「話を聞く限り、貴女はよく自分を俯瞰していたようでしたから。実は元々大人であったのに、大人になってしまうと悩んでいたなんてオチがいいところですかね」

 それじゃあ結局苦しみ損か、と独り言ちた。

「夜の逢瀬はこれにて仕舞い。縁が続けば、何処かで」

 最後まで少し時代錯誤な気もする挨拶を聞いて、返して。


 そうして家路につく。

 子供の頃の私が見たのと同じ景色、それともあの頃にはもう大人だったのかしらなんて思っていたら、家のドアの目の前だった。

 ――振り返って、家路を顧みて。大人の私の第一歩を踏み出した。

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真夜中の逢瀬にしたかったもの 灯油蕁麻 @touyujinma

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