第3話 エメリーボール
その後、窓から侵入してきた彼の仲間が北田先生を囲んで……、となることはなかった。だがある日、彼は今度は一人で放課後のグラウンドに現れた。彼は名前を大坪健人といった。自分で持ってきた野球の硬式ボールを投球練習でもするように体育館の外壁にぶつけていた。
中学校の野球部のように軟式ボールだと壁に当たったボールは勢いよく跳ね返り、うまく投げ続ければ自分のところに戻ってくる。だから、壁を相手に一人でキャッチボールができる。ピッチャーの投球練習用に壁に的を描いているところさえある。だが、硬式ボールの硬さと反発力では壁にめり込み、すぐ下に落ちてしまう。その結果、銅やアルミを打ち出して作った鍋のように壁には小さなへこみがたくさん刻まれ、塗装がはがれてしまったところもひび割れを起こしているところもあった。
北田先生が受け持つことになった野球部の生徒の知らせでグラウンドに行ってみると、龍の刺繍入りではない普通の学生服の上着を脱いだ大坪が、ボールを壁に向かって投げていた。壁面のほぼ同じあたりにボールの跡が集中している。コントロールよく投げている証拠だ。投球練習用の的こそ描いてはいないが、ストライクゾーンと思われる高さにボールの跡が多く集まっていた。彼が野球経験者であり、しかも投手をしていただろうことが想像できた。
北田先生がやってきたことを知って、大坪は渾身の力を込めて強いボールを壁に投げつけた。それまでと違って腕が後ろに大きく伸びた投げ方をした。グローブをはかない左手が脇の下に引きつけられ、上半身の動きを力強くフォローしていた。地面を蹴った後ろ足が大きく跳ね上がり、左足だけでバランスを取って体を前に進めた。ゴッ、とめり込んだようにボールが一瞬止まった。少しだけ跳ね返ったボールは、地面にボソッと落ち、そのあとから壁の土なのか塗料なのか、ベージュ色の小さな破片がパラパラと続いて落ちてきた。
「野球部だったのか?」
北田先生が呼びかけるのを待っていたように大坪がグラウンドに唾を吐いた。額には少しだけ汗が浮かんでいる。
「ンーなわけねーだろ! こんなヨエー部活!」
素早い返答だった。用意してきたセリフをやっと言うことができたという感じだ。声をかけてくれるのを待っていたらしい。
「シニアか?」
大坪は当たり前だという代わりに、硬式球の赤い縫い目を北田先生の方に向けた。そして左足を高く上げ、腕をさっきより遅らせるような投げ方で壁に向かってカーブを投げた。大きく落ちるように曲がったボールは1メートほど手前の地面でバウンドしてから壁にぶつかり、少しだけ上に向かって跳ね上がった後に地面に落ちた。
「ちっ!」
顔をしかめた大坪が北田先生のほうに向き直った。背はさほど高くなく、骨格や筋肉もスポーツ選手としてはさほど恵まれているとはいえないだろう。大柄な北田先生と比べるべくもなく、全体からひ弱さが感じられる。それでも、気持ちだけは上回っていると本人は思いこんでいるらしく、再び新参者への力試しをしようとしているようだ。この前北田先生に右手一本で押さえられてしまったことがほかの仲間にも知られてしまっただろうに、何か挽回することを見つけたのだろうか。
「おめぇー、野球部教えてるってか?」
「お前じゃない」
「じゃ、あんた……」
「ちゃんと北田という名前がある」
「ふんっ!」
嘲笑うよう口をゆがめ、それからなぜか横顔を見せた。彼にとってはかっこいい動作なのかも知れない。
「やってたってか、野球?」
何かを期待しているのか、少し明るい言い方に聞こえた。
「いや」
「ふん、やっぱり!」
「なんだよ?」
「力は、強ぇーみてーだ……、けどよ、野球は、うめーわけじゃ、ねーだろ!」
「そうだ」
「野球部、よぇーはずだべやー!」
「そうだな……、で?」
「ハァ?!」
「で、なんなんだ。何しに来たのかってことさ」
「フン、別に用なんかねえ!」
「じゃあ、早く帰れ。このまんま続けたら、壁の修理代請求されるぞ!困んだろ?」
「フン」と言って、大坪は再び壁に向かってボールを投げた。今度は壁の下の方にあるコンクリート色の部分に大きく曲がったカーブボールがぶつかり、転がってこちらに向かってきた。バッターが立っていたら空振りするような外角低めのカーブが決まった。
「硬球ってずいぶん曲がるもんだな。カーブなんだろ?」
「へン、……」
まんざらでもないような顔になった。
「それで、なんで野球やめた?」
「……、面白くねえからよ……」
「野球がか? クラブがか?」
「フン、どうでもいいべや!」
大坪は「関係ねえべや」とは言わなかった。そして、少しためらうような、照れたような言い方でこう言った。
「野球部……、俺が……教えてやっかと思ってよ……」
北田先生が彼の顔を直視したのに耐えきれなかったのか、大坪はまた横顔を見せてから転がったボールを取りに壁際まで行った。
「野球、面白くないっていうのに、教えるってか?」
「ヘタッピーなヤツが教えるより……、いいかと思ってよ!」
「お前は、きっと野球うまいんだろう。投げてんの見たらわかるよ。」
「ふん、素人にわかるってか?」
「そう、野球は素人だ。お前よりずっと下手。それは間違いない。でもよ投げることは得意でよ。砲丸投げとかやり投げとか……、特にやり投げはおんなじとこがいっぱいあってよ、投げの最後の最後まで肩を残すことが大事なんだ。右肩をさ、前に向かう瞬間までじっとためておくっていうか、腰から下を先に回してやると記録は残る。野球のピッチャーもおんなじで、最後までボールを後ろに残しておくと打たれにくいし、いい球が行く。左肩の開きをできるだけ遅らせて、胸を張って正面を向いたとき、左右のバランスがとれているとうまく投げられる。そして記録も残せる。物を投げる時ってのは、みんな同じなんだ。」
「へっ、わかったようなこと言ってもよ、自分ができねぇんじゃ、しょうがねえだろ」
「おお、そのとうり。俺はうまくはできない。でもよ、実は、自分が上手くないヤツほど人に教えられるって知ってるか?」
「そんなわけ、ねえべや! できねえヤツはやり方知らねえから、へたなんだって!」
「いや、そうとはかぎらないんだ、これがさ。むしろよ、ヘタなヤツやできない経験をしてきたヤツの方がな相手の動きがよく見えるってこともあるんだ。」
「へっ!んなわけねえって!」
「いやいやいや、自分がヘタでもよ、勉強次第では、研究していればな、人のを見てて判断することはできる。だって、自分がヘタなことしかできないんだから、なにがへたかはよくわかってる。だから、指示はできる。へたくそなウチの野球部員の投げ方もいっぱい見てきてるしな。」
「……」
「例えばよ、オレは海の町で生まれたからさ、小さい頃から自然と泳げるようになった。だから、泳げないヤツが何で泳げないかあんまりわからないのさ。お前は? 泳げる?」
「フン」
「……でも反対にさ、スキーは高校の時に初めてやったから、全然滑れないところから始まった。基本的なことから順番にやって滑れるようになった。だから、ヘタなヤツがさ、どの状態の練習をすれば良いのかよくわかる。スキーは? うまいのか?」
「関係ねえって!」
「……だから、オレは水泳は教えられないけど、スキーは教えられる。……野球もおんなじだと思ってるけど?」
大坪はまた硬式ボールの握りを見せて北田先生に向けて突き出した。口元が引き締まっていた。もとは赤い糸だったはずのボールの縫い目がすっかりと色あせて擦り切れていた。茶色く汚れたボールだった。もう、随分使い込んだものだろう。大坪の握りは縫い目にかかっていなかった。
「お前、スピットボールってわかるか? 硬式でやってたんなら知ってんだろう?」
大坪が驚いたような表情に変わった。野球は素人だからとタカをくくっていたのに意外なことを言い出したことに戸惑っているようだ。
「フンッ、知ってるわそんなの。ツバつけて投げるってことだべや」
「おお、さすがだな。シニアの監督さんはちゃんと教えてくれてるんだ。そんで、お前もちゃんと聞いてたってことだ」
「ウッセーナ! なんだってんだよ!」
「じゃあ、エメリーボールは?」
「ハアァ! なによそれ? そんなのねえよ!」
「いや、あるよ。」
北田先生が大坪の持っているボールを指した。
「ほら、それは、エメリーボールだ」
大坪は自分の手の中にあるボールに目をやった。
「見せてみろよ」
北田先生がその手からボールを取った。そして、彼に向けて突き出して言った。
「ほら、縫い目は擦り切れてもう滑ってしょうがない状態だろ。でも、この傷。こすれてざらざらなところもいっぱいだし、ここなんか皮に裂けめもできてる」
「古い硬球だもん、あたりまえだべや!」
「さっきのカーブ……、ずいぶん大きく曲がってた。試合だったらものすごく打ちにくいボールなんだろう?」
「カーブなんか誰でも投げるって」
「うん、誰でも投げるだろう。うまいやつらは。でもよ、試合の中でこのボールは使えないよな。この傷だらけのボールは」
「……」
大坪は何かに気づいたように少しだけ顔を動かした。
「昔のさ、大リーグとか日本のプロ野球でも、ボールに傷をつけて投げるのが流行ってたことがあるらしい。ベルトのバックルをギザギザにしといて、そこにこすり付けたり、ヤバいやつになるとヤスリをグローブに隠してたやつもいたそうだ。そうやって傷をつけてボールを投げると予想外の変化をするんだそうだ。それがエメリーボ-ル。もちろん反則だよな。」
大坪が顔をあげて見返してきた。
「速い球を投げるためには、自分の持って生まれた能力や人一倍の努力が必要だ。足の速いヤツもそうだ。でもよ、それは本当に恵まれたごくごく一部の人しか実現できないことだ。プロだってそうだ。けど、このやり方をしたら、ふつうでは不可能な変化球をすぐに投げられるようになる。そして誰も打てない。」
大坪が次の言葉を待っている。
「でもよ、これは違反だ! 反則投球だ! やっちゃダメなことだ!」
「なんだよ!」
「いや、野球の話さ」
「へッ、だから? それが、なんだってよ!」
「今、これ、わかっててやったら、プロ野球なら永久追放かもしれない。アマ野球ではもちろん言語道断だろうな」
「これは古いからそうなってるだけだ」
「そう、このボールは古いからそうなってる。練習にはこんなの使うしかないからな。でも、これは試合では使えない。きれいなボールではこんなに激しい変化球は難しい」
「なによ、俺がズルしてるってのか? 野球なんかもうやってねんだよ!」
「いやあ、これは本で読んだだけのことだ。」
大坪は北田先生のほうを見ているだけで、何も言わなかった。
「思うんだけどさ、……エメリーボールなら、予想外の変化をさせられる。方法は簡単だ。ボールに傷をつければいい。ただし、それを続けるためには傷のある状態を常に隠しておかないとならない。そのための隠しておく工夫や努力が必要になる。……そうだろう?」
「……」
大坪は何も言わずに北田先生をにらみつけた。
「だからさ、この方法で良い結果を出そうとすると、いつも誰かに何かを隠していなければならなくなるだろ! バッターに、審判に、あるいは捕手に、そして仲間である味方の選手にも……。いつだって隠すために神経使ってないとなんない。そういったストレスに耐え続けられる者にだけ結果はついてくる。しかも、ボールが替えられたら、そのたんびにまた傷をつける……。何度でも……。」
大坪の表情が変わった。
「でも、それは結局だましたことにしかならない。不正な行為で得られた結果は批判や非難や罰を受けることにしかならないんだよ、最後にはさ。いやー、絶対にそうなるもんなんだわ」
大坪の目がさらに厳しくなった。
「長い時間をかけて身に着けた技術や能力がなぜ褒められ、賞賛されて記録として残っていくのか。それはもう、間違いなく正しい行いや努力の結果だからだ。誰にはばかり、隠すことも、隠れることも、だますことも必要なく行えることだからだ。そうだろ!」
今度は北田先生が大坪に強い視線を送った。
「……エメリーボールは、その意外で激しい変化のために驚きをもって迎えられるけど、やがて必ずその正体が暴かれ、投げた本人は逃げ隠れして過ごさなければならなくなる。そしてこれも必ず、最後の最後には日の当たる場所から消え去らなきゃならなくなる。昔はそんな人が何人もいたらしい。でも、それは人の生き方としてはどうなんだろう。」
大坪の目が横に動くようになった。
「長い時間と努力を積み重ねて、スピードボールを投げられる力と技術を磨き、自分のものにする。誰にも負けないだけのコントロールを身に付ける。投手としてのバランスの良い投球術で勝負できるようになる。そういう本物の力を身に付けた選手は必ず結果を残し、記憶にも記録にも残る人になる。けれども、一瞬の手品のような、人を欺く方法だけで生きようとするものは、ほんのわずかな時間だけは注目されても、やがて消えていくしかない。そしてそれは、賞賛の記憶じゃなくて、汚れた記録として残るものでしかない。それはきっといつまでたっても、灰色だったり、黒色だったりして記憶されるんだと思うんだよな」
大坪はここまで一言も発することなく、北田先生を見つめ、時ににらみつけるようにして聞いていた。
「……っていうことが、本には書いてあった。」
「フンッ、そんなこと、あたりまえだべや……」
大坪は何かを続けて言おうとして、こちらを向いた途端に口を閉じてしまった。
職員室から何人かの先生がこちらにやってくるのが見えた。彼は草の上に置いた上着を拾い上げると急いでその場を去ろうとした。
「ほら、ボール忘れたぞ」
「やるよ。……そんなもん」
彼は振り向きもせずに言った。
「おい、今度はグラブだけもってこい。キャッチボールしてやるぞ」
「へッ、ヘタクソのくせに!」
「だから、投げるのだけは得意だって。毎日練習しとくし」
職員室とは反対側の門から彼は軽い足取りで出て行った。
やってきた先生たちから彼の野球のことを聞いた。野球のレベルはとても高くて、小学校の時からリトルリーグで鍛えられ、中学1年の時には北海道選抜でオーストラリア遠征チームの投手であったという。ところが普通の地道な生活を送ることができなかった親父のせいで野球が出来なくなったこと。今年入学してきた弟だけでも野球を続けさせてやりたいと思っているから、自分の進学も何もかも金のかかることはすべてあきらめてしまったこと。そして、自分の進路が不安ばかりであるからこそ、学校ではツッパッて生活していること。
そして、あの乱入事件。実のところ、あれは自分の弟の担任を品定めにやって来たらしいのだ。ただ、彼は来るべき教室を間違っていた。彼の弟は北田先生が授業をしていた隣の教室にいたのだ。笑い話にでもなりそうなこんな単純な間違いが、時には人生を大きく変えることになるものらしい。
北田先生は野球部の顧問を手伝うことで、野球の話で彼との接点をもつことができた。野球は彼に近づくための大きな渡し舟となってくれた。部活動を指導することの意味はこんなところにもあるのかもしれない。多忙な教職員の負担軽減という意味から、部活動の活動時間縮小と外部指導者の導入を進めようとする計画が進んでいる。でも、そんな単純な足し算や引き算では測れないこともあるのではないか。部活動の時間が学校を離れ、教師との関係も離れてしまったことで何が生まれるのだろうか。教師の時間が確保できることを目的にしているのだろうが、それだって全体の教員数自体を増やすことで簡単に解決してしまうことではないのか。
部活動に限らず、先生と生徒との間には、共通する何かが必要なのに違いない。北田先生はここ何年かの間強く望んできた教師という職業に仮にでもつくことができた。ところが、教師と生徒という関係が決していい意味には働いてくれないものだということを強く感じていた。自分が中学生だったころの感覚とは違うのだ。それは、中学生が変わったというよりも、大人の世界が教師という職業の存在意義をつぶしてしまったような気がしてならなかった。
なぜ、学校の中で教師と生徒やその親とが敵対関係にならなければいけないのだろうか。教師である自分も、親である保護者達もみんな中学生活を経験してきたはずなのに、そのときに教師はそんなに敵視すべき存在じゃなかったはずだ。親たちであれ教師であれ、いろいろな生活があり、いろいろな考え方があるのは十分知っている。中学校に対する感情だって千差万別であることは想像がつく。それでも、毎日顔を合わせて、卒業するまでの間ずっと同じ方向を目指して生活していく教師と生徒を反目させる必要がどこにあるのだろう。守る側でも攻める側でもなく、3年間しかない中学生という時代を一緒に楽しもうじゃないか。そんな気持ちにさせてはくれないのだろうか。
先輩の先生たちに北田先生は何度もそういう気持ちをぶつけてみた。
「そんな時代じゃないんだ、もう!」
そう言う先生もいる。なぜ、そんな時代じゃなくなったのだろう。いつそれは変わってしまったのだろう。自分たちの時代よりもっと前から、グレた奴も困った生徒もけっして少なかったわけじゃない。少年犯罪が増加していると報道されているが、それも実のところ間違いで、報道する機会が増えただけのことであるらしい。そう、昔の方がもっともっとヤバい奴らが多かったように自分でも感じていた。そして、家庭的に恵まれなかった子たちは今よりずっと多かったはずだ。だからと言って、学校を敵に回してしまうなんてことは、ごくごく少なかったんじゃないのか。その当時の学校の先生と生徒という関係は決して悪いものとは言えなかったはず。
「そんな時代じゃなくなった」と言っている先輩の先生たちは、そのことをどう考えるのだろう。北田先生には、何よりもそう考えてしまう先生たちがたくさんいることが残念でならなかった。そして、その思いはいつまでも頭の中を巡っていた。
「評価」という言葉を間に挟んでしまうと、人と人とは上手くやっていけなくなるのであろうか。いや、それだって昔から変わらないことのはずだ。では、今、なぜこんなにも大きく扱われ、大きく取り上げられてしまうのだろうか。
個人がすべて平等に扱われなければならないという意味のことが、最近になってずいぶんと違った方向で話されることが多くなってしまったような気がしてならない。人の能力に平等はない。みんな違った能力を持っているのだから、評価をしたらその項目ごとに当然それぞれの差が出てしまう。当たり前のことだ。でも、それを称して「平等ではない」と言っていることが多くはないか。だが、それは違う。どんなものであっても評価することによって差が出る。それは能力の差でもあり、努力の差でもある。それは全く自然なことであるし当たり前なことで、そのことを不平等と呼ぶのは間違ったことだ。
どんな社会であれ「平等」という言葉は「機会の均等」つまり、チャンスは同じだけ与えられるということでしかない。このことを勘違いしてはならない。
結果が平等にならないのは当たり前で、同じだけの能力を持った人たちが同じ条件で結果を出したって差ができることが普通なのだ。だから、結果は「平等」の持つ意味とは違うことなのだ。平等はあくまでもその与えられた条件や機会や権利だけに限られ、それをどう使ってどう努力したかによって結果は差となって現れる。そんなことはみんなわかりきっているはずなのに、いろんな立場の人が呪文のように「平等」を隠れ蓑にしてしまうことが多いのではないだろうか。
学校と家庭、教師と生徒の関係の不安定さも実はこんな勘違いや思い違いから起こっているのかも知れないのだが……。
乱入してきた彼、大坪は卒業までにずいぶんと担任を煩わせていた。だが、この年卒業した彼らは「族」との関係だけは持たなかった。そして、彼は当時大きな問題となっていたシンナーにも手を出していなかった。だから、最後には普通の生活に戻ることが出来たのだ。卒業式の日には、例の「短ラン・だぶだぶボンタン」を学校に寄付していった。本来なら、この服装を自分の跡継ぎに買わせて卒業するのがしきたりなのだという。
卒業後、彼は有名チェーンのラーメン店に修行に入り、20歳の頃には札幌駅前店を任されるまでになった。弟は中学三年間シニアリーグで野球を続け、私立の野球名門校に進んだ。それでも100人もの部員を押しのけることはできず、ベンチに入れずじまいだった。そして彼と北田先生とのキャッチボールも実現することはなかった。彼はその後転職をし、仲間と会社を興したという。彼の子どもも、今は中学生になっている。それでもけっして、二階の窓から乱入するような生徒にはなってはいないだろう。
彼が寄付していった龍の模様の入ったタンランは、今でも教育相談室の後ろにある小さなロッカーにしまわれたままになっているはずだ。そして、彼の置いていった古ぼけて擦り切れだらけの硬式球は、今も北田先生の机の中に残っていた。
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