桜の記憶、今を生きる君へ

大地の恵み-(氷堂杏)-

第1話―記憶の目覚め―

 十五歳の誕生日が来たその日、風は少し冷たく、空は澄み渡っていた。春の陽気を感じさせるにはまだ早いこの季節、高校に入学したばかりの北條悠斗(ほうじょう ゆうと)は、どこか気だるい気分で朝を迎えていた。家を出るとき、母親が用意してくれた弁当を片手に、無造作にカバンを肩に掛ける。その仕草に特別な意味はなかったが、この日が人生の転機になるとは、彼自身思いもよらなかった。


 悠斗は自分の人生に対して、特別なものを期待していなかった。普通の少年のように、普通の生活を送ることが当たり前だと信じていた。しかし、その平凡な日常は、十五歳の誕生日を境に大きく揺らぎ始める。


 学校に向かう途中、悠斗はふとした瞬間に奇妙な感覚に襲われた。道端の花が風に揺れるのを見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、懐かしさと切なさが入り混じった感情がこみ上げてきたのだ。「何だ…これ?」彼は足を止め、立ちすくんだ。


 心臓が不規則に鼓動を打ち、頭が熱くなる。視界の隅が白くにじみ、まるで夢の中にいるかのような感覚が押し寄せた。知らない風景、知らない声、そして――知らないはずの「彼女」の姿が、鮮明に浮かび上がってきた。


 長い黒髪を揺らし、優しく微笑む女性。その笑顔に胸が締め付けられる。彼女の名前を知っているようで、でも思い出せない。悠斗は慌ててその場にしゃがみ込んだ。頭の中に押し寄せる断片的な映像に翻弄され、息が詰まりそうになる。


「悠斗?大丈夫?」


 そのとき、背後から声がかかり、彼はハッとして振り返った。幼なじみの佐藤未央(さとう みお)が、心配そうな顔で彼を見下ろしていた。未央はクラスメイトで、入学式からずっと一緒に登校している気心の知れた友人だ。


「ごめん、ちょっと気分が悪くて…」悠斗は何とか笑顔を作り、立ち上がったが、頭の中に残る謎の映像が消えることはなかった。


「大丈夫ならいいけど…無理しないでよね?」未央は心配そうに見つめたが、それ以上は深く追及せず、二人は再び学校へ向かって歩き始めた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


学校に到着し、授業が始まったものの、悠斗の頭は落ち着かなかった。どうしてもあの映像が忘れられない。あの女性は誰なのか。なぜ自分は彼女のことをこんなにも懐かしく感じるのか。頭の中で無数の疑問が渦巻く。


昼休みになると、悠斗は一人で屋上へ向かった。人気のない場所に立ち、青空を見上げながら深呼吸をする。心を落ち着けようとするが、心臓の高鳴りは収まらない。目を閉じると、再びあの女性の姿が浮かんできた。


「私は…誰なんだ?」


言葉にすることで、何かが変わる気がした。すると突然、悠斗の中で何かが弾けるような感覚が走った。


――記憶だ。前世の記憶が蘇ったのだ。


悠斗はその場にへたり込んだ。過去の自分、そしてあの女性…彼女は自分の「妻」だった。前世で愛し合い、共に過ごしたはずの女性の存在が、はっきりと蘇る。しかし、肝心な彼女の名前や顔は曖昧なままだ。


「彼女は…どこにいる?」


悠斗は自問する。もし自分が生まれ変わったのなら、彼女もまた生まれ変わっているはずだ。そして、奇妙な確信が胸を打つ。「彼女はこの世界のどこかにいる。そして、きっと自分のそばに…」


悠斗はその時初めて気づいた。彼女は、自分と同じ高校に通っているのではないかということに。記憶が完全には戻らないが、彼女の存在が近くに感じられるのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


放課後、悠斗は校内を歩き回りながら、無意識に彼女を探していた。廊下を歩くたびに、クラスメイトや先輩たちが目に入る。しかし、その中に「彼女」は見つからない。焦りが募るが、具体的な記憶がない以上、何もできないまま時間だけが過ぎていく。


そんな中、未央が再び声をかけてきた。「悠斗、何かあった?最近、様子が変だよ?」


未央の問いかけに、悠斗は一瞬戸惑ったが、彼女には嘘をつくことができなかった。幼なじみで、誰よりも自分を理解している未央には、心の内を話すべきかもしれないと思い、少しだけ口を開いた。


「実は、ちょっと変なことが起きてるんだ。誕生日を迎えてから、頭の中に断片的な記憶が蘇ってきてさ…前世の記憶みたいなんだ」


未央は驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔つきになった。「それって、どういうこと?詳しく教えて」


悠斗は、できる限りのことを話した。前世での記憶、そしてその記憶の中にいる「妻」の存在。しかし、名前も顔もはっきりとしないこと、ただ彼女が今、自分の近くにいるような気がしてならないこと。


未央は静かに話を聞いていたが、やがて言葉を選ぶように口を開いた。「それって、すごく不思議だね…。でも、もしかしたら、その人も今、悠斗と同じように記憶を探しているのかもしれないよ」


「そうかもな…。でも、どうやって探せばいいのか分からないんだ」


悠斗は自嘲気味に笑った。どんなに探しても手がかりがない。まるで霧の中を彷徨っているような感覚だ。


未央はしばらく考えた後、提案した。「まずは周りの人に目を向けてみることから始めるのはどう?もしかしたら、意外と近くにその人がいるかもしれないよ」


その言葉に、悠斗は少しだけ心が軽くなった。未央の言う通りかもしれない。焦らず、もう少し周囲に目を向けてみようと決意した。


「ありがとう、未央。そうだな、少しずつでいいから探してみるよ」


こうして悠斗の前世の記憶と共に始まった、新たな日々が幕を開けた。彼はまだ知らない。この先、自分がどんな運命に引き寄せられていくのかを。

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