第30話

 蛇女が部屋から出てきて、またこちらへと向かってきた。壁灯りに赤銅色の眼を不気味に輝かせながら、床の上を滑るようにして迫ってくる。

 剣を構えたティルザの前に、ニナが進み出た。そして、杖を掲げつつ、何か呪文を唱え始めた。

 蛇女が大口を開け、牙を現したのと、ニナの杖から火球が飛び出したのが同時だった。火球はもろに蛇女にぶち当たり、その身を一瞬炎で包んだ。しかし、蛇女はそれで止まりはせず、その身を焦がしながら火球を突き抜け、まさに飛ぶようにしてニナに噛みついてきた。

 ニナは咄嗟に杖を振り、身体をかばい、何とかその毒牙に掛かることからは逃れられたが、勢い、全身でぶつかられ、杖は横に自身は後方へと吹っ飛ばされた。

「あとはあたしに任せろ!」ティルザがあいだに入って声を上げた。

 蛇女は目先を変え、すぐにティルザに向かってきた。どうやら、目に入った生き物は何でも、ただちに襲わないと気が済まない性質らしい。ティルザはとにかく噛まれないよう、それの口元ただ一点に注意をしぼりながら中段に構えた。

 蛇女が上体を伏せて低く跳ね、床すれすれに飛んできた。ティルザは素早く横にステップを踏んで躱しつつ、剣を鋭く突き下ろした。切っ先が尾の真ん中を捕らえ、その身を抉るかに見えた。しかし、ティルザの手に伝わってきたのは、戞然として跳ね返された衝撃ばかりで、蛇女の鱗は想像以上に固かった。

「アリーネ、私の剣に強化魔法を!」

「さっき言ったでしょ。私の魔法は目下、売り切れ中だって」

 蛇女は、ティルザの足下をさらにしつこく攻めてきた。そして時々、不意を狙って、頭部も打ってくる。床に軸を置き、身体ごと回転させ、固い尻尾を鞭のようにしならせて叩きつけてくるのだ。

 意識の多くをそれの毒牙に集めて警戒しているティルザには、この攻撃は厄介だった。これまで何とかその直撃こそ避けられているものの、かすって頬を切られたり、手元を打たれて剣を飛ばされかけたり、ひやりとした場面は一再ではない。

 もっともティルザも、受け身に回っているだけではなかった。相手の攻撃を常にぎりぎりで躱しつつ、隙を見つけては、すかさず斬りつけている。狙いは全て鱗の無い上半身で、どれも浅手ながら、いまや蛇女は長短合わせて、六つほどの傷を負っている。それらの傷からは人間と同じ赤い血がにじみ出て、煤で汚れた皮膚の上に、それぞれまっすぐな線を引いていた。

「よし!」

 ティルザは、弧を描いて飛んできた尻尾の下をくぐりつつ横に払った一撃に、確かな手応えを感じた。目まぐるしい攻防を、既に五分以上続けた末のことだ。

 蛇女は新たな傷口を両手で押さえつつ、尻尾の向きだけを素早く逆にし、大きく後ろに退いた。ティルザは勝利を確信し、その場に立ったまま、乱れた呼吸を静かに整えた。これでそのまま逃げてくれればそれに越したことはなく、あえて仕留める必要は特にないと思う。

 その時、蛇女の様子に異変が見えた。きばって唸るような声を漏らしつつ、身体を悶えさせ始めたのだ。みるみる黒く汚れた上半身の皮膚が赤い傷ごとパラパラと落ちてゆき、その下から下半身と同じ緑色をした鱗がみっしりと隙間なく現れだした。

 鱗は蛇女の顔にまで隈なく生えてきて、ほどなくその全身から人間らしい皮膚を全て失わせた。新しく生えたそれらは、どれも良く磨かれた金属のように壁灯りをほの明るく反射し、その輝きの美しさは、より蛇に近づいたその姿のおぞましさを、却ってますます強調した。

「げ、斬れるとこ、無くなっちまったじゃねーか。これ、どうすりゃいいんだ?」ティルザが嘆いた。

「知らないわよ。とにかくあんたが何とかなさい」アリーネが命じた。

「強化魔法は本当に使えないのか?」

「私は今、とても疲れてる。ちょっと目をつぶれば、すぐに熟睡できるくらい。今日はもう働きたくない」

「私がやります」

 ニナの声がだしぬけに聞こえた。特に怪我はしなかったらしく、いつの間にかティルザの横に澄まして立って、より爬虫類に近づいた蛇と姉との合成生物の姿をじっと見つめている。

「アリーネ同様疲れ切った今のお前の魔力じゃ無理だ。さっき試して、それはわかったろ」

「さっきはぎりぎりの所で、つい同情心が湧き出てきちゃって、集中が乱れてしまいました。でも、もう大丈夫。あの姿を見れば流石に……」

 蛇女は今、自身の上半身の所々に落ち残った皮膚を、二股に分かれた長い舌をチロチロと突き出して、なめすくっては飲み込んでいた。

 ニナが目をつぶり、何か呪文を唱えはじめた。それに気づき我に返った蛇女は赤銅色の瞳を光らせ、またこっちに向かってきた。

 ティルザが剣を構えて前に出た。ニナの詠唱の時間を稼ぐためだ。彼女は切れぬことを承知の上で、鱗の上から斬りつけた。果たして刃は跳ね返されたが、その狙いどおり、蛇女は足を止め、その視線をティルザに向けた。

 防御を気にせぬ蛇女の攻撃は猛烈だった。ティルザは極限の集中力を発揮して、それを必死に避け続けた。幸い、尻尾がかすることはあってもその毒牙には掛からずに済み、やがて彼女は頃合いを見計らって後ろに退いた。

 ニナの声が止んだ。詠唱が終わったらしい。と思うや、蛇女の口から高く短い絶叫が響き、その上半身が下半身を床に置いたままくるりと回転した。回転は一度で止まらず、さらに繰り返され、五回転ほどしたところで、聞いたことのない嫌な音を立てて胴が引きちぎれた。どうと倒れた上半身の切断面から血にまみれた内臓がどろりとこぼれだし、片や尻尾の方は、まるで自らの意思を持つかのごとくピチピチと跳ねていた。

「何をしたの?」アリーネが訊いた。

「空間の一部を相手の身ごと回転させました」ニナが答えた。

「よく知らないけど、それって、ものすごく高度な魔法なんじゃないの」

「これまで何度試しても出来なかったのが、いま初めて成功しました」

 そう答えるなり、ニナの身体がふらりと揺れた。ティルザがすぐに寄って、その肩を抱き支えた。心配して見ると、既にすやすやと微かな寝息を立てている。ティルザはほっと息をつき、その華奢な身体をそっと抱きしめた。

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