◆Ⅰ或る水夫の夢

 彼の死に際はとても穏やかだった。悪魔に取りつかれるでもなく、妄想に苛まれるでもなく、自身の死と真摯に向き合っていたのが印象的だった。彼は敬虔な信徒であった。

「私の取るに足らない人生も、フィニスの刻に必ず神が見届けてくれる」

 彼は口癖のようにそう語った。そう心から信じていた。

「だから悪いことはしてはいけないのだよ。分かったね」

 孫に言い聞かせているのか、己に言い聞かせているのか、私にはどうにも後者に思えた。神か。そんな都合の良い言葉でこの世界の仕組みを片付けることのできた彼らに常々私は怒りを覚えた。だが同時に、彼らのことがとても羨ましくもあった。

 水夫であった彼は、特筆するべき人生は送らなかった。新たな発見もなければ、革命も、奇跡もない。まさしく平凡な人の一生であった。彼は貧しい漁村の少年として幼少を育った。体は小さく、体の線は細く、ハトのような顔をしていた。特技は釣りと料理。晩年は一日のほとんどを海釣りに費やしては、釣った魚を使って家族に料理をふるまっていた。

 彼は家族に愛されていたし、彼も家族のことをこの上なく愛していた。そんな彼には夢があった。まだ恋の甘さも知らぬ幼い頃の記憶は夜の静けさの中、明かりもない大海原に浮かぶ船の上で、叔父に教えてもらった星座の話だった。ベガとアルタイル。天の川を挟んで輝く二つの星にまつわる伝承に少年は目を煌めかせ、夜凪に身を任せながら思った。もし運命を別つ二人がいるのだとしたら、僕が渡し船を漕ごう。

 彼は村の娘と結ばれて、子どもを四人持ち、水夫として一生をその村で過ごした。大人になる頃には現実を生きるようになり、あの幼少の夢はもう思い出さなくなった彼だったが、それでも星空を見て抱く情動を捨てきれはしなかった。

 彼の死後、箱を開けたのはその村唯一の聖職者であったが、彼の瘦せこけた軽い体が黒い箱になる刹那、彼はそれはもう嬉しそうに、幸せそうにその聖職者に語った。

「私は今、あなたの双眸の奥に神を見ています。おお、神よ。神に通じる全ての存在たちよ、本当にありがとうございます」

 こうして一人の水夫の人生は幕引きとなった。

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