第2話 『かーんけえねえべや!』
翌朝、歩いて10分のバス停までの間に、彼は何度もネクタイの結び目を手で確認していた。大きめのショルダーバックに必要以上にたくさんの荷物を入れて、履きなれない革靴をコッツンコッツン響かせながら列に並ぶ。会社勤めの男性やОLらしい他の乗客と比べ、明らかに「通勤」というスタイルに慣れていない新人っぽさをいっぱいに発散させていた。バスの来る方向を何度ものぞき込んだり、足踏みしては時計を繰り返し見たり、じっと立っていることができずにいる。なんとも照れくさいような、場違いなような気がしてならなかったのだ。
4月の初めであれば、同じような慣れない通勤姿があちこちで見られたのだろう。それからもう二週間以上も過ぎてしまった今、彼は列の中で一人だけ浮いた存在だった。彼が苦手としていた長距離走で周回遅れになっても頑張り続けるランナーのようだった。少しだけ定刻を遅れてきた6時32分のバスから地下鉄へと乗り継ぎ、足早に学校へと向かった。
「おはよ、ございまーす」と「ございます」を強くした大きすぎるほどの声で職員室に駆け込んだのは8時少し前のことだった。
先週までお世話になっていた運送会社の社長から何度も聞かされていた話を思い出した。
「あのなー、 挨拶しっかりできないやつは信用されないからな。いいか、この仕事はな、毎日初めてのお客を相手にするんだから最初の印象がすべてだ。挨拶がすべて。そう思え。ちゃんとした挨拶できないやつはよ、仕事できないやつだと思われるからな……」
大学を卒業したての社会人1年目で最もうまくいかないことの一つが挨拶だと言われていた。しかもそれなりに優秀な大学から来たエリートたちにその傾向が強いのだという。学生に元気な挨拶は必要ないからなのか。それとも、本物の社会生活から4年間も隔離されていたからなのか。挨拶がきちんとできないまま会社の中でぎくしゃくしてしまう新人が予想外に多いのだという。だが、北田先生の挨拶は元気いっぱいに職員室に響き渡り、すでに登校してきていた先生方の全員が振り向いた。
そんな挨拶ができたのは北田先生が優秀でもエリートでもないからなのかというと、そういう因果関係があるわけではない。それはきっと彼が、そして彼らが学生としてどうやって生活してきたかということの違いなのだろう。もっとも、彼が先週まで勤めていた運送会社の社員たちの挨拶はこんなものではなかった。丁寧できれいな挨拶とはいえなかったが、小さな声では生きていけない世界だった。認められるためにはそれなりの話し方をしなければ、中卒や高校を中退して入ってきている年下の先輩たちにも見下されて終わってしまう。トラック運転手たちは自分が話すことは少なくとも、無口で暗い助手は相手にしてくれない。
大学の四年間を陸上部で過ごし、体育会系の仲間たちと過ごしたことはこんなところで役に立つことになった。個人種目が中心の陸上部とはいえ、1年生から4年生までが一緒に活動するとなると、やはり上下関係は存在する。その関係は言葉遣いや挨拶にも当然関わってくる。学生だからいい加減かというとそれは逆で、学生だからこそ実社会からかけ離れているぶん、かえって厳しい関係になっていることが少なくなかった。そんな中で四年間を過ごした北田先生は、朝の挨拶は一日の始まりを告げるゴングのようなものだと思っていた。そして自らそのゴングを打ち鳴らすことで、自分の気持ちを高めるものだと思っていた。そのうえ、北田先生は昨日の校内放送でたっぷりと恥をかいてしまっていたので、もうそんなに気取る必要などなくなっていたのだ。
職員室にいた先輩の先生たちが頬をゆがめたような笑いで迎えてくれた。
「おっ、めげずにちゃんと登校できたな!」
「ねえねえ、今日もなんか楽しませてよ!」
そんなふうに言っている顔にも思えた。
「ゆんべ、ちゃんと寝れたか?」
隣の席の高松先生が顔を見るなりそういった。
「いえ、あんまり」
顔色が悪いとか、目の下にクマがあるとか、きっとひどい顔をしているに違いないと北田先生は思った。
「だよなー。昨日来て今日から授業だもんな。大変だねー、臨採の先生ってさ!」
「ネクタイなんか締めてこないほうがいいぞ」
向かいの席から体育の清水先生が言った。自分がジャージ姿だからそう言っているわけではなさそうだ。昨日は緊張のあまりしっかりと観察する余裕のなかった北田先生だったが、次々に出勤して職員室に現れる先生方を見回してみると、確かに清水先生の言うとおりであることがわかった。職員室にいる先生たちでネクタイを締めているのは管理職のほかはかなり年配の先生だけのようだ。
「ネクタイなんか『お互いに気になる』だけだから。してくることないぞ」
「お互いに気になる」という言い方がちょっと意味ありげだった。バレーを専門としている先生だけに、ちょっとフェイントでもかけてきたのかなと思ったがその理由を聞く間もなく、教頭先生と昨日渡された書類の確認やら出勤簿の押印の話やらを細かく確認しているうちに職員朝会が始まってしまった。用意してあった真新しいノートに打ち合わせの連絡内容を細かくメモしていると、その「気になる」の意味を気にしている暇はなくなった。北田先生の中学教師として初めての授業が始まる。
入学したての1年生にとっては、授業のやり方だけでなく統一された服装はもちろん初めてで、学校生活自体がそれまで6年間も慣れ親しんできた小学校とは大きく異なっている。そのため、勉強や学校生活や人間関係になじめないまま学校に適応できなくなる生徒も少なくない。スタート時点でつまずいてしまうために、「不登校」になってしまう生徒もいるのだ。
入学式を終えた中学校では、3日も4日もかけて学校生活のオリエンテーションが行われる。それは中一ギャップと呼ばれることもある小学校との違いに、何とか早いうちに順応させることを目的としている内容が多い。レクや集会を利用して仲間作りを目的とした集団行動を企画することもある。だが、それが上手くおこなわれるためにも、まずは教え込みから始まることが多かった。
班決め・校則の説明・部活動の紹介・授業の約束・掃除の仕方・給食の進め方・名札の付け方・挨拶の仕方・立ち方・座り方・整列の仕方・そして学校生活の心得。
教師も生徒も、お互いにうんざりするほど様々なことを、学活の時間として丁寧にそして優しく教え込み、教え込まれる。最後に学級目標と委員や係を決めて、やっと「普通の」生活を始めることができる。給食や当番活動が生徒の手で進められるようになり、教科の授業が始まるのだ。
先生と呼ばれることになってまだ2日目の北田先生が、授業開始のチャイムとともに教室のドアを開けると、生徒達は教えられたとおりに号令をかけた。
「気をつけ!」
背中がまっすぐに伸びて、顔は全員正面を向いている。
北田先生が教卓の前まで大股でやって来て教壇に上り、正面を向いた。……そう、あの頃はまだ黒板の前には教壇があった。
「礼」
教卓にぶつかるぐらいに深々と下げた頭を上げると、少し遅れて中学生になりたての45人が緊張感たっぷりに顔を上げた。北田先生の笑顔には、ここ何年か思い続けてきた教師という職業(まだ非常勤の臨時採用に過ぎないのだが)がついに始まったことへの満足感がたっぷりと現れていた。もっとも、本人は気づいていないだろうが、初めての授業がスタートした緊張感から笑い顔もいくぶんひきつり気味ではあった。
―― まずは、自己紹介で気の利いたことを話さなくてはならない。
昨日の不格好な挨拶を何とか挽回しなければならないと思った北田先生は、授業の準備とともに昨夜からずっとそのことを考えていた。
なれないチョークを使って、黒板に大きく書いた名前の文字は途中から曲がっていた。必要以上に力がはいっているようで、チョークが欠けて小さな白いかけらが落ちてきた。文字の大きさが不揃いでバランスも崩れ気味だ。ここまでですでに額と背中にしっかりと汗をかいていた。
「僕は、両親が北海道に来てから生まれた子、ということで『道生』。北海道生まれの子供、という意味で名前が付けられました。姉は岡山県の美作という町にいるときに生まれたので、美作子と名付けられました……」
「へー」でも「ホー」でも「エヘヘ」でも、なんでもよかった。北田先生は生徒達の何らかの反応を期待していた。そこから話が滑らかに進むだろうと考えていた。だが、45人の生徒たちは、まったく反応してくれなかった。何とか印象的な自己紹介をしようとして考え抜いた「名文句」のはずだった。彼らは姿勢も崩れず顔も正面を向いたままだ。生徒たちには受けなかったようだ。それとも純粋な一年生達は先生が話している最中に声を出してはいけないと考えたのかも知れない。
それでも、そんなことに落胆している暇はない。また彼らの無反応の理由を探る余裕もなく、昨夜一晩かけて練りに練った授業案に沿って、記念すべき初めての授業は開始された。ぎくしゃくした会話を無理矢理取り込んだ、1分刻みという「しゃべりすぎ」の計画も何とか予定通りに進んだ。そして最後は計画通りに「笑顔で終了する」という、その終了間際に彼はやって来た。
やって来たといっても、遅刻して来たわけではない。彼は思わぬ所からやって来て、この記念すべき初授業を別な意味で忘れられないものにしてくれたのだ。
そいつはなんと中庭に面した窓からやって来た。北田先生が授業をしていた二階の一年生の教室まで、1階の自分の教室から煙突を登ってやって来たのだ。解体間近の旧校舎は木造二階建てで、冬の暖房には当時でもすでに珍しくなっていた石炭ストーブを使っていた。通称「だるまストーブ」と呼ばれることもある大きなストーブが教室の中に設置され、そのストーブから出ている煙突が教室の上部空間を横切って窓の上から外の集合煙突につながっている。煙突を伝って降りてくるのはプレゼントをたくさん抱えたサンタクロースと決まっているが、彼はその集合煙突を伝って登ってきたのだ。そして、サンタ以上にすごいプレゼントを持ってきてくれたのかも知れなかった。
「窓からものを落とさないように」
「危険だから身を乗り出さないように」
「窓枠に腰掛けてはいけません」
新入生達は、つい最近そう教えられたばかりだった。
「いやー!?」
「うわ!?」
黒板を叩くチョークの音と、北田先生の必要以上に声を張った熱弁だけが聞こえていた教室に、突然、悲鳴が上がった。その乱入者の手が窓にかかり、顔がいきなり窓ガラスの向こう側に現れたのだ。窓際にいた女の子二人が逃げ出し、机が大きな音とともにひっくり返った。鉛筆やシャーペン、そして教科書もノートも床の上に散らばった。最近買ったばかりに違いない角張った消しゴムが教壇の所まで転がってきた。
北田先生の完璧な指導案は、あと少しでその役目を全うするはずだった。だが、その全うされなかった少しの時間が、見事なまでに天板を下にして倒れてしまった机のように、彼の中学校に対する考えを根底からひっくり返してくれることになった。
窓が外側から開けられ、学生服の男子生徒が上半身を乗り入れた。煙突の支えを足場にして窓枠を越えてきた彼は、倒れた机の横で北田先生に向かって立った。45人の一年生たちは目を二人に向けたまま動くこともできずに座ったままだった。
「なんだおまえ?! なにしてんだ!?」
彼は芝居がかった大げさな動作で胸のボタンを外しながら言った。
「おめえ、だれよ?」
学生服の下の赤いTシャツが目についた。少し前に流行っていた「なめ猫」の服装にこんなのがあったと北田先生は思った。
「なに言ってんだ、この! 何でこんなことしてんだよ!」
この時を待ってましたとばかりに、乱入者はちょっとためを作るように肩をそらせた。
「かーんけえねえべや!」
短ランに、だぶだぶのボンタンズボン。青々とした額のそり込み。必要以上に高く盛り上げすぎたリーゼント。当時の、いわゆる「ツッパリ」として、完全にできあがった格好をしたその生徒は短ランをわざと脱いだ。そして裏地に入れた龍の刺繍を見せながら、下からのぞき込むような一瞥を北田先生に向けた。眉毛の両端が切れている。あまりにも完璧にそろいすぎた姿を見せられて、北田先生は笑いをこらえるのに苦労した。まだ成長しきれていない「細っこい体」をムリに大きく見せようとして、手足を必要以上に大きく動かしている。自分の力以上のものを見せつけようとしている中学生が目の前にいた。力んだ顔の表情からは目一杯ムリをしていることが見え見えだった。でも、ここで笑ってしまったら、ちょっとした事件になってしまうだろうことは、今までの経験から容易に想像できた。
「関係ねえべや!」
その後何度も聞くことになったこの言葉は、彼らの決めゼリフだった。
「関係ねえべや」
そう先公に向かって言えることが、彼らが他のやつとは違うことを証明する大切な言葉だったに違いない。それも、誰かが見ている前で言うことが必要だった。彼は今、タイミングよく見得を切ったつもりだろう。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
学校で一日に何度も鳴るこのチャイムは、ずいぶんと昔から今と同じメロディーを使っている。高校時代にクイズ研究会だったという杉山先生のウンチクによると、この音は、あの有名なイギリスの「ビックベン」の音から取ったのだそうだ。始まりにも終わりにも一区切りをつけてくれるこのチャイムの音は、小学校の頃から慣れ親しんでいるものと同じメロディーなのだ。それは、生徒ではなくなった今になっても、私たちの気持ちをリセットする役割を果たしてくれる。何も言われなくとも、チャイムが鳴ると次のことに気持ちを移すことができる。小学校の頃から何年間もこのチャイムで育ってきた私たちは、そんなふうに体のリズムができあがっている。どんな場面でもチャイムは一区切りつけるためのきっかけを作ってくれる。
北田先生も今、このチャイムで気持ちがすっと変化したような気がしていた。
「ふんっ」
大きく鼻を鳴らしたあと、裏に縫い込んである龍の刺繍を見せびらかすように短ランを右手で肩にかけ、彼は北田先生の前を通って教室の入り口から出て行こうとしている。花道を引き揚げる歌舞伎役者のような芝居がかった動きだ。
「チャイム鳴ったんだ。だからもう終わりだべや!」
彼はそう言っているような平然とした顔をしている。いや勝ち誇ったような顔にも見えた。
「おい、待てよ。こら!」
北田先生の手が肩に触れる前に、そうなることが最初からわかっていたように、彼はきれいにこちらを振り向いて言った。
「さわんな!」
「なにこら!」
北田先生は咄嗟に反応してしまった。
乱入者の目が再び鋭くなった。
「なんだてめえ!ネクタイなんかして、カッコつけてんじゃねえぞ!」
北田先生は自分でも気が短いことはよくわかっていた。そして力では負けない自信もあった。今まで何度かこんな状況を力で解決してきたこともあった。今、目の前で馬鹿みたいにイキがっている相手は、自分よりもうんと非力そうな体つきをしている。しかも中学生だ。
「こんなガキになめられてたまるか」
北田先生の頭にも体にも、そんな思いがしみ込んでいた。頭の後ろのほうが熱くなってくるのがわかった。
「……いいですか、あなたは今日から教師として、教育者として働くことになったんですから、常に大人として子供に接してください。調子に乗って周りが見えなくなってしまう生徒たちもいるでしょう。生意気な口を利く生徒だって少なくありません。でも、大人である私たちが対等にぶつかってはダメなんです。あくまでも、教え、導き、育む存在として学校の先生は存在するんですから。絶対に暴力的に立ち向かってはいけません。それが私たちの仕事だと思ってください。……」
臨時採用を伝える電話で聞いた声とは、全く違う雰囲気を持った校長先生に、昨日、何度も繰り返し言われた言葉が北田先生の頭に浮かんだ。それは、「必要以上に」と感じるほど強い語調であった。自分自信を押さえることが難しい彼の危ない部分を、初対面ではあっても校長先生はさすがに見抜いていたのかもしれない。
高校で陸上を始めてから、都合7年間を自分の体を鍛える時間として使ってきた。競技者としての技術や記録はあまり進歩しなくても、走る、投げる、跳ぶという運動するための体力は普通以上に身についていた。今この目の前にいる、陳腐で乱暴な言葉だけしか使えない非力な中学生など、力づくで抑えつけてしまえるのは明らかだった。自分の中学生時代にも、この生徒のようにちょっと道を外しかけている奴は何人もいた。そういう生徒には、本物の力を見せつけてやることが一番手っ取り早いことも分かっていた。
それでも、校長先生に言われたからだけでなく、ここで力づくではない教師としての「待ち」の姿勢、「考えさせる」「感じさせる」姿を示さなければならないことは理解できた。大人として、教える側として、近づきすぎずに少し間を取り、時間をかけることも必要だということはわかっていた。それでも、今までの自分の生き方とは大きく反する行動をしなければならないことに北田先生の頭の中は熱くなっていった。
こんな奴……。
「赤い、縞々のネクタイだって、へっ! だっせえ!」
そう言いながら彼がネクタイの先端を握ろうとした瞬間、反射的に北田先生の手が相手の手首を掴んでいた。
「うっ! やんのか!……こら」
掴みかかろうとする動きを止めようと、北田先生は彼の手首をつかんでいる右手に力を入れた。
「……痛てぇ! 痛てぇなこら!」
彼が体をよじりながら大声を出した。ここで両手を押さえてしまうと蹴りを入れてくるのがわかっていたので、手首を掴んでいる右手を下に向けながら彼の左側へと体を移動させた。掴まれている手首を何とか外そうと腕に力を入れ、ひじを曲げようとした彼は、北田先生の腕力が思っていたよりも強くて自分の力では逃れられないことを悟ったようだ。
「離せっ! 離せって、このヤロ、あっ……」
彼が今まで以上の大きな声を上げた。いや、最後は叫び声に近かった。教室の生徒たちが立ち上がって後ろへ向かったのと同じくらいのタイミングで、入り口のドアを乱暴に開けて3年生の藤田先生と体育の清水先生が駆け込んできた。彼は困ったような表情を浮かべた。
半べそをかいている女の子達を連れた北田先生が1階の職員室に戻ると、3年生の先生たちの机が並んでいるシマにさっきの乱入者はいた。強烈に厳しい生徒指導部長のもとで怒鳴られているところだった。龍の刺繍が施された短ランは脱いで、ジャージを着せられている。校内でタンランや刺繍入りの学生服は着せないルールになっていたらしい。彼は近づいてきた北田先生を見ることもなく唇をゆがめ、片足の膝を揺すりながら立っていた。
廊下で事の次第を話すと、生徒指導部長は途中まで聞いてすぐに彼の意図を理解してしまったらしく、大きく顔を振って北田の話を止めた。
「……あんたのさ、いやその新任の先生とかさ、若い先生が来るとさ、調子こいて行きたがるのさ。まあ、挨拶みたいなもんなんだけど……。場合によっては修羅場になることもあるんだ。あいつは代表して行ってるからさ。……ちょっとまずいことになると次はみんなで押しかけるってこともあるぞ。あんたのほうが力強いってのわかったみたいだから。ヤツはあんまりあんたのことは言ってなかったわ。大丈夫じゃないかな」
「大丈夫というと、何がですか?」
生徒指導部長の話から自分のやり方が悪いと言われたように思った北田先生は、少し生意気な口調になったかもしれないと後悔しながらも聞き返さずにはいられなかった。
「今度ぁ、二人で行くかもな」
「二人で?」
「メンツつぶされたと思うからさ」
「あいつが番はってんですか?」
「まあ、一応はな……」
「そうですか……」
「たいしたことないって、思ったんだべ?」
「いや、そうじゃないですけど……弱すぎますよ」
「中学生だもの、あたりまえでしょ!」
「そうなんですか? あんなもんですか?」
「あのよ、あんたはずいぶん鍛えてきたみたいだから、力では勝てるだろうさ。だけど問題はそこじゃねえって。」
生徒指導部長の言葉に力が入ってきた。履いている黒いサンダルを蹴飛ばすようにして脱ぐと、もう一度履き直して踵のホックを留めた。いらついた様子が見え始めた。
「あんた一人が勝てても駄目だってことよ。水は弱いとこ見つけて穴開けるもんだ。あんたみたいに喧嘩慣れしてる先生は少ねえからな」
「けっこう慣れてんだね」
「大学で? 運動部だった?」
「先生、初日からやるね!」
褒めてくれたわけではないことが、藤田先生の口調から分かった。
「ネクタイしないほうがいいだろ!」
清水先生は笑いながら言ったが、
「困ったやつだなこいつ。初日から手を出しやがって」
そんな意味に聞こえた。
北田先生自身は手を出したつもりは全くなかったが、この話は職員の全員が知るところとなり、多くの先生たちは困ったやつが来てしまったと感じているようだ。当然あの乱入者の仲間たちにもその話は広まっているはずだ。しかも彼らの中では好意的な内容になって広がるはずはないのだから、新卒のくせに生意気なヤツという意味で伝わるに決まっていた。
不格好な挨拶で校内の笑いものになった昨日とは違う話題を振りまく結果になってしまったらしい。この分だと校長から呼び出されるのだろうと北田先生は覚悟を決めていたのだが、まったくそんな様子はなく、にこやかな顔で校長は定時に帰って行った。
完璧だったはずの授業案を完遂できなかった悔しさよりも、中学校に対する自分の考え方を根本的に変えてくれたこの乱入者のことが、北田先生の頭に強烈に焼き付いた。目の前で修羅場を見てしまった一年生たちは、しばらくのあいだ北田先生に近づいては来なかった。そして、2年生や3年生の教室の近くを通るときには、いかにもそれらしい雰囲気を発散している生徒たちが一斉にガンを飛ばしてくるのだった。
そんな「かわいらしい」生徒達に無理して笑顔を見せながらも、明日からはネクタイをやめようと考えていた。
でも、ネクタイをしないとなるとどんな服装にすれば良いのか思いつかずにいた。
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