第5話

 現在、アトロポシアは事実上、パスチラーラ軍の占領下にある。復興が進む一方、徴発だの接収だの、その兵隊の横暴に泣かされる住民も少なくない。パスチラーラ自身も、街の中心部に建設中の新王宮が出来るまでの仮住まいとして、かつてこの街で最も裕福だった商人の邸宅を接収し、使用している。今、その仮住まいの応接間の、大きなシャンデリアの真下に置かれた大理石のテーブルを挟んで、彼と、例のカルトにおいて猊下と呼ばれている黒ローブの男とが何か話し合っていた。

「それで、例の研究の進捗具合は?」パスチラーラが頬まで伸ばした豊かな口髭をねじりながら訊いた。

「つい先日、製法が確立したとの報告が入った。予定日までにゾンビ二百匹、グール二十匹は作成できるとのこと。で、侯には、死体の調達をお願いしたい」黒ローブの男が陰気な声で言った。

「それはお安いことだが、その程度の数のアンデッドでネピエルの街が落ちるのか? あの街の人口は、その百倍はあるぞ」

「何も全滅させるわけじゃないからの。要は、侯の軍隊が介入する口実ができればいい。その為、ジェラートゥスに――」

「ああ、勅命を出させれば良いのだな。儂にゾンビを退治せよと。教皇のお墨付きを得るわけだ」

「そうじゃ。ところで、そのジェラートゥスはどうしておる?」

「あの男なら」とパスチラーラは固太りした身体を椅子の上でひねり、遠く窓の外に見える焼け焦げた大聖堂の方を苦笑いしながら見やって「相変わらずだ。飲んで、食って、若い修道女に片端から手を出して、それでも飽き足らず、あの美人を寄越せだの、刺激的な見世物を見せろだの、しょっちゅう言ってくる。いつも適当にいなして、ご機嫌を取ってるが……そろそろ教育が必要かもしれんな」

 ノックの音がした。衛兵に連れられて、黒ローブの男の供が入ってきた。

「猊下、ちょっとお耳を」

「構わぬ。話せ」

「ハッ……アンデッド製造研究課の課員どもが、全て殺されました」

「なに! しかも全員だと?」

 猊下の顔が上向き、フードが後ろにずれた。右目に眼帯の掛かった皺だらけの顔が唖然としている。パスチラーラは黙ったまま天井を見上げ、ため息をついた。そして報告者に視線を戻し、話の続きを待った。

「ハッ、例の施設内にて、十体以上のゾンビの骸と共に、五人の死体が確認されたと」

「なんということ……となると、研究の成果はどうなる? 全て失われたということか? 誰かその五人の他にゾンビ、グールの製造法を把握している者は?」

「いえ、誰も」

「文書などは残していないか?」

「全て捜査当局に押収されたようです。もっとも、現場検証に立ち会ったネピエルの傭兵ギルドの主人によると、それらのほとんどはメモ書きあるいは覚え書き程度のもので、おそらく書いた本人以外、その意味はほとんどわからないだろうと」

「あの無能めが。やはり係長止まりにしておくべきだった」

「計画は延期だな」パスチラーラが口を挟んで冷ややかに言った。

「ううむ……で、殺ったのは誰だ?」

「二人の女だそうです。一人は背の高い剣士。一人は……小柄で色白の美人」

「……小柄、色白、美人……他に特徴は?」

「ハッ、年はおそらく十四、五。服装は庶民の装い。しかし挙措は洗練され、とても傭兵や賞金稼ぎには見えない。ギルドの主人の見立てでは、あるいは最近に没落した、どこか良家の子女かもしれないと」

「……アリーネか?」

「ハッ、その可能性も」

 パスチラーラが衛兵を手招きし、何か言伝をした。

「やはり生きておったか。で、そいつらは今どこに?」猊下の声に憎しみが籠った。

「……ネピエルを既に出たことはわかっていますが、行き先までは……」

 部屋に沈黙が落ちた。どこか外で小鳥がさえずっている。ほどなくノックの音がして、役人らしい四十絡みの男が入ってきた。

「お呼びでしょうか?」

「ああ、女を二人、探して捕らえろ。人も経費もどれだけ使っても構わん。とにかく最優先で取り組め。詳細はそこの男が知ってる。あとな――」とパスチラーラは呼んだ男を近づけ、彼の耳を手で覆い、声をひそめて「二人の内の大きい方は殺して構わん。だが小さい方は絶対に殺すな。必ず無傷のまま儂の前に届けろ。よいな」

 世間の噂に拠れば、アリーネの優れた容色は大陸で一二を争うとされていた。



 季節はそろそろ夏へと差しかかり始めていた。

 森のあいだの荒れた道を北へと進むティルザとアリーネの顔中に汗が吹き出ている。繁った枝葉に遮られて陽はあまり差さないが、風もほとんど届かない。ティルザなどは上半身裸になって、胸に巻いた白布を平気で晒していた。

「あんた、恥ずかしくないの?」アリーネがティルザの、くっきりと谷間を刻んだ豊かな乳房の膨らみを睨みながら恨めしそうに言った。

「あたしらの他に誰も居ないのに、何を恥ずかしがる必要がある?」ティルザが額の汗を手で拭いながら言った。

「誰か来るかもしれないでしょ」

「来ねーよ」

 東の平原にこの道に並行して、良く整備された新街道が延びている。それに対しこの道は、かつてまだ諸侯のあいだで縄張り争いの盛んだった頃に間に合わせの迂回路として通されたもので、最早その役割を終えている。今回二人が敢えてこの森の中の旧街道を採ったのは、やはり、人目に付くのを避ける為であり、特に、今や血眼になってアリーネを探しているに違いないパスチラーラの追手から逃れる為であった。

「おっと」ティルザが散り積もる朽葉に足を滑らせて、思わず声を出した。

「ダサッ。かっこわる。アッ」言ったそばからアリーネも、地表に頭を出した石に躓いて、転びかけた。

「ちょっと休もう。水くれ」

「さっき飲んだばかりじゃない。まだ先は長いのよ」

「もう少し行けば、豊かな泉があるんだろ。そこでまた水筒に汲めばいい」

「確かに地図にはそう書き込んであるけど、この地図自体、相当古いものだから……」

 書き込みの場所に着いた。豊かな泉は無かった。代わりに、瘴気でも放っていそうな、暗緑色に濁った沼が広がっていた。

「マジか……」ティルザが膝からくずおれた。

「だから言ったじゃない、全部は飲むなって」アリーネが嘆く声でティルザを責めた。

「お前だって、一緒に飲んでたじゃねーか」

「私も飲まなきゃ、あんた、一人で飲み干してたでしょうが」

「……今更言っても仕方ねえ。どうするよ?」

「……上澄みをすくえば、飲めないことも無いかも」

「無理だろ。見るからに水が腐ってる」ティルザが、ねばっこい水面を見て、顔をしかめた。

「いえ、きっと大丈夫。あんた試しに飲んでみなさい」アリーネはほとりにしゃがんで巾着から水筒を取り出した。

 そのとき突然、二人の面前に激しい水しぶきが立った。水の下から大きな何かが跳ね上がり、すぐ近くの浅瀬にじゃぶんと飛び込んだ。アリーネは驚き、尻もちを突き、ティルザは身構え、目を見張った。

 大きな何かはその場で身体を起こし、二本の足で立ち上がった。それは、鰐の頭と胴体に、人間の手足をくっつけたようなあいのこ的な怪物だった。

 その怪物がアリーネに襲いかかってきた。長く大きな顎を開き、たくさんの尖った歯がむき出しになる。

 アリーネは横に転がり、その歯を避けた。しかし、スカートの裾に噛みつかれ、どんなに引っ張っても放してもらえない。

 怪物は顎をしっかりと閉じたまま、四本の手足で地面をしっかりと掴むようにしつつ徐々に後退しはじめた。アリーネは水の中へと引きずられながら、怪物の頭の辺りを繰り返し蹴とばしたが、ごつごつと硬い皮膚に対し、そんなものは無駄な足掻きでしかなかった。

「スカートを脱いで逃れろ!」ティルザがアリーネの身体を慌てて抱き押さえながら叫んだ。

「これ、ワンピース!」アリーネが叫び返した。

「だったらワンピースごと脱げ」

「嫌。私、この一着しか持ってないもの。それにこの服、ボロながら結構気に入ってる」

「そんなこと言ってる場合じゃねーだろ」

「無理ったら無理。私はあんたと違って露出狂じゃない」

「誰が露出狂だ!」

 怪物の力は強く、二人を悠々と引きずっていく。ティルザはまず、アリーネの肩から彼女の巾着を抜き取り、自分の首に引っかけた。それから腰の剣を抜き、それを、アリーネの服の後襟から、刃を外側にして、中に突っ込んだ。

「なにすんのよ!」

 ティルザはアリーネの抗議を無視して、ワンピースを背中から下へと切り裂いた。剣を放り、アリーネの素肌の腰に両腕を回し、思いきり引っ張る。ワンピースから半裸のアリーネが滑り出て、二人は一緒に後ろに倒れ込んだ。

「こらっ、放せ!」

「どうせあれはもう着れない。諦めろ」

「服なんてもうどうでもいい。ただあの鰐、私をこんな目に合わせて、許せない。ぶっ殺して、生きたまま皮を剥いで、チキンステーキにしてやる!」

「頭を冷やせ。お前、今、馬鹿になってる」

 ティルザは、もがくアリーネを構わず肩に抱え上げ、さっさと沼から離れていった。泥に汚れたワンピースを顎から垂らした怪物は再びその足で直立し、逃げる二人を見ていたが、すぐに諦め、沼へと戻っていった。途中、ティルザが置いていった剣を、その人間のような手で拾って、持っていった。

「ここでちょっと待ってろ。剣を取り返してくる」アリーネを肩から降ろして、ティルザが言った。

「諦めなさい。水の中で鰐と戦って勝てるわけないでしょ。あんた、何時でも何処でも常に馬鹿ね」冷静さを取り戻したアリーネが呆れた様子で言った。

 二人はその夜を森の中で明かした。幸い、夜は過ごしやすい暖かさで、草の上で寝るには良かったが、どちらも喉が渇いて、結局、よく眠れなかった。それでも明け方、ティルザがウトウトしていると、道の方から人の気配がした。すぐに目を覚まし、足音を忍ばせて近づいてみると、大きな荷物を背に負った美しい青年が歩いていた。

「すまん、水をくれないか」ティルザは身体を立て、いきなり青年に言った。

「――痴女か!」突然人の声を聞いて驚いた青年がティルザに気づいて言った。ちなみにこの時ティルザは、上着もズボンもアリーネに取られて、胸と腰に白布を巻いているだけだった。

「何だと、てめえ! あたしのどこが痴女だ!」

「いや、その格好……」

「びっくりさせて、ごめんなさい」いつの間にかティルザの後ろに、袖と裾を折り曲げて彼女の服を着たアリーネが立っていた。「私たち、旅の者です。水が尽きて困っています。もし余分があれば、分けて頂けませんか。お代ならあります。ちなみに彼女が半裸なのは事情があってのこと。別に変態というわけでは、たぶん、ありません」

「ああ、そうでしたか。これは失礼いたしました。水はあいにく、私も切らしてしまいました。ただ、この先、もう少し歩けば、私の住んでいる村があります。そこまで行けば、水はいくらでも。ご案内します」

 改めて青年を見ると、耳の上の方が長く尖っている。どうやら彼はエルフであるらしかった。



 旧街道から外れて、けもの道より少しマシな程度の細道をエルフの青年に付いて歩いた。やがて、雑木が無秩序に繁った小山が見えてきて、その麓を裏へと回ったところにエルフの村はあった。村には、どれも同じような木造りの小さな家が三十軒ほど並んでいて、そのあいだを水の綺麗な細流がさらさらと走っていた。

「あの水、飲めるか?」ティルザが急いてコスティに訊いた。コスティはエルフの青年の名である。

「飲めないことはないですが、別に湧き水の井戸があります。そちらの方へ」

 釣瓶を上げる時間ももどかしく感じた。ティルザが釣瓶に直接口を付けて水を飲もうとして、アリーネに怒られた。二人はそれぞれの水筒に移した水を一息に飲み干した。ティルザもアリーネも、こんなに美味い水を飲んだのは初めてだと感じた。

 その様子を家の陰から目だけを出して、子供のエルフが見ていた。アリーネが気づいて声を掛けようとすると、途端に頭を引っ込め、隠れてしまった。ほどなくして、また視線を感じた。振り向くと、その人数が三人に増えていた。どうやら彼らには、人間が珍しいらしい。

 やがて、家に荷物を置きに行ったコスティが戻ってきて、二人に言った。

「アンナさんの服を御用意しました。私の家で着替えてください」

 アンナというのは、道中、彼に訊かれて咄嗟に名乗ったアリーネの偽名である。

 ところで、この時ティルザは既に半裸ではなく、胸元に紐の付いた白い上着をかぶり、濃い草色をした長ズボンを穿いていた。それらの服は、コスティが自分で使うつもりで街から仕入れてきた物で、あの後すぐに、背負った荷物からわざわざ取り出して、貸してくれたのだ。どちらも男物であったが、女としては大きいティルザにはサイズはだいたい合っていた。腰回りだけはずいぶん余裕があったが、紐で縛れば、別にずり落ちることもなかった。

 そして、ここまでティルザの服を借りて着ていたアリーネには、コスティの妹の服が与えられた。彼の妹も美人だった。スタイルが良く、すらりとしている。彼女の服をアリーネに着せてみると、果たして袖も裾も少し長かったが、すぐに直して、上げて、合わせてくれた。

「まあ、よくお似合いです」コスティの妹が実感を込めて言った。

 七分丈の白いブラウスに薄桃色のフレアスカート。ついでに髪もいじって、横から編み込み、後ろに垂らした。実際それらの装いはアリーネに似合って、まるで淡い色で着色された陶器人形のようだった。

「これ、本当に貰っていいの? 着古しと聞いていたけど、まだ全然新しいみたい」

「ええ、構いません。ずいぶん前に兄が買ってきてくれた物ですけど、着てみたら、私には全然似合わなくて」

「お金、払うわ。彼女の分とも合わせて。流石にただでは貰えないもの」

「いいんですよ、そんなの。それより本当はそちらのかたにも――あの、もしよろしければお名前を――そう、ティルザ様――ティルザ様にも何かふさわしいお洋服を、また別に差し上げられたらと思うのですが、残念ながら、どれもサイズが……ああ、でも、こんなことを言ったら失礼にあたるかもしれないけど、いま着てる男物の服も、とてもよくお似合いです。凛々しくあられて、すごく素敵……」

 そのとき、玄関の外に誰か訪ねてきた。コスティが応対に出た。

「長老がお客さんを昼飯に呼びたいと言ってる」

「長老が? 何のために?」

「さあ、ただ話でもしたいんじゃないか。知らんけど。久しぶりの人間だし」

「ちょっと待って」

 コスティが振り向いて、アリーネとティルザに訊いた。

「お聞きのとおりです。どうしましょう?」

「断る理由も無いし、行くわ」アリーネが答えた。

「無理しなくていいですよ」

「別に全然かまわないわよ」

「……そうですか」

 積極的には勧めかねる、といった様子がコスティに見て取れた。すぐに連れていくと伝え、使いを帰したあとで、彼が二人に言った。

「もし長老に何か不快なことを言われても気にしないでください」

「気難しい人なの?」アリーネが訊いた。

「そんなこともないんですが、ただ長老は人間全般に対し、あまり良い印象を持っていないんです」

「何かあったのか?」ティルザが訊いた。

「……色々と。なにせ彼、千二百歳を越えているらしいので」

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