悪魔の拾い子は王子と踊らない

ニノハラ リョウ

本編

 今宵は年に一度の大夜会。

 病気や忌事など余程の事情がない限り、この国の王族はもとより全ての貴族が参加する大規模なもの。


 王城の綺麗に磨かれた大きなガラスの掃出窓から、これまた大きな赤い月が臨める大広間では、貴族の女性達による色とりどりのドレスの花が咲き、小難しい話から下世話な噂話まで、様々な話の花が咲く。


 政の話から、領地の話、天候や領民の話、他国で王女が護衛騎士と駆け落ちして行方不明となっている話、それとは別の国の王子が大公家に婿入りした話などなど。


 そんな中、湖の底を泳ぐ魚のようにひっそりと、かつ数多の人々がこっそりと口にする話題があった。


「そう言えば聞きまして? 隣国のお話」


 壁際に設えた大きめのソファに腰掛けた貴婦人が、この日の為に誂えた宝石の付いた扇子を優雅に揺らしながら、隣の貴婦人に話し掛ける。


「あぁ、呪われた王女と捨てられた王女のお話?

 全く……愚かな事ですわね」


「本当に……。魔女の番に手を出して呪われるなど王族にあるまじき行いですわ」


「えぇ、本当に。それで直系王族がいなくなってしまったからと、今更になって十八年も前、赤子の時に捨てた双子の片割れを探すなどと……」


「双子が不吉だなんて、隣国では随分古い慣習が罷り通っておりますのね。

 なんでも、その片割れの姫君は我が国の領土である魔の森の奥深くに捨て置かれたとか……。

 赤子があの様な場所に捨て置かれて、生きていられるわけがありませんのに……」


「全くもって愚かとしか言いようがございませんわね。

 ……愚かと言えば我が国の……」


 ひそりと声を顰めつつ、貴婦人達の話は尽きない。


 別の場所では、紳士達がワイングラスをゆくらしながら、深刻な表情で語り合っている。


「全くジークフリート第二王子殿下にも困ったものだ。

 成人をお迎えになったにも関わらず、婚約者を決めるのを断わっておられるとか……」


「本当に困ったものですな。王家の一員として、王族として、貴族との縁を繋ぐのも、次代を繋ぐのも、重要な責務だと言うのに……」


「何でもジークフリート殿下は『真実の愛』のお相手を探してらっしゃるそうですよ」


 その言葉に、くっと集まっていた紳士達の口から嘲笑が漏れた。


「それはそれは……。これで何処ぞの平民の娘でも連れてこられた暁には……」


「えぇ、陛下も決断せざるを得ないでしょう」


 その言葉に紳士達が深く頷いた。


「そう言えば先程陛下に挨拶されていたのはもしや……」


「あぁ、あの方々が魔の森のある西の辺境を治める公爵とそのご家族だね。

 君も彼の方の噂を聞いた事があるだろう」


「ではあのお方がかの有名な悪魔公ご本人ですか……。

 確かに悪魔のような黒髪と黒い瞳で……」


 そう言って若い紳士が恐ろしげに身体を振るわせれば、老齢の紳士が嗜めるよう口を開く。


「そして悪魔のようにお強い。

 彼の方の手腕によって我々は魔の森から護られているのだ。滅多な事を口にせぬ方が其方の身の為だぞ……」


「然り……。

 そう言えば彼の一族は全員が黒目黒髪だったと聞き及んでおりますが、お一人だけ……「ですから! 私にはもう心に決めた姫君がいるのです!」……あの声は……」


 王族席の方から突如響いた無作法な大声に、歓談していた紳士淑女の視線が一斉に集まる。


 その視線の先には、煌びやかな衣装を身に纏った一人の若者の姿があった。

 対面する、王族席の中央、重厚な椅子に深く腰を落とした壮年の男性が、煩げに若者の言葉を振り払う。


「ならばジークフリートよ。今ここに其の者を連れてくるが良い。

 貴様が言うような、気高く美しく教養ある娘だと言うのならば貴様の妃として認めてやろう」


「本当ですか! 父上っ!」


「馬鹿者! ここは公の場。父と呼ぶでない。弁えろ」


 冷たく諭した壮年の男性には、王と呼ばれるに相応しい貫禄が備わっていた。


 翻って王を『父』と呼んだ若者の方は。


「わかりました! 父…ではなく陛下!

 すぐに我が妃となるに相応しい姫君を御前に連れて参りますっ!

 彼女と約束したのです! 今宵の夜会で彼女に初めての、そして永遠の愛を誓うと!!」


 金髪碧眼の落ち着いた貴公子然とした外見とは裏腹に、内面は落ち着きのない未熟な若人である事は、その言動から明らかだった。その無作法に幾人もの人々が眉を顰める。


「アレが我が国の王位継承権を持つ王子であるとは……」


 王の側近くに着席していた若者の母親らしき高貴な貴婦人を始め、若者の兄弟らしき貴公子達も揃って眉を顰めるか、呆れた表情を浮かべてジークフリートと呼ばれた若者を見ていた。


 にも関わらず、ジークフリートはさっそくくだんの姫君とやらを探して大広間に視線を走らせるのに忙しいのか、その侮蔑の視線に気付いていないようだ。


 しばらくキョロキョロと忙しなく視線を走らせていたジークフリートが、はっとした表情を浮かべた後、蕩けるような笑みを浮かべた。

 整った顔立ちに浮かぶその美しくも艶の乗った笑みは、本来であるならば貴族令嬢の頬を染めるのに相応しいものであるのだが、婚約の件に関して王族らしからぬ態度を続けていたジークフリートへ向けられる視線はとても冷ややかなものだった。


 そんな視線にも気づく事なく、ジークフリートは王族席のあった雛壇を駆け降りて、一人の女性へと近づいていく。


 そのキラキラとした視線の先には、煌めくようなプラチナブランドを複雑に結い上げブラックオニキスの髪留めで飾り、顕になったその細く美しい首周りをこれまたブラックオニキスをメインにダイヤモンドを据えた豪奢なネックレスで彩どった、黒いドレスを身に纏った年若い令嬢の姿があった。

 本来であれば黒はこのような夜会で避けられる色ではあるが、黒とは言え光沢のあるシルクでその一面に白金の刺繍をあしらったドレスは、色とりどりのドレスが翻る中でもひときわ美しく目を引いていた。


「オデット!! 来てくれたんだねっ!!」


 女性の背後から喜色も顕にジークフリートが声を掛けるも、女性は他人事のようにピクリとも反応せず、隣でエスコートしている黒髪の男性と和やかに話を続けている。

 令嬢のドレスが黒なのはこの男性の独占欲から来るものであるのは誰が見ても明白だった。


 にもかかわらず。


 ジークフリートはこれから愛を誓う筈の相手の反応が、思った通りでない事を訝しく思いながらも、直ぐに見つけられなかった事を拗ねているのだろうと、自分の都合の良いように解釈し、ツカツカと足早に近づいていく。


 そんなジークフリートを避けるように人々が動いた為、ジークフリートと女性までの間に花道のような道が出来た。否、出来てしまった。


「オデット!!」


 そんなジークフリートの行動にも、周囲の反応にも気付かず、己に背を向けたまま同行者達と話し込んでいる女性の姿に、さしものジークフリートも苛立ちを感じ、少しだけ乱雑に彼女の肩に手をかけた。


「……え?」


 強引に振り向かされた女性の深い碧の瞳がジークフリートを見やる。

 その瞳にはありありと困惑の色が浮かんでいた。


「オデット!! 見つけるのが遅くなってごめんね!

 でも君ももっと堂々と姿を見せてくれれば良かったのに。

 何せ君はこれからこの国の王子たる私、ジークフリートに永遠の愛を誓われるのだから!

 さぁ! あちらに行こう!! 父上に紹介してあげるよ!」


「え?……あの?」


 困惑を浮かべたまま女性がジークフリートの手から逃れようとするも、その抵抗に気付かないジークフリートが無理矢理に腕を取って、とっておきの愛おしさを込めた声色でオデットと呼ぶ女性を王族席の方へ連れていく。


「!? オデ「さぁ! 早く早く!! 父上がお待ちかねだ!」……っ?!」


 あまりの事態に驚愕を隠せなかったのか、女性をエスコートしていた同じ年頃の青年が自失している隙に、女性は強引に移動させられていく。


「クラウスさまっ!」


 悲鳴混じりのその声に、我に返ったクラウスと呼ばれた青年が手を伸ばす。

 そして伸ばされた手に縋ろうと、泣きそうな表情で女性も手を伸ばしたが、ジークフリートが強引に連れ去って二人の距離はどんどんと開いていく。

 それはまるで引き裂かれる悲劇の恋人たちのようだった。


 そのさまに周囲の人々の間にも困惑が広がっていく。


 あの女性は本当にジークフリートに見初められたのかと。


 この国では髪を全て結い上げるのは、既婚者だけである。

 それゆえに、今ジークフリートに無理矢理に王の御前へと連れていかれている、髪を全て結い上げた女性は、ジークフリートのお相手になれるのかと誰の脳裏にも疑問符が浮かんでいた。


 そんなざわざわと揺れる周囲をものともせず、王の前に立ったジークフリートが声を上げた。


「父上! 彼女こそがこの僕の妃に相応しい姫君、オデット姫です!!

 僕は彼女に初めての真実の愛を! 永遠の愛を捧げます!!」


 王に対して、息子とはいえ公の場で前口上も何もなく声を張るジークフリートに、其処彼処で不快感を示すざわめきが起こる。


 それすらも意に返さず、堂々と微笑むジークフリートに、王を始めとした彼の家族達の顔にはもはやなんの感情も浮かんでいなかった。


 そしてジークフリートの手によって無理矢理に王の御前に引き摺り出された女性は、深く淑女の礼をとることしか出来ないでいた。


 その身体は細かく震え、あまりにも急な、訳のわからない事態に巻き込まれた事に、恐ろしさすら感じているのが手に取るように分かった。

 そして、どんな暴挙に出たとしても王子という身分であるが故にジークフリートから女性を無理矢理に取り返す事が出来なかったクラウスが、不敬を承知で、それでもジークフリートをその真っ黒な瞳を炯々と光らせ殺しそうな視線を向けている事も。


 雛壇にいる王族達にはよく見えた。


 少し離れたところにいる隻眼の顔に傷のある大柄な体躯の男を中心とした黒目黒髪の一族が、王族に向ける醒めた、それでいて怒りを込めた冴え冴えとした視線を向けている事も。


 呆れを多分に含んだため息を一つ吐き、覚悟を決めた王が深々と礼をとっている女性に話しかけた。


「面をあげよ。直答を許す。

 其方の名と身分をそこの愚息、いや皆にもわかるよう詳らかにするが良い」


 王に声掛けられた女性は、一度深く礼をとると、凛とした表情を浮かべてすっくと立ち上がった。

 黒いドレスと相まって、その黒鳥の様な優美な立ち姿は、確かに気高さと美しさを備えている事が窺えた。

 そこは、ジークフリートの見る目が確かだったと、誰もがそう思うほどに。


「直答をお許しいただきありがとうございます。

 改めまして、王国の輝ける太陽たる国王陛下にご挨拶申し上げます。

 わたくしは、ロットバルト公爵家子息クラウス・ロットバルトが妻、オディール・ロットバルトでございます」


 そう言って、再び深い淑女の礼をとる。


「あいわかっ…「何を言ってるんだ?! 君はオデットだろう?! 昨日湖で会った!」」


 王の言葉を遮りジークフリートが叫ぶ。


 その不敬に、大広間の誰しもが不快感を示すも、それに気付かぬままジークフリートはオディールと名乗った女性に詰め寄った。


「君は間違いなく僕のオデットだ! 昨日あの湖のほとりで僕と会っただろう? 忘れてしまったのかい?

 それともエスコートしなかった事を拗ねているのかい?」


 そう言ってオディールの頬に手を伸ばすジークフリートを避けるようにオディールが後退る。


「…申し訳ございませんが、わたくしは昨日を含めて貴方様とお会いした事はございません。

 どなたかとお間違えでは……?」


 青ざめつつきっぱりと否定するオディールの態度に、王を始め周囲の人間はどちらに誠があるか理解した。


 だが、それを信じない人間が一人。


「そんなっ!? 君は間違いなくオデットだ!

 そのプラチナブランドの髪も、澄んだ湖水の様な碧眼もっ!

 その瞳の色は君と出会った西の湖の色だ! 思い出してくれオデット!!

 今日ここで愛を誓わないと、君は再び白鳥に……っ!!」


 ジークフリートの発言に周囲がざわりと揺れた。


「……愚弟がっ!」


 王族席に居た青年の一人が言葉を吐き捨てた。


 ざわりざわりと周囲の動揺が大きくなり、収まりがつかなくなった頃。


「……ジークフリートよ。貴様が昨夜何処で、誰と会ったのか詳しく申せ」


 頭痛を堪えるような仕草をしながら、王が問いかける。

 その苦悩に気づいているのか居ないのか、我が意を得たりとジークフリートが得意げに話し始めた。


「僕は昨夜、父上に今夜の夜会で婚約者を定めるよう言われたので、気分転換をする為西の湖に行き、そこで運命の出会いを果たしたのです!

 それが、こちらのオデット姫です!

 哀れな事に彼女は魔女に呪いをかけられていて、彼女に忠誠を誓う侍女達と共に、日中は白鳥の姿にされ夜だけ呪いが解けて本来の姫君の姿に戻るそうです。

 彼女は本来であれば隣国の王女であるにも関わらず!!

 そんな悪虐非道な魔女の呪いに打ち勝つには、初めての真実の愛を捧げる事が必要なのです!

 なので僕はこの夜会で真実の愛を誓うと約束したのです!

 だからオデット姫! どうか僕の手を……っ!!」


 そう言ってオディールに手を伸ばすジークフリートは、己が正しい事をしていると信じている、ある意味無垢で純粋な表情を浮かべていた。


 その話に動揺したのか、オディールがふらりとよろめいた。

 その背をしかと支えたのは勿論クラウスで、オディールに向ける愛しみの乗った黒い瞳は、オディールの胸元を飾るブラックオニキスと同じ色をしていた。


 そして、ジークフリートの話を耳にした周囲は……。


「……確か西の湖でしたわよね。例の隣国の呪われた王女が封じられたのは……」


「えぇ、その筈ですわ。西の湖は魔の森と同様隣国との境にありますもの。

 それにしても白鳥しらとりの魔女を悪虐非道と断ずるとは……。

 白鳥しらとりの魔女の番に手を出した王女が呪われたのは当然の事ですのに……」


「全くだ。魔女の中でも家族や夫婦の絆を大事にする白鳥しらとりの魔女の番に手を出すなど愚かの極み。

 命があるだけでもありがたい事なのに……」

 

 ざわりざわりと静かに、でも確実に西の湖の事情しんじつが広まっていく。

 それにすら気付かないのか、ジークフリートはオディールの華奢な身体を支えるクラウスに憤怒の視線を向ける。


「貴様何者だっ! 誰の許可を得て僕のオデットに触れている!?」


 指を突き付け、クラウスを誰何するジークフリートのそのさまに、クラウスが一つため息を吐いて口を開いた。


「私は、ロットバルト公爵家が子息、クラウス・ロットバルト。彼女、オディールの夫です。

 因みに先ほどから殿下がオデットと称している女性は私の妻であるオディール、オディール・ロットバルトです。

 妻の身体に夫が触れる事に何の問題があるというのでしょう」


 オディールの腰を愛おし気に抱き込み、きっぱりと告げるクラウスの言葉に、ジークフリートがクラウスの黒目黒髪を見て嘲るように言葉を吐いた。


「何を言うか! 彼女は僕のオデットだ! 例え彼女がオデットじゃなかったとしても、その醜い黒目黒髪っ! 噂に違わず恐ろしい姿だっ! 悪魔公の息子の妻など不幸でしかないっ!

 今すぐ彼女を解放し……「ジークフリートを捕らえよっ!!」」


 鋭い声がジークフリートの言葉を遮る。

 会場に配されていた騎士達がその声に従ってジークフリートを捕らえた。


「な、何をなさいますか兄上っ!? 僕はこの国の王子ですっ!! その王子を捕らえるなど……! がっ!?」


 雛壇を駆け下りてきた青年が、ジークフリートの頬を強かに殴りつける。


「えぇいだまれっ!! 先ほどからの貴様の陛下に対する不敬! ロットバルト小公爵夫人に対する無礼! ロットバルト公爵家に対する侮辱! どれ一つとっても許されるものではないっ!!

 王太子たる私の名において捕縛を命じた!

 陛下っ!! ご裁断をっ!!」


 弟と同じ色の緑の瞳をギラギラと不穏な光に染めジークフリートをねめつけてから、ジークフリートの兄である筈の王太子が王を仰ぐ。


「……ジークフリートよ。今宵の行い、どれ一つとっても王族として認められぬ。

 追って沙汰を下す。一先ず貴族牢にて頭を冷やせ」


「ちちうえっ!? 何故っ?!」


「……それすらわからないのであれば、最早貴様に生きている資格はない」


 それは事実上の死刑宣告に等しく、先程までの意気揚々とした態度はなりを潜め、ジークフリートの顔面は完全に彩を失くしていた。


「な、なぜ……」


 がくりと膝をついたジークフリートに向かって、王太子が口を開いた。


「貴様がオデットとやらと会ったという湖はな、白鳥しらとりの魔女が彼女の番に手を出そうとした愚かな隣国の王女を封じたと言われる場所だ。

 それすなわち、貴様を誑かしたオデットという女は、その愚かで淫放な王女本人なのだよ。

 そんな悪女を妃として娶ろうとするなど……。そもそも一国の王子が供も付けず夜の湖まで出かけるとは、貴様には王族としての自覚はないのか?

 貴様にはほとほとあきれ果てた。貴族牢で己の行いを省みるがよい」


 最早肉親の情など欠片も見いだせない冷たい視線をジークフリートに一瞬だけ向けると、騎士達にジークフリートを連れ出させた。


「そんなっ!? オデット?! オデット!?」


 大広間の扉が閉まる最後まで、この場にはいないオデットの名を叫びながらジークフリートは姿を消した。


 その後、彼の姿を見る事は二度となかった。



◇◇◇



 かさりと枯葉を踏む音に、その美しい女人は視線を向けた。


 登った月が湖面に映り込み、地上と天上と二つの真白の月が輝いている。

 白いドレスの裾を絡げ、湖面に刺さる白い朽木の間を滑るように踊りながら近づいてくる彼女達の美しさは筆舌に尽くし難い。


 ぼんやりとその光景を眺めて湖畔に立ち尽くしていたジークフリートに、白いドレスを翻しプラチナブロンドの髪を靡かせて踊っていた娘が声をかけた。


「いらっしゃい。ジークフリート。良い月夜ね。

 わたしに貴方の初めての愛を誓いに来てくれたの?

 でも残念ね。貴方の初めての愛の誓いは既にないみたい」


 月明かりに照らされて、湖水と同じ色の碧眼を煌めかせた彼女がそう告げると、ジークフリートの肩がピクリと跳ね、気まずげに視線を彷徨わせた。


「オデット……ごめん。僕は……」


「あら、ジークフリート。何一つ謝ることなんてないわ。

 だってわたしはこの呪いを解きたいと思っていないんだもの」


 あっけらかんと放たれたその言葉に、ジークフリートが動揺する。


「え? だって、昼間は白鳥の姿で、夜にしか人間に戻れないんだよ? そんなの辛いじゃないかっ!

 そもそも君は隣国の王女という貴い身の上なのに、こんな暗い湖から逃れられないなんて可哀想じゃないかっ!」


 ジークフリートの熱弁に、ぽかんとしていたオデットの肩が小刻みに震える。

 それに同調するように、オデットと共に呪われた侍女達もクスクスと笑い出す。


「な、何がおかしいんだっ!?」


 気色ばむジークフリートとは相反して、オデットと侍女達はにこやかな笑みを崩さない。


「だって、今の状況はわたしにとって悪くないんですもの。

 呪われる前は、『王女らしく』、『次期女王に相応しく』とあれもこれも詰め込まれ、制限されて……。挙句わたしの方が捨てられれば良かっただなんて酷い事を言われるの。

 だから、ちょっと殿方と戯れたらものすごく怒られて……。

 なんでわたしが怒られたのか、あれは未だに納得できないわ。種が誰のものか分からなくても、わたしの胎から産まれたなら王家の血筋である事は確かなのに……。そう思わない?」


 クスクスと少女のように笑うオデットに、同意するように侍女達も嗤う。

 侍女達は王女としての日々に悩むオデットを誑かし、男達を集め奔放な日々を送らせた元凶で、そのおこぼれに預かって淫蕩に耽っていたのだから、彼女達にとってもこの状況は決して悪いものではない。


「そ、そんな……」


 清らかな乙女だと信じていたオデットのその言葉に、ジークフリートの身体から力が抜ける。

 かくりとついた膝に、湖畔に所々落ちている白く尖った砂利が食い込む。


「貴方の初めての愛はいらないけれど、貴方は欲しいわ。

 ……ねぇ、もう何処にも場がないんでしょう?」


 なら、わたしたちと踊りましょう?


 重複する女達の声が耳にこだまする。

 気付けばジークフリートはふらふらと立ち上がり、先導する侍女に導かれ、左右を固めた侍女達に身体を支えられ、背後に立つ侍女に背中を押されるように湖へと近づいていく。


 ぽちゃりと足が水を蹴る。

 ざりりと靴底が湖底に沈む白い砂利を踏みしだく。


 くるくると白いドレスが幾重にも翻る。

 気付けば湖に刺さった白い朽木まで手招くように動いて見えた。


 踊りましょうおどりましょう

 こっちへきて踊りましょう?


 水を吸った衣服が重くなるも、左右の侍女達に支えられ、一歩一歩進んでいく。否、進まされる。


 そして……。


 ドプンと一際激しい水音と共に、彼女達が踊っている間も静まり返っていた湖面が幾つかの同心円をえがき。そして……。


 何事もなかったかのように湖は静かな姿を取り戻す。


 クスクスと女達の嗤い声が一陣の風と共に凪いだ湖面を僅かに揺らす。

 その後何事もなかったかのように森の中に消えゆく月が湖面を照らしていた。



 この湖が、多くの男達を誘いこみ、『不帰かえらずの湖』と呼ばれるのは、そう先の未来ではなかった。

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