ちぐはぐな白雨の
のーと
第1話
ピュピュピュ、とそれはひよこのような声だった。キッチンにて君から発された音は唐突に他種族のものだった。口先で喋る風でもなくて細い喉から繰り出される音。
歯ブラシを口に突っ込んだままで呆然と、何も返せないで居ると何かを察したらしい君は眉毛を下げて薄く笑った。俺とは打って変わって君は落ち着き払って、やかんからお湯を注いだりしている。
「ピーピー、キーーー……。」
手元の作業の片手間に君はまた鳴いた。その音の意味はもちろん俺にはわからない。ただ、喉元を抑えながら遠慮がちにしていることから、おおかた調子が悪いから寝ている、ごめんなさいとでも言いたかったのだろうと察した。調子が悪いというのが適切なのかはわからないが、まあそういうこともあるか、として目の前の事象を飲み込む。
うん、とだけ返事をして、ぶくぶく無駄に泡だった歯磨き粉を吐き出した。
「キュィ、!?」
流石に聞きなれない悲鳴のようなそれに振り返ると彼女にしては珍しく、目を見開き驚きの感情を露わにしていた。そうか、俺の言葉も分からないのか、とすぐに理解した。その後の朝食では相当渋い紅茶が出されたのでそれほど動揺していたということだろう。
そんな調子だったので意思疎通には困難が生じるかに思われたが、それは杞憂だった。
朝、起きて挨拶、帰る時間と相槌と、いってらっしゃい、いってきます。
夜、ただいま、お帰りなさい、と一言二言に、おやすみ、おやすみなさい。
こんな具合に存外、ルーティンワークに共通言語は要らないものだと気付かされた。帰るのはいつだって定時だし、家のことは彼女に任せきりなので尚更である。
休日、音を立てるほどでもないが、傘無しでは外出できない程度の天気の日なんかは新しいコミュニケーションの形を模索したりした。
新しくお互いの言語の意味を解読してみるというのも試みたがそれは失敗した。というのも彼女から発される音は「ピ」とか「キュ」しか種類がない。いや、俺にはその二種類という以上に聞き分けられないと言った方が正しいか。
彼女にしてみると今までどおり喋っているつもりらしかったから、これは口頭での会話は無理だな、となったのだった。
その昔、彼女がこちらに来たばかりの頃だってもう少し言葉は通じていたものだ。
彼女は、今まで使っていた文字なんかも読めなくなったらしくて、筆談も失敗した。
スケッチブックには健闘の跡が残っている。
結局、試行錯誤も虚しく、俺たちのコミュニケーション方法については進展は見られなかった。故にもどかしさはもちろんあった。だがそれ以上に通じ合おうとする懐かしい感覚が湿気った部屋を満たしていた。このままでも一緒に過ごす日々が続くのなら、まぁいいかと現状を受け入れていたわけだ。
しかし、そんなふうに甘えていたのがいけなかったのか、何か工夫を講じるたび、ほんの少し申し訳なさそうな顔をする君に何も言葉をかけなかったバチが当たったのか、原因や後悔はいくらでも思い当たるが、そのうちどれが作用したのかは知らない、はたまた全部が作用したのか、君は夕飯の食材が何もないから買いに行ってくるとか言ったきり帰ってこなくなったのだ。
あとで落ち着いて考えてみれば彼女は出不精で食材の購入には大抵宅配便を使用していたはずである。つまり出ていこう、と思ってあの日この家を発ったのだ。
君が予告無しに帰ってこなかった次の日、部屋の空気がいつもより澱んでいたからどうしてか、と考えて、珍しく晴れていたものだからふと窓を開けた。杪夏の風は湿っぽさを運んできて俺に強く当たった。窓を閉めようか迷ってやめた。
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